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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第八章 光と影の相克
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 早馬の伝令が紫禁城に辿り着き、汪直の手元へ、南からの報告が届いた。報告書に目を通した汪直は、即座に北京を出発するため、馬を用意した。

 北京を出発したのは、夕刻だったが、汪直は一刻を争うと判断して、夜になっても馬を走らせた。

 途中で何度か馬を乗り替え、汪直は一気に千里(明の単位では、約五百キロ)の道を走り通した。

 黄河の手前で、汪直は連絡のあった小さな村で馬を下りると、目指す廃屋に身を運ぶ。

 かつては相当な有力者の持ち物だったのだろうが、今は庭に雑草が蔓延り、屋根の瓦は落ち、柱は傾いて壁は所々、ぽっかりと虚ろな穴を開いている。

 取り得は無闇矢鱈とだだっ広く、昼間でもほとんど他人目がないところだ。何でも、昔、廃屋で殺人事件があり、(ゆうれい)が出る噂がある。そのため、土地の人間は怖がって近寄らない。

 入口に立ち、汪直は素早く室内を見回した。床に厚く埃が積もっている。埃の溜まった床に、入口から奥へ、何かを引き摺った後が、くっきりと残っていた。

 汪直は微かに、唇を歪めた。

 気配を感じたのか、奥から足音がして、藍色の官服を身につけた汪直の部下が姿を現す。

 名前は(ケン)。目の間が狭まり、ちょっと狐に似た印象がある。部下の中では、最も暗殺術に秀でていた。

 乾は汪直を目にすると、さっと両腕を上げ、拱手の礼を取った。

 汪直は頷くと、口を開いた。

「乾! 無用心だな。床に、ほれ、このように引き摺った跡を残しておるぞ!」

 乾は汪直の言葉に、大いに恐縮した。

「申し訳も御座いませぬ。つい、用心を怠りました」

 汪直はさっと腕を横に振ると、それ以上に続けようとする乾の詫びを封じた。

「よい! それより、獲物は確保したのだな? 生きておるか?」

「はい。今は薬で眠らせております。そろそろ目覚めましょう」

「見よう。案内せよ!」

 乾が背を向け、するすると先に立つと、汪直も後を追った。

 屋敷は廃屋とはいえ、相当に広壮で、内庭には奇岩がごろごろと並び、在りし日の名残を留めている。ただし、池には水が涸れて、底が無残に露呈していた。

 乾は廃屋の一室に、汪直を案内した。

 巨大な天蓋つきの寝台に、汪直が目指す『獲物』が横たわっていた。

 二人の子供。一人は少年、もう一人は少女。二人とも、すやすやと安らかな寝息を立てている。少女の髪の毛は輝くばかりの金髪で、白磁のような肌の白さであった。

 汪直は我知らず、頬に血が昇るのを感じた。興奮を面に出さぬよう、ぐっと堪える。

「どこで見つけた?」

 つい、囁き声になる。

 乾もまた、声を潜めた。

「寧波の港で御座います。倭よりの、朝貢船に乗り込んでおりました」

 汪直は驚きに、ぐいっと、乾に向き直った。

「倭だと? では、こちらの小僧は、倭人か?」

 乾は頷いた。

「いかにも、倭人で御座いましょう。しかし、この顔は……」

「言うな!」

 汪直は素早く乾の言葉を封じた。乾に背を向け、拳を固めて口許へ持ってゆく。

 興奮に、かりかりと前歯で拳を齧った。自分の振る舞いに、はっと気付き、大急ぎで手を後ろへ回した。

 悪い癖だ……。

 用心深く、乾が声を掛けた。

「いかが致しましょう? 小僧は殺しますか?」

「いや! 二人とも、北京へ連れ帰る。後は、俺が考えよう」

 汪直が即断すると、乾は微かに頭を下げた。皮肉な笑みを浮かべ、阿るような口調になった。

「しかし、驚き入った事態で御座いますな。私は汪直様に命じられ、娘の行方を探索しておりましたが、このような付録が出てくるとは、予想もしませんでした」

