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ACT7 女神の箱庭

 ツアーを終えてネクサスホールに戻った響揮と遙香は、市内を無料で運行している公営タクシーに乗り込んだ。四つの車輪のついた箱型の車体には屋根もフロントガラスもなく、車というよりはトロッコのような趣だ。

「パークにのぼるエレベーターまでお願い」

 遙香が告げると、タクシーのAIはやわらかな女性の声で答えた。

『かしこまりました。アルテミスパーク直通のタワー・エレベーターまでご案内します。所要時間は約五分です』

 スライド式のドアが閉まり、タクシーがゆっくりと走りだす。重力の小さい月面では路面とタイヤとのグリップが保ちにくいので、速度は時速二十五キロほどだ。

 シティのシンボル、強化ガラスのドームに守られたアルテミスパークが建設されたのはいまから十年前だ。地球に住む人は、ルナホープではどこでも漆黒の宇宙に浮かぶ青い地球が見られるのだと錯覚しがちだが、そんな絵のような光景は市内のセントラル地区・アルテミスパークだけのものだ。居住区や工場など、シティのほとんどの部分は地下にある。

 ルナホープ・シティは、響揮と遙香がさっき見たような溶岩洞窟をベースにして築かれている。大気のない月では人体に有害な放射線や隕石が容赦なく地表に降り注ぎ、太陽光に照らされる昼間と闇に沈む夜との気温差が二百度にもなる。溶岩洞窟では、厚い岩盤がそれらの悪条件から人間や設備を守ってくれるため、居住施設や工場の建設に適しているのだ。大規模な掘削と整地が必要だが、溶岩洞窟を利用するメリットは十分に大きく、近年は溶岩洞窟の開発が進んでいる。

 だが、閉ざされた空間で長いあいだ生活していると、精神的な問題をかかえる人間も増える。そこでルナホープの市政施行にともなう社会基盤整備の一環として、地球連邦政府が巨費を投じ、〝外の見える〟公園、アルテミスパークを建設した。

 響揮は防汚コーティングが施された合成皮革のシートにもたれ、流れていく地下都市の景色を眺めた。

 天井までの高さは七メートルほどしかなく、圧迫感は否めないが、歩道にはフラワーポットが配されていて明るい雰囲気だ。壁面にプロの画家の手による絵が描かれているところもあり、道ゆく人を飽きさせない。区画ごとに設けられている小さな広場には低木樹や花が植えられ、住民の精神衛生に配慮した設計になっている。

 もっとも、広場は住民が憩うためだけにあるわけではない。

『ではここで、シェルターについてご説明します』

 AIが淡々とした口調で言った。ルナホープはいまや一大観光都市だから、機会あるごとに観光客に安全教育を施すのが市の政策なのだろう。

「いいよ、わかってるから」

 響揮は断るが、AIは意に介さない。

『歩道や壁には一定間隔で、蛍光オレンジの矢印が描かれています。これは広場に設けられた緊急避難シェルターへの道しるべです……』

 市内で火災などが発生した場合、その区画はシャッターで閉鎖されて消火が行われる。逃げ遅れた人は、独立した酸素供給や温度管理システムを備えたシェルターに避難して、その場をしのぐのだ。

 AIがとうとうとしゃべり終えるのを見計らったように、タクシーが目的地に到着した。

 ふたりは大勢の客とともに、ルナタワーに通じる長いエレベーターに乗り込んだ。着いたところは、半透明のガラスタイルが敷き詰められた明るい雰囲気のロビー。その向こうに広がるパークの鮮やかな緑と色とりどりの花々を目にして、遙香は歓声をあげた。

「わあ、きれいね!」

 エレベーターから吐き出された客たちと一緒に、ふたりは白いタイル張りの歩道に足を踏みだした。

 ドームの強化ガラスを通して、真横から差し込む太陽光がまぶしい。枝を大きく広げた照葉樹や草花、芝生もすべて日差しを受けて輝き、反対側には長くくっきりと影が落ちている。地球では絶対に見られない、光と影の幻想的な競演だ。

 月の北極近くにあるルナホープ・シティは、現在〝夕方〟の領域に位置している。地球から見るといま月は半月で、ルナホープは昼間と夜のはざまにあるのだ。夕方とはいっても地球のように大気があるわけではないから、空が茜に染まることはない。ぎらぎらした太陽がゆっくりと、何時間もかけて地平線に沈んでいくだけだ。

