「発生」(9)
「痛っでぇぇッッ!?」
なにが起こった?
足が裂けた痛みと驚きで、ホシカは転倒している。走っていた勢いそのままに地面を転がり、樹に激突してようやく停止。驚いた鳥たちが、迷惑げに飛び立った。あざ笑うかのごとくホシカの上に舞い散るのは、衝撃で落ちてきた木の葉だ。
「……ごほっ、ごほっ」
あえぎながら、ホシカはゆっくり上体を起こした。
痛みに顔をゆがめて、片足を見る。
切り傷だ。裂けた衣服の下の肌に、赤い傷の線が走っている。血は思ったほど出ていない。木の枝にひっかけた? もしや、なにかのトラップ? それにしても鋭い切り口……
用心深く、ホシカはあたりを見渡した。
周囲には依然、静かな森の景色が広がっているだけだ。
「行かなきゃ……」
そう自分に言い聞かせ、ホシカは勇気を奮った。樹の幹を背にして立ち上がる。
音もなく血を吹いた肩を、ホシカは唖然と見つめた。
「また……!?」
そう。ふたたびホシカの体は切り裂かれた。
こんどは肩だけに留まらない。伸ばしたその手までもが切り裂かれ、血しぶきをあげる。
だが、なにが? いったいどうやって?
身をかわそうにも、なにも見えない。なにもない。なのに、ああ。ホシカの体はひとりでに傷つき、血を吹くではないか。さっきと逆の腕、腰、ふともも……まるで森に吹く風そのものが、無数の透明な獣と化したようだ。
とめどない痛みと混乱に、ホシカは意識が遠のくのを感じた。くるぶしを襲った一撃に耐えきれず、前のめりに倒れる。
なにもない空中にむけて叫んだのは、ラフトンティスだった。
「〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟雨堂谷 寧〈めどうや ねい〉! もう充分です! 攻撃の中止を!」
おまけとばかりにホシカの背中を裂いて、不可視の切断はとまった。
かわりに森が発したのは、笑いだ。愉快な笑い声。
「あは♪ あはははは♪ 釣り合ってない! ぜ~んぜん釣り合ってない! あなたの〝充分〟と私の〝不充分〟!」
大量の砂糖を煮詰めたように粘っこく、かつ焦げる寸前の邪悪さをもはらんだその響き……倒れたまま、朦朧とゆがむ視界で敵を探すホシカだが、やはり誰もいない。
いや。
正面の樹の幹が、ぐにゃりと曲がった。正確には樹の前の〝空間〟が。
歪んだ空間を水面のようにくぐり抜け、その人影はホシカの前に悠然と歩を進めた。
無から幻のごとく現れた人物……ネイと呼ばれた〝彼女〟の真っ黒なサングラスを目の当たりにし、動揺したのはホシカだ。
「て、てめえは……あたしが、さらわれたときの!?」
「うれしいわ、覚えててくれたのね♪ いやはや、組織が〝目立つな〟って言って渡してきたサングラスだけど……逆にアピール力抜群じゃないのこれ! おもしろい!」
血まみれのホシカを見下ろしながら、ネイはひとり笑った。
漆黒のスーツにサングラスというその格好は、ホシカの記憶にも新しい。そう。母の許可をもらって外へ出たとたん、ホシカは怪しいワゴン車に拉致された。それがすべての始まりだ。
ホシカはうなった。
「てめえ、あのとき車の中で、あたしの隣にいた奴だな? 目的はなんだ……あたしになにをした?」
「なにを、って? ん~~?」
ネイは軽く指を鳴らしただけだった。同時にホシカの首筋は裂け、勢いよく血を吹いたではないか。ネイの手首で、冷たく輝く銀の腕時計。傷を押さえて苦悶するホシカヘ、ネイはうっとりと告げた。
「なにをって言うと、だいたい全部かな。こーゆー風に〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟の空間切断で、研究材料〈モルモット〉に綺麗な歌を歌わせてるのは私。山の下りと登りの空間を〝斬ってつなげて〟モルモットを閉じ込めたのも私。
最初の車に空間をつなげて、モルモットを研究所に招待したのも私。そして、モルモットに〝魔法少女〟の素質があるかどうか、ずっと長いこと調べてたのも、わ・た・し♪」
「……!」
恐怖するだけだったホシカの表情に、はじめて怒りの色が混じった。
あたしがこんな目に遭ってるのは、ぜんぶこいつのせい……許さない。
口を挟んだのはラフトンティスだ。
「ネイ、いい加減にしなさい。貴重な成功例を傷つけすぎだし、重要機密……あなた自身の情報も喋りすぎです。知られてなんの利益もない自分の呪力の秘密を、むしろ事細かに説明するなどと」
「そーそーそーなのよ! 事細かに知りたいのは私のほう! さっきはびっくりしちゃったわ、伊捨星歌さん! なになに、あの大ジャンプ!?」
ホシカのかたわらにしゃがみ込むと、ネイはさも興味深げに続けた。
「説明しよう! 私の呪力〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟の届く距離は、たぶん無限大なの! ずっと前の訓練中、ためしに空に向けて撃ってみたら、どうなったと思う?
