神無之国の巫女
黒の世界を色とりどりに染める光があった。
夜明けの太陽だ。
灰色のビルと緑の山々がゆっくりと染め上げられていき、やがて光は山の中腹で日の出を待っていた少女を照らしあげる。巫女装束の少女は眩しそうに目を細めながら太陽を見据えるが、冬の夜明け前に冷えきった体は光をいくら浴びても暖まらない。
太陽を司る神、天照大御神の加護が失われているからだ。
少女は深々と礼をしてから揃えていた左足を外に送り出すと、右足を軸に、時計回りにゆっくりと回転を始めた。左の手に収めていた扇をゆっくりと開き、二周してから太陽に正対する。
光に照らされた体がほのかに暖まっていくのを感じて、少女は肺に詰まっていた冷たい夜気をゆっくりと吐き出した。
(今日もよろしく、神様)
太陽を司る天照大御神の加護が今日も人間に恵みを与えてくれることに感謝しながら、東陽晴姫は先ほどとは逆巻きに体を回し、舞を続けていく。
八百万の事物から神の加護が失われて数十年。
皇族が神々に捧げていた祈りは途絶え、人間が受けていた恩恵はこの世から姿を消した。
太陽は光を発するだけで何者をも暖めず、風は止み、土は命を放り出し、水は淀んだ。
それら万物に神々の加護を取り戻したのが、彼女ら巫女による『神楽奉納』だ。
一年三百六十五日。雨の日も、風の日も、雪降る朝も、曇りの夕暮れも、巫女が祈りを捧げるからこそ、今世の人々の暮らしは成り立っていた。
天照大御神に祈りを捧げるのは日に三回。日昇、日中、日没の三度。
少女は先代の巫女が亡くなった14の頃から既に三年、千日の間これを続けてきた。
そして命続く限り、人の世が続く限り、彼女らの義務は続いてゆかねばならない。
うんざりしないと言えば嘘になる。特に凍えるような夜明けは一番辛いと晴姫は思っているが、一番頑張っている証が分かるのもまた、冬の朝だ。
彼女は凍えた体の繊維一つ一つに熱を通すイメージを描きながら、丁寧に舞う。
扇をゆっくりと外に振り、くるりと回して顔を隠すように引き込む。逆の腕を同じように外へピンと張り、くるくるりと回して扇の外を抑えるようにして手を重ねる。
夏場はすぐさま暑くなるからおざなりな奉納をして怒られる事もあるが、冬場はじんわりと暖まっていくのが心地よくて、言われずとも丁寧になる。
ゆっくり、ゆっくりと指先一つまでを意識して舞を踊りきり、扇を畳んで両手で掲げ、最後に深く一礼を捧げる。
舞が止まっても自慢の黒髪がじんわりと暖まっていくのを確認すると、晴姫は勢い良く台座から飛び降りて階段を駆け下りていった。
懐から取り出したゴムで長い後ろ髪をポニーテールにまとめて携帯を確認する。
6:58。うん、まずい。食物の神様への奉納が始まるのは朝七時きっかりだ。さっさと戻らなければ味のあるご飯を食べそびれる。
大きくバウンドする胸を片手で抑えながら、彼女はちらりと白み始めた空を見上げた。
彼女も今、朝陽の優しさを味わっているのだろうか。
そうだといいな、と思いながら、彼女の努力をムダにしないためにも、晴姫は三段飛ばしで階段を飛ぶように駆け下りていく。
汗だくで駆け込んで来た行儀の悪さを父に叱られながら、その父が作って並べた朝食を前に、少女は深く目を閉じて頭を下げる。
頂きます。神様へ一回。
いただきます。皆々のため、舞を始めている友達へ一回。
しっかりと体を起こしてから、晴姫は玉子焼きと味噌汁と、いちごジャムをたっぷり塗りつけたパンをしっかりと平らげた。
