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ACT5 テイクオフ

 響揮と遙香を乗せたラムジェットエンジン搭載の新型旅客機は、成田空港を発って二時間後にパシフィック宇宙港に着いた。ここは赤道直下、インドネシアの島のひとつ。大気圏を脱出する旅客と貨物の両方を扱う総合宇宙港だ。

 ローカル旅客機用と、地球・軌道ステーション間を結ぶスペースシップ用の滑走路を複数擁し、その上空にはいつも翼が反射する日光のきらめきと、エンジンの轟きとが満ちている。

「すげー……」

 吹き抜けのロビーの高い天井を見あげて、響揮は感嘆の声をあげた。ターミナルビルは地上六階地下三階で東西に長い翼を持ち、真上からみた形は飛翔するアホウドリにたとえられる。中央部に位置するロビーはサッカーコートほどの広さがあり、地球の東半分から集まってきたさまざまな人種の人々であふれている。

「あたしたちの便の出発は予定どおりみたいね」

 正面の巨大なスクリーンに表示された運行表を見あげて、遙香が言った。

 その胸元に揺れるペンダントを、響揮は極力無視しようと努める。

「ランチ、軽めでいいよな? サンドイッチとか」

 家を出てからずっと、ふだんどおりにふるまおうと努力を続けていたが、からまわりしているのは否めない。遙香が不審に思うのも当然だ。おなかの調子でも悪いのかと機内で訊かれたときには、思わず本当のことを言ってしまいそうになった。

「いいけど、ほんとに大丈夫なの、響揮? いつもはカレー二杯とか食べるくせに」

「ああ……なんか胸がいっぱいっていうか。それにここ、ゲート通過に時間かかるし」

 われながら言い訳がお粗末すぎる。響揮は絶望的な気分でがっくりと頭をたれた。

 たしかに宇宙への出入口であるこの空港では、軌道域に伝染病を持ちこまないためのバイタルチェックや検疫、危険物の排除を目的とした荷物検査に時間がかかる。だが、その時間はもちろんスケジュールに織りこまれている。

『臨時ニュースです。ただいまサンパウロから、平和共立党ジョアン・フローレス党首の容体に関する最新情報が入りました』

 ロビーの壁に設置された大スクリーンに、周囲の人々の注意が引きつけられる。響揮もスクリーンに顔を向け、これで話題を変えられると心のなかで感謝した。

「爆弾テロがあったんだっけな」

 遙香が不安げな顔でうなずく。

「うん。フローレス党首は意識不明って聞いてたけど」

 すでに二期連邦大統領を務め、マンネリとの批判が出ているフランク・ロシュフォードにとっては、若く才気にあふれ、新興開発国の期待を背負ったフローレスの台頭は脅威だ。グリーン・サンクチュアリ法廃止の機運の高まりを恐れ、ロシュフォード側がテロを仕掛けたのではないかとの憶測も飛んでいる。