 自転速度が遅く、約二十九日で一回転しかしない月面では、二週間〝昼〟が続いたあとは二週間〝夜〟が続く。だが〝夜〟のあいだも連邦標準時に従い、人工照明によって朝六時から夜二十時までは〝昼間〟として扱われる。

「響揮、早く! アイスクリーム食べに行こ!」

 ガイドブックで調査済みらしく、遙香は花壇の向こうの〝神々の広場〟へと跳ねるように歩いていく。

 溶岩洞窟ツアーでは、遙香はなぜか口数が少なかった。疲労のせいだろうか、あるいは小さなミスが命取りになる空間で緊張しているせいだろうかと、響揮はいぶかっていた。だがいま、彼女はいつもの元気さを取り戻したようだ。

 ちょっとほっとして、響揮はぐるりとドームを見渡した。

 アルテミスパークはおよそ縦七百メートル、幅四百メートル、天井の高さは約四十メートル。面積はニューヨークのセントラルパークの十分の一にも満たないが、住民が三万人弱であることを考えれば贅沢すぎる広さだ。幾本もの単結晶ファイバー製の支持架に支えられた強化ガラスの天井は、ゆるいカーブを描いて地上に続き、上空から見るとまるで楕円形の箱庭のよう。

 月面の鉱物資源を使って生産された強化ガラスは、強い放射線や紫外線を遮断する特殊なコーティングが施され、カーボンナノチューブをはさみこんだ構造が、隕石の衝突にも耐える強度を生みだしている。万一ガラスに穴があいても、ただちに支持架の要所からバブル状の密閉材が放出され、穴をふさぐ応急処置が施されるシステムだ。

 神々の広場の手前に、目指すアイスクリームショップがあった。甘いものに目がない遙香は、さっそく特大のアイスがダブルでのったコーンを手にして、幸せそうな顔でぺろりとなめた。

「おいしーい!」

 それを横目に見ながら、響揮はシュガーフリーのアイスコーヒーを買った。

「響揮は? アイスクリームいらないの?」

 信じられないという顔で遙香が問う。

「ん、なんか気分じゃなくて」

「もったいなーい。この上のやつは〝ムーンレディ〟っていって、パークでしか食べられないんだよ。蜂蜜とレモンとココナッツ、それにクラッシュキャンディが入ってるの。味見してみない?」

 差し出されたアイスクリームを受けとろうかどうか、響揮は一瞬迷った。

 間接キス。

 いかん、なに考えてるんだ、あさましい。ぶんぶんと首を横に振ると、遙香は手を引っこめてつんと横を向いた。

「少しだけでも食べてみればいいのに」

 歩きだしながら、響揮はストローを口にくわえた。ときどき、遙香の鈍さにたまらなくいらいらさせられる。もっともこれほど鈍くなければ、いくら幼なじみとはいえ、男友達とふたりで月に来たりはしないだろうが。

 遙香がいままでに振った男は何人だろうと、ぼんやりと考える。少なくとも三人いるのは響揮も知っていた。ひとりなど、遙香の家の前で玉砕していた。

『ごめんね、あたし全然気づかなくて。これからも友達ってことで、よろしくね!』

 腹立たしいほどに無邪気な死刑宣告。

 にっこりと遙香にほほえまれ、男は虚ろな目をしてふらふらと帰っていった。それを響揮がリビングの窓からこっそりのぞき見ていたのを、もちろん遙香は知らないだろう。

 アイスコーヒーの苦さが喉にしみる。

 ストローを離し、響揮は小さくため息をついた。ベンチを探して周囲を見回す。パークは森や林、大小の池、芝生や花壇で構成され、バーチャルシアターやプール、クアハウス、アスレチックジム、バスケットコートなどの娯楽施設が点在している。

「ほんとにいらないの?」

 隣から遙香が訊いた。アイスクリームはすでに半分ほどになっている。

「……いらない」

「ま、いいけど」

 遙香がひょいと手を伸ばし、響揮の手からカップを取りあげた。

「ちょっともらうね」

 言い終わるか終わらないかのうちに、ストローを口に含んだ。

「う、苦いー!」

 顔をしかめ、カップを返してよこす。

「人の取っておいてその言い方はないだろ」

 文句を言いながら、響揮は手のなかのカップを見つめた。こんなことはいままでだってやってると自分を納得させ、ストローをくわえる。どきどきしながら横目で遙香を見ると、彼女はまた一心にアイスクリームをなめていた。