*
夜明けとともに朝の神楽奉納が義務付けられている晴姫の朝は非常に早いが、彼女は毎日の登校時間も人よりかなり早い。運動部の生徒が朝練に精を出す時間帯に登校し、彼女はほぼ無人の図書室へ顔を出す。
晴姫に読書の趣味はない。巫女業務のために部や委員会など一切の組織に所属していない彼女が、毎朝欠かさず図書室に顔を出すのはそこに待ち人がいるからだ。
「おはよー、亜希!」
「おはよう、ハルちゃん」
待っていたのは晴姫と同じ三年の女子生徒であり、巫女である豊浮亜希だ。
いつも通り不健康そうな色白でほそっこい彼女に後ろから抱きついて、晴姫は肌と肌をすり合わせる。ただでさえ冷え性な亜希は、数年前から巫女の座について以来、なおさらに健康から遠ざかっている。
その理由は、彼女が食物の神である大気都比売神へ奉納を捧げる巫女だからであった。
「今日の朝ごはんは何たべたのー?」
「いつもとおんなじだよ。うちのお父さんは全然料理出来ないもん。あ、でも今日は新しいいちごジャムだったよ。やっぱりバターとかより甘いジャムだよねー」
図書室には不似合いな明るい声が響くが、他に利用者はいないので誰にはばかることもない。楽しげな声が無人の図書室の冷えた空気を暖めていく。
だが、聞き手である亜希の顔に笑みが浮かぶ一方で、晴姫の表情は反対に苦しそうに歪んでいた。
自分の体が冷えているのか。亜希の体が暖まっているのか。どちらか分からないが、少しでも亜希の苦労が癒やされれば良いなと晴姫は思う。
彼女は神楽奉納を初めてから二年、まともな味のするものを口にできていないのだから。
食物の神の加護で失われたのは、『味』だ。人間が毎日三食、味のある食事を楽しめているのは、食事時である朝昼晩に亜希が神楽奉納をしているからに他ならない。
その間、神楽舞をするために食事の出来ない亜希を除いて、全ての人間が笑いながら食を楽しんでいるのが、今の世界だ。
失われたのが栄養で無かったのは不幸中の幸いだろう。亜希は奉納をしている間は食事が出来ないのだから、もしも失われたのが栄養素だった場合、彼女は一切の栄養を摂取できなくなるところだった。
かといって味のしない食事など、いくら栄養がとれても心が痩せていく。晴姫は亜希が自分よりもよっぽど大変な役割をこなしていることを立派だと尊敬していた。
だが、晴姫は彼女の犠牲の上に生きている人間を憎いとも、覆したいとも思わない。
自分も同じものを背負っているのだ。亜希がそんなものを望んでいないことも分かっている。
巫女としての義務と、責任と、そして己が人類を支えているのだという自負があるからだ。
そして、己を支える自負のために、亜希は毎朝同じことを聞く。
「おいしくご飯を、食べられましたか?」
彼女が奉納の後に味のほとんどしない食事を取っているのだと思うと、晴姫は明るい声を出すことは出来ても、心の底から笑うことはできなかった。
だから晴姫は毎朝、亜希を後ろから抱きしめながら話すのだ。
昨日はどんなご飯を作ったのか。ちょっと失敗してしょっぱかったけど、お父さんが無理をして食べてくれたとか。新しく買ったジャムが大当たりだったとか。そんな他愛の無い話を、けれども亜希が失ってしまったものを、精一杯分け合うかのように、晴姫は語っていく。
話に熱中していると、予鈴が学校中に鳴り響いた。
朝練をしていた生徒たちがいっせいに引き上げ始め、一般生徒も徐々に校門を潜ってくるのが窓から見える。
