二
湯起請の前に、久忠は起請文をしたためた。
筆を取り、くるくると筆先を走らせ、文を書いてゆく。
船の水主たちは、ポカンとした表情で、久忠の筆が動くのを見守っている。
当時、字の読み書きができるのは、限られていた。貴族、僧侶、久忠のような神職の家系など。まれに、大商人の中には読み書きできる者も存在したが、一般庶民が日常読み書きができるようになるには、江戸時代を待たなければならない。
武士の中でも、相当数、読み書きできる者もいたようだが、圧倒的多数の武士の識字率は低い。書類作成の必要があれば、祐筆が代筆するからだ。
久忠は起請文を書き終えると、紙を燃やして灰にした。燃やした灰は、水で溶かす。器に灰を溶かした水を、水主たちが回し飲みした。これで儀式は完了する。
船の上に、厳粛な空気が満ちた。
波は静かで、ほとんど揺れはない。
久忠は、ぐらぐらと煮え立っている鍋を見詰めた。
大きな五徳の上に大鍋が載せられ、下からは炎が鍋を熱している。炎の下には石が置かれて、直接、船材を焦がさぬ工夫がなされていた。
「オン・マリシ・エイ・ソワカ……オン・マリシ・エイ・ソワカ……」
口の中で、久忠は繰り返し、摩利支天の真言を唱えていた。いつも真言を唱えていれば、不思議と恐怖はなくなり、冷静な自分を取り戻せるのを感じる。
「オン・マリシ・エイ・ソワカ……! オン・マリシ・エイ・ソワカ……!」
いつの間にか、久忠は叫ぶように、大声で真言を唱えている。周囲の様子も、ぐらぐらと煮え立っている大鍋も、久忠の心からは消えている。
ただただ、摩利支天への帰依だけが、久忠を捕えていた。
濛々と湧き上がる湯気を覗き込む。
久忠は、湯気の中に、三面六臂の、摩利支天の御姿を観想していた。
すでに心気は久忠から離れ、手を煮え立つ湯に突っ込むという恐怖は、欠片もなかった。
そろり、と久忠は右手を突き出した。
そのまま、湯の中に手首まで浸す。
おおっ、というどよめきが、周囲で湧き上がる。
久忠は充分、湯の中に手を入れたと判断すると、ゆっくりと引き抜いた。
手を開き、一堂に開示する。
久忠の手には、一切、火傷はなかった。
無事に湯起請を、久忠は切り抜けていた。
これは奇跡であろうか?
いや、条件が整えば、奇跡ではない。
条件の一つとして、湯が完全に沸騰している必要がある。さらに、湯に入れる手を、今の久忠のようにゆっくりと、落ち着いて入れなければ、ならない。
これはライデンフロスト効果という名前で知られている。
温度境界に、薄い空気の層が発生する現象で、沸騰した湯の泡が、差し入れた手の周囲に空気の層を作り出す。この空気の層に守られ、火傷を回避するのは、有り得ない現象ではない。
しかし理論はどうあれ、躊躇いもなく手を沸騰する湯の中に浸す暴挙は、誰にもできる技ではない。
「太郎左衛門殿が、湯起請を成し遂げられたぞ!」
「見ろ、太郎左衛門殿の手には、火傷どころか、火脹れ一つたりとも残っておらぬ!」
「太郎左衛門殿は、正しい……!」
「そうじゃ! あのアニスという娘、邪な存在ではなさそうじゃ……」
水主たちの顔には、一斉に感動が浮かんでいた。
船長もまた、顔にありありと安堵を浮かべている。満面の笑顔になると、両手を挙げて宣言した。
「これにて一件落着に候……! 今日は、陸に上がり、酒宴を張ろうではないか」
船長の提案に、水主たちは喜色を顕わにする。全員、手を打ち合わせ、躍り上がって喜びを表現した。
「宴じゃ! 宴じゃ! 今宵は、無礼講ぞ!」
わあわあと叫ぶ水主たちの中に、久忠はじっとこちらを睨む目を意識した。小七郎だった。
ぐっと両手を握り締め、顎に力を込めて歯を食い縛っている。唇は微かに震えていた。久忠を見上げる小七郎の両目は、瞬きもしない。
久忠は、何か声を掛けようと思った。だが、何か口にすれば総て空々しくなりそうで、小七郎と同じく、沈黙を守っている。
朧は、と見ると、朧は「ふむふむ」とばかりに、何度も得心顔で頷いている。唇には薄く、笑みが浮かんでいた。いつもの皮肉な笑みではなく、久忠の目には賛嘆の色があるように思える。
小七郎の側にアニスが立ち、そっと腕を絡めている。アニスの目には、感謝の色が……久忠にはそう思えた。言葉も判らないままだが、アニスは周囲の様子から、事情を理解しているのだろう。
無我夢中で行った湯起請であったが、久忠は俄かに、アニスの正体について、深刻な疑惑が湧いてくるのを抑え切れなかった。