 気にしているのは自分だけかと思うと、響揮はばかばかしくなった。だが気になるものは気になるのだ。そう、彼女の胸元で誇らしげに揺れるペンダントも……。

 急にコーヒーがまずくなったように思えてストローを口から離す。ぼんやりと歩きながらカップを小さく揺すり、氷が鳴る音に耳を傾けた。

 自分と兄は容貌以外あまり似ているところはないと思っていた。それなのに、女の子に贈るアクセサリーの趣味が似てたなんて。しかもただの近所の女の子に贈るには高価すぎる品物だ。

 兄貴はいったいどういうつもりなんだ? 遙香だって誤解するじゃないか。

 そこまで考えて、響揮は慄然とした。もしも――もしも兄が意図的にそうしたのだとしたら?

 俺がオンラインモールでペンダントを買ったのを、兄貴は知っていた。ビットダイバーの兄貴なら、品物を特定するのは簡単だ。そしてわざと同じペンダントを送ってきたのだ。

 俺を出し抜いて、遙香の気を引くために。

 一瞬で激しい嫉妬が胸にあふれ、頭がくらくらした。

「冗談じゃないぞ」

 押し殺した声でつぶやく。

 俺が遙香を好きなことを、兄貴は知っていたはずだ。応援してくれていたんじゃなかったのか?

「ねえ響揮、この像、すてきじゃない?」

 ミルキーホワイトのガラス製の像の前で、遙香が足を止めた。アイスクリームはすでに食べ終えたらしく、手にはもうなにもない。

「え? ああ……」

 いつのまにか神々の広場に着いていたらしい。響揮は三メートルほどの高さのハンサムな男性の像を見あげた。着衣は西洋のものではないが、東洋のものとも違うようだ。しかし、いまの響揮にはそんなことはどうでもよかった。「そうだな」と気のない声で返事をする。

 この広場は一種の展示スペースでもある。中央の噴水のまわりのパネルでは、地球各地の月にまつわる神話や民間信仰を3Dフォロ映像と解説とで見られ、月の神とされる西洋のアルテミスやディアナ、エジプトのトート、アジアのソーマ、ツクヨミノミコトなど、神々の相互の関係や伝承の系譜がわかる。

 円形の広場の周囲は月神たちをかたどったガラス像で縁取られ、中世の城の中庭といった趣だ。月にはガラスの原料となるケイ酸塩が豊富なので、巨大なガラス像は月の〝豊かさ〟の象徴でもある。

「名前はシン。古代バビロニアの月の神だって。ちょっと天音さんに雰囲気似てるよね?」

「似てない」

 にべもなく響揮は否定する。

 遙香がマイティフォンの内蔵カメラを像に向けてから、ぐるっと回して焦点を響揮に合わせた。しかめっ面を撮られたくなかったので、響揮はぷいと横を向いて歩きだした。緊急避難シェルターを示す、足元のオレンジ色の矢印に導かれるように。シン像の背後には半地下式の緊急避難シェルターがあり、蛍光オレンジに塗られたハッチが場違いな明るさで存在を主張している。

「ねえ響揮、今日ちょっとヘンじゃない?」

 遙香の声が追いかけてくる。いっそこのままシェルターに逃げこんでしまいたいと、響揮は苦々しく考える。

「そんなことないさ」

「ううん、やっぱりヘンだよ。どうかしたの?」

 腕をとらえられ、ぐいと引かれた。

「言ってくれなきゃわかんないよ」

 答えられるわけがなかった。響揮はそっと遙香の手を払い、唐突に提案した。

「ルナレイクでボートに乗らないか?」

 一瞬、遙香は目を丸くしたが。

「……うん。月の湖でボートって楽しそう。でもホテルにチェックインして、シャワー浴びてからにしない? クレセントの部屋、早く見てみたいし」

「そうだな」

 飲む気の失せたアイスコーヒーのカップをもてあそびながら、響揮はルナタワーへと足を向けた。


 アルテミスパークの中央にそびえるルナタワーは、二次曲線に似たラインを描く塔の周囲に円盤状の居住スペースやレストラン、ショッピングセンターなどが螺旋状に配された、重力の小さい月面ならではのデザインだ。そのルナタワーのいちばん上の円盤に、ルナホープ・シティで最高級とされるホテル・クレセントがある。

 ふたりはタワー・エレベーターのホールで、ホテル直通のエレベーターを待った。

 これからいよいよ遙香とホテルの部屋でふたりきりになるのだ。そう考えると響揮の脈は速まり、心臓がどきどきしてくる。顔が赤くなるのを意識し、深呼吸してちらりと遙香を見る。