「早くしないと、他の人が来ちゃうね。今日もいちご味でいい?」
晴姫は亜希から離れてポケットからガムを一枚取り出す。校内で菓子の類は禁止されているが、こればかりは仕方ないだろう、巫女特権だと心のなかで言い訳しながら、晴姫はガムを噛み始める。
「またかぁ。でも朝もいちごジャムだったんだもんね。明日からは違うのにしてよ?」
図書室の入り口の鍵を閉めた亜希が戻ってきて、晴姫の正面に立つ。
階段を登ってくる足音が無いことを確認して、晴姫は亜希を抱きしめてゆっくりと口付けた。
栄養はちゃんととれているはずだが、やっぱり味のない食事だと体がうまく吸収しないのだろうか。亜希の体はこの二年間細くなっていくばかりで、歳相応の健康的な肉付きとは程遠い。
そんな彼女の体をきつく抱きしめながら、晴姫はゆっくりと口内に溜まった甘い蜜を彼女に分け与える。
奉納を捧げている時以外は、この世の食事からは一切の味が無くなってしまう。
だが、一つだけ抜け道があった。
日光が食事の元となる大地と食物に栄養を与えているからだろうか。晴姫にも理由はよく分からないが、亜希が唯一『味』を感じるものがあった。
それは晴姫の唾液だ。
直接いちごを潰して作られた天然物の味の名残と、甘味料で作られたいちご風味が混ざった不思議な蜜を、亜希は必死に縋って飲み干していく。
やがてゆっくりと伝ってくる緩慢さに耐えられなくなった亜希の舌が晴姫の唇を押し割って入り込んでいく。舌と言わず歯と言わず、晴姫の腔内の味が無くなるまで続き、二人はようやく顔を離した。
ホームルームまであと五分しかない。
汗ばみ、紅潮した顔をお互い見つめ合ってから、日々深まっていく二人の秘密に、ようやく笑みをもって向かい合う。
「いこっか。今日の一限はなんだっけ?」
「数学の石川だよ。ちゃんと宿題やってきた?」
「あっ……。ちょ、ちょっとたんま!ここで写させてもらってもいい!?」
「私も遅刻になっちゃうからだーめ。ほら、行こ?」
少しだけ元気を取り戻した亜希を追って、二人で階段を駆け下りていく。
いつも通り、普段通りの巫女達の朝が過ぎていった。
*
宿題を忘れて叱られかけた晴姫だったが、彼女はいつもの言い訳を使って職員室を抜け出し、屋上に上がっていた。
彼女たちが通う高校は、屋上に屋根が付いている。学生たちの憩いの場として整えられている……わけではなく、巫女達が奉納をするために整えられた舞台があるからだ。
巫女装束が彼女たちの正装であるが、『制服』という存在もまた彼女たちの正装であることを神様も分かっているのだろう。昼休みの短い時間で制服と巫女服を往復することなど出来るわけもなく、彼女たちは制服姿のままで上靴を脱いで舞台に上がり、扇と鈴をそれぞれ構えて南に向けられた舞台の上に正座で待機していた。
昼休みが始まって十分後。正午を告げる音楽が町内のスピーカーから響いてくるのに合わせて、二人は同時に立ち上がった。
流れてくる音楽は囃子だ。
面白みも何もないがそれもそのはず、この放送は昼を伝える事以上に、奏上をする巫女達の為に流れているのだから。
朝と同じ踊りを舞いながら、晴姫は亜希の動きに合わせるようにして拍子を合わせていく。
彼女の鈴がりんりんと鳴るのに合わせ、指を振り、扇を回してくるりと回る。
(天岩戸から天照大御神を誘い出したアメノウズメ程ではないけれど、どうだろう、ちゃんと見てくれていますか?)
