ACT8 見えない心
遙香はシャワーを浴びながら考えていた。
あんなものを忘れていくなんて、あたしはやっぱり女として見られてないんだ。家族のようなもの、と言ったのだってそう。響揮にとって、あたしはただの幼なじみでしかない。
胸の奥がきゅっと締めつけられ、熱いかたまりが喉に詰まる。涙が出そうになって、遙香はあわてて顔にシャワーを当てた。
どうして胸が痛むのかわからなかった。
昨日から響揮の態度がなんとなくよそよそしく、避けられているように感じていた。遙香は無理をしてふつうにふるまおうと努力したが、逆効果だったのは明らかだ。
響揮はあたしのことをどう思ってるの? 態度がぎこちないのは、あたしから離れるタイミングをはかってるからじゃないの? AAの受験で忙しいはずなのに部活や日曜ランをやめないのは、もしかして真夏に会いたいからなの?
思考がどんどん暗いほうへと流れていくのを、遙香は止められなかった。
洗った髪を丁寧に乾かし、ひっつめの三つ編みにしてカラーゴムでとめた。月面は重力が小さいので、長い髪は結わないと毛先が遊んで邪魔だ。
ため息をついてバスルームを出ると、時刻はすでに十八時に近づいていた。部屋に響揮の姿はない。遙香は肩を落とし、ベッドの端に腰かけた。
もうあたしには会いたくもないってことなの?
そのとき、ナイトテーブルにメモが置かれているのに気づいた。手に取ると、男子にしては几帳面な整った字で、『ルナレイクのボートハウスで待ってる』とあった。
そういえばボートに乗る約束したっけ。
せっかく月に来たんだから、楽しまなければ損だ。気を取り直し、遙香はテーブルからペンダントをとって胸にかけた。バスルームのドアにはめられた鏡の前に行き、全身をチェックする。残念ながら、ショートパンツにラフな半袖のTシャツという格好に、このペンダントは合っていなかった。
遙香は顔をしかめた。
「はずしていこうかな。せっかくのプレゼントだけど」
髪と同じく、月面ではペンダントがひと足ごとに大きく揺れるので、正直に言えば邪魔なのだ。天音からもらったのはうれしかったが、プレゼントには直筆のカードもなく、メールもなかった。遙香はお礼のメールを送ったが、返事はまだこない。
「きっと好きな人ができて、あたしのことなんかどうでもよくなっちゃったのね」
自虐的につぶやく。天音にとって自分は妹のようなものでしかないと、よくわかっていた。すぐそばにディアナのような大人の女性がいれば、自分など赤ん坊にしか見えなくても当然だ。今回のプレゼントでそれが確かめられた。高価なペンダント。でも心はこもっていない。
響揮は違うと考え、遙香は口元をゆるめた。響揮のプレゼントにはいつも意表をつかれる。人気ドーナツショップのドーナツを全部一種類ずつとか、クレーンゲームで遙香が取り損ねて悔しがっていたぬいぐるみとか、『刑事ハル&レイ』の等身大ポスターとか。
およそロマンチックとは言いがたいものばかりだけれど、どれももらった瞬間に驚きや喜びがはじけて、そのときの記憶そのものがうれしい贈り物だった。
響揮も真城子も教えてくれないのだが、月旅行を引き当てたきっかけになった響揮の買い物は、自分へのプレゼントなのではないかと遙香は予想し、ひそかに期待していたのだった。
そのとき、ズン、と鈍い衝撃に部屋が揺れた。
遙香はぎくりとして周囲を見回した。地震だろうか? 月にもまれに地震がある。
不安になって窓に近づき、外を見た。下の神々の広場では人々が逃げまどい、何人かは倒れているようだ。
「なに……? 事故?」
驚いて息をのみこみ、よく見きわめようと目を細めた。と、自動的にスクリーンのスイッチが入って警戒警報が部屋に響き、遙香は弾かれたように振り返った。
『緊急警戒ニュースをお伝えします』
アナウンサーが緊張した声で告げる。
『十八時〇分、セントラル地区アルテミスパーク内で爆発が確認されました。これにより、セントラル地区パーク街区は緊急区画遮断が実施されています。続報に警戒してください。負傷者が出ている模様ですが、詳細は――』
遙香は最後まで聞かずに部屋を飛び出した。エレベーターが止まっていたので、非常階段を月面ならではの七段抜かしで駆けおり、タワーを出る。
集まった大勢の野次馬や取材陣を蹴散らすようにして、消防隊員や警官、非常車両が走っていく。
「爆弾テロだ!」
「〈赤いドクロ〉が――」
「東洋人の男の子が巻き込まれたって?」
きれぎれに聞こえてくる記者やレポーターの会話に、遙香は慄然とした。走っていく消防隊員を必死に追うが、焦ると体が浮いてしまい、思ったように前に進めない。心臓がどきどきして破裂しそうだ。泣くつもりはないのに目頭が熱くなる。
東洋人の男の子。響揮じゃないかもしれない。でももし響揮だったら?