どこか宇宙の果てから、小惑星のかけらみたいなのを引き寄せちゃって、もう大変! そこに呪力をほぼフルパワーで使っちゃったのと、組織からの大目玉で、その日は超~疲れちゃったのなんのって。あはは♪」
「あはは♪ ではありません。今回の情報漏洩の事実は、すべて組織に報告しますからそのつもりで!」
とはいえ、ラフは内心納得してもいた。
この〝能力のスケールの大きさ〟そして〝無敵さ〟こそが、雨堂谷寧を組織の最強たらしめているのだ。機密を多少漏らしたていどで、組織に進退を決められるほど彼女は軽い存在ではないし、色々な意味で対策のしようもない。
「そんな私の〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟を! あっさり飛び越えてくれたわね、ホシカちゃん! ものすごいスピードと飛距離だった。
なのに、今のあなたの呪力ときたら、そこいらの一般人と同じかそれ以下。一瞬だけ感じたあの爆発的な呪力は、いったいどこに消えちゃったのかなぁ~ん?」
「な、なにしてやがる……!?」
切り刻まれて身動きできぬまま、ホシカは怒りをあらわにした。ネイがなんの遠慮もなく、ホシカの体じゅうをまさぐってくるのだ。下着の紐に指をかけたあたりで、ネイは答えた。
「いやあ、どこにロケットエンジンがついてるのかなあ、って。まあなんにしても、組織は大喜びの大歓迎よ。こんなに呪力の切り換えのオン・オフが激しい魔法少女なんて、例外中の例外じゃないかしら。
たとえれば、変身モノのヒーローが、一秒ごとに人間の姿と戦闘モードを行ったり来たりしてる感じ? まあいいや。とりあえず帰りましょ」
おもいきりホシカの顔はこわばった。
「帰る、だって? あの薄暗い研究所にか? ふざけんな。絶対お断りだ」
「そーよねえ。立ち上がれるわけないわよねえ、その傷で。歩くのに必要な腱は、さっき狙ってぜ~んぶ切ってあるわけだし。無理しちゃ体に毒だわ♪」
ネイの嘲笑に、ホシカはますます歯ぎしりを強めた。かろうじて動く指先だけが、殺意をもって地面の土をえぐる。
「このサイコ野郎、よくも……」
「もしかして〝狂ってる〟って言っちゃう? 同じ組織で、同じように〝星々のもの〈ヨーマント〉〟に憑依されて、同じように絶望して憎悪して〝魔法少女〟が覚醒した自分の同類に?」
「なに言ってやがる。勝手にいっしょにするんじゃねえ」
「ちょっとだけ目眩がするけど、我慢して。ごぞんじ〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟で私が研究所の中まで運んであげるわ」
「!」
「まあまあそう固くならずに。なにが不安なの? 悪の組織に洗脳されて、私みたいなハンターになること? それとも、珍しいからって体じゅう弄くられ、解体されて標本になること?
