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ACT6 ムーンウォーカー

 ロケットで月に向かうあいだに日付が変わった。響揮と遙香は、月を周回する軌道ステーションでルナホープ宇宙港ゆきのシャトルに乗り換えた。

 軌道ステーションからは、北極近くのルナホープ・シティや、南極近くにある月面第二の都市ルナサウス・タウン、また赤道域の施設群へのシャトルが出ている。赤道域には大規模発電施設や鉱物資源の採鉱・精錬工場、酸素製造工場、天文台などの各種研究施設が点在し、月域の産業を支えている。

 三十分後、大型バスに似た箱形のシャトルは、底面にあるエンジンを逆噴射させ、コンクリートの堅固なポートめがけて垂直に降りていった。月域の交通には垂直離着陸機が使われる。月面には大気がないので、地球の飛行機のような翼は必要ないからだ。

 シャトルから突きだした四本の脚がしっかりとコンクリートで固められた地面をつかむと、スプリングが着地の衝撃を吸収する。この脚部は箱形の本体に比べて華奢な印象だが、月面は低重力なので、この程度でも十分にシャトルの重量を支えることができる。

 宇宙港の施設群は隕石の衝突や宇宙線の影響を避けるため、月の砂で厚くおおわれている。そこから長いエレベーターで地下へ降り、溶岩洞窟を利用して建設されたルナホープ・シティへと入る。

 エレベーターを降りた響揮と遙香は、明るいベージュの壁と高い天井に囲まれた広いホールに出た。

「ここがネクサスホールだ」

 響揮はウエストポーチのホルダーからマイティフォンをとってマップを表示させた。

 ネクサスホールは月面の各観光ポイントや施設へ向かう人々の集合場所になっているので、観光客らしき人々があふれ、にぎやかだ。壁には3Dフォロの広告が浮かび、観光案内が流れている。

『氷の海遊覧ボートは、ネクサスホールBゲートより、毎日十時と十五時に運行しております。所要時間は約三時間、与圧スーツは必要ありません。市内と同じ服装で月面の絶景をお楽しみいただけます』

『ルナホープ・シティは今年、市政施行十周年を迎えました。本日六月二十二日の月条約締結記念日にはロシュフォード地球連邦大統領をお招きして、盛大なセレモニーを行います。おもな記念行事は――』

 響揮はスケジュール表を起動し、これからの予定を確認する。

 早めのランチをとり、十一時にアペニン山脈の溶岩洞窟ツアーに出発。夜はアルテミスパークで行われる平和行進に参加。平和行進は月条約締結記念日の恒例行事で、市民総出でパークに立ち、手をつないで輪を作るというものだ。今年は大統領も輪に加わるということで、例年以上の盛り上がりが予想される。

 そして明日はいよいよメインイベント、宇宙遊泳ツアーだ。ボートに乗り、地上十キロの上空で宇宙空間に出る。足もとに直径四十キロ、深さ三キロの月面でもっとも明るいクレーター、アリスタルコスを見ながらのスペクタクルな体験だ。

 市内に戻ったら、朝到着している予定の両親と合流。夜は遙香のバースデー・パーティで……。

 響揮はマイティフォンをホルダーに戻した。明日、遙香にプレゼントを渡そうと思っていた。計画をみごとに狂わせてくれた兄には、いつかお返しをしてやらなければ。五百UD程度のこづかいで許せる問題ではない。

「どうしたの? しかめっ面しちゃって」

 遙香が心配そうに顔をのぞきこんでくる。

「……なんでもない」

 ふと天音の奇妙なメールが思いだされたが、響揮はあえて無視した。兄貴はラッシュダイブのやりすぎでおかしくなっているに違いない。きっとそうだ。

「遙香、ランチはどうする?」

「ネクサスホールのフードコートにいろいろありそうだよ」

 遙香はマイティフォンで月面観光ガイドを見ながら言った。

「響揮のおごりだから、高いもの頼んじゃおうっと。これなんかいいな、〝月面産無農薬野菜たっぷりのアルテミスプレート。女性に超お勧め、二十UD、プラス二UDでドリンク付き〟」