広場の端まで来ると、赤と黄の縞のテープで行く手が遮られていた。かまわずまたぎ越えようとすると、制服の警官に肩をつかまれて押し戻された。
「だめだよ、この先は!」
「だって響揮が――」
「捜査関係者以外立ち入り禁止だ。戻れ!」
「行かせて! 響揮がいるかもしれないのよ!」
警官を押しのけて進もうとしたが、相手はがんとして譲らない。
「響揮、響揮――!」
喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
聞こえるの? 聞こえるなら応えて!
「――遙香!」
ふいに耳慣れた声がすぐ後ろから聞こえてきて、ぱっと振り返った。
響揮がいた。驚いたような、ほっとしたような顔でこちらに両腕を伸ばす。
「響揮!」
遙香は夢中でその腕に飛び込んだ。きつく抱きしめられると、どっと安堵の涙があふれてきた。
「響揮、あたし――あたし心配で、爆発、巻き込まれたって――」
喉が詰まり、それ以上言葉が続かなかった。涙を止めようとすればするほど胸が苦しくなって、嗚咽がもれてしまう。
「俺は大丈夫だから……泣くなよ」
困ったような声が耳元でささやく。
遙香はぐっと嗚咽をのみこんでうなずいた。体を離し、響揮の顔を見つめる。
「血が出てる」
つと指を伸ばして響揮の頬に触れた。
「いてっ――」
「ご、ごめん。ホテルに帰ろ、手当てしなきゃ」
言いながら、遙香は響揮の腕に自分の腕を巻きつけた。ぎゅっと、まるでそうしていないと逃げていってしまうとでもいうかのように強く。
* *
遙香がバスルームから濡らしたタオルを持ってきて、響揮の頬のすり傷にそっと押し当てた。
「つっ――」
響揮は顔をしかめる。遙香が不安げな声で訊いた。
「いったいなにがあったの?」
「爆弾が――」
答えかけて、響揮は口をつぐんだ。封筒を手にしてからの記憶が、まるで映画のワンシーンのようによみがえってくる。
響揮は走った。爆弾を地面に置くより確実な、被害を最小限にとどめる方法があったからだ。おそらく、残された時間は一分と少し。だが間に合うと思った。
オレンジ色の矢印をたどる。その先にはあるものは――。
「シェルターだ、アレックス!」
響揮が肩越しに叫ぶと、アレックスは目でうなずき、長い脚で猛然と響揮を追い越した。
「道をあけろ! シェルターには入るな!」
吠えるように言ってシェルターに逃げ込もうとしていた人々を追い払い、強化タングステン製のハッチに取りついて開け放った。なかに人がいないことを瞬時に確認し、響揮に大きく手を振る。
ハッチまであと二歩。響揮は脇にかかえていた封筒を投げこもうとした。だが封筒が脇から離れない。
「なんでっ!?」
あわてたがどうにもならない。慣性がついたまま体ごとシェルターに飛び込んだ響揮を、アレックスが追いかけてくる。
「なにやってんだ!?」
「紐がからんだ!」
走るあいだに、フラップをとめていた封筒の紐がウエストポーチの金具にからみついたのだ。響揮は紐をはずそうとしたが、焦りで手が震えてうまくいかない。
アレックスがスラックスの裾をまくり、脛に巻いたホルダーからサバイバルナイフを抜き払って一喝した。
「手を放せ!」
響揮ははじかれたように両手をあげる。アレックスは響揮のウエストポーチをつかみ、一刀でベルトを絶ち切った。それを封筒ごと床に置き、突き飛ばすように響揮をハッチの外に押しだして、自分もシェルターを転がり出た。ハッチを閉め、響揮の上に覆いかぶさって地面に伏せる。
その直後、爆発が起きた。
緊急避難用のシェルターはさすがに頑丈だった。なかはもちろんめちゃめちゃになり、厚いハッチもゆがんだが、外にはほとんど影響がなかった。爆発による負傷者はゼロで、響揮の頬のすり傷も地面に伏せたときのものだ。ウエストポーチと一緒にマイティフォンが昇天したのは痛いが、命に比べれば安いものだろう。
「……座ったベンチに偶然、爆弾が置いてあって」
目を見開いた遙香に、響揮は軽い調子で肩をすくめてみせる。
「それをシェルターに運んだ」 「爆弾を!? なんでそんな危ないこと――」
「なりゆき。俺がいちばん近くにいたから」
「もー、信じられない!」
ぶるっと身震いして、遙香は自分のバッグからとってきた治療パッチをやや乱暴に響揮の頬に貼りつけた。
ついたままのスクリーンから爆破事件の続報が流れてくる。
『UCCIの発表によりますと、容疑者の広域指名手配犯エリック・テイラーは、十八時二十分ごろセントラル地区D三街区で遺体で発見されました。服毒自殺と見られています。テイラー容疑者は南アフリカの反政府地下テロ組織、〈赤いドクロ〉のメンバーです。〈赤いドクロ〉から犯行声明は出ていませんが――』
画面に映されたテイラーの容貌は、響揮が見た黒いキャップの男とは違った。だがアレックスはあの男がテイラーだとひと目で見破った、と響揮は思い出す。
アレックスはUCCIだと名乗ってバッジを見せていたし、警報つきのショックパルス銃も携帯していた。テイラーは整形しており、アレックスは内部情報でそれを知っていたと考えれば説明がつく。
アレックスがUCCIの捜査官なのは間違いなさそうだ。その彼が兄と連絡が取れないと言っていたのは、いったいどういうことなんだ?
