三
明朝第九代皇帝、成化帝。諱は見深。年齢四十。でっぷりと肥満し、身動きは常に大儀そうで、顔色は生気がなく、玉座に膠着したように座っている。
身に纏う美服は、目にも鮮やかな黄色。黄色は、この世の中で、皇帝一人だけが纏える貴色と決められている。
年齢から考えれば、まだ老人と言えるほどではないが、汪直の目には、ひどく年老いて見えた。がっくりと首が前へ突き出し、目には薄く膜が掛かっているように、どんよりと濁って、光が認められない。
秦始皇帝を始めとして、この大陸に成立した帝国を統べる皇帝の大半が、四十、五十代以前に若死にしている。
無論、暗殺を含めない。
当時の平均寿命から考えれば、当然と思えるが、平均寿命と、余命は違う。四十代の壮年まで健康を保てば、七十、八十代まで天寿を全うするのは、普通であった。平均寿命が低いのは、幼児の死亡率が高く、全体の平均寿命を引き下げているせいだ。
短命の原因は、美食のためだ。さらに詳しく分析すれば、各地の諸侯を統御するための宴会が、度々催されるためである。
宴会には百官の他、各地の実力者である郷神と呼ばれる人々が招かれる。宴会に出される豪華な料理に、招待客は帝国の壮んさを実感し、宴会を開催する実力を持つ皇帝に尊敬を感じる仕組みだ。
その際、皇帝は誰よりも食らい、勧められた酒は、ことごとく飲み干さなければならない。鯨飲馬食を演じないと、面子を失う。
この大陸の対人関係で、面子を失うのは、場合によっては命取りとなる。少食で、下戸であると、誰も大人物と思ってくれない。
当然、ぶくぶくに肥満し、身分がある人間は、身体を動かさないのが常識であるから、必然的に、不健康の極みとなる。
成化帝の前には卓が置かれ、卓上には山海の珍味、豪華な盛り付けの料理が、卓の脚が折れんばかり、溢れんばかりに載せられている。
ほとんどが、たっぷりの油、塩分、糖分で調理されたものばかりだ。こんな料理を毎日毎日、果てしなく食していれば、肥満しないわけがない。
汪直は謹直な臣下の礼を保ったまま、成化帝の声が掛かるのを待っている。成化帝は、汪直の存在を忘れたように、ぼんやりと目の前の料理を眺めていた。
帝直属の宦官の一人が、その場を見かね、そっと成化帝に近寄ると、耳に口を近づけ「汪直が参っております」と囁いた。
「おお!」
小声で呟いた成化帝は、夢から醒めたように目を見開き、眼前に控えている汪直に視線を戻した。
「汪直──であったな、西廠の……」
成化帝は、汪直の名前を苦労して思い出しているように、あやふやに両手を動かした。
汪直は「ははあっ!」といかにも感激したように、頭を深々と垂れ、床に擦りつけた。
「汪直……はて、何の用で呼びつけたのであったかな?」
帝の眉間に、微かに皺が刻まれた。朦朧とした記憶の回復に、困難を感じているようだ。
近ごろ、成化帝の健康は優れない。宮廷付きの医師には、身体の節々が痛み、ちょっと身動きをしただけで動悸が激しくなり、胸の痛みを訴えていると、汪直は耳にしている。
二十世紀以後の医学で診察すれば、明らかな動脈硬化、高血圧、血糖値の高さなどから、重症の成人病と診断されるだろう。いつ心筋梗塞、脳内出血などが起きても、不思議ではない状態だった。
成化帝の病状についての報告は、西廠に属する宦官たちからもたされている。汪直は宮廷内の情勢を、西廠を使って、誰よりも詳しく把握していた。
「汪直……西廠の汪直……」
ぶつぶつと呟く成化帝の表情が、僅かに変化した。
突然、成化帝の重い肉体が持ち上がり、すっくと玉座から立ち上がる。両脚をぐっと踏み締め、両拳が固く握り締められた。