 クラシックな装飾が施されたドア上部の階数表示盤を見あげていた遙香が、ぱっと響揮のほうに顔を向けた。

「ねえ響揮――」

 まともに目が合い、響揮はどきっとしてあわてて視線をそらした。

「な、なに?」

「荷物は宇宙港からホテルの部屋に運んでもらってるんだよね?」

「そのはずだけど」

「……あ!」

 遙香が響揮の耳元に口を寄せ、興奮した声でささやいた。

「響揮の向こうにいるの、ミス・ディアナ・フローレスよ!」

 言われて響揮は頭をめぐらせた。いつ来たのか、長身の女性がすぐそばに立っていた。響揮は上のほうにある女性の顔を見あげた。

 緑色の瞳が印象的な、目の覚めるような美人だ。身長は百八十センチもあるだろうか、オリーブ色のシルクブラウスに、脚線美を見せつけるようなスリムラインの黒のスラックス。ブロンドはアップに結いあげ、いかにも大人の女性という雰囲気を漂わせている。

 たしかに、ネットニュースで兄と一緒に写っていた元モデルの美女だ。

 視線が合い、ディアナが軽くほほえんだ。

「こんにちは」

 やわらかで厚みのある、魅力的な声。

「こんにちは」

 声をかけられたことが意外で、とまどいつつ響揮は返した。

 エレベーターのドアが開くと、「お先にどうぞ」とディアナは響揮たちに言い、背後に立っていたチャイナドレス姿の中国系らしい少女を振り返った。手をちょっとあげて合図する。付き人なのだろうか。少女は心得たようにうなずき、数歩後ろに下がった。

 ディアナが乗りこみ、ドアが閉まる。客はいま三人だけだ。ディアナから甘い香水のにおいが漂ってきて、響揮はちょっと息苦しくなる。

「どこから来たの?」

 ほほえんで、ディアナが訊いた。

「日本です」

「観光ね。もう月は堪能した?」

「今朝着いたばかりなんです。でも昼間は溶岩洞窟に行きました。地球がとってもきれいだったわ」

 遙香が興奮に赤らんだ顔で言うと、ディアナはうなずいた。

「月はいいところよね。なかでも宇宙の眺めは最高よ。ホテルの部屋からもよく見えるから、味わってね」

 エレベーターがホテルのフロントのある十五階に着き、ドアが開いた。降りていく響揮と遙香に、ディアナは手を振る。

「楽しい旅を」

「ありがとうございます」

 挨拶を返し、ドアが閉まると、遙香はうっとりとため息をついた。

「話しかけてくれるなんて思わなかったな。気さくな人だね? 彼女、天音さんと一緒に仕事してるんだったよね」

「ああ。前にネットニュースの写真で遙香が名前教えてくれたろ」

「そうそう、写真でも美人だったけど、実物は女神みたいに輝いてたよね! やっぱりオーラが違うよ。モデル引退しちゃったの、ほんともったいない!」

 響揮は肩をすくめる。

「次の職がビットダイバーってのが、なんかよくわかんないよな」

「天音さん、ミス・ディアナについてなにか言ってないの?」

「べつに。兄貴のタイプじゃないんだろ」

「ふうん? じゃあ天音さんはどんな人がタイプなの?」

「さあ、知らない」

 先月、兄は同僚を亡くしてだいぶ落ち込んでいたが、恋人という雰囲気ではなかったと響揮は考えた。ヴィジのウィンドウ越しに一度だけ会ったその女性は赤い髪で、まるで少年のような体型をしており、ディアナ・フローレスとは正反対のタイプに見えた。

 ふと、月に来る前に受け取ったビデオメールを思い出す。兄はだいぶ疲れている様子だった。だが響揮は現在、心の中で一方的に兄に絶交を宣言していたので、同情するのをやめておもむろにフロントに向かった。

 カウンターの女性係員がふたりを見比べ、遙香に向かって訊く。

「保護者のかたはどちらに?」

 遙香のほうが年上に見えるのは、身長差からも当然と言えば当然だった。響揮は無愛想に答える。

「ちょっとツアーの手配に行き違いがあって。両親は明日来るんです」

 手元の端末を確認して、係員は軽く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。なにか不都合なことがありましたら、なんでもフロントにご相談くださいね」