後者だった場合は、お悔やみを申し上げるしかないわね。そうなったら、遺伝子学的な追求の意味で、あなたを産んだ実のご両親もただじゃ済まないでしょうし」
ぷちん。
ホシカの中で、なにかが切れた。
素早くネイは後退している。同時に、爆裂するようにこそぎ取られる樹の幹。反射的にかわしていなければ、ホシカの強烈な裏拳はネイの横っ面をとらえていたはずだ。
小さく口笛を吹いたネイの前で、おお。ホシカはゆっくり立ち上がっていた。
なんと、ネイに切り刻まれた全身の傷さえもが……奇妙な〝炎〟をあげて塞がりつつあるではないか。映像を逆再生するかのごとく急速に傷が回復していくさまは、奇跡としか表現できない。
さらには、ホシカの片目。そこにはふたたび、呪力の五芒星が現れている。
だが、その星のかたちは……
ホシカから吹く熱い風に揺られながら、ネイはつぶやいた。
「願ったわね、〝私への反撃〟を。また一角、使っちゃったか。私のつけた傷をぜんぶ治すわけだから、まあ当然だわ。そして一角は、さっきの大ジャンプで使用済み。
呪力の星は残り三角……意外と豪快に使うじゃない。ラフトンティス、彼女に〝瞳の星〟の役割はもう説明した?」
「いえ、機密です。そうやすやすとは漏らしません……ホシカ!」
いくぶんか硬い声で、ラフは警告した。
「無用な抵抗はおやめなさい! 大人しくしていれば、命を奪うことまではしません!」
「うそだ……あたしはもう、だまされないぞ」
全身から煙をあげるホシカの姿は、自己再生中とはいえまさしく幽鬼。鋭い眼差しのまま、ホシカはささやいた。
「両親をどうするって? ……指一本でも触れてみろ。てめえをボール代わりにして、ビルの屋上でホームラン競争してやる」
「家族思いのあったかい言葉ね♪ ひしひしと感じるわ。失うことへの恐怖と、敵への憎しみを。どーしてもホシカちゃんのご両親に会ってみたくなったんだけど、ダメ?」
外したサングラスをくるくる回転させて、ネイは懐にしまった。
おお、その片目を見よ。奇妙な五芒星の図形は、彼女の瞳にも刻まれている。だが、こちらはホシカの二角欠けた星とは違い、きれいに五角そろった状態だ。もともとの形・色とも、ホシカのそれとは若干レイアウトが異なる。
ネイの瞳の星をにらみつけ、ホシカは吐き捨てた。
「おかしなカラコンいれやがって。ピエロかてめえは?」
「あ~ら、ピエロがふたりとは、ここがサーカス会場ね。ホシカちゃん、あなたの片目にも入ってるのよ? 〝星〟は眼球そのものに呪力で縫いこまれている」
「え!?」
我知らず、ホシカは片目をおさえた。その慣れない仕草に、嘲笑したのはネイだ。
「その〝星〟は魔法少女の呪力の残量を示す、いわばタイマーみたいなもの。どれくらい減ってどれくらい残ってるか、じきに感覚でわかるようになるわ。
そしてそのタイマーがすべて尽きることを、異世界の業界用語では〝時間切れ〈トラペゾヘドロン〉〟と呼ぶ。もしそうなったら、いったいあなたにどんな運命がおとずれるか?」
きゅうっと笑いながら、ネイは告げた。
「喰われるわよ、〝やつら〟に」
「……へッ!」
おもわず顔色を悪くしたホシカだが、それも一瞬のことだった。
「やっぱりイカれてるな、おまえ! トラ、ヘソ、ヘドロ? なにがなんだかさっぱりだぜ! いいからちょっとこっち来いや! 目ン玉くりぬいてやっからさ!」
「話が早くて助かるわあ♪ そうこなくっちゃ♪」
すこし疲れた雰囲気で、ネイはため息をついた。
「ラフトンティスの忠告どおり、抵抗せずに私に捕まる。これオススメ♪」
「ぶっ飛ばされたくなきゃ、そこでじっとしてな。サンドバッグは勝手には動かねえ」
「そ、狂犬のホシカちゃんは、そんな感じで必死に牙をむくでしょう。もしかしたら反射的に呪力を使っちゃうかもしれない。残り三角、時間切れ〈トラペゾヘドロン〉なんてすぐよ、すぐ。