詳しく訊いておくべきだったと、響揮は後悔した。爆発が収まるとすぐ、響揮は止めるアレックスを振り切って現場を離れてしまったのだ。ボートハウスで待っているというメモを部屋に残したので、ルナレイクに向かう途中で遙香が騒ぎに巻きこまれてはいないかと、心配でたまらなかった。
そして人垣をかき分けて探すうちに、遙香が自分を呼ぶ声が聞こえた。願いのこもった、哀しくて切ない声が。あんなふうに名前を呼ばれたのははじめてで、響揮は胸の奥が熱くなった。
「あっ――!」
悲鳴にも似た叫声が聞こえて、響揮ははっと遙香のほうを見た。
「どうしたんだ?」
「ペンダントが――ないの! 広場に行く前はたしかにあったのに!」
遙香は血の気の失せた顔で胸元に手を当て、やがて顔を覆ってわっと泣きだした。
「ペンダント……?」
響揮はかすれた声でつぶやいた。
俺が買ったペンダント。さっき間違って取り替えてしまった、あの……。
なぜか、笑いたい気分になった。実際、口元には苦い笑みがのぼっていた。
「……泣くなよ。俺があとで同じの買ってやるよ」
「だってあれは――」
しゃくりあげながら遙香が言いつのる。
「あれは天音さんが――天音さんがくれて……」
遙香の声はどこか遠いところから聞こえてくるようだ。響揮は体の脇で固くこぶしを握りしめた。
「俺が買ってやるって言ってるだろ」
「そういうことじゃないよ。せっかく天音さんが――」
「俺のは受け取れないって言うのか」
無意識に言葉にこもった怒りに気づいたのか、遙香は嗚咽をのみこんで、驚いたように響揮を見つめた。
「遙香はいつも兄貴のことばっかりだ。俺のことなんかどうでもいいんだよな」
「響揮……?」
遙香の頬に光る涙は自分のためのものではない。響揮の心に、ずっしりと重たいものがのしかかってくる。
押し殺した声で、響揮はついに言った。
「好きなんだろ、兄貴が」
「……好きよ、当たり前でしょ。だけど――」
「もういい! わかったよ」
「ちっともわかってないよ! 響揮が言ってるような意味じゃ全然ないんだから! 響揮のほうこそ――あたしに内緒で渚沙とこそこそして、あたしを仲間はずれにして。真夏に告白されたことも黙ってたよね。あたしがどんな気持ちだったかわかる?」
「木田のことは遙香に関係ないだろ!? それに渚沙は――」
渚沙は協力してくれてたんじゃないか。俺たちのために。自分の気持ちは誰にも言わないで。
「渚沙のことだって、遙香は全然わかってない。渚沙がかわいそうだ」
怒りのために言葉が震える。
遙香が青ざめた顔で響揮の目を見つめた。
「響揮、正直に言って。あたしが嫌いになったの? 本当は月にもあたしじゃなくて真夏を誘いたかったんじゃない?」
「なんだって……?」
「だってあたしは〝家族みたいなもの〟なんでしょ。だったらはっきり言ってくれれば、あたし、いままでみたいに響揮に甘えるのやめるし、真夏はすごくいい子だから……応援、する」
遙香は目をそらし、うつむいた。
「遙香は……それでいいのか?」
頭ががんがんして、響揮はなにも考えられなくなっていた。怒りは急速に冷え、代わりに絶望的なまでの虚無感に襲われる。
「……あたしに遠慮することないよ。響揮と友達でなくなるわけじゃないもの」
* *
ホテルを出てからどこをどう歩いたのか、響揮は覚えていない。気がつくとパークの端にある人口湖に来ていた。ベンチに腰を下ろし、頬杖をついて、ボート遊びに興じるカップルや家族連れをぼんやりと眺める。
爆弾事件の直後に遙香が自分を呼ぶ声を聞いたときは、遙香も自分を好きなんだと確信していた。それがこんなにも早く、もろく崩れ去ってしまうなんて。
湖面から聞こえてくる屈託のない笑い声にいらだちを誘われ、響揮は耳をふさぎたい衝動に駆られる。
「ねえきみ、爆弾をシェルターに放りこんだヒーローくんじゃない?」
突然、頭上から張りのあるアルトの声に呼びかけられた。反射的に顔を上げると、ヘッドセットをつけ、目を輝かせた女性が目に入った。肩の上あたりに親指の先ほどの小型中継カメラ、〝フライングアイ〟が浮いている。マスコミのレポーターらしい。
「いいえ」
響揮は不機嫌な声で短く答え、ぷいと横を向いた。ヒーローになるためにやったわけじゃない。