 ふたたび視線を遙香に向ける。

「すてきなペンダントですね。よくお似合いだわ」

「ありがとう」

 遙香が頬を赤らめる。

 響揮はつくづく、今日は厄日だと考えた。

 だが部屋に案内されると、そんな考えをまた訂正することになった。

 広い部屋の一面を占める大きな窓の外には、まさに絶景が広がっていた。見おろせばパークのしたたるような緑、地平線に目を転じれば荒涼と続くクレーターに覆われた灰色の月面。その向こうには漆黒の宇宙を背景に、青い地球がまるで魔法のように浮かんでいる。

 言葉も忘れて風景に見入る響揮の後ろで、遙香はやわらかなカーフが張られたソファにぽんと飛び乗り、部屋の内装を見渡した。

「わあ、さっすがクレセントね!」

 落ち着いたグリーンでまとめられた室内は、壁にかけられた現代絵画のリトグラフからゴミ箱にいたるまで、高級感が漂っている。

「お金持ちになった気分!」

 すでに部屋になじんだ様子で、遙香はまたぽんとソファを下り、ドア脇に置かれていた自分のバッグを取って荷物台に運んだ。

 響揮は急に落ち着かなくなった。いざ遙香とふたりきりになると、妙に意識してしまう。ちらりと、ナイトテーブルをはさんで二台据えられたベッドに目をやる。濃いグリーンに金の刺繍のカバーに覆われたベッドはクイーンサイズで、ふたりでもゆっくり横になれそうだ。

 ……ふたりで横になる? 俺はいったいなにを考えてるんだ!

 気をまぎらわせようと、急いで壁面のスクリーンをつける。

 ニュースチャンネルではジョアン・フローレス暗殺未遂事件の続報を伝えていた。悲劇に見舞われた平和共立党党首は、さっきエレベーターで乗り合わせた女性の兄だと思いあたり、響揮は眉をひそめた。

 彼女は兄を見舞いに行かないんだろうか? 身内が危篤なようには見えない、平然とした様子だった。

「響揮」

 ためらいがちな声が呼んだ。

「え……なに?」

 振り返ると、着替えが入っているらしいビニールバッグを腕にかかえた遙香が、はにかんだ笑みを向けてきた。

「あのね、ずっと言おうと思ってたんだけど……ありがと。月旅行、誘ってくれて」

「礼なんて……当然だろ、遙香は家族みたいなものなんだから」

 一瞬、遙香の笑顔に寂しげな影がさした。黒目がちの大きな目がなにか問いたげにこちらを見つめる。

 どきりとして、響揮は見つめ返す。

「響揮、あたしね……」

「……なに?」

 遙香はふっとまばたきをして視線をはずし、窓の外に顔を向けた。

「……なんでもない。先にシャワー浴びちゃってくれる? あたし髪洗いたいから長くなるし」

「……うん、じゃあ」

 どきどきしている心臓の音が遙香に聞こえないよう祈りながら、響揮は荷物から着替えを取ってバスルームに入った。

 高級ホテルらしく、シャワーからは熱いお湯が出てくる。月面では水は貴重品だから、水なしのドライ・シャワーが普通だ。しかしそんなことも、いまの響揮は気づかなかった。

 遙香はなにを言おうとしたんだろう? いくら考えてもわからなかった。だが知りたくないというのが本音でもあった。

 うわの空のまま服を着て外に出る。入れ違いに遙香が入ってドアが閉まると、響揮はほっとため息をついた。

 ひとりきりになるのは久しぶりだ。遙香といると楽しいけれど、緊張するのも事実。ベッドに寝ころんで伸びをする。と、ナイトテーブルの上の光るものに目がとまった。

 ペンダント。遙香がはずしてそこに置いたのだろう。

 考えもなく手を伸ばし、しげしげと眺めた。

 そっくりだ、なにもかも。

 裏をひっくり返してみる。銀色のフレームには数字が刻まれていた。1、31、27。製造番号だろうか?

