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「増殖」(4)

 静かな夜……


 市内の高級マンションの廊下をひとり歩くのは、アイラだった。


 片手には、近所のスーパーの買い物袋が揺れている。人物そのものとミスマッチだ。


 ちなみにここは、アイラの本当の家ではない。


 彼女が実家に帰らなくなってから、もうかなりの期間が経つ。家出? 違う。苛野家の家庭環境は傍目にも良いものとはいえず、アイラにはそもそも帰る場所も家族もないに等しい。そんな救いのない状況がアイラの態度を冷たくし、また不良仲間の反社会性と共鳴したとも言える。


 現にこのマンションも、不良仲間の兄弟の住居だ。ほぼ同棲といえるレベルで、アイラはここ、会社員の恋人の家に居着いている。


 片手の買い物袋が示すとおり、アイラは意外にも家事全般に明るい。いや、幼いころからずっと独りぼっちなら、いやでも覚える。あとはこの若さと体さえ男に差し出していれば、生きていくのに不自由することは当面ないはずだ。


 鍵をあけて部屋に入り、アイラのうしろで扉は閉まった。


「…………」


 外敵の足音を聞いた獣のごとく、アイラは動きを止めていた。五感と呪力のセンサーを全開にするまで半秒とかからない。


 玄関に同棲相手の靴はあり、帰ってきている。ここまでは普段となにも変わらない。台所からは、包丁とまな板がぶつかるテンポのよい音が聞こえる。


 買い物袋と通学カバンが、アイラの手からまとめて投げ捨てられた。刹那、アイラの両手には、白い凍結とともに二振りの小太刀が現れている。


 この部屋の主である男は、料理などできない。


「おかえりなさい♪」


「!」


 かんだかい破砕音が響いた。


 アイラの投擲した小太刀が、同時に飛来した文化包丁と激突して砕け散ったのだ。小太刀は細氷と化して消え、実体をもつ包丁だけが回転しながら床に突き刺さる。


 包丁を放った相手は、けらけらと笑った。


「アイラちゃんらしい〝ただいま〟ね。あなたの家じゃないけど、とりあえず靴でも脱いで楽にしたら?」


 ああ、なんということだろう。アイラのエプロンをつけたまま、戸棚から新たな包丁を取り出すのは……〝角度の猟犬〈ハウンド・オブ・ティンダロス〉〟雨堂谷寧ではないか。


 まな板の薬味ネギをふたたび切り刻みながら、ネイはたずねた。


「どうしたの、そんなに警戒しちゃって? 帰ってきて、他のだれかが晩ご飯を作ってくれてるって経験ははじめて? 残念ながら今のあなたの彼氏も、そんな気の利く性格じゃなかったみたいね。まずはお味噌汁。こう見えても和食には自信あるのよ、私。ダシはカツオから。まだ毒もいれてないわ」


 玄関で身構えたまま、アイラは問うた。


「どうやって私の罠を突破した?」


「罠? ああ、一階から数えきれないほど仕掛けられてた、あの雪祭りのことね。けっこう大変だったわよ」


 真っ黒な上着の端を、ネイは平然と示した。一部分が裂けてしまっている。


 それだけだ。アイラがマンションにあらかじめ施した氷の自動攻撃装置の数々は、フル稼働すれば二百人以上は死傷者が出る。にもかかわらず、ネイ自身には傷ひとつない。


 包丁をトントンしながら、ネイは続けた。


「こりゃ修繕は無理そうね。買い直し。ところで、アイラちゃんが支部を吹っ飛ばしてくれたおかげで、組織のクレジットカードも止まっちゃってるんだけど? 大事にしてたスーツなのに、ああ悲しい。恨めしい。憎らしい。その負の感情を、こうしてこのネギにぶつけてるわけよ。えいえいえい♪」


 後ろ手に、アイラは出口のドアノブに触れた。


 おや。ない。転がってきた金属片が、アイラの靴に触れたのが答えだった。鏡のように鮮やかな断面をみせ、ドアノブは根元から切り落とされている。


「アイラちゃんの氷の罠、なかなかの精度と威力だったわ。芸術的なうえに、呪力の練り方も文字通り氷細工みたいに繊細。でもでも。子供だましね。もっとたちの悪い呪力のブービートラップを、私は何度となく潜り抜けてきてる。罠を仕掛けるのが〝風を歩むもの〈イタクァ〉〟の専売特許だと思ったら大間違いよ♪」


 きれいに刻んだネギを横の鍋に流し込みつつ、ネイはつぶやいた。


「いまさらジタバタしたって始まらないわ、アイラちゃん。苦労して作り上げた〝氷の城〟の秘密が破られて追いつめられるなんて、とっくに覚悟してたことでしょ? 組織に目をつけられた時点で、その物体から秘密やプライバシーなんて概念はかけらも残さず吹き飛ぶ。組織の情報網は、この惑星ぜんぶと、近くの惑星ちょっと。おわかり? わかったら、冷蔵庫のお豆腐を取ってちょうだい?」


 アイラはその場から動かなかった。


 ただ静かに、片手の小太刀をふたたび生成しただけだ。玄関からいちばん近い窓までの距離は、約十五メートルほど。音をたてて、アイラの両手が小太刀を握り直す。無表情なうえに構えも無形だが、たちのぼる冷たい殺気までは隠せない。


 コンロの魚焼き器の様子を見るかたわら、ネイは語った。


「苛野藍薇。両親は小学校入学を待たずに離婚し、いまの戸籍は母方。しかしその母親も医療事務の最前線にいて仕事一辺倒。勤務先は赤務市立・上糸総合病院。夜勤で朝帰りがほとんどなことから、娘の家出にはいまだ気づいていない。娘への関心はゼロだが、養育費だけは毎月欠かさず娘の口座に入金している。次に父親。父親は早いうちに別の女性と再婚し、最初の離婚後、愛娘アイラの顔や声を確かめにきたことは一度もなし……ちょっと寂しい家庭事情ね。グレて、こんなブタ男の家に転がり込む心境もお察しするわ」


 無言のアイラへ、ネイは不思議げに首をかしげてみせた。


「あら、ちっとも心配してあげないのね、彼氏のこと。いくらお金と体だけのつながりって言っても、こう、もうすこしなにかない? そうそう、ちょっと聞いてよ。私がここにお邪魔したとき、人が寝室で動いてたの。ふたり。ひとりは男、ひとりは女。てっきりアイラちゃんと彼氏が、いろいろ営んでるとばかり思ってたけど」


 こらえきれぬ含み笑いに、ネイは肩を震わせた。


「なんと! 女のほうはアイラちゃんじゃなかったの! ぜ~んぜん、ちがう女! あっはは! すこし悩んだあとふたりともバラバラにして、ご希望どおりひとつの肉塊にしてあげたわ! 静かになった!」


 アイラの視界の端、寝室の扉の隙間から滲みだした汁は赤かった。


「あなたの彼氏、最後の最後までかん高い声で泣いてたわよ!? 手足をちょん切られながらも、ずっと命乞いしてたわよ!? あはははははは!」


 アイラとネイの片目に、呪力の五芒星が現れたのは次の瞬間だった。

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