一
翌日は快晴で、港には明へ向かう船が勢揃えをしている。桟橋には、船に荷を積むための人々が忙しく立ち働いて、甲高い声で指示を飛ばしていた。
久忠は小七郎と、菊子を伴った。菊子の後ろからは、箍屋の若い者が数人、付き従っている。
小七郎の髪の毛はきちんと梳き上げられ、後頭部で髷を結っている。着ているものも新しく、これが昨日まで盗賊団に加わっていた悪たれ小童だとは、誰にも看破できないだろう。
腰には木刀を挟んでいる。
小七郎は脇差を要求したが、久忠は刀を抜けるようになるまでと、止めている。小七郎は盗賊団に加わって暴れていたが、実は刀を抜く技を知らない。
正確には、腰に差した刀の鯉口を切り、抜く技能を指す。これは、きちんと修得していないと、自分の指を切り落とす危険がある。
久忠は、まず刀を抜き、抜いた刀を鞘に納める動作を、小七郎に教えようと考えていた。
抜いて、納める一連の動作を身体に叩き込んでおかないと、振り回す刀で小七郎自身が怪我をする可能性があるからだ。
それには明へ向かう船旅が、格好の舞台になるだろう。船に乗り込めば、どこにも逃げようもなく、久忠は思い切り小七郎を鍛えられるはずだ。
「あれが、左衛門様のお乗りになられる、お船で御座いますね?」
菊子は日差しが眩しいのか、額に小手を当てていた。昨夜、久忠の寝所に忍んできたのが嘘のように、毅然とした態度を保っている。
それが、久忠には有り難い。湿っぽい愁嘆場は苦手だ。
久忠は菊子の問い掛けに、無言で頷いた。
目の前に、愛洲一族が仕立てた船が、ゆったりと浮かんでいる。
大きい。
久忠は船は見慣れていたが、この日、愛洲一族が仕立てた船は、今まで目にした記憶がないほど、巨大な大きさを誇っていた。
全長十七間ほど、全幅は五間。艪は七十を数える。帆は二枚。ただし帆は莚帆というものを用いる。この時代、帆は二枚、三枚という船は普通で、後年、江戸時代に入ると一枚の帆しか許されなくなる。
「へっ! あれが、おいらの乗る船か。今にも、ブクブク沈みそうだぜ!」
小七郎が生意気に腕を組んで、憎まれ口を利いた。
菊子は、小七郎の言葉を聞き咎めた。
「小七郎様」
きちんと小七郎に身体を向き直り、眉を寄せて話し掛ける。
「御自分がお乗りになられる船では御座いませぬか! それを、今にも沈みそうとは、そのような言い様は、聞こえませぬぞ!」
小七郎はペロリと舌を出して、肩を竦めた。
「おいらが乗りてえ、って頼んだわけじゃねえ。こいつが……」と久忠を顎でしゃくる。「無理矢理、連れて来たんだ……」
菊子は、いきり立った。
「左衛門様は、小七郎様のお父上で御座いませぬか? こいつ……などと仰るものでは御座りません!」
「親父なんかじゃ、ねえよ! 母ちゃんの仇だ!」
小七郎は言い放って、そっぽを向いた。
菊子は小七郎の憎々しい口調に、呆気に取られたように絶句した。
久忠は菊子に、安心させるために苦笑して見せた。小七郎に顔を向け、口を開く。
「良い。小七郎が拙者を母者の仇と思うのは、勝手じゃ。じゃが、小七郎!」
小七郎は久忠に向かって、鋭い視線を送った。
「何だよ」
「拙者を倒すためには、剣の修行を怠ってはならぬぞ。この海路、拙者はお主に剣の奥義を授ける。その後でなら、幾らでも拙者に突きかかってくるが良い」
小七郎は歯を剥き出し、押し殺した声を上げた。
「ああ、そのつもりだ。絶対、お前より強くなって、母ちゃんの仇を討ってやる! その時、おいらに剣を教えるんじゃなかったなど、後悔するなよ!」
菊子は二人の会話に、少し眉を寄せたが、口出しを控えているのか、黙っている。
久忠は菊子に向かい、ちょっと会釈をした。
「それでは菊子殿、拙者は明国へ参る。色々、そなたには世話を掛けた」
菊子は深々と頭を下げた。
顔を上げたとき、晴々とした笑みを浮かべていた。
「行ってらっしゃいませ! 御武運をお祈り致しております」
「うむ」と頷き、久忠は背を向け、船に続く板をゆっくりと登って行った。久忠の背中に、小七郎が続く。
「行ってらっしゃいませ!」「お気をつけて!」
背中から、箍屋の人々が口々に別れの言葉を投げ掛ける。
乗船して、振り向くと、菊子が目を一杯に見開いて、久忠を見詰めているのを見た。先ほどまでの毅然とした態度は消え失せ、どこか心細い、少女のような表情が浮かんでいた。
何か声を掛けようとした久忠だったが、何も口にする言葉がないのに気付く。久忠も、黙って菊子の顔を見詰めるだけだった。
出発の時が満ち、船端から突き出している艪が一斉に海面を掻いた。ぱしゃりと水音がして、艪が桟橋を押す。
帆が追い風を受け、船はゆったりと港を離れて行く。次々と停泊していた船が、外海を目指した。
久忠の視界から、菊子の姿が遠ざかる。思わず久忠は叫んでいた。
「帰ってくるぞ! かならず、無事で帰ってくるゆえ、待っておれ!」
菊子に何を待て、と言いたいのか?
久忠は自分でも何を告げたかったのか、判らなかった。
遂に菊子の姿が、見分けられなくなった。
が、久忠の目の奥には、はっきりと菊子の白い顔が焼きついていた。