「ううん、絶対きみよ! 白いジャケットの小柄な東洋人の男の子。遠目だったけど、ちゃんと見てたんだから。あのときはフライングアイを連れてなくて惜しかったわ! 世紀の特ダネだったのに。捜査局のブローディ主任とは知り合いなの?」
「あの人、やっぱりUCCIの捜査官なのか?」
響揮が思わず顔を戻して訊くと、レポーターは相手をしてもらえると思ったのか、勢い込んでうなずいた。
「そうよ、知らなかったの? じゃあ一緒にいたのは偶然? 主任ったらいくら訊いてもきみのこと教えてくれなくて。雰囲気からすると日本人? サムライボーイだね。名前は? 年いくつ?」
質問をたたみかけられて、面倒なことになりそうだと響揮は警戒した。またぷいと横を向く。
「答える義務ないし。ほっといてくれないかな」
表情をとらえようとフライングアイが顔の正面に回りこんできたので、響揮はベンチから腰を浮かした。
「ねえ逃げないで! お願い、話を聞かせてよ!」
レポーターに腕をつかまれて、響揮は瞬間かっとした。
「ほっといてくれって言ってるだろ! いいかげんにしろよ!」
「おやめなさい、いやがってるじゃないの」
叱責の響きを含んだやわらかな声がかかった。
ベンチから二メートルほどのところに、サングラスをかけた長身の女性が立っていた。ワイン色のパンツスーツ姿で、波打つブロンドが目にまぶしい。
「これは……ミズ・フローレス」
レポーターは一瞬迷う様子を見せたが、しぶしぶ響揮の腕を放して悔しそうに唇を噛んだ。
ディアナがにっこりと響揮にほほえみかけ、手招きする。
「きみ、こっちへいらっしゃい」
響揮は吸い寄せられるように彼女に近づいた。
ディアナは肩越しに振り返った。
「シャンメイ」
後ろに控えていた付き人の少女が、心得た様子でうなずいた。ついとレポーターの前に立ち、響揮を追いかけようとしたフライングアイめがけて手刀を一閃させる。フライングアイはタイル張りの歩道にたたきつけられ、粉々に砕け散った。
「なにするのよ――!」
レポーターの叫び声を背に、ディアナは響揮の肩を親しげに抱いて歩きだした。
「……ありがとうございます。助けていただいて」
「いいのよ。ああいう人種ってしつこくて本当にいやよね。それにわたし、きみのことを知ってるの。アマネ・タカトウの弟でしょう?」
「そうですけど……」
兄の名前を聞くとどろどろしたものが胸にわいてくるのを止められず、響揮は自分の卑小さが情けなくなる。そのせいで言葉尻があいまいになったのを、ディアナは警戒していると誤解したようだった。
「ああ、ごめんなさい。きみはわたしを知らないわね。ディアナ・フローレスよ。天音の仕事仲間。前に彼が家族の写真を見せてくれたの。きみ、天音によく似ているから、ホテルのエレベーターで会ったときにすぐわかったわ」
響揮はうなずいた。
「それで声をかけてくれたんですね。俺は――」
「ヒビキ、でしょう? 自慢の弟だって、天音が誇らしげに話してたわ。宇宙飛行士を目指しているのよね?」
「兄がそんなことを?」
自分のことを語る天音の様子を想像すると、響揮は一方的に嫉妬している自分がますます情けなくなった。
「最近はなかなか兄に会えなくて……。プロジェクト、忙しいらしいですね」
「暇ではないわね。でもこの季節はみんな交代で休みを取るのよ。天音も休暇に入っているはずよ」
「そうなんですか? じゃあ……」
アレックスが兄と連絡が取れないのは、たんに兄が旅行に出かけたとかで、行き違いがあったのかもしれない。プライベートなことも話しているらしい同僚の言葉を疑う理由はなかった。
「天音のことでなにか?」
「いえ、べつに」
「きみはこれから平和行進に参加するの?」
「そのつもりですけど……」
「そういえば、あのかわいい彼女はどうしたの?」
「遙香は……」
響揮が言いよどむと、ディアナはくすっと笑った。
「彼女に振られた?」
響揮は自分の頭のずっと上のほうにある美しい顔を見あげた。
「……なんでわかるんですか」
「エレベーターで会ったとき、きみの顔には彼女に恋してるって書いてあったもの」
きりりと胸が痛む。響揮はうつむいて唇を噛んだ。
「初対面の人にも見透かされるくらいなのに……どうして彼女には伝わらないのかな」
「好きだって、彼女にはっきり言ったの?」
「……はっきりとは……。俺たち幼なじみで、生まれたときから一緒に育ったようなものなんです。そんなこと、態度でわかるはずでしょう」
