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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第七章 影の剣技
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 今回の朝貢貿易は、双方に極めて満足な結果となった。日本側の船長ふなおさは、久忠に対し、丁重な礼の言葉を述べる。

 だが、久忠は慌てて船長を押し留めた。

「拙者の役割など、船長殿の御心労に比べれば、何ほどの苦労でも御座らん。それより、拙者らを無事に寧波までお送りくださり、感謝の言葉も御座らん」

 船長は久忠の目的を、薄々察しているのか、心配そうな表情を浮かべた。

「これより愛洲様は、北京へいらっしゃるおつもりで御座いますか?」

 久忠は船長に無用な心配を抱かせぬため、からっとした笑いを浮かべて見せた。

「左様。拙者は、これでも武芸者の一人。道中、何事があろうとも、切り抜ける所存」

「愛洲様なら、そうで御座いましょうな……。いや、こちらこそ無用の心配で御座った」

 久忠の明るい答に、船長もまた表情を緩めた。お互い、これ以上のくだくだしい遣り取りは無用と悟っていた。

 桟橋では、無数の荷揚げ人足による作業の音が続いている。

 久忠は荷札によって、お互いの荷物を確認したが、日明双方の荷物を完全に交換するには、まだ数日は掛かるであろう。船長はここに留まり、取り引きが終了すれば、再び日本への、危険な航海に戻らなくてはならない。