両目が爛々と光りを放ち、表情は王者らしく、厳しい皺が刻まれる。この時ばかりは、賢帝の面影が現われていた。
さっと腕を伸ばし、跪く汪直を指差した。
「其方は、太子を……!」
言い掛ける成化帝の指先が、ぶるぶると震えた。
汪直は、微かに顔を挙げ、両目に力を入れて、成化帝を見詰めた。ぎらりっ! と、汪直の瞳が強い光りを発した。
「この汪直が、太子様をいかがなされたと、思し召しで御座いますかな?」
汪直が示したふてぶてしいほどの落ち着きに、俄かに成化帝の態度が急変した。
わくわくと、帝の唇が慄き、声もなく口が動いている。急速に成化帝の全身から力が抜け、がっくりと両肩が下がった。
すとんと、玉座に落下するように腰を下ろし、天を仰ぐ。だらだらと額から、蟀谷から大量に発汗し、まるで大仕事を終えたように、はあはあと大口を開けて喘いでいた。
威厳と、気力は、すっかり成化帝から抜け去っていた。残されたのは、今にも倒れ臥しそうな、弱々しい老人だった。
成化帝は「お主らが、朕の息子たちを殺害したのであろう!」と叫びたかったのだろう。が、汪直を追及すると、同時に背後に控えている万貴妃を糾弾する結果になる。
それだけは、成化帝はできない。
今まで、万貴妃により、成化帝の息子──つまり皇太子が何人も暗殺されている。手を下したのは汪直ら、西廠の宦官たちだが、命令したのは、万貴妃だ。
成化帝は、万貴妃の暗躍には、口を噤むしかない。
万貴妃は、成化帝にとって、幼児から育て上げられた乳母であり、長じては最初の女であった。肉体的にはすっかり、縁が切れているが、精神的には今もって万貴妃の支配下にある。
正妃である万貴妃と、成化帝の間には、たった一人、息子が生まれているが、すぐに早世している。以来、万貴妃は高齢でもあり、二度と懐妊しなかった。
成化帝は十人あまりの后妃に、数人の息子を産ませている。
それが、万貴妃の嫉妬を生んだ。嫉妬は、暗殺という結果を生んだ。
成化帝は、精神的には万貴妃の息子であり、母親代わりの万貴妃の嫉妬を。咎められない。
ぐったりと、玉座に座り込む成化帝は、軽く頭を左右に振って、汪直に話し掛けた。
「すまぬ……。朕は少しく、惑乱しておったようじゃ……。許せ」
汪直を見る成化帝の両目には、すでに力はなく、怯えすら浮かんでいた。
謁見の間に存在した緊張は、すっかり失われている。帝の側に控えている衛士や、官員たちの間にも、弛緩した空気が流れていた。
汪直はにっこりと、柔らかな笑みを浮かべ、口を開いた。
「いえいえ、直は常に、帝の健やかを願っております。どうか、御身体をお大事になさいますよう──」
空虚な言葉を、次々と口にする。
言葉を一度、思わせぶりに切って、いかにも、たった今、思い出した体を取って、汪直は言上した。
「それよりも、帝より命じられし道士の探索で御座いますが?」
成化帝は、ぐっと身を乗り出した。
初めて成化帝の両目に、生き生きとした光りが宿った。
「見つけたのか?」
汪直は「ははーっ!」と答え、深々と頭を下げた。
「一人、有望なる道士を見つけまして御座います。いずれ、御前にお見えするでありましょう」
「そうか、そうか!」
成化帝は喜色を浮かべた。
近ごろ、成化帝は方術に凝っている。
方術、すなわち神仙の道をいう。神仙の道に通じているのが道士、方士であり、成化帝は各地に隠れ住むと噂の道士を探し、次々に召し出していた。
再び汪直は深々と礼をして、静かに立ち上がると、礼式に適った辞儀をして、成化帝の御前を引き下がった。