「うわ、大損。次は赤組に賭けよう」

 ふたりは表示に従ってホールを歩きだした。

 踏みだす足は妖精になったかのように軽く、油断すると宙に浮いてしまう。月に来たという実感がわいてきて、響揮はわざと床を強く蹴り、大きくジャンプした。

「待ってよ!」

 遙香が追いかけてくる。空中に伸ばされた彼女の手をつかまえて、響揮はぐっとその手を強く引いた。一瞬にふたりの距離が縮まり、ふわりと泳いだ遙香の前髪の先が響揮の鼻先をかすめた。互いの顔がいつになく近い。

 目を見つめ合ったまま着地すると、ふたりはどちらからともなく顔をそらした。

「ご、ごめん」

 響揮はぱっと手を離した。

 遙香が所在なげに手をジャケットのポケットに突っこんで、また歩きだす。

 周囲を見ると、市民らしい月面慣れした人々は小股でさっさと歩いている。月では大股で歩くと前に進むよりも上に浮きあがってしまうからだ。

 ふたりはさっそくまねをして、お互いを横目で見やって笑いをもらした。



「やれやれ、絵に描いたような観光客だな」

 ときどき小さく跳ねたりしながら歩いていく少年と少女を見つめて、アレックス・ブローディは壁にもたれたままつぶやいた。

「まるで月ってのは楽しい場所みたいじゃないか」

 左の耳の奥にセットしたイヤホンから冷たい声が返ってくる。

『別な楽しみに発展しないように祈りますよ。彼らの両親のためにね』

「まだこだわってるのか、サレム」

 アレックスはにやりとして、胸ポケットにセットされたマイクロサイズの通信端末にささやく。

「あいつらだって子供をつくらないやり方くらい心得てるさ」

『主任!』

「わかってるよ、そういう問題じゃないって言うんだろ。まったく化石みたいな奴だな」

『僕から言わせてもらえば、両親はこんなことを許すべきじゃないんです』

 真剣に憤慨しているらしいサレムに、アレックスはまた笑った。

「仲良きことは美しきかな、美は善なり、ゆえに仲良きことは善なり。うん、われながらみごとな三段論法だ」

『プラトンですか。哲学は苦手だな』

「文学だよ。ムシャノコウジサネアツってんだ」

『ムシャノショウジアツアツ? なんだか怪しい呪文みたいですね』

「ムシャノコウジサネアツ、だ。俺には聖典の暗唱のほうがよっぽど呪文めいて聞こえるがね」

『ひどい偏見だな。今度意味を教えてあげますよ』

「そんな暇あったらデスクで報告書を作るぞ、俺は」

 アレックスは背中で壁を押して離れ、フードコートのほうに向かう少年たちを見送った。彼らがこれから溶岩洞窟探検ツアーに参加することはすでに調査済みだ。

「女神さまは?」

 皮肉な響きをこめて問うと、ややあって、かたい口調の返事があった。

『現在月まで二万六千キロ。到着は十四時ごろでしょう』

「月の女神、故郷に帰るってわけだ。なにを狩ろうっていうのか」

『狩るって?』

「ディアナってのは狩猟の女神でもあるんだよ。月域勤務ならギリシャ・ローマ神話くらい読んでおけ……って、異端の神の話は受け入れられないんだったか? 面倒な奴だ」

 聞こえよがしのため息をついて通信を切ろうとする。

『ああ、待ってください主任。いま、鷹塔天音の所在を研究所に問い合わせた結果が入ってきました』

「彼はどこにいるんだ?」

 アレックスはわらにもすがる思いで訊いた。

『休暇中で所在不明。今朝本人から申請があったそうです。期間は一か月』

「くそっ……!」

 アレックスは唇を噛んだ。血がにじむほど強く。こぶしを固く握りしめ、額に当てる。

『主任……?』

 気づかわしげな部下の声も、アレックスの胸に刻まれた深い悔恨の痛みをやわらげてはくれなかった。

『GPSデータを照会できればいいんですが……無理ですよね』

 連邦政府機関に所属する人間は、所在把握のためにGPSによる位置情報発信機を携帯する義務がある。そのデータを照会すれば居場所がわかるのだ。しかし、緊急事態でないかぎり、休暇中の人間のGPSデータを照会するのは個人情報保護法違反だ。