『現在サンパウロ中央病院に収容されているフローレス党首の容態が悪化し、母親であるシリウス・グループのナタリア・フローレス総裁が病院に駆けつけた模様です』

「やっぱりテロの原因はグリーン・サンクチュアリ法なのかな。いい法律なのに」

 つぶやくように遙香が言う。

「俺もそう思うけど、感じ方は立場によって違うからな。赤道域じゃ悪法だって迷惑がられてるらしい」

「でもあの法律がなくなったら、また温暖化が進むでしょ? 地球全体の環境が悪化するのに」

「局所的な見方しかできない人も多いんだよ。フローレスを支持してるのはそんな人たちだ。フローレスが大統領になれば、今度こそ連邦が分裂するかもって話だ」

 響揮は顔をしかめる。地球連邦成立後は落ち着いてきている各地の民族紛争もふたたび活発化して、テロの脅威が再燃するかもしれない。

「なんで……人は殺しあうんだろ?」

 遙香は病院を映しているスクリーンから目をそむけた。

「ロシュフォード大統領、月に来れるのかな」

「フローレスの暗殺を指示したって疑われてるんだから、意地でも予定どおり来るだろ。噂なんて気にしてないってとこ見せないと、次の選挙で勝てない」

「そっか。じゃあ平和行進で大統領に会えるね。じつはけっこう楽しみにしてるんだ」

 暗い雰囲気を変えたいらしく、遙香が軽い口調で言ったので、響揮も調子を合わせた。

「マジ? 遙香ってロシュフォードのファンだった?」

「うん。銀髪がいいよね、いかにも渋いオジサンって感じで」

「……外見よか中身見ようよ」

「ホントの中身は知り合いにならないとわからないでしょ。政治家なんてとくにね。さ、響揮、行こ!」

 ぽんと響揮の肩をたたき、勢いよく駆けだした遙香の胸でペンダントがはずんだ。

 追いかけながら響揮が呪いの言葉を吐いたことに、遙香はまったく気づいていないようだった。


      *      *


 大気圏を脱出するためにふたりが乗るのは、〝トロイカA〟と呼ばれる離脱型スペースシップだ。正面から見ると、長い翼に三つの船体がつり下げられたような外観をしている。中央の船体が旅客用で、翼でつながっている両側は主にハイブリッドエンジンと燃料タンクで占められている。

 地上機よりかなり小さなつくりのエアロックを通って、ふたりは背もたれの傾斜が大きいシートについた。アナウンスに従って四点式のシートベルトを締めると、響揮は頭をヘッドレストに預け、大きく息を吐きだした。興奮で胸がどきどきしてくる。

 トロイカAの全長は約三十メートル、翼の長さは約八十メートル、旅客定員は二十四名。大気圏外まで飛ぶのは固体燃料ロケットエンジンを備えた中央の旅客船スペースシップのみで、残りの翼を備えた双胴のランチャーシップは、高度八十キロでスペースシップを切り離したのち、滑空して地上に戻っていく。スペースシップにも地上に帰還する際に必要となる翼と垂直尾翼があり、前世紀末頃に活躍したスペースシャトルをスマートにしたような姿だ。

 やがて双胴のエンジンがうなりはじめ、トロイカAは先導車に引かれて滑走路を動きだした。メイン滑走路に入り、先導車が離れていく。船体は地上機の倍の加速度でぐんぐん速度を上げ、そしてふわりと、だがかなり急な上昇角で滑走路を離れた。

 はじめて体験する宇宙へのテイクオフ。響揮は無意識に隣の席の遙香に目をやった。遙香が興奮と緊張に満ちた顔でうなずく。

「なんか乱暴な感じだね?」

「とろとろしてると滑走路を行き過ぎちゃうんだよ」

 地球の重力に対抗し、厚い大気の層を突き破るにはかなりのスピードが必要だ。そのために乗り心地が犠牲になるのは仕方がない。船体の振動は想像以上で、事前に知らされていたにもかかわらず、ちょっと不安になる。

 高度十キロを過ぎると加速度は地上の二・五倍になり、体がシートに押しつけられて身動きが難しくなった。船内にアナウンスされる速度と高度がどんどん上がっていく。

『現在の高度は四十キロ、航行速度は秒速四・一キロです。まもなく当船はランチャーシップから離脱し、ロケットエンジンに点火いたします。揺れを感じますが、異常ではありませんのでご安心ください』

 乗務員の言葉どおり、切り離されたスペースシップはロケットエンジンを噴かしてさらにスピードを上げ、大気圏脱出速度の秒速七・八キロに達する。そして高度百二十キロ、大気の影響がなくなる高度までいっきに飛ぶ。離陸からの二十分は、はじめて大気圏を離れる響揮には一瞬のことに思えた。

 ふと体が軽くなり、肘掛けに置いていた手が浮きあがる。前もって後ろで三つ編みにした遙香の髪がゆるく空中に漂う。同様にふわりと浮いたペンダントを見て遙香は顔をほころばせ、ブラウスの下に押しこんだ。

『当船はただいま地球を周回する軌道に入りました。船内は無重力状態になっておりますので、十分にご注意ください。当船は今後、徐々に高度を上げて連邦第三宇宙ステーションへと向かいます』

 気がつくと、横手にある小さな窓いっぱいに、したたるような青が広がっていた。

 地球だ。

 胸に熱いものが満ちてきて、響揮は知らずのうちに呼吸を止めていた。

 隣の席で、遙香も同様に息を詰めて窓の外を見守っている。ふたりだけでなく満席の乗客全員が、言葉もなく外の光景に見とれていた。不思議な連帯感が船内を包む。

 遙香が響揮のほうに顔を向けて、ふっと笑いかけた。

 言葉は交わさなくても、響揮には彼女がなにを言いたいかわかった。うなずくと、遙香はきらきらした瞳でうなずき返した。

 もうあのペンダントにこだわるのはやめようと、響揮は思った。いまこうして遙香の瞳に映っているのは、兄ではなく自分なのだから。


      *      *


 スペースシップが慎重に速度を合わせながら宇宙ステーションに近づいていくあいだ、響揮はその様子を小さな窓から食い入るように見つめていた。

 現在、地球の低軌道では三つの宇宙ステーションが周回している。いちばん新しい連邦第三軌道ステーションは、大きなふたつのリングを縦に連ねた形から、〝ダブルドーナツ〟と呼ばれて親しまれている。

