一
日本を出て、ほぼ半年後。久忠が同行する船団は、寧波の港に入港した。堺を出港したのが年の暮れごろで、季節は初夏になっていた。
「何だか、潮の色が妙だな。まるで泥じゃないか!」
船端から顔を突き出し、小七郎が馬鹿にしたように叫んだ。
小七郎の指摘どおり、寧波に近づき、杭州湾に入港すると、海面の色合いが濁った泥のように変わる。日本とは違い、黄土が海水に溶け込んでいるため、濁って見える。
周囲には、大小無数の船が浮かんでいる。船団と同じ大船もあるが、ほとんどは喫水の浅い、個人用の小船だ。小船には葦で組んだ屋根が掛けられ、商売のためか、様々な商品が堆く積まれている。
小船の船頭は、久忠らが乗り込む船に近寄り、艪を器用に漕いで近づくと、早口で何か話し掛けてくる。船頭の早口を耳にして、小七郎は顔を顰め、久忠に向かって文句を言った。
「何だ! さっぱり聞き取れねえじゃないか! あんたが俺に教えた漢人の言葉、本当に役立つのか?」
「儂の教えた漢人の言葉は、主に北で交わされるものじゃ。ここは江南に近いゆえ、言葉が違っておる。ま、耳が慣れぬゆえ、聞き取れぬが、いずれ理解できよう」
冷静に答えた久忠の言葉に、小七郎は「ふん!」とばかりに、顔を背けた。
この大陸で交わされる言葉は、地方によって著しく変化している。東西南北、日本では想像もつかないほど広いため、それぞれの地域で話される言葉は、お互い通じないほど、違っている。
ほんの少しでも、発音が違うと、漢人同士でも言葉が通じない事態は、まま、ある。同じラテン語系列の、フランス語とルーマニア語、イタリア語では、ゆっくり話せば意思を通じ合うのだが、漢語では考えられない。
言葉の違いは、この大陸で文字を発達させる原動力の一つとなった。
文字──漢字は表意文字と呼ばれる。文字の一つ一つに意味があり、意味のない、単なる音声を表す文字は、基本的に存在しない。このため、言語で通じなくとも、文字で意思の疎通が可能となった。
漢人の言葉は、一つ一つの音声に意味がある。その音声に文字を当てたのが、漢字となる。四声と後世呼ばれる発音法により、数千種──数え方によって数万とも──の発声がなされる。
日本語の音素は、濁音、拗音、半濁音を含めても百に満たない。これはハワイ・マレー語に次いで、音素の少ない言語である。
世界で話される言葉で、印欧語とされるラテン語系列や、タイ語系列、漢語などは日本語に比べ、音素の数がきわめて豊富だ。言葉を書き記すために、ヨーロッパやアラブ地方はアルファベットの表音文字で解決したが、漢人は表意文字を選んだ。
船団は粛々と入港の準備を進め、船長は船端から港に向かって大声を張り上げた。
「我ら、堺からの貢船で御座る! 入港を許可されたし!」
船長が口にしたのは日本語であるが、意味は通じたらしい。
桟橋にあたふたと、官衣を纏った男が、数人の兵士を従え近づいた。手になにやら、帳面のようなものを抱えている。帳面を広げ、船数を確かめ、しきりに頷いた。
「お主ら、堺よりの船じゃな?」
男は漢語で話し掛けた。堺という地名を口にすると、たどたどしい発音になる。男の発音は、北京での発音と同じで、久忠には楽に聞き取れた。久忠は船長の脇に立つと、男に向かって返答した。
「左様。拙者らは、日本からの朝貢船である! 我らの貢物を、受け取って貰いたい」
形式的に、日本と、明との間で、対等の貿易は有り得ない。明への貢物を持ち込むと、その貢物への返礼として何がしの褒美を受け取るという形式を採る。
もっとも、形式はともあれ、実際は日本と明との貿易には違いない。日本側の荷は、明にとっても需要があり、お互い旨味を感じている。
船が無事に桟橋に接舷すると、久忠は船長を伴い、上陸した。久忠の後ろから、小七郎とアニスが物珍しそうに周囲を見回しながら従いてくる。
アニスが寧波に姿を表すと、周りの漢人たちが、わっとばかりに集まってくる。
