「発生」(8)
ホシカのうしろで、そっけなく出口は閉じた。
閉じた隔壁の周囲を、レールにそって覆う岩、岩、岩。
あっという間に、研究所の出入口は自然の風景にカモフラージュされている。そこにあるのは、ただの苔むした岩壁だ。
それだけではない。果てしなく広大なはずの研究所が、影も形もないではないか。信じがたいことだが、組織の研究所は、山ひとつ丸ごとくりぬいた内部に存在するらしい。
そう、山。山だ。それも、深い深い森の中。
木々の隙間からこぼれる薄明るい太陽を、ホシカはぽかんと見つめた。
「なあ、ラフ。ここ、どこだ?」
「日本国内、とだけお答えしておきましょう。私、外の地理には滅法うとくて」
「けっ。つかえねーやつ」
手で額にひさしを作りながら、ホシカは空を見上げた。
凝らされたその瞳がとらえたのは、どこかで見覚えのある物体だ。
地球に接近を続ける彗星〝ハーバート〟の輝き……
「雰囲気からすると夕方か朝早くってとこか……そうだッ!?」
急に切羽詰まった顔になって、ホシカはラフを見た。
「早く帰らなきゃマズいんだよ、家に! おい! いま何時だ!?」
「時間ですね?」
冷静につぶやいて、ラフは片方の翼を目の前にかざした。腕時計を確かめるサラリーマンの動きだ。だが、さも残念そうに首を振る。
「申し訳ありません。あまりに急いでいたもので、腕時計を忘れてきました。一社会人として恥ずべきことです。いや本当に」
「そんな落ち込むなよ。あたしだって腕時計は大嫌いだ。あの独特の重さもだし、ベルトと手首の間がなんかむず痒くて……」
一閃したアッパーカットはラフにかわされ、ホシカは地団駄ふんだ。
「さっきからとぼけやがって! シュミュレーションとかセキュリティとかさんざ抜かしといて、時間ひとつわかんねー訳がねーだろ!? いまさら迷子の子猫気取りか!?」
「ばれていましたか」
次々と捕まえにくる手を涼しい顔で回避して、ラフはホシカの頭に降り立った。
「歩きづめでお疲れでしょう? ここなら安全。いったん休憩を入れます」
「へえ。あたしの身の心配とは、どういう風の吹き回し?」
「ご安心下さい。風が吹こうと雨が降ろうと、私はあなたの安全装置です。しばらくお待ち下さい。研究所内の生存者や、他の支部とのコンタクトを試します。
呼出……不通、不通、不通……やはり研究所のアンテナは麻痺しているようです。これは復旧まで時間がかかるかも」
「お、迎えを呼んでくれてるのか。気がきくじゃん」
岩壁を離れ、ホシカは一目散に駆け出した。
「冗談じゃねえ!」
捨て台詞を吐きながら、とにかく下へ。下り続ければ、いずれは道路の一本にでもぶつかるだろう。
ホシカの頭頂部、急発進にのけぞりながら警告したのはラフだ。
「お待ちを! ホシカ! 緊急時のマニュアルでは、美樽〈びたる〉山にはすでに担当のハンターが配備されています! 命の保証はできません!」
「いいこと聞いた! 美樽山! 赤務まで電車ですぐじゃねえか! また捕まってたまるかってんだ! 見てろよ、すぐに警察に通報してやるからな!」
突然の衝撃とともに、ホシカはうしろに跳ね飛ばされた。
空を見上げて一秒、二秒……
「……痛ってえ」
赤くなった額をさすりながら、ホシカは星のちらつく頭を振った。
見れば、ホシカの正面には大きな岩壁がそびえ立っている。
こんなもの、走り始めたときには前になかったはずだ。
というよりこれは……
「さっき出てきた岩、だよな?」
周囲を見回すホシカだが、あたりに似たような岩はなかった。まちがいない。これは研究所の出入口を隠す偽物の岩壁だ。気が動転して、進む方向を誤ったか?