 リングの一方はホテルになっているので、滞在を目的に来る観光客も多い。宇宙からの地球の眺望と無重力体験を売り物にしたツアーも多く企画されている。

 スペースシップはここで地球からの乗客を降ろし、代わりに地球に帰る人々を乗せて、ふたたび大気濃い地表へ戻っていく。降りた乗客は船を乗り換え、軌道域に散らばる宇宙工場や研究施設、月へと旅立つ。

 乗り換えが必要なのには理由がある。酸素が豊富な大気圏内と真空の宇宙空間では、エンジンの駆動系や使用する燃料、燃焼促進剤も異なる。それぞれに最適なエンジンと燃料を積んだ船を使うのが効率的、イコール経済的なのだ。

 ダブルドーナツのドッキングベイにスペースシップが近づくと、牽引ビームが確実に補足して、強化カーボン素材のケーブルが機体をしっかりとベイにつないだ。続いて連結チューブが伸ばされ、エアロック外側の連結フレームにがっちりと食いこむ。そのわずかな振動が到着の合図だった。

 ここから先はグリニッジ時間に合わせた連邦標準時が採用されていると、乗務員がアナウンスした。

『ステーションのリング内は、回転による遠心力で地球の約五分の三、〇・六Gに調整されております。また、リング中央のハブ内ではほぼゼロGですので、ご注意いただきますとともに、無重力体験を存分にお楽しみください』

 そのあとに続く乗務員やら機長やらの挨拶は、興奮した乗客たちの耳には入っていなかった。

〝ハブ〟とは、ドーナツの穴を貫いて二重のリングを支える円筒形の建造物だ。ステーションの回転の中心にあるため、重力はほぼゼロ。ドッキングベイはこのハブの端にある。

 月には地球の六分の一とはいえ重力があるので、響揮と遙香にとって無重力を満喫できるのはここだけになる。ふたりは乗り換えまでの時間を利用して、ハブ内にある無重力室で遊ぼうと計画していた。

 漂うようにエアロックを通り抜け、宇宙ステーションに入る。目を見交わすだけで互いの興奮が手にとるようにわかり、ふたりはどちらともなく手を差し出して軽くにぎりあった。

 遙香の手はふわっとしていてあたたかかい。響揮はぎゅっと握りしめたくなるのを必死に抑え、ぶっきらぼうに告げた。

「早く無重力室に行こうぜ」

 無重力の空間では、なにかにつかまらないと方向転換が難しい。一度床を蹴れば、そのスピードと方向を保ったまま慣性でどこまでも行ってしまう。便利な面もあるが、地球の一Gに慣れた体にはとまどうことが多い。壁に設置されている手すりをうまく使うのが、スムーズに移動するコツだ。

 ものの数分で慣れた響揮に比べると、遙香の体さばきはなんともぎこちなかった。手すりを離すたびに思わぬ方向に流されるのにいらだったらしく、遙香はしまいに響揮のウエストポーチをしっかりつかんだ。

「な、なんだよ」

 思いがけず遙香の体を間近に感じて、響揮の心拍は急上昇する。

「だめ? これがいちばん楽なんだもん」

「だめじゃないけど……」

 ほんとはうれしいけど、と心のなかでつぶやく。

「自分でしないとうまくならないだろ」

「ケチ」

 遙香はぷいと横を向いて手を引っこめる。

「あたしは宇宙飛行士にならないんだから、うまくなる必要なんかないのよ」

 心なしか、遙香の言葉にはとげがあった。ふだんなら聞きとがめるところだが、こんなところで口喧嘩をしたくはない。

「……ごめん」

 素直に、響揮は謝った。

「あ……あたしこそ。ごめん」

 遙香がまた手を伸ばして、ためらいがちに響揮のウエストポーチをつかんだ。

 表示に従って通路を進み、無重力室のドアを開ける。

「わ、エアバスケットやってる! ゲームかな、ラッキーだね!」

 顔を輝かせ、遙香は手で反動をつけて先に入っていった。

 室と名はついていても学校の校庭くらいの広さがあり、ハブの円筒にそった壁にはやわらかなマットが全面に張られている。その奥にエアバスケットのコートが設けられ、半透明のラバーフェンスで仕切られた空間で、ユニフォームを着た選手たちがボールを奪いあっていた。五名は赤のユニフォーム、残り五名はその上に白のベストをつけている。