 ふっとなにかが頭をかすめた。思い出せそうで思い出せない、そんなじれったさに襲われる。

「くそっ」

 悪態をつきながら荷物から小さな包みを取り出し、一瞬のためらいののちに銀色の包装紙をばりりと破いた。どうせこのまま遙香に渡すことはない。

 ケースを開けてペンダントを出し、裏をひっくり返す。

〝TO HARUKA 23TH JUNE〟

 記憶どおり、響揮がジュエリーショップに頼んで刻んでもらった文字がフレームの同じ位置にあった。つまりここは製造番号を入れる場所ではないのだ。

 響揮は眉をひそめた。そのとき、ガチャリとドアノブが回る音がした。

 心臓が口からはみだすかと思うほど驚いて、響揮は文字どおり飛びあがった。電撃のような速さでペンダントをテーブルに戻し、同時にもうひとつをチノパンのポケットに突っこむ。その直後。

「響揮?」

 バスルームのドアから遙香が顔を出し、こちらを見た。ちょっと顔が赤い。

「なっ、なに?」

 うろたえたあまり声が裏返りそうになるのを必死で抑え、響揮はつくり笑いを浮かべた。

「……忘れ物」

 小声で言うと、遙香は指につまんだものを差し出して、ぷいと横を向いた。

 トランクスだった。



 頭のなかで自分を激しく罵倒しながら、響揮は部屋をあとにした。遙香がバスルームから出てきたとき、その場にいたくなかったのだ。

「あーもう、俺はいったいなにしてるんだ? 冗談抜きで最低だろ?」

 エレベーターホールでボタンを押し、思わず口に出す。だがそれで気が晴れるわけでも、遙香に対しての面目が回復されるわけでもなかった。

「浮かない顔だな。彼女とケンカでもしたのかい?」

 頭上から、よく通るテノールの男性の声が降ってきた。はっとして見あげる。

 クルーカットの赤い髪で、薄いブラウンのグラスをかけた青年が、返事を促すように首をかしげた。カジュアルなグレーのスラックスに紺色のスポーツジャケット。まくった袖口からのぞく腕はたくましく、意識的なトレーニングをしていることをうかがわせる。年齢は三十少し前というところだろうか。

 ふと、どこかで会ったことがあるような気がして目を細めるが、記憶によみがえるものはなかった。

「まあ、そんなところです」

 よけいなお世話だという顔をして、響揮は答えた。しかし相手は意に介さない。

「俺はアレックスだ。アレックス・ブローディ」

 訊きもしないのに名乗って、じっと響揮を見つめる。

「はじめまして。で、俺になにか用ですか?」

 礼を失しない程度の無関心さでたずねると、青年は拍子抜けしたような顔になり、無念そうに一度だけ首を振った。

 エレベーターの到着を知らせる合図音が響く。

 青年はきゅっと唇を結び、グラス越しにもわかる鋭いまなざしを響揮に当てた。

「ヒビキ・タカトウ、きみと話がしたい。だがここではまずい。十五分後にパークの神々の広場に来てくれ。ツクヨミノミコトの前で待ってる」

「なぜ俺の名前を――」  青年は口の前に人さし指を立て、黙れというしぐさをした。

 エレベーターのドアが開く音がして、響揮は反射的に顔をそちらに向けた。客は中年の女性ひとりだ。響揮はすぐに青年のほうを振り返ったが、姿はすでになかった。ホール脇の非常階段のドアがゆっくりと閉まるのが見える。

「乗らないの?」

 中年女性が訊いた。

「ああ……すいません、乗ります」

 響揮は腕時計を見て、十五分後なら十七時五十分だと計算した。

 俺の名前を知ってるなんて、あの人はいったい誰なんだ? なんの話があるっていうんだ?

 わけがわからないが、青年の表情にはどこかせっぱつまったふうがあり、無視できない気がした。あれは助けを求めている顔だと、響揮は感じた。



 神々の広場には人があふれていた。十八時前といえばデートや食事やその他もろもろ、待ち合わせのゴールデンタイムだ。おまけに今夜は平和行進が行われるから、人出が多いのも当然だった。

 大統領が来るためだろう、警戒にあたるルナホープ市警のライトブルーの制服が目立つ。広場の数カ所に設けられた高さ七メートルほどの警備塔の上にも、同じライトブルーの制服が見える。UCCIの腕章をつけた紺色の制服姿の捜査官もちらほらまじっている。

 さっきも来たので、像の位置はわかっていた。響揮はひときわ大きな台座に鎮座するパークの守り神、アルテミス像を横目に歩き、革鎧に身を固めて弓を引きしぼる姿のディアナ像の前に立った。