「そもそも彼がいま発信器を携帯してるとは思えない」

 通信を切ると、アレックスは足早にホールを歩きはじめた。

 盗聴に二十四時間の監視つきという状況のなか、天音はよくやってくれたと思う。だがいかんせん、ひとりで立ち向かうにはあまりにも相手が大きすぎた。いや、誰にとっても敵にするには危険すぎる相手だったのだ。

 しかし、アレックスも当初はディアナのことをよく知らなかった。そうでなければ、妹を巻き込むことはなかっただろう。ことのはじまりは、新任の部下のサレムからもたらされた情報だった。

 月域への異動前に中東とアフリカの過激派監視専門部署にいたサレムは、その方面の事情に詳しい。反政府地下テロ組織〈赤いドクロ〉のメンバーのひとりが最近ディアナに接触したという報告を聞いたとき、アレックスは奇妙な引っかかりをおぼえた。

 ディアナが新造のプライベートシップを手に入れ、何度も月に来ているのは知っていた。しかも彼女は特殊一級ライセンスを持ち、船を自分で操縦している。フローレス家は連邦一の資産家だから、金はうなるほどあるだろう。しかし、月域に相当の執着がなければプライベートシップを所有したりはしないはずだ。

 その彼女がテロリストと接触したというのは、どういうことだろう?

『おまえはディアナと一緒に働いているんだから親しいだろう。知っていることを教えてくれないか』と、妹のエメラインに頼んだのが先月はじめ。

 アレックスが知りたかったのは、ディアナの職場での様子や友人関係など、表面的なことだった。しかし、エメラインも連邦政府の捜査機関の一員である。研究所のプロジェクトに引き抜かれる前はテロ対策専門のネット捜査官だったから、勘が働いてなにかしら不審を抱き、深入りしてしまったに違いなかった。

『気になることがわかったの。また連絡するわ』

 使い捨てアドレスからのメールを最後にエメラインは消息を絶ち、翌日、自宅のアパートメントで遺体で発見された。検死の結果は心不全。ラッシュの過剰摂取によるものと断定され、事件にもならなかった。

 葬儀に参列した喪服姿のディアナと目線を交わし、悔やみの言葉を受けながら、このままでは終わらせないとアレックスは決意した。

 そうはいっても、ディアナは経済界の女帝ナタリア・フローレスの娘であり、政府内部や捜査局、警察関係者にも強力なコネがある。捜査しても、証拠はすべて公になる前に闇に葬られるだろう。

 当然のように、アレックスは裏道を選んだ。生前に妹からよく話を聞かされていた、彼女のごく親しい同僚、鷹塔天音に協力を求めたのだ。天音は連邦きってのビットダイバーだ。ディアナに対抗するには、どうしても彼の技術が必要だった。

 天音には葬儀ではじめて顔を合わせた。エメラインの棺に自分のバイオリンを入れてほしいと言われ、アレックスは驚いたものだった。

『エメラインとは秋に研究所内で演奏会をする予定で、一緒に練習していたんです。演奏会が終わったら正式な交際を申し込むつもりだった。僕はずいぶん年下だから、ちょっと遠慮していて』

 自分の代わりに楽器を彼女のそばに、と天音は泣きはらした目を伏せて頼んだ。

 最近雰囲気が変わったな、好きな男でもできたかと、アレックスが妹に訊いたのは死のひと月ほど前だった。エメラインははにかんで頬を染め、そばかすがいっそう浮きあがって見えた。

『片思いなの。彼すごくもてるし、わたしはずいぶん年上だから言いだしにくくて』

 妹はそう答え、同僚の男のことを恋する女の顔で話したのだった。

 彼なら、とアレックスは見込んだ。いま思えば浅はかで、捜査官としてしてはならないことだったとわかる。だが当時のアレックスは、たんに妹の無念を晴らしたいだけの愚かな兄だった。

