♯1
そう。
あのとき――
夏休み初日に控えたライブに向けて、バンドのメンバーとスタジオで音をぶつけ合っていた。
次のライブでは新曲を二曲披露することになっていた。
切ない雰囲気を前面に押し出したミディアムテンポの曲とディレイを効かせたフレーズを繰り返す三拍子のバラード。
どちらの曲も僕たちのレパートリーにはないタイプの曲だった。
「良い感じ感じだな。これならライブもいけるな」
ギターを膝に乗せ、祐介が言った。
「俺もそう思う。いけるいける。でもよ、真樹、お前好きな女でも出来たのか?」
スティックを指先でくるくると回しながら学が言った。
「あっ! それ俺も思ったんだよね。歌詞がそんな感じだったから。会いたいけど会えないって感じのね」
間髪入れず、ベースのペグを回しチューニングをしていた悟史が続けた。
「はあ?」
「真樹は恋に関しては奥手だからね~。この間の、ほら、誰だっけ? ライブの後に、真樹く~ん、これ読んで下さ~いってラブレター渡して来た子。超可愛い子だったのにね~。奥手な真樹君はハートたっぷりの手紙を読むだけ読んで、連絡もしない冷たいボーイだからね」
「悟史違うって。コイツはな、奥手とかじゃねえんだよ。待ってるんだよ」
「おっ? 待ってるって? 真樹ボーイが何を?」
「運命の出会いに決まってるだろうが」
…何を言っているんだ。コイツら…。
「イエス! イエス! イエス! 真樹ボーイの運命の恋のために俺が最高のベースを弾くよ」
リズム隊はこうやっていつも僕をからかう。
でも、まあ、だからこそ面白味もあるというもの、なのだけれど。
「真樹ボーイが待つ相手はどんな子なのかなあ?」
「たぶんな、子じゃねえんだよ。二十くらい年上のやたらとメイクが濃いバツイチとかそんな感じだな」
それでも、やっぱり、このしつこさには苛立ちを感じずにはいられない。
「ほらほら、真樹がキレてギター投げつけてくる前に残りの部分も固めちゃおうぜ。じゃあ、サビ前の俺だけになるところからまたやろうぜ」
「はいは~い」「うぉ~い」
祐介は低く構えたギターにピックを振り下ろした。
マーシャルのアンプから枯れたトーンのギターサウンドが飛び出したのをきっかけに、僕らはまたサウンドとグルーブの中へと戻っていった。
その夜のことだった。
いつもの夢を見た。
ベンチに座り、空を舞うカモメと波に揺れる漁船を眺めるだけの平和で退屈な夢。
赤煉瓦倉庫街の土産物屋の裏手にある海に面した休憩所。
小さな頃、死んだ父親がよく連れて行ってくれた場所だ。
小学生の頃からだったのか、中学に上がってからのことだったのか、今となっては覚えていないけれど僕はこの夢をよく見る。
夢の中、僕はいつものようにベンチに座っていた。
漁船がゆらゆらと波に揺れ、カモメが鋭い声で鳴いていた。
空は青く、海はその空よりももう少しだけ濃い青をしていた。
僕はただ、そんな景色をぼんやりと眺めていた。
「ねえ」
突然、耳元で声が響いた。
その声に振り返ると、制服を着た女の子が隣に座っていた。
奥二重の切れ長の目、右目の下の小さなホクロ、すっと通った鼻筋、風にそっと揺れる黒く長い髪の毛。
ドキッと、急停止したような胸の音が響いた。
僕が持っていた理想の女の子像を超えた可愛い女の子だった。
白いワイシャツに小さな青いリボン、その上にグレーのベスト。グレー地に青と白の細いラインが作るチェック柄のスカート。
見覚えのあるその制服は星愛女子のものだ。
星愛女子はお嬢様学校で有名な私立の女子校だ。
頭が良く、お金持ちという恵まれた才能と環境の女の子たちのための学校で、僕らのような男子高生からは女子校の中の女子校、サンクチュアリとまで呼ばれている学校だ。
「星はダメダメ。俺らみたいなさ~、バンド野郎になんて興味がないからね。星の女の子達は、難しい言葉を知ってる男じゃないと反応しないんだよ。だから、ライブあるから来てよ、なんて言って、チケットなんか見せても鼻で笑われるか、マイナスレベルの冷たすぎるシカトを受けるか、そのどっちかだからね」
悟史はよくそんなことを言っていた。
でも確かにその通りだったのだと思う。
ライブで星愛女子の制服を見かけたことは一度もなかった。
「ねえ、なにしてるの?」
「うん?」
「んって、大丈夫? なんか固まっちゃってるけど」
視線を外すことさえ出来なかった。
「お~い。聞こえてますかぁ?」
目の前でパタパタと手のひらが揺れた。
「ああ、うん」
僕は三回大きく頷いた。
「っあ、っていうか、そっちこそ、なに、してるの?」
「私?」
僕は頷いた。
「夢を見てるの」
「夢を見てる? ん?」
「んって、ここ君の夢の中でしょ? ほら」
彼女は腕を広げて言った。
あぁ、うん。
確かに、彼女の言うとおりだ。
この景色。
海、漁船、カモメ。
よく見るいつもの夢だ。
って! うん!?
!?