 試合は終盤らしく、掲示板に記された得点は七二対七二。遙香がすかさず「赤」と言い、響揮は「白」と答えた。

 選手たちが六面のフェンスを巧みに使い分け、方向転換用に設けられたラバーグリップを操って自身とボールをコントロールするさまは、まさに芸術だ。コートの周囲には観光客らしい人々やチームの応援団が浮いていて、思い思いの姿勢で声援を送っている。

 観客のひとりに訊くと、これはステーション内に勤める人々の草バスケチーム、〝ドーナツメーカーズ〟の紅白試合で、宇宙工場連合チームとの試合に備えて練習しているのだと教えてくれた。

 審判のホイッスルが鳴り、試合は終了。九十六対九十二で赤チームの勝ち。

 遙香がにやっと笑ってVサインをした。

「明日のランチ、おごりね!」

「ちぇっ、ついてないなあ」

 ぼやく響揮を横目に、遙香は笑いながら試合の終わったコートに入った。浮かんでいたボールを拾い、ゴールリングをねらって放つ。だがボールはゴールのほうにすら飛ばず、自分の体が回転してしまう。無重力状態では、重心をうまくコントロールしないとボールを投げることすら難しいのだ。

「あ、あれ? やだもう、どーなってるの?」

「相変わらずへたくそだな」

 手足をばたばたさせる遙香を横目で見て笑いながら、響揮はボールを拾い、足元のフェンスを蹴った。体を回転させて、かつては頭の上にあったフェンスに足をつく。体の中心から押し出すように、ゴールリングめがけてシュートを放つ。

 ボールはまっすぐリングを抜けた。

「スリーポイント! 案外簡単じゃん」

 ようやく体の回転を止めた遙香はラバーグリップを握って体の方向を変え、リバウンドのボールを拾おうとした。だがボールは指先に触れただけで向こうに飛んでいってしまい、彼女は頬をふくらませる。

「どこが簡単? 響揮ってば、なんでもやったとたんにうまくできるなんて反則だよ」

 響揮はラバーグリップをつかんで軽く横に飛び、跳ね返ってきたボールを受け止める。体をひねってフェンスに足をついて蹴り、コートを移動しながらまたシュートした。

「脳細胞の不足分を運動神経が補ってるのさ」

 ゴールリングを通過し、背後のフェンスでバウンドしたボールが、正確に遙香の胸をめがけて飛んでくる。今度はきちんとボールを受け止め、その慣性で後ろに漂いながら、遙香はあきれたように首を振った。

「記憶力だって抜群のくせに」

「……兄貴ほどじゃない」

「比べる対象が間違ってるよ。天音さんは特別なんだから」

 響揮の表情が陰ったのに気づかずに、遙香は陽気な口調で続けた。

「そういえば響揮、自転車もまたがったとたんに補助輪なしで乗れたよね。覚えてる? あのとき、ふたりで隣町まで走ったでしょ」

「ああ、四つのときね。おそろいの自転車買ってもらったんだよな」

 遙香はくすっと思い出し笑いをして、ボールをそっと響揮のほうに押し出した。

「あたしはもちろん補助輪ありなのに、負けるもんかって必死に響揮を追いかけた。そのうち補助輪に頼らなくても走れるようになって、楽しくて」

「どこまでも行けるような気がしたな」

「うん。ふたりでずっと走っていたかった。でも転んで怪我して、気がついたら全然知らない景色になってた。怖くて痛くてわんわん泣いたら、響揮ってばあたしよりチビだったくせに、おぶって帰るって言ったんだよ」