それはとっても困る。かといって、ホシカちゃんを、生かしてここから帰すような指示も受けていないし? も~どうすれば、って話ね……」
腕組みして悩んだあと、ネイは思いついたように指を鳴らした。瞬時にホシカの頬は裂け、血を吹いている。
不可視の空間切断。ネイは高笑いした。
「地べたを引きずって連れてけって話ね! 血と意識を失って動けなくなるまで! あなたをズタズタのボロ雑巾にして! 簡単!」
多くの鳥の羽ばたきが、戦いの合図だった。
「ホシカ! 抑えてください!」
「ツブす!」
ラフの制止を無視し、ホシカは地を蹴った。蹴った地面が爆発する勢いで弾けたときには、ホシカの姿はネイのすぐ眼下にある。
土をえぐって超低空から放たれたアッパーに、ネイははじめて笑みを消した。
「速い!」
紙一重でのけぞったネイの髪が数本、風に舞った。身をかがめたネイの頭上を、こんどはホシカの左フックがかすめる。拳の軌跡にそって砕け散る樹。その破片が地面に落ちるより早く、ネイは冷静に分析した。
「あは♪ あはは♪ スピード・パワーともに合格! でも弱点ひとつめ!」
「あ、当たらねえ……!」
そう、ことごとくかわされる。ケンカ慣れしたホシカだが、その拳は、蹴りは、ネイを捉えるどころか触れさえしない。舞い踊っているかと錯覚するほど、ネイの身のこなしは最小限かつ無駄がなかった。
「ひとつめ! 動きが単純すぎる! それが通じるのは地元のチンピラまで!」
「なら!」
出した拳と脚を時間差で引っ込め、ネイが止まったところに、ホシカはいきなり頭突きを放った。とっさに思いついたフェイントだ。
命中……だが、ホシカが石頭を振り下ろした場所に、ネイの姿はない。一瞬だけ見えたのは、わずかに空間がゆがんだ跡だけだ。
生々しい響きとともに、鮮血が地面を染めた。背中を斬られてのけぞったホシカの後ろには、右手を横一閃したネイの姿がある。こんどの傷は深い。
いったいいつの間に? まるで瞬間移動……いや、これこそが〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟の空間転移の力だった。
「弱点、ふたつめ……」
ネイは続けた。
「とんでもなく強い呪力の発動をホシカちゃんから感じたけど、すぐに消えた。ほんとにぜんぜん維持できないのね、呪力を。魔法少女は目だけでは追いきれない。もっと呪力を張り巡らせて、センサーの感度を上げなきゃ。
でないと攻撃が当たらないばかりか、こんなふうに〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟の牽制ひとつ防ぐこともままならないわ」
牽制!? このダメージが、ただの牽制!?
ホシカが疑問を口にする暇もない。ネイの指が振られたかと思いきや、ホシカの腹は勢いよく切り裂かれている。後方に吹き飛んだホシカを追い、ピーク時の指揮者のタクトのごとく、ネイの手はさらに複雑な軌道を虚空に刻んだ。
「ぅあッ……!」
手足から一斉に血を吹きつつ、ホシカは背後の樹に叩きつけられた。
幹に血の跡をひいて崩れるホシカの前で、ネイはとどめの手刀を振り上げている。
「まさしく金の卵ね、ホシカちゃんの才能♪ 魔法少女への変身……〝第三関門〈ステージ3〉〟に達してさえいないのに、私にここまで呪力を使わせるなんて。本日のレッスン、終了!」
達成感ありげにネイは言い放った。これだけの攻防を演じて息も絶え絶えのホシカと対照的に、汗ひとつ浮かべていない。
そして、森の闇に輝くネイの片目……呪力の残量計といわれる瞳の五芒星は、その一角の頂点がやや薄れている程度で、ほとんど減っていないではないか。
雨堂谷寧……強すぎる。
「帰る時間よ、モルモットちゃん。終わりのない透明の迷路に、ね♪」
暗い笑みとともに、ネイの手は振り下ろされた。