「距離が近すぎて、意識するにはきっかけが必要ってこともあるわ。それにうすうすわかってはいてもね、女の子って言葉ではっきり言ってもらわないと確信できないものなのよ」
響揮は苦い笑みを唇に浮かべ、首を振った。
「わかっていてあんな残酷なことができるものかな。ほかの人からのプレゼントを得意げに見せびらかしたり――」
「プレゼント?」
ディアナの口調が一瞬かたくなったのに、響揮は気づかなかった。
「彼女の誕生日、明日だから。それに、ほかの子を好きなんじゃないかって俺に訊いたり」
「……残酷なのはきみのほうかもね」
「え……?」
いぶかしげに見あげた響揮に、ディアナは片方の眉を上げてみせた。
「ほかの子が好きなのかって彼女は訊いたんでしょう? たぶん否定してほしかったのよ。好きなのはきみだけだって言ってほしかったの」
「でもそんなことは――」
「言わなくてもわかるだろうって? さっきも言ったけれど、言葉ではっきり伝えなければ女の子は信じないわ。きっと彼女、いまごろ泣いてるわよ」
「遙香が……?」
響揮は立ち止まり、呆然と足元を見つめた。
ディアナの緑色の瞳が、響揮をいっとき、いとおしげなまなざしで見つめる。そしてふっと目を閉じ、なにかを振り切ろうとするかのように首を振った。
「はっきり彼女に言いなさい。きみが好きだって。きっとうまくいくわ。……わたし、自分の船を持ってるのよ。今夜遊覧飛行をするんだけれど、よかったら一緒にどう? 彼女を誘ういいきっかけになるでしょう?」
響揮は少なからず驚いて、ディアナを見つめた。
「プライベートシップで? すごいな。でも……」
「遠慮しないで。わたしたち、もう友達なんだから。二十一時にホテルの部屋で待っていて。迎えを行かせるわ」
「……彼女と仲直りできれば」
ためらいながら答えると、ディアナがにっこりしてうなずいた。
「幸運を祈ってるわ」
* *
響揮と別れたディアナは、ホテルの部屋ではなく、ルナホープ宇宙港に停めてあるエンデュミオン号に戻った。ホテルのエレベーターで会った少女の胸に、誇らしげにペンダントが揺れていたのを思い出したからだ。
あれが〝ほかの人からのプレゼント〟だろう。少女の誕生日のデータを見たときに気づくべきだった。
おそらく送り主は天音だ。それを確かめるには、専用にカスタマイズしたコンピューターからクラッキングをする必要がある。
数日前、大規模な太陽フレアによって磁気嵐が発生し、地球と月域を結ぶ通信衛星が二機故障した。その影響で通信環境が悪化し、クラッキングには最悪の状況だ。ディアナは途切れがちな回線と闘いながら、小一時間かかってようやく求めていた情報を手に入れた。
ムーンストーンのペンダント。無垢な少女の胸元を飾るにふさわしい、シンプルで愛らしいデザインだ。販売したのはニューヨークに本店を置く宝飾店、ジュエリー・エレクトラ。天音は偽装IDを使って本店に注文した品物を、便利屋を雇って引き取らせていた。少女への発送も便利屋がしたのだろう。
ディアナは店のデータベースに潜りこんで調べ、天音が注文したと思われる品物には数字が刻まれていたことを知った。
1、31、27。
暗号だろうか? ディアナはさらに少女のコンピューターに侵入してヒントを探した。メールボックスに細工がしてあり、天音あてのメールは送信済みのサインはついても実際には送信されないようになっていた。だから少女からのお礼のメールは天音のもとに届かず、ディアナの検閲にも引っかからなかったのだ。
そこで通信回線が遮断され、クラッキングを切りあげざるをえなくなった。
ディアナは乱れた髪をかきあげ、ゲストルームに向かった。ベッド脇のモニターでバイタルデータをチェックし、点滴が効いているのを確かめる。それからベッドの端に腰を下ろし、眠り続ける青年の端整な顔を見つめた。
そっと手を伸ばして、癖のないさらりとした黒髪に指を通す。なんの抵抗もしないその無防備さが、彼の容貌を年齢よりもずっと若く見せている。
似ている、とディアナは思った。
胸に甘い痛みが走る。それを認めたくなくて、ディアナはさっと立ち上がり、体の脇にたらした手を握りしめた。
湖のほとりで会った少年は、天音によく似ていた。あの子も二十歳を過ぎれば、天音と同じ穏やかな笑顔で人に語りかけるようになるのだろうか? 天音も十五歳のころは、あんなふうに幼い恋に悩んだりしたのだろうか?
