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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第六章 暗殺者
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 西廠は、紫禁城の中にはなく、北京城内にある。

 北京城と、紫禁城は一体であるが、厳密には城外に当たる。北京そのものが巨大な城郭であり、町は城壁の内部に栄えている。

 日本で城といえば、それは城砦であり、軍事施設のみを指すが、大陸では町の意味になる。城の内部に、住民が暮らす町があり、市場がある。城市と表記する場合もある。

 古代日本を記した『魏志倭人伝』に、日本には城郭がないと、特筆されているのは、よほど常識外れの事実だったに違いない。

 西廠の建物は、ごく普通の建物で、土壁に瓦屋根の、二階建てとなっている。目を惹く装飾一つなく、素っ気無いほど実用的だ。官衙である印は、入口に番士が控えて、無用の立ち入りを禁じているくらいだ。

 汪直は早足で正面入口を通り抜けた。汪直が近づくと、番士はさっと緊張を全身に現し、背筋を伸ばす。

 汪直自身は真っ直ぐ前を見詰めたまま、ちらりとも視線を交わさない。だが、番士二人は入口両側に直立したまま、身じろぎもしなかった。

 風を巻くようにして汪直が通過すると、はっきりと背後で安堵の溜息が聞こえた。西廠においても、汪直は恐怖の的であった。汪直は、部下に対し、いささかの弛緩も許さない。

 通路を歩き、自分の執務室に入ると、汪直は溜まっていた報告の決裁を始める。猛然とうずたかく積まれている書類の山を、次から次へちらっと目を通しただけで、素早く朱筆で書き込みを入れてゆく。

 瞬く間に、総ての書類は決済済みの箱に移り、汪直は、素早く椅子から立ち上がった。

 部屋の隅に置かれている小さな銅鑼どらに近寄ると、軽く鳴らした。澄んだ音が響き渡り、汪直は出入口に顔を向け、後ろ手に待つ。

 ほどなく扉が開き、部下のケンが拱手の形になって、汪直の声が掛かるのを待っていた。

 身に纏う官衣は、汪直と同じ地味な藍色で、顔つきもどことなく汪直と似通っている。ほっそりとした身体つきで、表情は水のように静かだ。

「来たか?」

「はっ!」

 汪直が部下に掛ける言葉は、常に一言か、二言と、短い。答える部下も、同じように短く、時には、頷くだけで済ます場合もある。

 汪直の信念として、それまでに充分に意思を通じ合わせていれば、長々とした遣り取りなど必要ないと考えている。

 通路を歩く二人は、足音を立てない。普通の人間ならば、駆け足ほどの速さなのだが、訓練の成果か、影のようにひそひそと歩く。

 乾は素早く前へ進み出ると、通路に並ぶ一つの扉を押し開けた。汪直は開けられた部屋へと、躊躇いもなく踏み込んだ。

 一切の装飾を廃した簡素な一室に、一人の人物が、汪直を待ち受けていた。

 部屋の中央に蹲って、顔を頭巾ですっぽりと隠している。中肉中背で、性別は男らしい。

 いや!

 汪直は自分を戒めた。相手が男か女か、まだ判らないではないか。そう易々と、結論に飛びつくべきではない。

 汪直は相手の前に立つと、短く声を掛けた。

「立て! 顔を見せよ」

 声を掛けられ、相手はするりと、流れるような一挙動で立ち上がった。頭巾の中の顔が持ち上がった。頭巾から覗いた顔を目にし、汪直は、怒りの感情が湧きあがるのを感じた。

「顔を見せよ、と命じている! 聞こえなかったのか?」

 相対している人物の顔は、仮面に覆われていた。それも、猿の仮面だった。真っ赤な隈取で、どうやら『西遊記』の、孫悟空を表現している。

 明の時代になって『西遊記』『三国志演義』『水滸伝』などの〝三大奇書〟と呼ばれる作品が成立した。後世、これら三大奇書は、主に小説の形になって、日本で受容されたが、この時代では芝居、講談などで庶民には親しまれている。

 前に立つ人物の仮面は、芝居などで役者が孫悟空に扮する時の、化粧を施したものだった。

「素顔を晒すのは、御勘弁を願います」

 仮面は、ぼそぼそとした声音で答える。汪直は苛立ち、声を荒げた。

「なぜだ! 儂は、お主の雇い主だぞ!」

「お互いのためで御座います。これも、私共の用心の一つで……」

 汪直の怒りが、湧き上がった好奇心に引き下がった。

「なぜだ? 理由を述べよ」

 一礼して、仮面は答えた。

「もし、私の素顔をあなた様が御存知の場合、私が仕事をする際の差し障りになります。お判りになられませぬかな?」

 汪直は舌先で唇を舐め、一瞬、考え込んだ。理解に、汪直は薄笑いを浮かべる。

「そうか……。お主が儂の目の前で、変装などをして仕事をする場合、儂がお主の素顔を知っていれば、どうしても態度に出る。それが周囲の疑いを招く──?」

 仮面が、微かに頷く動作を見せた。

 汪直は、皮肉な笑い声を上げた。

「それほど、儂が信じられぬか? 儂が、まさかの場合に、顔色を変えると?」

 仮面が、今度は否定の意味で、ゆっくりと左右に振られた。

「そうでは御座いませぬ。しかし、用心は必要で御座います。私の仕事が済めば、お互い知らぬ存ぜぬの間柄に戻るだけ。どなた様の御依頼でも、私共は一切、素顔を晒さぬのが、決まりで御座います」

 汪直は唸った。

 どうやら相手に素顔を見せるよう、強要するのは無理のようだ。これ以上の押し問答をしても、同じ答を男は口にするだけだろう。

「判った! それでは、儂の依頼については、承知しておるな?」

 仮面がゆっくりと、一礼する。

 汪直は念押しのため、尋ねた。

「どのようにして、し遂げる?」

「毒を……」

 ぽつり、と仮面は答えた。仮面の返答に、汪直は眉をぐいっ、と持ち上げて見せた。

「毒を──な? どのような毒だ?」

「私共は巫蠱ふこの毒を使います。巫蠱については御存知で?」

「ふむ。少々、耳にしておる」

「少々、で御座いますか?」

 仮面の奥で、くぐもった笑いが響いた。

 毒と呼ばれる特殊な毒を使う術が、巫蠱である。主に使うのは、虫の毒だが、昆虫のみを指すわけではない。漢字の虫偏がつくのは、昆虫以外の節足動物『蜘蛛・蜈蚣ムカデ蚰蜒ゲジゲジ・蠍』爬虫類『蛇・蜥蜴』両生類『蛙・サンショウウオイモリ』など多肢にわたる。

 毛皮を持つ獣、鳥類、魚類以外を、この大陸では一緒くたに『虫』と総称する。

 巫蠱の術を使う──つまり、仮面の人物は暗殺者なのだ。

「確認のため、お尋ねいたします。私の狙い相手のお名前を、お漏らし下され」

 汪直は息を吸い込んだ。

 背後に控えた乾が、足音もなく姿を消した。

 決然と、汪直は答えた。

「お主に殺して欲しいのは、朱祐堂と申す若者だ!」

「承知致しました」

 汪直の言葉に、仮面はいささかの動揺も見せず、静かに答えた。

 朱祐堂。成化帝の息子。

 皇太子である。

 汪直は皇太子の暗殺を依頼したのだ。

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