 葬儀が終わった夜、アレックスは天音を教会に呼びだして事情を話した。天音は驚きを隠さなかったが、エメラインの死の真相を知りたいという思いはアレックスと同じだったようで、きっぱりとうなずいた。

『わかりました。その仕事ができるのは、僕以外になさそうだ』

 天音と実際に顔を合わせたのは、そのときを含めて三度だけだ。しかし意気投合するには十分で、エメラインが生きていればこの男が義理の弟になったのかもしれないと思うと、アレックスの悲しみはより深くなった。

 ところがその後まもなく明らかになったのは、エメラインの死の真相ではなかった。ディアナが六月二十二日に――すなわち今日、とんでもない〝計画〟を実行する気らしいということ。

 その時点で、アレックスは手を引くよう天音に忠告した。月域が仕事場のアレックスには、地球にいる天音を守る術がない。部外者の彼をこれ以上危険にさらすわけにはいかなかった。

 だが、天音は聞き入れなかった。他の人の命を救うことで、エメラインの犠牲は無駄ではなかったと思いたかったのだろう。その気持ちはアレックスにも痛いほどわかった。

 そして一週間前。近々詳しい情報を送ると連絡してきたのを最後に、天音からの接触は途絶えた。研究所での勤務は続けており、GPSで所在も確認できていたのだが、それも昨日までだ。

 クラッキングがディアナにばれて監視されていたのはわかっていた。ディアナが実力行使に出たと考えて間違いないだろう。

 アレックスは立ち止まり、眉間を指で押さえてため息をもらした。天音はおそらく、情報を守るために仮死催眠を使ったはずだ。生きている可能性はある。遺体をこの目で見るまではあきらめない。

 いまはとにかく、自分にできることをするだけだ。

 先ほど、反政府地下テロ組織〈赤いドクロ〉のメンバーで、広域指名手配中の爆弾魔、エリック・テイラーがルナホープ入りしたらしいとアフリカ支局から連絡が入った。現在ルナホープ支局はその対応に追われている。テイラーこそ、エメラインの死の原因ともなった、ディアナが接触したテロリストだ。私的に調査していた件が公になったのはありがたい。

 テイラーは顔を整形して指紋も変えているが、摘発された闇整形医のオフィスからテイラーの新しい顔と思われる画像が押収された。まずはこれを手がかりに、ルナホープ全域に手配をかける。地球連邦宇宙省宇宙域捜査局――UCCIは、こういった地球と軌道域、月域にまたがる犯罪の摘発が主な任務だ。

 それに、手がかりはもうひとつあるはずだと、アレックスは希望を持っていた。天音が命がけで残した手がかりが。

 アレックスは冷たい青い瞳を、天音の弟が消えたホールの奥に向けた。


      *      *


 正午。一時間ほど前にルナホープ宇宙港のローカル発着場を飛びたった小型船は、十二人の乗客と三人のインストラクターを乗せ、一路南のアペニン山脈を目指していた。エンジンは旧式の液体燃料型で、つぶれたカマボコのような外観の機体はお世辞にも優美とはいえない。

 船内は各人が着ている蛍光イエローの観光客用与圧スーツのために、まぶしいほど明るく感じられる。インストラクターのスーツは蛍光オレンジだ。

 漆黒の星空を背景にそそりたつ岩肌が見えてくると、船は静かに逆噴射をかけ、発着場に垂直に着陸した。

「ではこれからヘルメットと生命維持システムをセットして、船内を減圧して外に出ます。いよいよ月面探索になるわけですが、はじめてのかたは緊張してるでしょうねぇ? トイレに行きたい人は?」

