三
久忠一行は、杭州を目指した。
杭州からは、北京まで大運河が通じている。隋の煬帝が整備した京杭大運河建設は、王朝に過度な負担を生じ、遂には民衆の反乱を招き、王朝崩壊の端緒を招いた。残された運河は大陸の南北を繋ぐ交通の要衝となり、江南の発展の礎となっている。
杭州で、北へ向かう舟に乗り込む。舟は一枚帆で、追い風を受けて進んだ。風がなければ、櫂を漕ぐ。
流れはゆっくりで、川面はほとんど波が目立たない。船頭はのんびりと、歌を口ずさみながら、舵を操っている。
舟は見るからに老朽していて、船板など所々、穴がぽっかり口を開けている始末だが、まあ、これでも上等の部類だろう。久忠は、もっと酷い舟に乗り合わせた経験がある。
水はとろりと黄褐色に染まって、初夏の日差しをきらきらと反射している。両岸には緑が萌えているが、日本とは違い、ひどく淡い色合いだった。
日本の急流を見慣れている久忠には、大陸特有の、緩やかな流れは驚きだった。
舟には、久忠一行の他、様々な旅人が乗り合わせていた。
船端に寄り掛かって、なにやら詩を吟じているのは、これから赴任地に向かう役人だと自己紹介した。年齢は五十近く、白髪混じりの、立派な髭を蓄えている。
あまり身分が上の役人ではないらしく、供にしている家来はたった一人で、それも役人の父親といって良いほどの年寄りだった。役人は酒好きらしく、旅の間ずっと片時も酒瓶を離さない。
舟の中央に固まっているのは、夫婦とその娘らしき家族連れだ。娘はころころと太って、よく笑う闊達な性格をしている。これから相州へ、親戚の家を訪ねるのだそうだ。
艫に陣取り、筮竹を手にしているのは、易者らしい。話を聞くと、占いで「北へ向かえば運が開ける」と出たので、旅に出るという。
舟旅の旅程は、嘉興、蘇州、揚州、徐州、滄州、天津と続き、北京へ至る。
順調に旅が続けば、半月ほどで北京へ辿り着けるはずだ。下流から上流へ遡る舟旅であるから、いくら流れが緩やかといっても、それだけは必要だろう。
小七郎が、朧に何か話し掛けている。久忠は、聞くともなしに、耳を傾けた。
「なあ、何で忍者は〝卑怯者〟だとか〝臆病者〟と言われると、誉められていると思うんだ? おいらだったら、そんな戯言口にする奴を見つけたら、真っ先にそいつの口を殴りつけてやるぜ!」
朧は「ぐすぐす」と、低く笑った。小七郎に向かって噛んで含めるがごとく説明した。
「それでは小七郎。臆病、卑怯の反対は、何じゃな?」
「そりゃあ……」
小七郎は口篭った。目玉をぐるぐる動かし、必死に考えている様子だ。
「勇敢とか、大胆──じゃないかな?」
「そうだ!」
朧は一つ、膝を打って頷く。
「勇敢とは何か? 危険があるにも拘わらず無鉄砲に向かってゆく、猪武者のような有様じゃな。大胆、これも同じじゃろう。行く手に何があるか判らぬのに、進んで行くような、馬鹿者じゃ! どちらも、思慮のなさというところでは、同じじゃ」
小七郎は、疑い深げな表情になった。何か言い返そうとするのを、朧は手を上げて押し留めた。
「忍者は違う! 忍者には、武者の誉れも、領主としての責任も一切ない。忍者はただ、己の命を保ち、命ぜられた仕事をし遂げれば良いのじゃ! そのためには、ありとあらゆる危険を避けねばならぬ。仕事を完遂させるために、無用な争いも避けねばならぬ。そのためには、卑怯者、臆病者の誹りも、あえて受けるのが生き方なのじゃ……。卑怯者、臆病者と言われるのは、本望でもある」
朧は、にやりと笑い、自分の蟀谷をとんとんと指先で叩いた。
「それに、ここが良くないと、臆病、卑怯と人には言われないからな」
小七郎は唇を歪め、肩を竦めた。
「おいらは、絶対、厭だな! 忍者は、おいらには向かない仕事らしいや!」
「ほっほっほ……!」
小七郎の返答が、よほど可笑しかったのか、朧は天を仰いで笑い声を上げた。
そういえば……。
久忠は今まで朧が、一度たりとも、顔色を変えて怒ったり、気色ばんだ姿を目にしていないのを思い返していた。
それが朧の地か、それとも忍者としての心得なのか……?
その朧は、不意に身体を捻ると、舟の後方に視線を向けた。じりっと、久忠に近づき、真剣な顔つきになって話し掛けた。
「気付いているか?」
「ああ」と久忠は頷いた。
朧に言われる前から、久忠はとっくに気付いていた。
久忠も、後方に顔を向ける。
杭州を出帆してから三日。
その間、久忠が乗り組んだ舟の後を、一隻の舟が追いかけていた。
運河には無数の舟が浮かんでいる。上流から下ってくる舟もあるし、久忠と同じく、上流へ遡る舟もある。
だから、最初は気のせいかと自問自答したのだが、相手の舟は、ぴったりと同じ距離を保ちながら、それでも久忠の舟を追跡していた。
尾行──であろうか?
久忠は、寧波の町で見かけた、藍色の官服を身につけた男を思い返していた。




