ラミアとわたパチ
この小説には、魔物娘成分が含まれます。
毒舌、蛇、人外娘などのジャンルが苦手な方はご注意ください。
ラミアとは、上半身が女性、下半身が大蛇で構成されている怪物のことだ。
その美しい口笛の音色は男を惑わし、筋肉の詰まった強靭な尻尾は、上等の鞭よりもしなやかで力強い。また、海外では非常に有名なモンスターで、親が子供を脅す際によく使われる。
しかし、ぼくは知っている。その伝承が氷山の一角にすぎないことを。
なぜなら、ここには王侯貴族のように態度がでかく、そして恐ろしいほど食い意地のはったラミアが棲み付いているからだ。
◆
彼女が帰宅したのは、午後三時ごろだった。
梅雨入りが発表されてからは雨ばかりで、なかなか外出の機会がなかったためか、彼女は久しぶりの散歩にたっぷり二時間を費やした。
玄関の鍵を開ける音が聞こえ、続いてドアノブが捻られる。室内に溜まった湿気の多い空気と入れ替わるようにして、同居人が戻ってきた。
「帰ったぞ、辰磨」
「おかえり」
うちわを片手にわたパチを食べつつ、ぼくは玄関に顔を向ける。
焦げ茶色をした扉の内側。そこで早速、彼女はあずき色のジャージを脱ぎにかかっていた。ズボンに手をかけ、少し前のめりになった彼女の胸元が、首から下がったタオル越しにチラチラとうかがえる。頬に垂れた銀髪は絹糸よりも美しく、片田舎にある古ぼけたアパートにはあまりにも不釣合いだ。
彼女の名前は、マリア・カーマイン。ぼくが借りている六畳一間に棲み付いた、ラミアの女性だ。
「やはり、足で歩くというのは良い物だな。刺激になる」
散歩の感想を述べたマリアは、上のジャージも玄関に脱ぎ捨てると、いたいけな青少年の前で堂々と自身の下着姿をさらした。
透き通るような白い肌に、真紅の下着がよく映える。メリハリのある体のラインに、ぼくは自然と目を奪われていた。
「げ、玄関で服を脱ぐのはやめろって、何度も言っているだろう?」
ぼくは肩をすくめて視線を逸らそうと試みるが、ついチラチラとマリアを見てしまう。彼女にとっては散歩が刺激かもしれないが、ぼくにとっての刺激は今、この瞬間だ。
散歩から帰ってくる度にこの調子では、いつか理性が吹き飛んでしまうかもしれない。マリアと暮らし始めて数ヶ月経つが、未だ彼女の着替え風景には慣れていない。
「では、どこで脱げと言うのだ」
むっと唇を尖らせたマリアは、腕を組んで仁王立ちになる。すると、たわわに実った果実が寄り合わさって持ち上げられ、やわらかさを見せ付けるようにゆがむ様が、ぼくの脳内フィルムに色濃く焼き付けられて……ああ、もう!
この様子を表現するための言葉が、「ああ、もう!」以外に見つからない。
今のぼくからは答えが返ってこないと悟ったのか、マリアは自分の身体を青白い光で包み込む。そして次の瞬間には、下半身を真っ赤な大蛇に変えると、脱いだジャージを拾って丁寧に畳み始めた。
一応、これで彼女の着替えと変身は終了。普段着に戻ったと言える。
しかし、上半身にまとう布はお世辞にも服とは呼べない。どちらかというとビキニ型水着に近い代物だ。そのうえ、腰にはパレオのような布が巻かれているだけなので、艶かしさは大して変わっていない。モデル顔負けの美脚が見えなくなり、少しマシになった程度だ。
マリアはジャージを畳む手を止めず、言葉だけをぼくに向ける。
「どうせ一部屋しかないのだ、窓際で脱ごうが玄関で脱ごうがほとんど同じであろう。それとも貴様は、余に外で着替えをしろとでも言うのか?」
「いや、そこまでは言っていないけど。でも、風呂場とかもあるんだし……」
「そんな貧乏くさい真似は嫌だと、何度も言ったはずだが?」
ぼくの提案は、すぐさまマリアに拒否される。声のトーンが落ちたので、怖くなったぼくはそれ以上強く言えなかった。
「早く慣れろ。命令だ」
「……はい」
ぼくには、怒る権利がある。ただでさえ狭い部屋へ勝手に棲み付かれ、迷惑に思ったのも一度や二度ではない。
だが、ぼくはマリアのことを決定的に嫌ってはいなかった。それに彼女は、どうせぼくが何を言っても、ここから出て行くことはしないだろう。それならば、彼女とはなるべく良好な関係を築いておこうというのが、日和見主義であるぼくが選んだ、わがままラミアとの付き合い方だった。
しかし、マリアの言動は少し過激すぎる。ぼくがこのまま黙っていれば、すぐにでも彼女の『口撃』が始まるのだ。
案の定、マリアはにゅっと口角を吊り上げて、いやらしい笑みを浮かべた。
「まったく、仕方のない奴だ。いくら余の体が魅力的だとはいえ、昨日の夜だって……あ、あんな破廉恥なことを」
マリアは胸を隠すように自分の体を抱きしめ、艶っぽい流し目を送ってくる。
