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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第三章 孤児
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「オン・マリシ・エイ・ソワカ……!」

 久忠が山道をずんずんと歩き、摩利支天の真言を、繰り返し唱えている。周囲は、乳色の霧に覆われ、ほとんど見えない。

 摩利支天。仏法の守護者にして、天部の一員。陽炎を神格化したとされ、突かれども、切られども、一切、傷つかず、自在の通力を有するとされる。これらの神性ゆえ、武士の間で広く信仰されている。

 久忠も、摩利支天を信奉している。こうして旅を続ける間、摩利支天の真言を唱え、護持を願う。実際、真言を何度も唱えていると、次第に法悦の中に精神が遊び、長い距離を歩いても、疲れを感じない。

 堺を目指している。

 歩き易い海沿いの道をとらず、山中を真っ直ぐ、西へと突き進んでいる。道ともいえぬ山中を、下生えを掻き分け、山嶺を辿っていた。いわゆる、行者道を久忠は選んでいる。

 朝暗いうちに、父親の館を出立したので、背後からようやく、朝日が顔を出した。久忠の長い影が、早朝の霧に写し出され、影の周囲に丸く虹が輝いている。

「……サルバタラ・サルババユ・ハダラベイ・ビヤクソワカ……」

 眼前の光景に、久忠は摩利支天陀羅尼を唱えていた。霧に写し出された自身の影に、摩利支天の姿を観想している。

 突然、霧の影が二つに増えた!

 ぎくりと、久忠は背後を振り返った。

 相変わらずの、濃い霧の中に、ぼんやりと、もう一人の姿が浮かんでいる。

「誰だ?」

 鋭く誰何すると、聞き覚えのある、笑い声が響いた。

 くっくっくっくっく……。

 こちらを馬鹿にするような、面白がるような、優越感に満ちた笑い声。

 久忠は直ちに冷静さを取り戻した。

「お主が、御所より遣わされたという、忍びの者か?」

「御明察……。早速、堺へと出立なされ、まずは目出度う御座る……」

 久忠は霧を透かして、相手を見定めようと瞼を限界まで広げた。しかし、霧は濃く、背後からの逆光で、影は見定め難い。

 久忠は諦め、くるりと前方に身体を向けると、歩みを再開させた。背後の気配を探ると、久忠と歩調を合わせているのが感じられた。

「せめて名前くらい、教えて貰えまいか? 父上の言葉によれば、お主と拙者は、同道して御所の命令を果たすはずじゃ」

 ほんの少し沈黙があって、相手が答える。

おぼろ……とでも名乗っておこう。太郎左衛門殿が信仰されておる、摩利支天にあやかって、だが」

「ふん!」

 久忠はむかっ腹を立てた。だが、口には出さずに我慢した。

 どうやら奴は、とことん、久忠に対し、自分を優位に置くつもりらしい。癪に障るが、これも大事の前の小事と、久忠は自分を抑えた。

「堺へ赴かれる前に、太郎左衛門殿は、御子息にお会い為されるのかな?」

 ぴたり、と久忠は立ち止まった。

「拙者の息子について、何を知っておる?」

「色々と、な……」

 朧と名乗った影は、曖昧にぼやかした。霧の向こうから、含み笑いとともに、言葉が続いた。

「考えてみて欲しい。なぜ、太郎左衛門の御子息が生きていると、御父上が示唆したかを……」

 久忠は愕然となった。

「お主が、父上に教示したとでも?」

「左様。大体、御所の命令を伝えたのも、それがしで御座る。その時に、太郎左衛門殿の御子息についての消息を、お伝え申し上げた」

 久忠は眉を顰めた。

「なぜ、そんな手間を掛ける?」

「それがしは、どんな使命でも、おろそかにはできませぬ。お父上に使者に立つと決まった時に、愛洲一門については、徹底的に調べ尽くし申した。その中で、太郎左衛門殿の名前が浮かび上がったので御座るよ。調査の過程で、太郎左衛門殿の御子息が生きておられると、判明いたした」

「なるほどな」

 久忠は肩を竦め、再び歩き出した。なぜか、朧に対し、腹が立たなくなっている。

「朧……。お主について、少しく聞きたい」

「何を、で御座る?」

「御所の忍びと聞いたが、本当にそうなのか? そんな者が存在するなど、拙者は初耳だぞ」

 くくくく……と、朧は笑った。

「御存じないので御座るか? 元々、奇門遁甲の技は、天武天皇より伝えられたもの」

 朧の言葉に、久忠は呆れ返った。

「天武天皇が忍者、と主張するのか?」

「何も不思議は御座らん。天武天皇が奇門遁甲を修得されていたと、日本書紀に、はっきりと書かれておる。天武天皇より伝えられた奇門遁甲の技は、連綿と御所内に伝承され、それがしに受け継がれております」

 久忠はそれ以上の追及を諦めた。ともかく、この「朧」と名乗る怪しの相手と、付き合わなければならないらしい。

「なあ、そろそろ拙者の前に、姿を現してはどうだ。声だけの相手では、拙者もやり難いではないか!」

 ──いずれ、お目に掛かる……。

 声は再び遠ざかった。

 気がつくと、周囲を取り巻く霧が、見る見る薄らぐのが、判る。朧は霧が晴れるのを、嫌ったのだろう。

 久忠は決然と、前を見詰め、旅を続けた。

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