一
早馬の伝令が紫禁城に辿り着き、汪直の手元へ、南からの報告が届いた。報告書に目を通した汪直は、即座に北京を出発するため、馬を用意した。
北京を出発したのは、夕刻だったが、汪直は一刻を争うと判断して、夜になっても馬を走らせた。
途中で何度か馬を乗り替え、汪直は一気に千里(明の単位では、約五百キロ)の道を走り通した。
黄河の手前で、汪直は連絡のあった小さな村で馬を下りると、目指す廃屋に身を運ぶ。
かつては相当な有力者の持ち物だったのだろうが、今は庭に雑草が蔓延り、屋根の瓦は落ち、柱は傾いて壁は所々、ぽっかりと虚ろな穴を開いている。
取り得は無闇矢鱈とだだっ広く、昼間でもほとんど他人目がないところだ。何でも、昔、廃屋で殺人事件があり、鬼が出る噂がある。そのため、土地の人間は怖がって近寄らない。
入口に立ち、汪直は素早く室内を見回した。床に厚く埃が積もっている。埃の溜まった床に、入口から奥へ、何かを引き摺った後が、くっきりと残っていた。
汪直は微かに、唇を歪めた。
気配を感じたのか、奥から足音がして、藍色の官服を身につけた汪直の部下が姿を現す。
名前は乾。目の間が狭まり、ちょっと狐に似た印象がある。部下の中では、最も暗殺術に秀でていた。
乾は汪直を目にすると、さっと両腕を上げ、拱手の礼を取った。
汪直は頷くと、口を開いた。
「乾! 無用心だな。床に、ほれ、このように引き摺った跡を残しておるぞ!」
乾は汪直の言葉に、大いに恐縮した。
「申し訳も御座いませぬ。つい、用心を怠りました」
汪直はさっと腕を横に振ると、それ以上に続けようとする乾の詫びを封じた。
「よい! それより、獲物は確保したのだな? 生きておるか?」
「はい。今は薬で眠らせております。そろそろ目覚めましょう」
「見よう。案内せよ!」
乾が背を向け、するすると先に立つと、汪直も後を追った。
屋敷は廃屋とはいえ、相当に広壮で、内庭には奇岩がごろごろと並び、在りし日の名残を留めている。ただし、池には水が涸れて、底が無残に露呈していた。
乾は廃屋の一室に、汪直を案内した。
巨大な天蓋つきの寝台に、汪直が目指す『獲物』が横たわっていた。
二人の子供。一人は少年、もう一人は少女。二人とも、すやすやと安らかな寝息を立てている。少女の髪の毛は輝くばかりの金髪で、白磁のような肌の白さであった。
汪直は我知らず、頬に血が昇るのを感じた。興奮を面に出さぬよう、ぐっと堪える。
「どこで見つけた?」
つい、囁き声になる。
乾もまた、声を潜めた。
「寧波の港で御座います。倭よりの、朝貢船に乗り込んでおりました」
汪直は驚きに、ぐいっと、乾に向き直った。
「倭だと? では、こちらの小僧は、倭人か?」
乾は頷いた。
「いかにも、倭人で御座いましょう。しかし、この顔は……」
「言うな!」
汪直は素早く乾の言葉を封じた。乾に背を向け、拳を固めて口許へ持ってゆく。
興奮に、かりかりと前歯で拳を齧った。自分の振る舞いに、はっと気付き、大急ぎで手を後ろへ回した。
悪い癖だ……。
用心深く、乾が声を掛けた。
「いかが致しましょう? 小僧は殺しますか?」
「いや! 二人とも、北京へ連れ帰る。後は、俺が考えよう」
汪直が即断すると、乾は微かに頭を下げた。皮肉な笑みを浮かべ、阿るような口調になった。
「しかし、驚き入った事態で御座いますな。私は汪直様に命じられ、娘の行方を探索しておりましたが、このような付録が出てくるとは、予想もしませんでした」
汪直は、乾をじろっと睨んだ。