 このツアーのチーフ・インストラクターがにこやかな顔で問い、手をあげかけてやめた客に向けてにやっと笑った。

「どうぞ、遠慮せずにその場でね。だぁれも気がつきゃしませんからね。ガマンするのは健康に悪いですよ!」

 客の緊張をほぐすように冗談めかして言う。客たちがくすくす笑った。観光用の与圧スーツでは、尿吸収パッド付きの下着を使うので、したいときにしていい。

 与圧スーツの着脱にはコツが必要だが、響揮は事前に観たデモ画像で覚えてしまっていたから、さっさと自分で着てインストラクターを驚かせた。

「ではこれから外に出ますが、必ずふたりひと組で行動すること。どうしてかはルナホープを出る前に聞いたと思いますが、忘れちゃった人は?」

 今度は誰も手をあげなかった。

 シティの外は真空で気圧もゼロだから、ちょっとしたミスが死につながる。不注意によって起こる事故を防ぐために、組んだ相手バディの様子に気を配ることが大切なのだ。注意すべき事項は、旅行前にネット経由での受講が義務づけられている「宇宙空間活動講習」によって、すべての観光客に周知されている。市制施行以来、観光客の死亡事故は不運にも隕石の直撃を頭部に受けた一件のみだ。

「オーケイ。なにか異常を感じたら、どんな小さなことでもすぐにわれわれインストラクターに言ってくださいね。そしてわれわれのそばを離れないこと。スーツには、あなたがたが迷子になったときすぐ発見できるようGPS発信器が組みこまれてますが、だからといって迷子になっていいということではありません。ここは安全な大気に守られた地球ではないということを、くれぐれもお忘れなく。では、これからみなさんに生命維持システムをつけてもらいます」

 響揮と遙香の担当はチーフ・インストラクターだった。ひとりずつ背中にバックパック型の生命維持システムを背負わせて与圧スーツと接続し、ヘルメットをかぶせる。ヘルメットとスーツの接続リングを合わせてシールすると、すぐにスーツ内が酸素で満たされる。生命維持システムから送られてくる酸素は乾燥していて、ちょっとほこりっぽい感じがする。

 左腕のコントロールパネルでシステムが正常に作動していることを確認し、準備完了。

『バディのシステムがオールグリーンになっているかどうか、お互いに見て。それから音声と目で、具合の悪いところはないか確認してください』

 スピーカーから聞こえる指示に従って、ふたりは互いのコントロールパネルを見せあった。

「オーケイ?」

『オーケイ』

 スピーカーから明瞭な声が聞こえてくる。

 通話はバディとインストラクターの声が大きく聞こえ、他のツアーメンバーの声はノイズ程度になるよう設定されている。ちょっととまどうのは、相手が遠くにいてもまるで耳元で話しているようにはっきり聞こえることと、ひとりごとも相手によく聞こえてしまうことだ。

『みなさん、異常ありませんね? では外に出ますよ』

 女性インストラクターがエアロック脇のコンソールパネルのカバーをはずし、赤い減圧ボタンを押した。ボートのキャビンには誰も残らないので、エアロックだけでなくキャビンも外と同じ真空になる。空気が徐々に抜けるに従い、与圧スーツ内の空気が膨張してふくらんでいく。

 再度、全員に異常がないことを確認してから、チーフ・インストラクターがエアロックのハッチを開け、続いて外に通じるもう一枚のハッチを開けた。

 そこは真空の大地だ。

 響揮はタラップのてすりをつかんだ。手袋は厚いうえに気圧差のせいでふくらんでおり、自由がききにくい。与圧スーツもいまや風船を着ているようなものだから、想像していたよりもずっと動きが制限される。とまどいながらも十段ほどの階段を下り、コンクリートで固められた発着場に下りたつと、細かい月の砂が足元でふわりと舞いあがった。

『わあ!』

 すぐ後ろから下りてきた遙香が歓声をあげた。

 前方にそそりたつアペニン山脈の岩壁は、地平線に近い太陽の光を真正面から受けてまぶしく輝き、その後ろの岩峰には長い漆黒の影が落ちて、目に痛いほどのコントラストだ。

 背景には無数のクレーターが穿たれた平野が横たわっている。クレーターの縁は隕石衝突の激しい衝撃を物語るように盛り上がり、なかには二千メートルもの壁となっているものもある。太陽光を受けて縁の一方は光っているが、反対側はすべてを吸い尽くすようなまっ黒な影を長く平野に落としている。灰色の地表にところどころ明るい放射状の筋が見えるのは、比較的新しいクレーターができたときに隕石が吹き飛ばした蛍光質の岩石のせいだ。

