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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第四章 持衰
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 おぼろは、どこにいる?

 明国へ向かう船の中で、久忠の当面の気懸かりは、朧と名乗る忍者の正体だった。

 確かに朧は、久忠が船に乗り込んだら、姿を現すと明言した。

 久忠は船端に寄り掛かり、船内の様子を抜け目なく観察する。

 船は瀬戸内海を西へ向かっていて、淡路島の北を通り過ぎるところだった。南を通れば、鳴門の渦潮を目にする機会もあるはずだったが、航海の安全を第一とする勘合船団が、そのような海路を取るはずもなく、まずは平穏無事な出だしであった。

 瀬戸内海は、四国と山陽路に挟まれ、穏やかな海として知られている。

 船に乗り組んでいる水主かこたちは、丸っきり周囲を警戒する必要もなく、のんびりとしている。久忠の愛洲一族が、熊野水軍に所属しているため、海賊も船団を狙う危険もない。もっとも、十隻以上の船団を襲おうなどと考える海賊など、いるはずもないが。

 船に乗り組む水主の誰かが、忍者の朧という可能性はあるのか?

 あの、逞しい身体つきの男は、どうだ? 全身が隈無く日に焼け、真っ黒で、身動きは素早く、いかにも一癖ありそうだ。

 が、久忠の目には、真っ黒な男が、何も武道の心得らしきものを修得していないと、見て取っていた。

 身動きは確かに素早く、長年の船上暮らしで、足下もしっかりしている。しかし仮にも忍者とあらば、久忠の心に響く武道の片鱗くらい、露見しても良さそうなものだ。

 あちらで、小博打をしている小柄な男は、どうだろう。上半身裸で、背中に何やら、刺青を彫っている。

 いや、とても朧とは思えない。忍者なら、刺青など、身体に施すわけがない。忍者のもっとも重要な役目は、他人ひと目につかないのが、基本だ。目立つ刺青など、絶対、残さないだろう。

 久忠の視線が、船上をぐるりと一巡する。

 と、視線が一箇所に止まった。

 船のともあたり。一人の老人がうずくまっている。

 年齢は見当がつかない。ただ、印象では、相当の齢を重ねていそうに見える。

 骨と皮ばかりの、木乃伊ミイラのような体格で、頭はつるつるに禿げている。ぎょろりとした大きな目玉は、半眼に閉じていて、一見したところでは、座禅をしている僧に見える。

 身につけているのは、僅かに腰を覆うだけの、襤褸ぼろ切れ一つ。溌剌とした身動きを続ける水主の中では、異彩を放っていた。

 じっくりと、久忠は老人を見詰め続けた。

 老人の半眼が持ち上がり、ぎろりと鋭い眼光を放った。奇妙な目の色をしていた。薄い、ほとんど金色に近い、茶色の瞳をしている。

 久忠に目をやり、にったりと、老人は薄笑いを浮かべる。

 僧ではない。厳しい戒律を守る、僧らしき表情ではなかった。

 久忠は、ことさらゆっくりと、老人に向かって歩き出した。

 周囲の様子を見渡すと、なぜか水主たちは、老人に対し、無視を決め込んでいるようだった。むしろ、意識して視野から追い出しているように見える。時々、偶然に視線が老人に向きかけると、慌てて目を逸らす。

 久忠は、老人の目の前に片膝をついた。

「お主……」

 つい、掠れ声になるのを抑え切れない。

「もしや、朧では……?」

 老人の笑みが大きくなった。皮膚はなめし革のようで、妙な艶がある。

 顔のど真ん中に、身体つきとは不釣合いな、巨大な鼻がぶら下がっている。鼻の両側に、にんまりと薄い唇が伸びて、笑顔になった。

「左様……」

 老人の声は、奇妙に甲高い。そのくせ、ひどくざらついていた。老人の声に、久忠は密かに接触をしてきた朧の声音を認めた。

 久忠は朧に顔を近づけ、ひそひそ声になった。なぜか、声を高めるのが憚れた。

「ここで何をしている? なぜ、船の水主どもは、お主を避ける」

「儂は、持衰じさいの役目を請け負っておる。水主はおろか、船長ふなおささえも、儂を避ける。当然ではないか?」

 久忠は思わず、呻き声を洩らした。

 持衰!

 話には聞いていたが、実際にその役目を負う人間を見たのは、今回が初めてだ。

 かつて遣隋使などが、派遣された際、持衰と呼ばれる役目の者が同道されたとされる。

 持衰の役目は、船旅の無事を計るため、一切のけがれを一身に引き受ける。旅の間じゅう、身の汚れを落とすのは許されない。だけでなく、爪、髪の毛なども伸び放題、汚れ放題に暮らさなければならない。

 もし、船旅が滞りなく無事に終えれば、持衰に膨大な褒章が与えられたとされる。だが、何か災いがあれば、それは持衰の責任とされ、直ちに死を賜ったと聞く。

 遣隋使、遣唐使と幾度かの渡海に持衰が任命されたが、政権が貴族から武士に移った鎌倉の世からは、そのような役目は、忘れ去られたはずだった。

 久忠は唇を舐め、朧に質問した。

「なぜ、今さら持衰なのだ」

「儂が、会合えごう衆に教えてやったのよ。今回の明への渡海は、常にない規模の大きさで、会合衆にも不安があった。それで、儂が、密かに持衰の存在を、思い出させてやった。その後で、自分は持衰の血を引く者だと名乗りを挙げたら、それ幸いと、儂にこの役目を命じたのだ」

 久忠の驚きの顔を見て、朧の笑いはさらに広がった。

「儂のような人間にとって、他人の詮索ほど煩いものはないからの。持衰になっておれば、水主たちは、あれこれ質問せずに、儂を放っておいてくれる」

 久忠は一応、納得したが、少々気懸かりが残った。

「それでは、もしも、この航海の途中、災いが降り掛かったらどうする? お主は災いの責任を取って、殺されるのだぞ」

 朧は軽く、手を振った。

「その時は、その時。無事に済めば、それで良し、もし何か変事があったとしても、儂はすぐに逃げるわい。そのくらいの技は、持っておる」

 なるほど、いかにも忍者らしき発想だと、久忠は苦く考えた。何か変事が起きても、朧は責任を取るつもりなど、一切、ないのだろう。

 周囲を見回すと、話し込んでいる二人を、水主たちが妙な表情で見ているのに気付いた。

 朧はニヤリと笑うと、久忠に頷き、囁いた。

「儂には、誰も話し掛けん。何しろ、船の穢れ、まがつ事を引き受ける役目だからな。お主が儂と話していると、怪しまれる。後で、詳しい話をするゆえ、待っておれ」

「判った」

 久忠は、さっと立ち上がった。確かに、朧の言葉どおり、他人目のある場所で話し込むのは、まずい。

 その時、水主の叫び声が上がった。

「この餓鬼! 何しやがるっ!」

 たたたっ、と足音がして、小柄な身体が久忠の側を駆け抜ける。その後から、顔を真っ赤に染め、怒り心頭に発している水主が、どたどたと足音を轟かせて追い掛ける。

 逃げているのは小七郎だ。見ると、小七郎は、顔ほどもありそうな大きな握り飯を抱えている。逃げている間にも、小七郎は握り飯にかぶりつき、口一杯に頬張っていた。

 どうやら、小七郎が水主の昼飯を失敬したらしい。

 やれやれ、いつまでも大人しくしている小七郎とは思わなかったが、早速、おっぱじめてくれたか……。

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