思わず笑みが溢れてくる。横で亜希も同じように笑っているのがさらに心地いい。
大丈夫、陽はちゃんと暖かい。校舎から漏れ聞こえてくる昼休みの笑い声で、亜希の奏上もちゃんと届いているのだと分かる。
最後に正面へと向き直り、呼吸を合わせて正座し、礼を捧げる。
今日もあと半日、よろしくお願いします。
神様の加護が常に有った時代は、この手のお祈りを真剣に思った人は少なかったらしい。
だけど、今は違う。ハッキリと神様の存在を感じ取れる。不便であるがゆえに感じる神様のありがたみに、ちょっとソクブツテキかなと思わないでもない晴姫だったが、神様もひとりぼっちじゃないのだ、ギブアンドテイクというやつで、まぁ問題ないかなと彼女は結論付ける。
顔を上げると、亜希は未だに頭を下げていた。彼女が一体何に向けて、何を考えているのか。興味がわいたけれど、同じ巫女だからって何でもかんでも踏み込んでいいわけじゃない。
晴姫は亜希が顔をあげるまで側で待ち続けた。その数分間があればおにぎりの一個か二個は食べられたけれど、何も言わず、何も思わず、ただ待った。
やがて祈りを終えた亜希はこちらを見てにっこりと笑った。
「ごはん食べなくて良かったの、ハルちゃん?」
「んー、まぁお互い様だし、二人一緒にお腹空かせてたら、後で一緒にサボれるかもじゃん」
それはちょっとズルじゃないかなぁ、と笑う彼女と一緒に立ち上がり、舞台を降りて上靴を履く。
「でも待っててくれたのは嬉しいんだけど、五限って体育だよ、ハルちゃん」
「そういえば今日はバレーボールじゃん!行くよ!」
昼の神楽奉納がある巫女は午後の授業が免除されるというルールがある。
眠気全開になる古文だったら適用を考えないでもない晴姫だったが、得意な体育でなおかつ得意競技のバレーとなると話は別だ。
巫女になる前、中学時代はバレー部に所属していたこともある。呑気に昼ごはんを食べている場合ではないだろう。
「えぇっ!?私はやだよ~」
「まぁまぁ、カッコイイところ見せたげるから行こ行こ!」
得意科目が正反対な亜希の手を引いて駆け出す。亜希だって、得意ではないけれど体を動かすのが嫌いなわけじゃないのだから、これはもうお互いのキャラと立ち位置だ。
いつも通りの流れ。
でも、今日は違った。
不意に放たれた亜希の一言が彼女の足を止める。
「ねぇ、ハルちゃん。今日の放課後は一緒にご飯、食べに行こうよ」
「……えっ?」
足を止めた一瞬で亜希は晴姫を追い抜いて体育館へと向かってしまう。
ちょっと、それじゃあ夕飯の奏上はどうするの? サボタージュ?
疑問は出てきたが、それならそれで付き合ってやるのも友達のツトメかな、と晴姫は思う。自分だって、今まで奏上をサボったことが一度もないわけではない。
味のある食事が食べられないという生活に比べればマシな生活の自分がそうなのだ。彼女の心が折れたなら、いっしょに支えて、まっすぐに立て直す手伝いくらいは、してあげたい。
不安は胸の中から消えなかったけれど、晴姫は亜希を追いかけて走り出した。
*
冬の日暮れは早い。太陽の高さもそうだが、熱気が失せるのもまた早く、まだ陽光は差しているというのに冷たさに肌が震えた。
夏場は家に帰って巫女服に着替えて奏上するので暑くて大変だが、冬は冬で制服のまま舞わなければならないので、どちらにしろ日没の神楽舞は年中辛い。
半袖で脇を空けた夏用ミニスカ巫女服とか、上から引っ被れるような冬用巫女服を学校においとくとか、なんとかならないかなぁ。
冬のせいか、彼女が他所事を考えていたせいか。
熱が急速に引いていくような感覚に背筋が固まる。
イケない。千回以上繰り返してきた舞はちょっとやそっと考え事をしていても間違うことはないが、神への集中が足りなければ奉納の価値は下がる。
(考え事は、全部終わってから。集中。集中しろ、集中……)
胸が苦しくなるくらい息を吐き続けて舞い、冷たく乾いた冬の空気を肺に取り込んで頭を切り替える。
なんで他所事なんて考えてしまったのか。理由は分かっている。この後の亜希との約束だ。
多くの人にとって、夕飯は一日で一番食事を楽しみにしている時間だ。
その時間の奉納を怠ればどうなるか。昼間はあっさり受け流してしまったが、真剣に考えれば考えるほど、事の重大さに息が詰まる。