深呼吸して心を落ち着けると、ホシカは下山の方向へUターンした。いきおいよくスタートダッシュを切り……
「うおっと!?」
こんどは前に手を突き出して、岩との衝突はなんとか避けた。
また、ホシカの目の前に岩が現れたのだ。それも、一瞬にして。
ちら、とホシカは横を見た。あいかわらず勝手に人の肩にとまるラフへ、たずねる。
「あんたの仕業だな?」
「いいえ。ホシカこそ、その場に留まったままとは、ようやく私の意見を聞いてくれましたね?」
「……忘れてたよ、あんたがあたしの敵だってこと」
次にホシカは、ゆっくり歩いて下山することを試した。
おお。一瞬気分が悪くなり、周囲の景色が歪んだかと思いきや、ふたたび、ホシカの眼前にはあの岩が現れている。
「!? !? !?」
なにが起こっているかはわからない。わからないが、ホシカにわかるのは、岩が先回りしているのではなく、自分が岩のほうへ戻っているということだ。現にホシカは、山を下っているはずが、いつの間にか山頂の方角を見ている。
そのまま三回同じことを繰り返して、ホシカはようやく止まった。右に進んでも左に進んでも結果に変わりはない。
ホシカは、なんらかの力で同じ場所を堂々巡りさせられているのだ。
絶え間ない鳥のさえずりと、川の流れる音だけがホシカの耳にこだまする。
呪われた岩に両手をつきながら、ホシカは枯れた声をもらした。
「わかった、あたしの負けだ……いいかげん種明かししてくれ、ラフ」
「言ったでしょう。ハンターはすでに配置についている、と。〝彼女〟ですよ」
「だれだ、それ?」
「ああもちろん、暴走した彼女とは別の〝魔法少女〟です。ホシカがいま体感しているものこそが〝呪力〟による攻撃。それも、正確きわまりない空間転移能力です」
「あ?」
「わかりました。話の噛み砕き方が足りませんでした。仕組みはこうです。ホシカが逃げようとする道の空間を切って、その先をここ、岩の前につなげてあるのです。
海で使う浮き輪の内部や、ハムスターの滑車、なんでも構いません。円を想像してみて下さい。円の中では、どう進んでもいずれは同じ場所に戻るでしょう?」
教師そのものの丁寧さで、ラフは続けた。
「場所と場所、空間と空間を〝斬って〟〝つなげる〟魔法少女……カテゴリーFD25〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟は、いままさにホシカをロックオンしています。
どうかこのまま大人しくしていて下さい。組織でも最強に位置づけられる彼女を相手に、逃げられる見込みはありません」
「くっそ……あたしにゃ時間がないんだ。なにか手はないのか、手は」
手。
気づいたときには、ホシカの片手は血を吹いていた。
ホシカの手のすぐ横、岩壁から鋭いなにかが生えたのだ。〝それ〟は隔壁と岩を〝内側〟から貫き、ホシカの手をかすめた。
それはどこまでも硬く、どこまでも冷たい凍った水。
そう、氷だ。
「……ッ!?」
血のしたたる手をおさえ、ホシカは後ずさった。
コウモリの翼を広げて、驚きを表現したのはラフだ。
「想定外です。暴走した〝彼女〟がこの脱出口に気づくとは。いや、もとから尾行されていた? いずれにせよ、なんと強い呪力。頑丈な隔壁を、いともあっさり破壊してくれます……!」
その間にも、新たな氷柱……いや、氷と呼ぶにはあまりにも鋭い〝槍〟は、次から次へと岩を突き破って現れている。たえまなく隔壁を叩く轟音と衝撃は、内部に封じられたものの凶暴性をそのまま物語っているようだった。
「やばい……やばい……」
血の気を失った顔で、ホシカはあえいだ。
ここへ来るまでにさんざん目にした警備員たちの死に方が、頭をよぎる。どれも体を串刺しにされたり、首を切り落とされたり。その惨たらしさは一種鮮やかとも言え、ホシカにとっては逆に現実味に乏しかった。