しかし、もちろんぼくらの間に間違いなど起こっていない。
「か、勝手に話を作るなよ。お前の着替えに耐えてるんだから、ぼくの自制心も多少は誇れるはずさ」
「しかし、見ておったな、チラチラと。いやらしく」
「ぐっ……」
「自制心か。もし仮に、そんなものがあるというのなら、余の着替えに目を奪われることなどないはずだがな。そうだろう?」
「それは……」
ぼくが言葉に詰まると、マリアは畳み終えたジャージを床の上に置いて、その端整な顔をずいと近づけてきた。お互いの鼻がくっつきそうなほどの距離だ。
自分が赤面しているのを感じたぼくは、少し体を引いて視線を泳がす。
「この変態」
そして、この罵倒である。ぼくは、やっぱり今すぐ怒り出してもいいかもしれない。
半ベソになっているぼくをじっくり眺めた後、マリアは吹き出すように笑いながら、ゆっくりとぼくから体を離した。
「それより辰磨、余は腹が減ったぞ。そろそろおやつの時間だと思うのだが……」
ひとしきり笑い終えたマリアは、偉ぶった態度でぼくに空腹を訴えてくる。そして、ぼくが食べていたわたパチを見つけて目を輝かせた。
「おお、わたあめではないか。ちょうどよい、今日のおやつはわたあめだ!」
「いや、これは――」
ぼくが最後まで言葉を発する前に、興奮状態のマリアはぼくの手からわたパチの袋をひったくる。袋の口を広げて中身を全て取り出すと、蛇のような長い舌を使って、当然のように一口で平らげてしまった。
「うむ、ブドウ味か。こういうのも、なかなか悪くは――」
「ない」とは続かなかった。「は」の形で固まったマリアの口からは、途切れた言葉の代わりに、パチパチという乾いた音が聞こえてくる。
直後、マリアは目を見開いて口を押さえた。
「ふぇ……なんだこれは。く、口の中で、何か、爆ぜて……」
マリアは大方、新しいフレーバーのわたあめでも食べたつもりでいたのだろう。口の中で発生した異常に驚いて、涙目になりながらその場にうずくまる。ぼくを睨みつける金色の瞳は、状況の説明をしろと命令していた。
マリアが取り落としたわたパチの袋を溜息混じりに拾い上げ、商品名が大きく書かれた面をマリアに見せる。
「それは、わたパチっていうんだ。見た目はわたあめみたいだけど、中には炭酸ガスの詰まったアメが入っている。そのアメが水に濡れると、中に入ったガスがはじけるんだよ」
「な、なんだそれは。危ないではないか」
マリアは上体を起こすと、今度はぼくの手からゆっくりとわたパチの袋を取り上げ、その両面をくまなく眺める。その間も、マリアの口の中からは、湿ったアメのはじける音が聞こえ続けていた。
「まったく、何故このような珍妙な仕掛けがしてあるのだ。何もせずとも、わたあめは十分うまいというのに」
漏らされた感想に、ぼくは再度溜息をつく。
「誰かが苦労して考えたんだろうから、珍妙とか言ってやるなよ。それに作った側も、まさか一口で全部食べる奴がいるとは思っていなかっただろうし。これに懲りたら、少しはわたあめを食べる量を減らしてくれると助かるんだけど」
地域の祭りで迂闊にわたあめの味を覚えさせてしまってからというもの、マリアは毎日のようにわたあめを要求してくるのだ。そのうえ、食事量が並以上なので、マリアと出会う前に比べて、一ヶ月の食費が倍以上かかるようになってしまっている。
校則によってバイトを禁止され、親の仕送り以外に頼るものがない貧乏高校生にとっては、非常に困る出費なのだ。
しかし、マリアは「いや」と言うと、途端に真剣な顔つきになった。
「確かに驚きはしたが、よく考えてみるとやはり悪くはない。口の中ではじけるブドウ味のわたあめ。斬新で面白いではないか。辰磨、今度からはこれをおやつにしよう」
「マジでか!」
マリアの食べるわたあめは、ぼくが近くのスーパーで買い物をする際、ついでに買ってきているものだ。財布はぼくが肌身離さず握っているため、いくらマリアにおねだりされたところで、あらかじめ決められた量しか買ってこない。
しかし、わたパチならばマリアが散歩中に立ち寄れるコンビニでも売っている。目にする機会が多い分、マリアがぼくにおねだりをする頻度が増えるだろう。そうなれば、ぼくはきっとマリアのおねだりに屈してしまう日がくる。押しに弱い性格だということは、自分が一番よく分かっているのだ。
ぼくは未来を憂いて溜息をつき、頭を抱える。
「一日十個は欲しいところだな」
「丸々一箱じゃないか……」
大食いモンスターに少しはお灸を据えることができたかと思ったのだが、完全に裏目に出てしまった。
新しい味を覚えたマリアは、頭の中で金勘定をするぼくに向かって最大限の笑みを浮かべながら、もう一度「十個」と言った。
~おわり~