とりあえず、今は彼女を信じて舞おう。
あと数分、舞っている間だけは、考えないようにして。
(今日も、ありがとうございました。またあしたね、神様)
他所事を考えていた分だけ長めに舞ったからだろうか。稜線の向こうに太陽は完全に沈んだけれど、肌の上にはまだお日さまの灯火が残っているような気がした。
ゆっくりと階段を降りて、舞台の真下にある図書室の前で立ち止まる。
……明かりがついてない。
どの季節でも晴姫の夜の奉納は必ず日暮れを迎える。亜希が学校で待ってくれる日は、図書室の明かりをつけて、本を読んでいるはずなのに。
こそこそする必要はないのだが、音を立てないように扉を開けると亜希はじっと窓の外を見つめていた。
その先には、街の明かりが輝いている。
あの中で生きる人たちの中には、一時間後の夕飯に向けて働いている人や、家に帰ってご飯を楽しみにしている子供もいるはずだ。
亜希は自分よりもしっかりしている。だから自分が気づいたことに、彼女が気づいていないはずがないと、晴姫は思う。
だけど、どうなんだろう、と自問は続く。
晴姫が奉納している太陽は、抽象的な……と言うとおかしいが、その恩恵を受けて暮らす人々からはちょっと離れた存在だ。生まれてからずっと耳にタコが出来るまで聞かされてきた巫女の重要さに疑問はないが、奉納が行われなかった影響を想像しても、曖昧にしか想像できない自分がいる。
だが、亜希の奉納は一人一人の生活に直結してイメージ出来てしまう。だから、
(そんなにたくさんの、巫女への不満が溢れたら、折れちゃうよ)
この二年間で、彼女の線は明らかに細くなった。中学時代は自分より背も高くて、胸もおっきくて、追いつきたいと思っていたのに、今の彼女はどんどん違う方向に進んでしまっているようにすら思えた。
「お待たせ、亜希」
「待ってなんかないよ。奉納お疲れさま」
彼女の笑顔に、気負いはない。
ねぇ、本当に良いの?
問うことも出来ずに、晴姫は視線を窓の外に逸らした。
「何を見てたの?」
「んー? ご飯、何にしようかなぁって」
「何がいいか、決まった?」
「うん。久々にハンバーガーでも食べに行こ!」
そういえば、奉納が始まってからは、ファーストフードは一緒に行ったことが無かった。
考えてみればそれもそうだ、こんな世の中になって以来、ファーストフード店は食事時以外は閉まっている店舗も多くなっている。肝心のその時間に亜希はお勤めなのだから、行く機会も、意味もなかったのだ。
「じゃあ席が無くなっちゃうから、急ごう?」
軽い足取りの彼女を追いかける足は重かったけれど、晴姫はかけだして手をつなぐと、並んで歩き出した。
全国チェーンのファーストフード店は、予想以上に混み合っていた。
巫女の顔は秘匿されているので亜希がお店にいてもとがめられる事はないが、注文をする時はちょっとドキドキした。
ハンバーガーとコーラとポテトを載せたトレイを持って、二人で二階の一番奥にある、周囲から見えない席に座った。
正面に座る亜希はどこか頬に赤みが差しているのに、気落ちしているようでもある。
晴姫はいまだに彼女の真意をとらえられていなかったが、時刻は既に18時58分だ。
夜の奉納の時間まで、あと2分。ここまで来たら、もうどうしようもない。
晴姫が背筋を伸ばしてゆっくりと息を吐きだすと、店内のBGMが止み、代わりに囃子が流れ始めた。
話し声であふれていたフロアは次第に静まっていく。
携帯を弄っている学生もいれば、目を閉じて少し頭を垂れている大人もいて、彼らの経緯は巫女と神様のどちらに向けられているんだろう、と晴姫は思った。
だが、確かめるすべはないけれど、どちらにせよこの後起こる『裏切り』に差はないだろうと結論付け、その時を待った。
囃子の一節が終わる。
放送の音は徐々に小さくなり、フロアのあちこちから「頂きます」の声があがった。
フロアだけじゃない。
街中の至る所で、国中の至るところで、皆が頂きますと声に出し、夕食に期待して箸を伸ばしている。
フロアにガヤつきが戻り、誰もが食事を口にするのを注視する。
あぁ、それが舌に乗って、何の味もしなくて、口々に怒りを叫んで――――――。