「よけいなことを考えてはだめ」
ディアナは自分に言い聞かせる。わざわざルナレイクまで行ったのは、くだらない恋愛講義をするためではなかったはずだ。やさしさも同情もいっさい捨てると、彼女は一年前に誓っていた。
ディアナは首を振り、ふたたびベッドの端に腰を下ろして天音の顔を眺めた。
「あなたはなにをしようとしていたの?」
少女に送られたペンダントがただのプレゼントではないことは明らかだ。
「ブローディが弟に接触したのはあなたの指示なの?」
だが弟のあの様子では、天音からなにか伝えられているということはなさそうだ。爆弾をシェルターに放りこんだのは天音の情報によるものではなく、偶然なのではないかと思える。
「……だとしたら命知らずね。そんなところもあなたに似ている」
つまり、とディアナは考えをめぐらせた。
天音はクラッキングで得た情報をブローディに伝えるのに失敗したのではないだろうか。あのペンダントに情報が隠されているのかもしれない。少女の手から弟の手を経てブローディに渡されるべきところを、なにか行き違いが生じたとすれば筋が通る。
ブローディの手に渡る前にペンダントを手に入れなければ。
ディアナはかがみこんで、天音の冷たい唇にキスをした。
「ねえ、おもしろくなってきたわね? あなたに見えていないのが残念だわ」
* *
「いいか、市警がなんと言おうとテイラーは単独犯じゃないし、自殺でもない。〈赤いドクロ〉から犯行声明は出てないから、組織の指示でもない。奴をルナホープによこした黒幕が、今度の失敗を見てあきらめると思うな。いまにもっとでかいことをやらかすぞ」
時刻は二十時に近づいている。さほど広くないオフィスのすみで、アレックス・ブローディは大声でA班の部下たちにはっぱをかけていた。ここはセントラル地区の行政施設が集まる一角、連邦宇宙省宇宙域捜査局――UCCIのルナホープ支局。
「主任、テイラーの足取り、監視カメラから割り出しました」
部下のひとり、ムスマン・バヤルがスクリーンに地図を表示し、ポインターで示す。
「最初はネクサスホールFゲート付近、十七時五分、顔認識ソフトでマッチ。これ以前の足取りはいまのところ不明。誰かと接触した形跡はありません」
「B班、そっちはどうだ? 爆弾は見つかったか?」
アレックスがB班の主任を務める中年の女性捜査官に顔を向けると、いらだたしげな口調の答えが返ってきた。
「いまのところ収穫ゼロよ」
テイラーが大統領を狙って市内に時限式の爆弾を仕掛けている可能性もある。B班はそれを調べている。
「ブローディ、あなたの見込み違いじゃないの? 無駄足踏ませられたってわかったら、ただじゃおかないわよ」
「よしてくれ。局の仕事は九十パーセント無駄でできてるってわかってるだろ?」
「まあそうね。でも無駄率争いじゃ市警にはかなわないと思うわ」
皮肉な物言いに、アレックスはため息をつく。
「まったく、連中の楽観主義が心底うらやましいよ」
ルナホープ市警では、犯人の自殺により爆弾テロ事件は解決と決めつけ、のんきに平和行進の警備に人員をシフトしている。いくらルナホープが連邦一治安のいい街だとしても気を抜きすぎだと、アレックスは市警の担当者に噛みついた。だが、「テイラーを見つけられもしなかったくせに」といなされてしまった。
市警にも手配画像は配っていたのだし、あれほど警戒厳重な神々の広場にテイラーがいたのに見つけられなかったのは市警の責任だと、アレックスは思っていた。パークはもともと市警の縄張りで、紺の制服がうろうろしているとパークの評判が落ちると、露骨に追い払われるのが常なのだ。
もっとも、市警にも事情はある。午後ルナホープに到着した大統領は、セレモニーだ講演会だと市内を精力的に歩き回っているため、警備にかなりの人手をとられている。
アレックスは壁際のディジフレームに向かっているサレムに声をかけた。
「サレム、あの爆弾の鑑識結果は出たのか?」
「正式にはまだです。でもたぶん時限式のC七爆弾。ドームを破壊するほどの威力はなかったようですが、半径十メートル以内にいた運の悪い人は死んだかも、だそうです」
「それは俺のことか?」
サレムは肩をすくめた。
「テイラーにしては小さな爆弾です。本気じゃなく脅しって線が強いですね」
アレックスは顔をしかめる。
「本命はやっぱり大統領か。それなのに、ロシュフォードの奴は予定どおり平和行進に参加するって言い張ってるんだ。まったくどういう神経してるんだか」