 汪直は、乾をじろっと睨んだ。

「全くだ! だが、この付録は、上手く使えば、我らの強力な武器になる!」

 その時、寝台で寝息を立てていた二人の子供が、もぞもぞと身動きを始めた。

 眠り薬が切れ掛かっているのだろう。

 やがて少年の瞼がぴくぴくと震え、ぱちりと瞳が開いた。

 視線が彷徨い、上から覗き込んでいる汪直と、乾に気付く。

 がばっと身を起こすと、きょろきょろと周囲を見回した。隣に寝そべっている少女に気付き、さっと覆い被さって、庇う仕草を見せた。

 少年の口が開き、汪直に向かって叫ぶ。

「誰だ、お前は!」

 少年の口にしたのは、漢語であった。だが、訛りがひどく、聞き取りづらい。それでも、汪直には聞き分けられた。

「儂は汪直と申す者だ。礼儀として、他人に名前を尋ねる時は、まず自分からだが、まあ、大目に見てとらす。其方の名前は?」

「小七郎!」

 汪直は、眉をぐいっと持ち上げた。

 倭人らしく、長ったらしい名前だ。音節が多く、異風であった。

「それだけか? 姓はないのか?」

 少年はぐっと唇を曲げて、強情そうな表情になった。

「おいらは、小七郎だけでいい!」

「では小七郎とやら、これより、儂に従い、北京へと参る。そう、心得よ」

 小七郎と名乗った少年は、一瞬、呆気に取られた表情になった。

「何でだ? おいらに、何の用がある?」

 汪直は右手をさっと、閃かせた。

 ぱあんっ! と鋭い音がして、小七郎は軽く吹っ飛び、寝台からどっと転げ落ちた。

 ころころと床に転がると、さっと身を翻して起き直る。頬を押さえ、怒りの表情で汪直を見上げた。

「何しやがるっ!」

 汪直は威厳を込め、冷酷な口調で宣告した。

「質問は許さぬ! 其方はただ、儂の命令どおり動けば良いのだ!」

「何いっ!」

 小七郎はぱっと立ち上がると、猛然と汪直に向かって飛び掛ってきた。

 汪直の予想を上回る、少年の素早い動きだった。

 が、汪直の敵ではない。汪直は飛び掛った小七郎の足下を、避ける瞬間、さっと足払いに掛ける。

 どてっと音を立て、小七郎は頭から床に倒れこんだ。その小七郎の背中に、汪直は軽く右足を載せて押さえ込んだ。

 軽く足裏で押さえているだけだが、小七郎の全身はぴくりとも持ち上がらない。手足を我武者羅に動かすだけで、「うーっ! うーっ!」と唸るだけだ。

「小七郎……」

 ようやく、少女が目を覚ました。

 汪直は寝台に起き上がり、ぼんやりと身を起こしている少女に目をやった。

 少女の目は青かった!

 なるほど……確かに、胡人の娘だ……。

 汪直は薄く、笑った。

 やがて少女は、はっきりと目覚めたらしく、視線が汪直に踏み付けられたままの小七郎に留まった。

「小七郎っ!」

 叫び声を挙げると、寝台から飛び降りる。さっと押さえつけている汪直の右足に縋りつくと、哀願するように叫んだ。

「小七郎を苛めないで!」

「別に、苛めてはおらぬ。ただ、礼儀を教えているだけだ」

 汪直は、そっと小七郎を押さえている右足を外した。

 やっと小七郎は起き上がり、ぜいぜいと激しく喘いでいた。

 汪直は娘に向かい、片膝をついて顔を近づけた。

「初めて御目文字を申し上げる。拙者、紫禁城の汪直と申す。あなた様は、アニス姫であられますな?」

 汪直の恭しい態度に、アニスと呼び掛けられた娘は、ツンと顎を上げて見せた。

「そうよ! 汪直とやら。其方が、妾を迎える下僕(しもべ)ですね。大変、迎えが遅れましたね。これは、其方の失態ですよ!」

「申し訳も御座いませぬ。この汪直、全身全霊を持って償う覚悟!」

 汪直は頭を垂れ、胸に手を当てた。

 その二人を、小七郎は茫然と見ていた。

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