「全くだ! だが、この付録は、上手く使えば、我らの強力な武器になる!」
その時、寝台で寝息を立てていた二人の子供が、もぞもぞと身動きを始めた。
眠り薬が切れ掛かっているのだろう。
やがて少年の瞼がぴくぴくと震え、ぱちりと瞳が開いた。
視線が彷徨い、上から覗き込んでいる汪直と、乾に気付く。
がばっと身を起こすと、きょろきょろと周囲を見回した。隣に寝そべっている少女に気付き、さっと覆い被さって、庇う仕草を見せた。
少年の口が開き、汪直に向かって叫ぶ。
「誰だ、お前は!」
少年の口にしたのは、漢語であった。だが、訛りがひどく、聞き取りづらい。それでも、汪直には聞き分けられた。
「儂は汪直と申す者だ。礼儀として、他人に名前を尋ねる時は、まず自分からだが、まあ、大目に見てとらす。其方の名前は?」
「小七郎!」
汪直は、眉をぐいっと持ち上げた。
倭人らしく、長ったらしい名前だ。音節が多く、異風であった。
「それだけか? 姓はないのか?」
少年はぐっと唇を曲げて、強情そうな表情になった。
「おいらは、小七郎だけでいい!」
「では小七郎とやら、これより、儂に従い、北京へと参る。そう、心得よ」
小七郎と名乗った少年は、一瞬、呆気に取られた表情になった。
「何でだ? おいらに、何の用がある?」
汪直は右手をさっと、閃かせた。
ぱあんっ! と鋭い音がして、小七郎は軽く吹っ飛び、寝台からどっと転げ落ちた。
ころころと床に転がると、さっと身を翻して起き直る。頬を押さえ、怒りの表情で汪直を見上げた。
「何しやがるっ!」
汪直は威厳を込め、冷酷な口調で宣告した。
「質問は許さぬ! 其方はただ、儂の命令どおり動けば良いのだ!」
「何いっ!」
小七郎はぱっと立ち上がると、猛然と汪直に向かって飛び掛ってきた。
汪直の予想を上回る、少年の素早い動きだった。
が、汪直の敵ではない。汪直は飛び掛った小七郎の足下を、避ける瞬間、さっと足払いに掛ける。
どてっと音を立て、小七郎は頭から床に倒れこんだ。その小七郎の背中に、汪直は軽く右足を載せて押さえ込んだ。
軽く足裏で押さえているだけだが、小七郎の全身はぴくりとも持ち上がらない。手足を我武者羅に動かすだけで、「うーっ! うーっ!」と唸るだけだ。
「小七郎……」
ようやく、少女が目を覚ました。
汪直は寝台に起き上がり、ぼんやりと身を起こしている少女に目をやった。
少女の目は青かった!
なるほど……確かに、胡人の娘だ……。
汪直は薄く、笑った。
やがて少女は、はっきりと目覚めたらしく、視線が汪直に踏み付けられたままの小七郎に留まった。
「小七郎っ!」
叫び声を挙げると、寝台から飛び降りる。さっと押さえつけている汪直の右足に縋りつくと、哀願するように叫んだ。
「小七郎を苛めないで!」
「別に、苛めてはおらぬ。ただ、礼儀を教えているだけだ」
汪直は、そっと小七郎を押さえている右足を外した。
やっと小七郎は起き上がり、ぜいぜいと激しく喘いでいた。
汪直は娘に向かい、片膝をついて顔を近づけた。
「初めて御目文字を申し上げる。拙者、紫禁城の汪直と申す。あなた様は、アニス姫であられますな?」
汪直の恭しい態度に、アニスと呼び掛けられた娘は、ツンと顎を上げて見せた。
「そうよ! 汪直とやら。其方が、妾を迎える下僕ですね。大変、迎えが遅れましたね。これは、其方の失態ですよ!」
「申し訳も御座いませぬ。この汪直、全身全霊を持って償う覚悟!」
汪直は頭を垂れ、胸に手を当てた。
その二人を、小七郎は茫然と見ていた。




