四
紫禁城へは、アニス一人が、入城した。小七郎は、汪直の設置した官衙の、西廠に残された。
「何でだ! おいらとアニス、どうして離れ離れになるんだ!」
食って懸かる小七郎に、汪直は冷然と答えた。
「それ! その態度が、紫禁城に其方を入れるわけにゆかぬのだ。そのような礼儀知らずでは、儂が迷惑する」
小七郎は汪直の言葉に、何か言い掛けたが、ぐっと堪える。汪直はニヤリと笑った。
「どうじゃな? アニス姫の側にいたいのなら、儂が宮中での礼儀振る舞いを、教授して進ぜよう」
小七郎は上目遣いになって、小声になった。
「おいらが礼儀を覚えたら、アニスに会わせると、約束するか?」
汪直は身を反らし、頷いた。
「然り! 儂が満足できるほど、其方が礼儀を覚えれば、アニス姫を守る衛士に推薦してやろう!」
小七郎の表情を確かめ、汪直は身を屈めて顔を近づけた。
「さあ、どうする」
「判った……」
小七郎は、小さく答えた。
汪直は、右手を閃かせ、小七郎の頬を思い切り打擲する。
どっと小七郎は、床に転げる。汪直は顔を挙げた小七郎に、大声で怒鳴った。
「儂は其方の礼儀の師であるぞ! 師に対し、なんたる無礼!」
小七郎の顔が、怒りで、真っ赤に染まった。全身が強張り、両拳を握り締める。両目が燃え上がり、歯を食い縛っていた。
汪直は胸を張って、小七郎に叫んだ。
「さあ、どうする? 儂の教えが気に入らぬなら、今すぐこの場を出て行け! そうなれば、其方は二度とアニス姫と会えぬぞ!」
小七郎の両目から、敵意が消えた。視線を下げ、のろのろと身を起こす。ぶるぶると震えながら、小七郎は両手を前へ出し、拱手の形になって、頭を下げた。
「どうか、私めに、礼儀を教えて下さるよう、臥して願います……」
小七郎の言葉は途切れ途切れで、必死に内心の怒りを抑えているのは明白だった。
汪直は高々と頷いた。
「それで良し! 二度と、師に対する態度を忘れてはならぬぞ!」
まずは小さな勝利を、小七郎に対し握った……と、汪直は自画自賛した。アニスに会いたいばかりに、小七郎は汪直の教示を受け入れる覚悟を決めたと見て良い。
今は面従腹背だろうが、その内、本心から小七郎は汪直に従うようになる。汪直は小七郎の心を、粘土のように捏ね繰り回し、思うままに形作る決意だった。
「小七郎……。其方は気になっておるだろうな? なぜ、アニス姫が、北方の蛮族に嫁する決意を固めているか」
小七郎の両目が、ぎらっと、光りを湛える。が、小七郎は尋ねようとはしなかった。
「聞きたくはないのか?」
小七郎は無言のまま、首を激しく、左右に振った。知りたくないというより、聞きたくないのが、本心だろう。
「では、教えてやろう」
汪直は、小七郎の強情な心を粉砕するため、アニスに対する小七郎の気持ちも利用するつもりだった。
小七郎は強張った顔つきのまま、立ち尽くしている。聞きたくないのなら、さっさと部屋を出るはずだが、立ったままなのは結局、知りたいのだ。
「アニス姫は、其方が承知しておる通り、西方の、小さな王国の姫じゃ。あの辺りでは、小国が林立し、攻防を繰り返しておる。アニス姫が属する部族は、周囲の部族に攻められ、消滅寸前まで追い込まれておった」
ちらっと、小七郎が顔を上げ、汪直に目をやった。汪直は薄笑いを浮かべ、説明を続けた。
「儂はアニス姫の国へ使節を送り、明国が背後から協力をする代わりに、北荻に嫁する約定を取り付けたのじゃ。アニス姫は、故国が滅ぼされるよりはと、自ら志願したのじゃ。何と、健気な娘よ!」
「それで、明国は、どんな見返りがあるんだ?」
小七郎が思わず口を挟む。汪直は無言で、待った。小七郎はゆっくりと、最後に付け加えた。
「どうぞ、お教え下さいますか? 汪直閣下!」
汪直は軽く頷いた。
「明国の見返りじゃな? それは、ある! 明国にとって、周辺部族の離反は、頭の痛い問題じゃ。特に北荻の中でも、満州族はちょくちょく明の北辺を侵犯しておって、対応に忙しい。北の脅威がなくなるだけでも、明にとって慶賀となる」
同時に、北方の蛮族と誼を通じ、いつの日か明帝国を倒す一助にするつもりだ……と口にしたいところだったが、汪直にとって、これは秘中の秘であった。汪直直属の部下の誰にも、これは明かしていない。
小七郎の両手が、握っている手を開き、もう一度、しっかり握り直した。同じ動きを、何度も繰り返している。汪直に対し、質問したいのだろうが、決意が固まらないのだ。
汪直は小七郎の質問が予想できた。質問される前に、あえて先回りする。
「さて、アニス姫がいつ、北荻に嫁するか──だな。アニス姫の行方が一時不明になって、北荻どもには、待つよう使者を出しておる。その返事が来て、こちらよりアニス姫発見の報を送り出せば──。まあ、それほど待つ必要はなかろう」
小七郎の瞳が、室内を彷徨う。汪直には、小七郎の動揺が、手に取れるように読めた。
じろっと、小七郎は汪直を睨んだ。
「汪直閣下。それでは、アニス姫が北荻に嫁するとき、護衛の人間は……ど、どうするのです?」
小七郎は必死に敬語を口にしようとするが、相当にぎこちなかった。
汪直は視線を合わさず、天井を見上げ、素っ気無く返した。
「ふむ。それは、たった一人、姫を送り出すなど論外だ。多分、こちらから幾人かの護衛兵を付けるはずだな。だが、それには、腕が立ち、きちんと礼儀をわきまえた人物でなくてはならぬ!」
汪直は小七郎に視線を戻し、ニヤリと笑った。小七郎は必死の表情で、汪直を見詰めている。
「その護衛兵の一人に、自分を加えさせてくれと申したいのだろう? しかし、今の其方は、倭人の山猿そのものじゃ! 今の其方のままでは、まず、推薦は不可能じゃな」
小七郎の両肩が、がっくりと下がる。それでも、ぐっと顔を上げ、真剣な口調で汪直に向かって、口を開いた。
「わ……判り申し上げました……。私、汪直様に従い……れ、礼儀を一から学ぶ覚悟です……。ど、どうか御指導を……!」
汪直は深く頷いた。
「その覚悟あれば、良いだろう! 徹底的に、其方を鍛えてつかわす。覚悟いたせ!」
汪直の言葉に、小七郎は、頭を深々と下げ「ははーっ!」と返事をする。
これで一人、忠実な部下が誕生した! と汪直は思った。