「〝テロには屈しない〟があの人のモットーですからね。中止なんかしたら支持率だだ下がりでしょ。入院中のフローレスには同情票がたんまり集まってるから、彼が復帰してきたらロシュフォードは確実に負けます」
「あーくそっ、面倒だな政治は」
アレックスは短い赤毛をかきむしった。
「まあ、市警のお手並み拝見ですね。広場に監視塔つくったりして、総出で警戒にあたるらしいから」
「監視塔ねぇ。たしかに上から見れば不審な人物や物を発見しやすいが、それであの爆弾やテイラーに気づかないって、連中の目はどれだけ節穴なんだ?」
そこでふと、アレックスはある可能性に気づいた。
「テイラーがいたベンチのそばにも警備の警官がいたんじゃないか? だから監視塔の警官は、封筒を不審物だと認識できなかったのかもしれない」
「警官仲間の近くにテロリストがいるとは、ふつう考えませんからね。だとすれば無能なのは監視塔の警官じゃなく、ベンチの近くにいた奴ですね――」
サレムはそこではっとした表情になり、アレックスを見た。
厳しい目で、アレックスはうなずく。
「そいつがテイラーに気づかなかったんじゃなく、わざと見逃していたとすれば?」
「あるいはテイラーを守っていたのかも。至急、パークの監視カメラの映像を再確認します」
アレックスは時計に目をやり、舌打ちした。
「もう平和行進が始まる。俺は会場に行くぞ。連絡をよこせ」
「了解」
アレックスはサレムを連絡役として残し、残りの部下数人とともにオフィスを出た。
捜査局はもともと市警に比べて圧倒的に人員が少ない。貨物船爆破事件の処理に奔走した連中は疲れ切っていて使いものにならず、大統領訪問による周辺宙域の警戒にも人を取られていて、今日はひどい人手不足だ。
月域では、事件が起きたからといって局員を急に増やすことは物理的にできないのだ。地球からにしろ軌道域からにしろ、人を呼ぶにはまる一日以上かかる。ディアナはそれを知っていていろいろな事件を同時に起こし、捜査の分断をはかっているのだとアレックスは考えていた。
まったく悪魔みたいな女だ。だがテイラーが死んだいま、どこでどうやって大統領を殺すつもりなんだ? もう時限式の爆弾を仕掛けてあるのか? だがすみずみ探させているが爆弾は見つかっていない。それとも……。
天音からもたらされた情報によって、アレックスは一連の事件の黒幕がディアナ・フローレスであり、彼女の最終目標は大統領暗殺だと知っている。しかし、サレム以外にはそれを教えていない。証拠がなにもない以上、ディアナの名前を捜査線上に乗せることはできなかった。そんなことをすればたちまち各方面から圧力がかかって捜査自体がつぶされ、アレックスも部下も運がよくて左遷かクビ、悪くすると消されるだろう。
捜査局のバンに乗りこみながら、アレックスは胸ポケットの通信端末に小声で訊く。
「サレム、あの子は見つかったか?」
『努力はしてます』
「努力で事件が解決するなら警察も局もいらねぇよ。顔認識ソフト使って監視カメラにオートチェックかけろ」
『もうしました。でもこの人出では誤認識が多くて』
アレックスは舌打ちする。
「こんなことなら手錠かけてでも引き止めておくんだった」
爆弾テロ事件のあとでしつこく響揮のことを聞いてきたレポーターが、ついさっき、響揮がディアナと親しげにしていたと教えてくれたのだ。ごくごくまれにだが、マスコミも役に立つことがある。
ディアナに目をつけられたとすれば、早く響揮を保護しないと危険だ。やはり接触したのは間違いだったと、アレックスは後悔した。響揮が天音からなにか情報を受けとっていたとしても、一般人の、それもまだ中学生の少年を巻き込むべきではなかった。
「くそっ、後悔してばっかりだ。俺も成長しねぇな」
パークへ向かうバンが自動操縦で動きだす。アレックスは厳しい顔で通信を切った。
* *
電話の着信音が部屋に響き、遙香ははっとして体を起こした。泣き疲れていつのまにかうとうとしていたらしい。はれた目をこすりながらディジフレームの前に行く。
電話はフロントの係員からだった。
『落とし物が届いております。部屋にお届けしましょうか?』
「落とし物?」
『ええ、ペンダントです。お名前が入っておりますし、わたくしもお客さまがこれをつけていらしたのを覚えておりますので、間違いないと思います』
「取りにうかがいます」