けれど予想に反してどこからも不満の声など上がらず、誰もが笑顔で食事をしながら、誰かと笑い合っていた。
「びっくりさせてごめんね、ハルちゃん」
正面に視線を戻せば、涙ぐんでいる亜希の顔があった。
「ねぇ、亜希、なんで――――」
「ちゃんと説明するから、まずは、奉納が終わる前に食べちゃおっか」
涙ぐんでそう言われてしまえば、先に説明しろとも言えない。何より、冷めて味のしないハンバーガーは晴姫もごめんだった。
頂きます、と二人で声を揃えて唱えてから包みを開けて口に運ぶ。
あれ?という違和感が一口目にあって、続いた二口目で違和感は確信に変わった。
味が、ちょっとだけ、薄い。
最近も他の友達と食べに来たことがあったけれど、その時より間違いなく味が薄いのだ。薄味ではない。味はしっかりとあるのに、希薄にしか味を感じ取れないような、そんな感覚。
だけどもちろん、正面で美味しそうに食べている亜希はそんな細かい所までは分かるはずもない。彼女にとっては、二年ぶりの味のある食事なのだから。
ゆっくりと、噛みしめるような食事を終えて、コーラを飲み干す。
甘ったるい砂糖だらけのコーラ味でも嬉しくなるのだろう。亜希の本当に、本当に心の底から嬉しそうな笑顔を久しぶりに、私の中にあった不安がさらさらと溶けていく。
そうして最後に不安とは別の、疑問という名の石ころが残った。
「さて、ちゃんと説明してもらうわよ?」
「分かったから落ち着いてよー」
亜希の話を一言でまとめれば、『代わりの巫女が現れたから、彼女は巫女から解放された』ということだった。
もともと、亜希の前に巫女をやっていたのは彼女からしてみれば本家にあたる家の少女だった。
少女は事故で無くなり、妹が居たものの神楽奉納を行えるのは12歳以上というしきたりによって、分家筋の亜希が急遽巫女に駆り出されたという経緯があった。
「じゃあ、本家の妹ちゃんが、12歳になったんだね」
「うん。昨日で12歳になって、今日が初めての奉納だったの」
ちょっと心配だったけど、上手に出来てたみたいだね、と。笑う亜希の瞳から涙がこぼれて、彼女が理由も説明せずに自分を食事に連れだした理由も、なんとなく検討がついた。
もしかしたら、本家の奉納が失敗するかもしれない。もしそれが続くようなら、しばらくは亜希による奉納が続くだろう。辛い仕事から解放される喜びは、反転すれば深い悲しみになる。
だから、私に変な期待を持たせたくなかったんだろう。
そしてもう一つ。食事を終えたのに何か言葉を抑えている亜希を見て、晴姫には分かったことがあった。
わかったけれど、自分からは絶対に口に出せない、決断。
彼女が吐き出したくて、だけど苦しくて言い出せない言葉。晴姫からそれを口に出せば、優しい亜希はその言葉を受け止めてしまうだろう。
飲み干してしまったストローで、氷をくるくると回す。
静寂を作らないことだけが、晴姫に出来る唯一の手助けだった。
どんな答えにしても、彼女から言い出せるようにと。
そして、おんなじようにくるくるがらがらと音を立てていた彼女の手が止まる。
涙を拭いた亜希が笑顔のまま言った。
「でも、12歳の女の子に頑張ってもらうには、ちょっと大変だよね」
優しい彼女の決断は、本当にらしくて、予想通りで。
「だから私、まだ巫女を続けるね」
その言葉を裏打ちしているのは、強がりではなくて慈愛だ。
全くもって敵わない。彼女の強さははっきりと伝わったから、晴姫は右手を差し出して笑った。
「まだまだ一緒だね」
自分から辛い方を選ぶなんて、まったくバカなんだから、と。口をついて出そうになるストレートな言葉を抑えこむのに必死だったからだろうか。
油断していた手をグッと力強く引かれて前のめりになると、いつの間にか唇を亜希のそれで塞がれていた。
隣の席のお兄さんにガン見されて、頬が熱、って、っちょ、舌ぁ!?
完全に固まったまま、諦めて瞼を閉じる。
口の中から、徐々に味覚が薄れていく。あぁ、奉納が終わっていく。同時に、亜希の幸福な時間も、あと少しで、流されていってしまう。
亜希。
心の中で彼女の名前を呼ぶと、彼女に呼ばれたような。
この味を、私は忘れないからね。
ありがとう。また明日も。
うん。一緒に、がんばろ。
声なき声が伝わった、気がした。