「胡人の娘じゃぞ……!」
「まことに、あの目の色、髪の毛を見やれ! 不思議な色をしておるわ……」
がやがやと傍若無人に語り合っている。漢人にとって、胡人は珍しいものではないはずだが、胡人の少女は目にする機会がないのだろう。寧波にやってくる胡人は、まず商人であって、男ばかりなのだ。
「さてさて、やっと地面に足を下ろせたわい。これで今晩から、揺れぬ寝床で眠れる」
朧がいつの間にか、久忠の側に近づき、話し掛けてきた。久忠は朧の接近を、全く感じ取れなかった。無意識に、朧は、己の気配を殺しているらしい。
つるりとした禿頭に、托鉢僧のような粗末な衣服の朧は、満面に愛想の良い表情を浮かべている。が、愛想の良さの裏に、どのような企みを潜ませているやら……と、久忠は自分の気持ちを引き締めた。
漢人たちは、突然ふらっと現われた朧にも、剥き出しの好奇心を振り向けた。じろじろと視線を集めるが、アニスのような言葉は交わさない。
やはり朧には、特殊な者が持つ、危険な雰囲気が漂っているのだろう。遠巻きにして、全員が「何者だろう」と言いたそうに観察していた。
久忠は迎えに来た明の役人に対し、船の積荷を逐一、報告した。役人は、久忠の説明にしきりに頷き、一々帳面に書き込んでいる。
久忠が「銅鉱石が御座る」と口にすると、役人の顔が、にんまりと綻んだ。
日本の銅鉱石には、銀が含まれている。日本の技術では銀を分離できないが、明では可能で、明にとっては、安い銀鉱石として取り引きできる旨味のある商品なのだ。
その頃になって、船の荷物を荷揚げするための人足が集まってきた。どれも肩幅が広く、がっしりとした身体つきで、働き者に見える。
男たちの間に、女衆もちらほら混じっている。女たちも、きびきびと動いて、男同様荷揚げを手伝っている。
久忠は、小七郎とアニスに構っていられなくなった。荷揚げの手配に、他の船の責任者と一緒に、荷物の間を飛び回って指示を飛ばす。
帳面と首っ引きになって、間違いなく荷物が受け取れたか、確認しなくてはならない。相手側に受け取りを貰うと、その代償として、明からの返礼としての荷物を確認する。
明から受け取るのは、大量の永楽銭だ。
永楽銭は、この当時、東アジア全域で通貨として通用していた。日本では戦国期一杯、ほぼ標準通貨として利用されている。日本独自の通貨が利用されるのは、ようやく江戸時代になって、三代将軍家光の頃になってからとなる。
その他、重要な明からの荷として、書物がある。
日本は、古来より、明から書を受け入れてきた。大半は儒学、歴史、医学書(漢方)で、これらの書物を元に、独自の学問を育てた。
ちなみに、大陸の歴代王朝では、書誌が盛んであった。本国で失われた書物について、克明な書誌が残されていたため、後に日本で写しが発見された例が、非常に多い。
ほぼ荷物の整理が終わったころ、久忠は朧の意味ありげな表情に気付いた。周囲に気付かれぬよう、朧は目線で町の方向を指し示す。
何だろうと朧の視線を追うと、その先に奇妙な人影を認めた。
地味な色合いの、藍色の官服を着用しているところは、明の役人かと思われたが、どうも違うようだ。役人なら、もっと堂々とした態度でいるはずなのに、建物の陰に潜み、こちらを窺っている。
ほっそりとした身体つきだが、久忠の目には、相当の武術を修めているかのような、身ごなしを感じる。
さりげなく朧が近づき、口の端で囁く。周囲には二人が会話をしているとは、察せられないようにしていた。
「何者だろうな? お主らが上陸してすぐに、こちらを監視しているぞ」
「ふむ」
久忠はそれだけを呟くと、藍色の服の人物の視線を辿った。
視線の先には、アニスと小七郎がいた。
二人は初めて見る寧波の町に、興味津々で、丸っきり警戒などしていない。
と──、久忠の視線に、潜んでいた人物が気付いた様子を見せた。
慌てて藍色の服は建物の奥へ引き下がり、久忠の視界から消えた。