 風景に見とれていると、いつのまにかチーフ・インストラクターがそばに来て、指で天を指し示した。響揮はそり返るようにして頭上を見あげた。

 漆黒のベルベットを広げたような空が広がっていた。空気がないために、空は地球とは違っていつも真っ黒だ。太陽が沈む〝夜〟には、またたかない星々や銀河の放つ硬質な光を見ることができる。その空に、青い地球がぽっかりと浮かんでいた。

 半分の地球。いまにも破れてしまいそうなもろさを感じさせる薄い大気のベールをまとい、その惑星はくっきりと鮮やかに、虚空に生命の輝きを刻んでいた。

 呆然と立ったまま、響揮は背中がぞくぞくするような感覚を味わっていた。形容しがたい思いが胸の底からわきあがってきて、頭の芯がしびれてくる。

 チーフが静かに口を開いた。

『僕ははじめて月から地球を見たときに思ったよ。月はひとりぼっちでいるのが寂しくて寂しくて、それで地球を引力でゆさぶって生命を発生させたんだ、ってね。いつか宇宙を航って自分に会いに来てくれるように』

 月はそもそも衛星と呼ぶには大きな天体で、地球とは二重惑星系といってもいいくらいの大きさの比率をもつ。大きな天体は、引力もまた大きい。月は地球を引っ張り、そのために潮の満ち引きが起こる。数十億年前には月はもっと地球に近い軌道を回っていたため、月による潮汐はいまよりもずっと大きく、海岸の環境を短いサイクルで激しく変化させていた。それが進化のスピードを速め、生物の多様性を引きだす源となったのだと言われている。月はいまも、年に四センチずつ地球から遠ざかっているのだ。

『そしていま、われわれは月面に立っている。厳粛な風景をぶちこわすような蛍光色のスーツ姿でね。月の女神さまがファッションセンスにうるさくないことを祈るのみだ』

 おどけた口調で言って、チーフは発着場を横切り、小さな岩石や月の砂に覆われた月面を歩きだした。

『さあみなさん、こっちですよ。転んでも痛くはないけど、スーツに傷がつくかもしれないから注意してくださいね。異常を検知すると警告のアラームが鳴りますが、すぐわれわれが駆けつけますから、あわてないように』

 アペニン山脈は月面有数の高峰群で、七千メートル級の山々が連なるさまは、さながら地球のヒマラヤ山脈を思わせる。もっともここには万年雪もブリザードもないが。ふもとには三十六億年前に冷えて固まった溶岩によって、たくさんの洞窟ができている。

 観光用に開かれたルートはごく一部だが、天井の高さが百メートル近くあるホールのような洞穴もあれば、人ひとりがやっと通れるくらいの、探検気分が味わえる狭い通路もある。内部の照明は抑えてあり、ごつごつした岩肌がさまざまに陰影を刻んでいて神秘的な雰囲気だ。

 洞窟の入口は、地面にぽっかりと開いた直径五十メートルほどの穴だ。そこに地下へ通じる長いリフトが設置されている。

 リフト乗り場へと歩きながら、女性インストラクターが客に説明した。

『月はおよそ二十八億年前に火山活動を停止して、表面は冷えてしまいました。ここからは〝雨の海〟がよく見えますが、月面の〝海〟はご存じのように本当に水があるわけではありません。大きな隕石が衝突してできた穴に内部から溶岩が流れこみ、冷え固まったものが黒っぽく見えるのです。月面の明るい部分を陸、暗い部分を海と考えたのは、あのガリレオ・ガリレイが最初です。雨の海は三十二億年ほど前にできたものですが、みなさんがいま見ている風景は、そのころとほとんど変わっていません。当時地球では、恐竜はおろか植物さえ出現していませんでした。われわれはまだバクテリアだったのです……』

 気の遠くなるような時の流れを感じてほしいとインストラクターは考えたのだろうが、客のほうは話を聞けるような状態ではなかった。みんな慣れない与圧スーツと月面の低重力にもてあそばれ、歩くだけで精いっぱいという様子だ。