 エレベーターで会ったディアナ・フローレスのことを思い出す。女神の名にふさわしく、近寄りがたい硬質な美しさと、凛とした強さを全身に漂わせた人だった。

 響揮は腕時計に目を落とした。十七時四十分。約束の時間まではまだ十分ある。

 像の前の長いベンチには先客がいた。響揮は男からふたり分ほどの距離をとって腰を下ろし、ベンチの背に体をあずけてぼんやりと広場を眺めた。

 人波の向こう、風景に溶け込むよう工夫された美しいデザインのゴミ箱に目がとまり、思わずポケットに手を入れた。

 いっそのこと捨ててしまおうか。

 ペンダントを取り出し、チェーンをつまんで目の前に掲げる。三日月形のヘッドがくるくる回り、太陽光を反射してきらめく。

「……あ!」

 フレームの裏側に刻まれた文字を目にして、響揮は愕然とした。

 1、31、27の数字列。

 これは天音が贈ったものだ。さっきあわてて取り違えたのだ。

 しまった、と思うと同時に、響揮の耳には悪魔のささやきが聞こえた。

 遙香が気づかなければ、ずっとこのままでもいいんじゃないか?

 だがそんなことは良心が許さない。遙香だって気づかないとは思えない。

 悪魔を追いだそうと、響揮はぶるぶると頭を振った。傷がつかないようペンダントをハンカチに包んでポケットに戻す。

 ホテルに戻ったらこっそり取り替えよう。それまで遙香に気づかれないよう祈るだけだ。

 そのとき、背後に人の気配を感じてぎくりとして振り返った。

 ブルーの制服の警官が、険しい顔つきでベンチの中央を指さした。

「それはきみのか?」

 警官の示す先には厚みのある茶色の封筒が置かれていた。座ったときには気づかなかったが、先客のものだろうと響揮は思った。封筒から少し離れた向こうに、黒いキャップにグレーのジャケット姿の男が座っている。腕を組み、深く頭をたれていて、どうやら居眠りをしているようだ。

 不用心だなと、響揮は眉をひそめた。ルナホープの治安は連邦一だが、犯罪はゼロではない。こういう場所では荷物を手から離さないのが原則だ。

 そこで響揮はようやく、自分が置き引き犯と疑われたらしいと気づいた。むっとした顔で警官に答える。

「いいえ、違います」

「そうか、ならいいんだが」

 警官はとってつけたような笑みを浮かべた。右頬にある小さなほくろがまるでえくぼのようで、笑顔がさらに偽善的なものに見える。

 居心地が悪くなり、響揮はベンチを立った。ゆっくりと広場の反対側へ向かい、弥生時代ふうに髪を結った貫頭衣姿の日本の月神、ツクヨミノミコト像に近づく。すぐに例の赤毛の青年が現れて、「やあ」と短く挨拶した。

「よかった、来てくれて」

 薄いブラウンのグラスをはずすと、なにもかも見通すような冷たいブルーの瞳が現れた。

「歩きながら話そう」

 青年はすばやく周囲に目を走らせ、ふたたびグラスをかけた。

「話ってなんですか? 俺はあなたを知らないし――」

「きみの兄さんのことだ」

 鋭い口調の短い答えが、響揮の言葉を遮る。

「兄のこと?」

 月面慣れした歩調でさっさと歩きだした青年のあとを追い、響揮はさらにたずねる。

「兄のどんなことを?」

「天音と連絡がとれないんだ。きみは彼からなにか聞いていないか? あるいは彼からなにか預かっていないか?」

 響揮は首を振った。

「メールとこづかいはもらったけど……」

 響揮はつと足を止めた。数歩先で青年も立ち止まる。

「アレックスといったね。兄とはどんな関係?」

 警戒の色をあらわにした響揮を見つめて、アレックスはやれやれといったふうに短くため息をついた。

「友人だ。きみの話は天音から聞いてよく知ってる。たとえばきみの柔道の得意技は一本背負いだってこととか、隣の家の女の子にほれてるってこととか、ね」

 ひやかすように言ってにやりと笑ったのは、響揮の警戒を解くためだろう。だが響揮はその手にはのらなかった。

「そんなこと、兄から聞かなくても知ってる人はたくさんいる」

 アレックスは厳しい表情に戻った。

「天音が言ったとおり、きみはなかなかひとすじ縄じゃいかない相手らしいな」

 歩こう、と手ぶりで示す。響揮は露骨に警戒しながら、半歩後ろをついていく。

「オーケイ、これならきみが信じるってエピソードを天音が教えてくれたから、それを話すよ。きみの部屋の天井には星空がある。そうだろう?」

 響揮はうなずかない。アレックスは響揮の目を見つめて続けた。

「その星は天音と一緒に描いたものだ。しかし東京からは見えない南半球の空は天井に描けないので、南十字星はどうしようかと天音は訊いた。きみの答えはこうだった。〝遙香が持ってるからいい〟」