 船長は、思い出したかのように、話題を変えた。

「それより、愛洲様は、どのようにして北京までいらっしゃるので御座いますか?」

 問われて、久忠は考え込んだ。

 北京までは、遠い。日本では考えられないほど距離がある。寧波から北京まで、日本で例えれば、九州から奥州まで旅するくらいの距離はある。

 まさか、てくてく歩くわけにはいかないだろう。久忠の考え込む表情を見て、船長が助け舟を出してくれた。

「船でいらっしゃいませ! 陸からでは、途方もなく遠く御座いますが、杭州からならば、隋代に完成した大運河が北京まで通っておりますぞ」

 久忠は、船長の言葉に相槌を打った。成る程、船ならば歩くよりはよほど楽だ。

 久忠は桟橋から離れ、寧波の町に向かった。

 寧波の町は、古くから栄え、特に日本からの船も多く寄航し、地元の人間は日本人に慣れている。

 向かった先は、旅籠である。そこに、朧、小七郎、アニスの三人が久忠を待っている。旅籠の入口を潜ると、小さな前庭があって、厨房では食事の用意が慌しく行われていた。

 この時代の旅籠では、宿の主人は客に食事を提供はしない。基本的に、食事は客側が自分で用意する。旅の食糧などを、旅人は持参し、途中の旅籠で自炊するのが普通なのだ。

 宿が提供するのは、寝床だけで、それも、大人数が雑魚寝する共同寝床となる。余裕がある場合、宿の主人に相応の金を払えば、食事の用意くらいは、してくれるが。

 もっとも、これは庶民の旅で、金持ち、あるいは身分のある役人は、地元の実力者の家を宿とする。

 厨房を通り過ぎると、食堂になる。粗末な机が幾つか置かれ、長椅子に三人が顔を突き合わせ、久忠を待ち受けていた。

「どうだったね。北京へどう、旅するか、決まったか?」

 最初に声を掛けてきたのは朧だった。朧が口にしたのは日本語だが「北京」と口にしたためか、同席した他の旅人がちょっと、顔を挙げ、こちらに視線を向けてきた。

「船を使う」

 久忠の答に、朧は顔を顰めた。

「やっぱりな! 陸路はあまりに遠いから、船旅になると思っていたが、やれやれ、もう船の旅は、飽き飽きだよ!」

 久忠は三人に向かい合って座った。小七郎は、朧に向かって、にやにや笑いを浮かべていた。

「朧の小父さん、船は苦手かえ?」

「そうではない。ただ、飽きたと申しておる!」

 朧は小七郎に顔を向け、下唇を突き出して見せた。小七郎は「けけけっ!」と奇妙な声を上げて笑った。

 小七郎は、妙に朧に馴れ馴れしい。どうやら、朧に対しては久忠とは違い、心を許しているように見える。何かと、朧に軽口を叩き、からかっていた。

 久忠は、ちらっとアニスを見やった。

 アニスは朧と小七郎から少し離れた場所に席を取り、ぼんやりと片肘を机に突き、食堂の窓から通りを眺めていた。

 窓の明かりを受け、アニスの白い肌が透き通るように映えていた。逆光に、アニスの金髪が、きらきらと不思議な光輝を放っている。

 久忠は、改めてアニスの美しさに気付かされた。こうして見ると、一幅の絵のような美しさだ。

 最初は、あまりに見慣れぬ顔立ち、目の色など、面食らうだけだった。ところが、毎日見慣れるうちに、異なる美しさを見出した。

 視線を感じると、朧がこちらを見ている。表情には「厄介払いの機会だぞ!」とある。朧は久忠に向かって、同席している他の客を顎で指し示した。

 何だろうと、朧の視線を追うと、そこに数人の旅商人に混じって、胡人の一団が固まっている。

 胡人は胡人同士……。

 朧は久忠に言いたげである。

 久忠の視線に、胡人たちが、目を上げた。途端に、アニスに注目が集まる。

「これは……!」

 一人が漢語で呟き、立ち上がった。

 背が高く、恰幅が良い中年の男であった。肌は日に焼け、浅黒いが、大きな鷲鼻が目立つ。引っ込んだ眼窩の奥に光る両目玉は、アニスと同じく、空の青さを映したような碧眼だった。

 胡人の男は、礼儀正しく近づくと、丁寧に久忠に向かって話し掛けた。胡人の言葉は、やや訛りがあったが、久忠には聞き取れた。

「失礼……。つい、そちらのお嬢様に目が留まりましてな。もしや、そちらのお嬢様は、我らと同じく、西域出身では?」

 答えようもなく、久忠はアニスを見やった。

 確かに、西域出身であろう。だが、アニス自身、自分の生い立ちなどについて、一言も久忠に語っていないので、どう答えようもない。

 そのアニスは、態度が急変していた。

 先ほどまで、落ち着いていた物腰だったが、胡人が話し掛けた瞬間、身を強張らせている。

 顔には、恐怖に近い表情が浮かんでいると、久忠には見て取れた。

 胡人の商人に対し、顔を背け、視線を合わせようとしない。

 商人は困惑しているようだった。何か考え込んでいる様子だったが、思い切ったように、アニスに何事か話し掛ける。

 胡人の言葉は、久忠には聞き分けられなかった。流れるような音声で、多分、西域で使われている言語らしく思われた。

 アニスは、きりっとした表情になると、怒りに燃えた視線で商人に対峙した。

「&$#☆¥@!」

 アニスの口にした言葉の調子は強く、否定の響きを含んでいる。商人は、全身で驚きの感情を表した。

「これは、失礼を致した……」

 もごもごと、詫びの言葉を呟くと、早々に退散する。慌てて自分たちの仲間の席に着席すると、仲間たちと額をつき合わせ、西域の言葉で口早に相談していた。

 やがて相談が纏まったのか、どやどやと音を立て、荷物を背に立ち上がった。そのまま宿の外へ出掛けてしまった。

 どうやら、アニスは商人に対して、相当に手酷い言葉を返したらしい。商人たちの目には、怒りが認められた。

「何があった?」

 久忠は一応、アニスに問いを投げ掛けた。無論、答を期待するわけではない。案の定、アニスは頑なな態度で、そっぽを向いているだけだった。

 朧は皮肉な笑いを浮かべている。久忠の視線に「俺は知らんよ」とばかりに、肩を竦めて見せた。

 心配そうなのは、小七郎一人だった。明らかにアニスに話し掛けたいのだが、取り付く島のない様子に、躊躇っている。

 やれやれ……と、久忠は心中、溜息をつく思いだった。

 アニスの拒否が、久忠にとって安堵なのか、新たな不安の始まりなのか、さっぱり判断がつかなかった。

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