 故障したロボットのようによろめきながら進む客たちを尻目に、三人のインストラクターはリズミカルにとんとんと地面を蹴りながら、あまり砂を巻きあげずに進んでいく。歩くというよりは小走りという趣だ。

 響揮もまねをして歩いていると、遙香の声がした。

『まただ。響揮ってば』

 隣に目をやるが、ヘルメットのバイザーが太陽光を反射していて、遙香の表情はよく見えない。

「なに?」

『昨日のエアバスケットとおんなじ。なんでもやったとたんに上手にできちゃう』

「なんでもじゃないさ。楽器はからきしダメなの知ってるだろ。指揮者の息子のくせにって、よく陰口言われるよ」

『そーいえばそぉね。天音さんはピアノもバイオリンもプロ級だもんね』

 悪かったね、と響揮は心中で悪態をつく。どうせ俺は楽器音痴だよ、誰かさんと違って。

 母親の真城子も、ああ見えてビオラが得意だ。家族で弦楽四重奏団を結成するという両親の夢がかなうことは、永遠にないだろう。

 響揮は嘆息し、無意識に足を速めた。



 幼なじみの背中が遠ざかっていくのに気づき、遙香はあわてた。追いつこうと足を前に出した拍子にバランスを崩し、転んでしまう。

「あっ――」

 思わずもらした声が聞こえたらしく、響揮が振り返った。とんとんとリズミカルな歩調で戻ってきて、さっと手を差しだす。

『大丈夫か?』

 遙香はその手をとらず、自分で立ち上がろうとした。しかし、今度は背中のほうに重心がいきすぎて尻もちをついた。

 チーフ・インストラクターは、担当のもうひと組の客がふたりとも転んでしまったので、そちらのフォローに忙しい。

 ふたたび差しだされた響揮の手を、遙香は一瞬ためらってから握る。

「あんまり先に行かないでよ。あたしは響揮みたいには歩けないんだから」

『……ごめん』

 遙香は立ち上がるとすぐ響揮の手を離し、ついと彼に背を向けて、インストラクターがもうひと組の客を助け起こす様子を眺めた。こみあげてくる感情がなんなのかわからず、もどかしかった。いらだち? 焦り? それとも……。

 ヘルメットのなかでそっと、肩越しに後ろを振り返る。響揮はヘルメットのバイザーを上げて、アペニン山脈の絶壁の向こう、立ちのぼる煙のようなプラチナ色の銀河を見あげていた。

 遙香はどきりとした。

 響揮の視界に自分が入っていないのは明らかだった。幼なじみの横顔が、まるで知らない人のもののように感じられる。

「響揮!」

 思わず、大声で呼んだ。

 響揮がすぐ顔をこちらに向ける。

『なに?』

「……なんでもない」

 心臓がどきどきしているのはなぜだろう? 遙香は無意識に髪をいじろうとして手をあげたが、ヘルメットにはばまれ、はっとしてまた下ろした。

『お待たせしました、行きましょう』

 チーフ・インストラクターが呼びかけてきた。

『みなさん、できればあんまり砂を巻きあげないようにね。月の砂は細かい上に表面が鋭いから、精密機器と相性が悪いんです。ボートに戻ったときは、エアロックで砂を落とすのを忘れずに……』

 客たちは徐々に月面に慣れ、リフト乗り場に着くころには、みんなどうにか転ばずに歩けるようになった。

 だけど、と遙香は隣を歩く幼なじみをちらりと横目で見る。

 響揮は一歩一歩たしかめるように歩いていた。蹴りだしの角度とスピードで、どのくらい体の浮き方が違うのか。最適なスピードと歩幅はどれほどなのか。月の砂は静電気が起きやすく、すぐスーツに張りつくのに、響揮のスーツはきれいなままだ。