 たしかに、それは響揮と兄しか知らないことだ。響揮が苦笑して首を振ると、アレックスもつられたようにほほえんだ。

「俺にはどうして彼女が星を持ってるのか謎なんだがね」

「それは教えられない。でもあなたが兄と親しいことはわかった。兄は信頼していない相手にプライベートな話をする人間じゃないから。それで? 兄と連絡がとれないってどういうこと? 研究所にいるはずだけど」

「研究所にはもう問い合わせた。休暇中だと言われたよ。それも一か月だとさ」

「そんなはずは……。だって兄は、この旅行にも仕事が忙しいから来られないって言ってたんだ」

「……つまり、きみはなにも知らないんだな」

 アレックスの言葉の端に絶望を聞きとり、響揮はじっと、心中を推し量るかのようにグラスの奥の目を見つめた。

「俺はなにかを知ってるはずだったってこと? 詳しく聞かせてもらえるかな」

 アレックスはついと響揮から目をそらし、思案する表情になった。

 簡単に話せる内容ではないらしい。響揮もアレックスから目をそらした。そのときディアナ像が視界に入り、いつのまにか広場の反対側に来ていたことに気づいた。

 さっき座ったベンチになにげなく目をやって、響揮は目を丸くした。茶色の封筒がまだそこにあった。足を止めてあたりを見回すが、居眠りをしていた男性の姿はない。

「あの封筒……」

「封筒?」

 数歩先でアレックスが足を止め、振り返る。

「少し前にも同じ場所にあったんだ。男の人が脇に座ってて……」

 響揮はベンチに近づいて封筒を取った。ありふれた事務用の封筒で、フラップは封をせず、上下の玉に無造作に紐をかけてあるだけだ。中身は書類のたぐいではなく、平たいプラスチックの箱といった感触だ。月の重力を考えると、見かけよりずっと重い。

 響揮はもう一度周囲を見回した。つられてアレックスも響揮の視線を追う。

 二十メートルほど向こう、人々がつれづれに談笑している花壇の前で、こちらを見ている黒いキャップの男と目が合った。

「あの人だ」

 響揮が言うのと同時に、アレックスが押し殺した叫びをあげた。

「テイラー!」

 男がさっと身をひるがえし、花壇を飛び越えて広場から離れていく。

 追いかけようとした響揮を、鋭い声が止めた。

「動くな、響揮!」

 反射的に響揮は振り返る。蒼白な顔のアレックスが落ち着けというように両のてのひらをこちらに向け、厳しい口調で命じた。

「いいか、それをすぐ地面に置くんだ、そっとな。衝撃を与えないように。そしたら全速力で離れろ」

 ジャケットの内側に手を入れ、取り出したのは一挺の銃。アレックスはショックパルス銃と見えるその銃の先端を天井に向けた。周波数の高い耳ざわりな警告音が響き渡り、一瞬広場が静まり返る。

「UCCIだ、全員ただちにここから離れろ!」

 アレックスは手にバッジのようなものを掲げ、ぐるりと周囲に示した。

「爆弾だ! 早く離れるんだ!」

「爆弾だって?」

「逃げろ!」

 悲鳴があがり、人々がわれ先に走りだす。

 爆弾? これが?

 響揮はつかのま手のなかの封筒を見つめ、さっと腕時計に視線を移した。十八時二分前。

 そのままゆっくりと頭をめぐらし、広場を見回した。楽しげに談笑するカップルや家族連れ、人待ち顔の若者があふれていた広場は、いまやパニックの渦にのみこまれていた。重力慣れしていない観光客の多くが焦りのために体のコントロールを失い、転んだりガラス像にぶつかったりしている。

 これがいま爆発したら、この人たちはどうなるんだ?

「響揮、なにしてる! 早くそれを置け!」

 アレックスの怒声に、響揮ははっとわれに返った。また封筒に一瞬目を落としてから、体が浮かないよう角度に注意して、強く地面を蹴った。封筒を脇にかかえこんで。

「響揮!?」

 信じられないというようなアレックスの声が追いかけてくる。

「それを置け、置いてくれ! このばかものが――!」

 悲鳴にも似た懇願を、響揮は他人事のように聞いていた。どくどくと心臓が鳴っている。足が地面を蹴る感覚はなかった。まるで背に翼が生えたかのようだ。

 あれがあったのは月神シン像の近くだった。


 時計が、十八時を刻んだ。


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