ヴィジのウィンドウを閉じ、遙香はぼんやりと考えた。あのペンダントには名前など入っていなかった。裏に刻んであったのは製造番号らしい数字だけだ。どういうことだろう? 顔を洗ってからフロントに下りると、女性係員が待ちかねていたように小さなビニール袋に入ったペンダントを差しだした。 「クリーニング業者が非常階段で見つけたそうです。とてもお似合いでしたもの、よかったですね、見つかって」
「ええ、ほんとに。戻ってくるとは思っていなかったから」
「チェーンが切れていたのは直しておきました」
「ありがとう、ご親切に」
遙香はペンダントの裏側を見る。見覚えのない文字が刻まれていた。
〝TO HARUKA 23TH JUNE〟
「これ……違うわ」
「え?」
係員が不審そうに眉を上げる。
「あ、いえ、なんでもないの」
キツネにつままれたような気持ちで部屋に戻ると、遙香はベッドの端に腰かけてしげしげとペンダントを眺めた。これには1、31、27と刻まれていたはずだ。なんの数字かわからなかったので、よけい記憶に残っている。でもいまは、まぎれもなく遙香の名前と誕生日があった。
そのとき、部屋が突然ぱあっとピンク色に染まった。遙香はびっくりして窓の外に顔を向けた。照明弾がドームの天井で弧を描き、落下していくのが見える。平和行進が始まる合図だろうか。部屋は完璧に防音されていて、外の物音はなにも伝わってこない。
ふたたび照明弾が上がる。今度は淡いブルーの光が部屋をいっぱいに照らした。
響揮のベットの下でなにかがきらりと光を反射したのに目を引かれ、遙香はかがんでそれを拾いあげた。
銀色の薄い紙の切れ端。印刷された文字が少しだけ読みとれる。〝レクトラ〟
照明弾のように頭に理解がひらめいて、遙香はゴミ箱に駆け寄った。同じ銀色の紙があった。だがこちらはくしゃくしゃに丸められている。広げて切れ端を合わせてみると、上品な書体のグレーの文字全部が読みとれた。
ジュエリー・エレクトラ。店の名前だ。
同じ包装紙を、遙香は旅行に出る前日に見ていた。天音からのプレゼントが包まれていたのだ。それは丁寧にたたんで自宅の机の上に置いてある。
「ああ……そうか……!」
すべてがつながった。めまいがして、遙香は呆然と床に座り込む。
「どうして気がつかなかったんだろ。これは響揮が買ったものなんだ!」
旅行に出る朝、響揮は様子がおかしかった。当然だ、プレゼントに選んだペンダントが天音とかぶっていたとわかったのだから。ひどく動揺したに違いない。
そしてもうひとつの事実に気づくと、遙香の目からはどっと涙があふれてきた。
こんな誕生石のアクセサリーを贈るなど、響揮がひとりで考えつくはずがない。渚沙が協力したのだ。それが渚沙の〝秘密〟だった。
それなのに、自分はさっきなんと言っただろう? 仲間はずれにされたなんて、小学生みたいな泣きごと。
「……あたし、ほんとになんにもわかってなかった。最低だ……」
窓の外、音もなく上がる色とりどりの照明弾に、やるせない気持ちがいっそうあおられる。遙香はペンダントをぎゅっと握りしめた。
もし記憶が消せるものなら、響揮の頭からさっき自分が言った言葉を全部消してしまいたかった。
真夏が好きなら応援するなんて、真っ赤な嘘。そんなこと考えただけでもぞっとするのに。響揮の心を確かめたくて、言ってしまったのだ……。
「……許してくれるかな」
とにかく謝ろう。許してくれるかどうかはそれからのことだ。
遙香は立ちあがり、マイティフォンをとって響揮に電話した。だが聞こえてきたのは通話不能の冷たいメッセージ。
故障してるの? それとも……あたしとは話したくないってこと?
胸に鋭い痛みをおぼえ、唇を噛む。
遙香はペンダントをかけて目を閉じ、銀色のヘッドにてのひらを重ねて胸に押しつけた。この淡い月光色の石に、裏側に刻んだ文字に、響揮はどんな思いをこめたのだろう?
いつもの誕生日とは明らかに違う、特別なプレゼント。
それが意味するのは、ただひとつだ。
響揮と過ごしてきた日々の思い出が、尽きることなく胸の奥からあふれてくる。遙香にとって響揮は、誰よりも――たぶん両親や妹よりも近い存在だった。
〝鷹塔クンのことどう思ってるの?〟
真夏の問いが耳の底によみがえる。
いまなら違う答えを返すだろう。ふたりで自転車をこいで隣町まで走った幼い日から、気持ちはもう決まっていたのだ。
いつまでも一緒にいたい。つないだ手を放したくない。
たぶんそれが、誰より好きっていうこと。
遙香はゆっくりと目を開け、立ちあがってドアに向かった。