あっ、そうか。そういうことか。
これは夢なんだ。
いつもの夢だ。
ただの夢だ。
「正確に言うとちょっと違うんだけどね。夢を見てるっていってもね――」
僕は隣にいる彼女を上から下までゆっくりと眺めた。
なるほど。合点が行く。
だからか。
だから、こんなに可愛い女の子が隣にいたりするんだ。
現実離れした可愛さの理由は、そういうことか。
「なに見てるの?」
僕は手を伸ばし、スカートの上から彼女の太ももに触れてみた。
柔らかく、ほどよい弾力。
しっかりとした感触があった。
「変態っ!」
―――!?
―――――!?!?
視界がぐるぐると回った。
空が見え、アスファルトの地面が見え、漁船の窓が見え、土産物屋ののぼりが見え、海が見えた。
回転が止むと、僕は頭を振り、ゆっくりと顔を上げた。
アスファルトがえぐれ、土煙が視界を濁らせていた。
まるで戦闘の後みたいな光景だった。
なんだ、これ?
そのぼやけた視界の向かう側から彼女がこちらへと向かってゆっくりと歩いて来た。
「もう一回蹴り飛ばされたい?」
彼女は威嚇するように僕を睨み付けた。
なにが起こったのか全くわからなかった。
けれど、今のこの状況がとても危険だということは十分理解出来ていた。
「聞いてるの!」
スカートから突き出た細い足が弧を描き、僕の頭の上を振り抜いた。
ドゴンっ!
…ズウゥゥゥウウン。
バラバラと音を立てて石のかけらが落ちてきた。
おそるおそる振り返ると、時計をはめ込んだ石造りの塔が崩れ落ちていた。
「またあんなことしたら、次は本気でいくから。変態」
彼女は額にかかった前髪をさっとかき上げた。
夢、だからな。
僕は自分にそう言い聞かせた。
気がつくと僕らはもといたベンチに座っていた。
えぐれたアスファルトも崩れた時計塔もそこにあったままの姿に戻っていた。
「私は、南世羅。君は?」
彼女は下から僕の顔を覗き込んで言った。
そして、流れるように顔を覆った髪の毛をそっと手で押さえた。
胸の高鳴りを増幅させる素敵すぎる仕草だった。
「市ノ瀬真樹」
僕は彼女から目をそらした。
「何歳?」
「十七」
「高二?」
「そう」
「私と同じね。私はまだ十六だけどね。学校は?」
「北高」
「私は星愛」
「うん。制服を見てわかったよ」
「君って、バンドとかしてる人?」
「あっ、うん。そうだけど。なんで?」
「なんかそういう雰囲気出してるから。楽器弾いてるんだ?」
「うん。っていっても、メインはボーカルだけどね」
「へえ。歌を歌う人なんだ」
彼女は目を大きく開き、それからパチパチと大きな瞬きをした。
「どんな曲やってるの?」
「オリジナル」
「君が作ってるの?」
「まあ、大体ね」
「へええ。すごいんだね。どんな感じの曲をやってるの」
「雰囲気があるっていうか、なんていうか、まあそんな感じの」
「ふ~ん。好きなバンドとかあるの?」
「たぶん知らないと思うけど、レディオヘッド」
中二の頃、祐介と一緒にYouTubeで見たレディオヘッドのライブに感動し僕らは音楽を始めた。
あのときの感動はまさに、衝撃、だった。
格好いいとか、良い曲だとか、そういったありきたりの言葉で表現出来るようなことではなかった。
レディオヘッドの音楽は僕に一歩前に踏み出す力を与えてくれた。
「レディオヘッド!?」
彼女の目はキラキラと輝いていた。
「良いよね、レディオヘッド! 私も好き」
レディオヘッドが好きな女子高生。
個性的でイメージ的でマニアックなロックバンドが好きな女子高生がいるとは思わなかった。
「どのアルバムが好き?」
「ベンズかな」
「私は、オーケーコンピューター。キッドエーも同じくらい好きだけどね。カーマポリスが大好きなの。鳥肌ものの名曲よね」
彼女は腕を組み、一人何度も頷いた。
「うん、そうだね。カーマポリスは俺も好きだよ」
「あのさ、それじゃ、バンドをしてるなら、ライブハウスとかに出てるんだよね?」
「うん。サウダージってライブハウスに月二回くらい」
「ああ。聞いたことあるわ。北高の近くよね。次の予定とかあるの?」
「四日後」
「何時から?」
「五時から」
「チケットはいくら?」
「前売り八百円で当日券が千円」
「ふ~ん」
唇に指をあて彼女は考え込むような仕草をした。
「それじゃ、もしも――」
彼女がそう言った瞬間、目の前の景色がぐにゃりとねじ曲がり、空から順に色をなくしていった。
「時間――なっ―み―――……」
彼女の声が遠くなって、そして弾けるように全てが白い光に包まれた。
僕はその眩しさに目を閉じた。
爆音でマイ・アイアン・ラングが流れていた。
目の前にはいつもの見慣れた天井があった。
夢?
耳にはまだ彼女の声が残っていた。
南世羅。
レディオヘッドが好きな星愛女子の女の子。
本当に可愛い女の子だったな。
ちょっと危ない感じもあったけど。
でも、あんな女の子が本当にいたらな。
僕はそんなことを思いながら、見慣れた天井に彼女の姿を浮かべていた。