 遙香は自分のスーツを見おろす。何度か転んだせいもあって、下半身はもちろん、上半身も砂だらけだ。

 八月半ばになったら響揮はいなくなるのだと、遙香はふいに実感した。そう、真夏の言うとおり、響揮はヒューストンに行ってしまう。

 ひどく寒くなったような気がして、左腕のコントロールパネルに目を落とす。けれども、数字の意味は頭に入ってこなかった。

 髪に手をやりたくなる衝動を懸命に抑え、遙香はリフト乗り場で洞窟に下りる順番を待った。


      *      *


 強化遮光ガラスの向こう、灰色の地平線近くで輝く太陽を眺めながら、ディアナはシャンパングラスを傾けていた。

 ホテル・クレセントはシリウス・グループが所有する高級ホテルのひとつだ。自慢はすばらしい眺望だが、アルテミスパークの中央にそびえるルナタワーの上部にあるとなれば、それも当然。最上階のスイートルームは、オーナー一族のための特別室だ。

 ものうげに首を回して、ディアナは壁面を見た。スクリーンにはニュース番組が映しだされている。

『サンパウロ中央病院に収容されたジョアン・フローレス平和共立党党首の意識はいまだ戻っていません。爆弾が仕掛けられた花束をフローレス党首に渡した少女は、知らない男から花束をもらったと主張しており、現在捜査機関が連携して捜査にあたっています。しかし犯人の手がかりは得られていない模様です――』

 電話の着信音が鳴り、ディアナは発信者を確認してからスクリーンをヴィジモードに切り換えた。髪をアップにした中年のブロンド女性が写り、早口で告げる。

『ディアナ、お願いよ。早く帰ってちょうだい。……ジョアンが危ないの』

 母親のナタリア・フローレスだった。いつもの経済界の女帝の鉄の仮面はどこへやら、ひどく取り乱した様子だ。まるで普通の、愛情あふれる母親のように。

「パパが呼んだのかもしれないわね。今日は〝命日〟だもの」

 ディアナは冷たい口調で応じる。

『……あなたがジョアンを嫌ってるのはわかっているわ。でも――』

「いいえ、ジョアンがわたしを嫌ってるのよ。わたしなんかが見舞いに行けば、よけい具合が悪くなる」

『ディアナ――』

 ナタリアは絶句し、ヴィジのウィンドウのなかでただ涙を流した。

 夫が宇宙で行方不明になっても泣かなかったくせに。ディアナはますます自分の心が冷めていくのを感じる。

 長男のくせに家業は継がずに政治畑を選び、しかもグリーン・サンクチュアリ法にまっこうから反対して――つまりは地球を破壊する方向で人気を得ようとしているジョアンは、ディアナから見れば愚かとしか言いようがなかった。

 地球はすでに飽和状態だ。人類の未来はこれからの宇宙開発にかかっている。そんなことも見通せない男が次期大統領候補だなんて、笑うしかない。

 だがジョアンを盲愛するナタリアは、息子の政治への関心は実の父親に似たのだと、ひそかに喜んでいるふしがあった。

 そう。ジョアンの実の父親は、ナタリアの夫――ディアナの父親ではない。

『わたしのせいね』

 抑えた嗚咽のあいまに、ナタリアがつぶやいた。

『わたしがあなたをかまわなかったから……こんな冷たい子に……』

「わたしはあなたにそっくりだってよく言われるわ。冷たいところも似ていて当然でしょう。パパが苦しんでいるのを知りながら、あなたは放っておいた」

『わたしは――』

「あなたがわたしをかまわなかったのは、嫌っているからよ。ジョアンもそう。彼は小さいころからわたしを完全に無視していた。ジョアンの前では、自分がまるで透明人間になったような気がしたものだわ。彼と半分しか血がつながっていないのはわたしのせいじゃないのに」

『ディアナ、それは……』

 ナタリアは涙に濡れた緑色の目を見開き、なにかを言いかけて、また口を閉じた。

 秘密を告げようとするときのためらい。

 ディアナは嘲るように言った。

「ジョアンの実の父親がパパじゃなくてフランク・ロシュフォードだってこと、わたしが知らないとでも思ってたの?」

 ナタリアの顔にゆっくりと絶望の色が広がっていくのを、ディアナはただ無表情に見つめていた。


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