それがもうすぐ、ホシカ自身を襲う。扉は、あと十数秒もすれば破られるはずだ。
かといって、どこにも逃げ道はない。どうあがこうが、必ずこの場に引き戻される。
このままでは死ぬ、殺される、逃げられない……
恐怖が、焦りが、パニックがホシカをしめつけ、頂点に達したそのとき。
ホシカを異変が襲った。
「うッ!?」
突如悲鳴をあげて、ホシカはその場にうずくまった。
ホシカは手で片目をおさえている。その瞳の奥に、とんでもない激痛が走ったのだ。
見えない頭の内側に、ものすごい電流でも流されたような感覚。研究所で目覚めたときからずっと抱いていた違和感は、たったいまホシカの片目で爆発した。
小刻みに震えるホシカの肩で、ラフも驚嘆している。
「なんと……今現在、私がほどこしている安全装置の第一関門〈ステージ1〉まで、ホシカの呪力が上昇したのを確認しました。
だがやはり、あるピークを境にホシカの呪力は急降下し、いまは計測できない値まで下がってしまっています。この大量の呪力が、瞬時にしていったいどこへ? その意味は?」
ラフの思案は放っておいて、ホシカは必死に片目の痛みに耐えた。
「痛た、痛たたた……ったく、なんだってんだよ、もう」
やがてホシカの手は、片目から離れた。
あらわになった片方の瞳には、ああ。瞳孔を中心にして、ひとつの奇妙な〝模様〟が浮かび上がっているではないか。
模様は、五角形のまわりに、三角形をこれも五つ組み合わせたパターン……
あざやかな〝五芒星〟だった。
そんなものが、ひとりでにホシカの片目に描かれたのだ。
背後の岩の破壊は続き、すでに氷でできた剣山の様相を呈している。うってかわってホシカは、鋭い眼差しで森を射た。
「〝あっち〟と〝こっち〟が繋がってるだって? なら……」
つぶやくなり、ホシカは地面を蹴っていた。
そのまま、また同じように元の場所に戻される……いや。
こんどは見える。なぜか見える。ホシカの進路上に現れた蜃気楼のごとき〝空間のゆがみ〟が。それを見破ったのが、ラフの言う〝魔法少女〟の力の現れであることを、ホシカはまだ知らない。
疾走しながら、ホシカは叫んだ。
「なら! 飛び越えるだけだ!」
跳躍……衣服の裾がかすかに異空間に触れるのを感じた直後、ホシカは転がりながら山の斜面に着地していた。
はでに舞い上がる草花の切れ端。
ホシカは振り返った。研究所を隠す岩はすでにずっと後ろに遠ざかり、あたりの景色もすこし違う。珍しく戦慄した声を漏らすのは、肩のラフだ。
「抜けた……無限の射程をもつと言われる〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟を。伊捨星歌、あなたはいったい何者なんです?」
「自分で調べな。悪の組織なんだろ?」
高々十メートル以上は跳んだ超人的な脚力について、ホシカはなんら疑問を抱いていないようだった。鳥が空飛ぶ自分を疑わないように、彼女にとってももうすでに、呪力の行使は当然のことらしい。
ラフの知る〝星々のもの〈ヨーマント〉〟はいつもそうやって、憑依した宿主の正常性を無意識下からじっくり麻痺させていく。それが、やつらのやりかたなのだ。
それこそが〝魔法少女〟……
「その突破力、私のデータベースにあるどの魔法少女にも該当しません。なのに相変わらず、呪力を形にした気配はなし。いや、消費そのものはあったようですが……」
ラフの観察は、ホシカの片目に向けられた。
なんだろう。瞳の中、五芒星の一角がなくなっていた。
ラフはよく知っている。呪力を使った対価がこれであることを。もちろんまだ、ホシカの呪力がどのように彼女自身に作用しているかは不明だ。
とうとう崩れ始めた隔壁を背後に、ホシカは走りだした。
「さ、次は、どうやって払うか考えなきゃな……交通費」
ホシカの足から血がしぶくのは、唐突だった。