 受け止めたボールを、響揮は左手から右手へと移し、遙香に投げ返す。

「遙香は泣き虫だからな、昔から」

 遙香はふっとまぶしそうに目を細め、手元に漂ってきたボールに視線を落とした。

「響揮の前でだけだよ。どうしてかな。うちではそうじゃないのに」

「いいお姉さんだもんな、遙香は。いつも家族の食事つくって、片づけして、渚沙の世話をして……えらいと思うよ。俺にはとてもまねできない」

「あたしにはそれくらいしか取り柄ないから」

 ボールを胸にかかえると、遙香は照れたように顔を赤くして目をそらした。

「あのときね……響揮がおぶってくれたとき、すごくうれしかった。怖いのも痛いのも、どっかに飛んでいっちゃった」

「三歩だけだったけどな」

 遙香を背負ったまではよかったのだが、わずか三歩で響揮は重さにおしつぶされてしまったのだ。なつかしさと同時に、痛みが胸によみがえる。

『あたし、自分で歩く。一緒に帰ろ』

 涙でくしゃくしゃな顔で、遙香は気丈に言った。それからふたりはゆっくり自転車を引いて歩いた。夕焼けが夕闇に変わり、天頂に夏の大三角形が輝きはじめる。町境まで来たところで、心配して探していた天音に拾われた。軽々と天音に背負われた遙香が、ほほえんで響揮に片手を伸ばす。

『楽しかったね。また一緒に行こ?』

 つないだ手は汗と涙と埃でべとべとだった。それからすぐ遙香は天音の背にもたれて眠ってしまい、力が抜けた手は響揮の手を離れた。

 チビじゃなければ、もっと強ければ、遙香を背負って帰れたのにと、四歳の響揮は幼心にも情けなかった。柔道の道場に通いはじめたのはそれからだ。

 持ち前の運動センスでめきめきと腕を上げ、小学生のころは学年別柔道大会で全国大会に出場したこともある。だが貧弱な体格がハンデになり、中学では関東大会止まりだった。十キロ以上も体重差のある相手には、さすがにかなわない。

 それでも、四歳の当時から比べればずいぶん強くなった。体力には自信がある。いま遙香を背負ったら、と響揮は想像した。

 あのやわらかそうな胸が俺の背中に押しつけられるのか。でもって髪がさらっと首筋にかかって、ふんわりといい匂いがする。後ろに回して支える俺の手に遙香のヒップが……。

「あ、またなんかヘンなこと考えてるでしょ」

「えっ? い、いやなにも? そろそろリングのほうに行って休憩しないか?」

 あわてて響揮はごまかし、遙香を促して無重力室を出た。


      *      *


 パールホワイトの優美な船体が、星々のあいだを悠々と、すべるように飛んでいく。スペースシップ〝ネオペガサス301Σ〟は、地球の大気圏を離れるときはトロイカAと同様にランチャーシップの助けを借りるが、その後は搭載された強力なハイブリッドロケットエンジンを駆使して宇宙を渡る。

 新素材の繊維強化セラミックスを使用した機体は軽量で、月面にもダイレクトに着陸できる。地球大気圏へ突入する際はふたたびランチャーシップとドッキングし、滑空して着陸する。経済性は完全に無視されており、連邦大統領専用機も同型だが、維持するにはそれこそ中堅都市をひとつまかなえるほどの巨費が必要だ。

 法人所有でセレブ向けのゴージャスな宇宙旅行にレンタルされるのが主で、個人所有は連邦内で三隻のみ。そのうちの一隻に、いまディアナは乗っている。母親であるシリウス・グループ総裁、ナタリア・フローレスにねだって、去年買ってもらった。

 垂直尾翼には控えめに、〝エンデュミオン〟という船名が記されている。ギリシャ神話に登場する美青年で、月の女神の恋人の名だ。夢のなかで女神に会い、恋に落ちたエンデュミオンは、永遠にその夢を見続けたいと神に願う。願いは聞き届けられ、エンデュミオンは眠ったまま夢の楽園で女神と幸福に暮らすのだ。

 名づけたのはナタリアだ。ディアナとはローマ神話の月の女神の名だったから、おそらくしゃれのつもりだったのだろう。命名権は主張しないという条件で買ってもらったので、ディアナも文句は言わなかった。

『長いことお父さまをあなたひとりに任せるようなことになってしまって……感謝してるのよ、ディアナ』

 母親はそう言った。でもこの船は、感謝のしるしというよりは慰謝料だろうと、ディアナは皮肉に考える。ナタリアはなんでも金で解決できると思っている。

 ディアナは小さな窓のそばにたたずみ、彼方に輝く地球を見つめた。

 青い星。きれいだとは思うが、そこにもう愛着を抱いてはいなかった。すべては去年、冷たい雨が降りしきるサンパウロの街で終わったのだ。あの日、ひっそりと家族だけで行った父親との別れの儀式のことは、終生忘れないだろう。

「父はね、母を心から愛していたの。でも母が愛していたのは会社とジョアンと……昔の恋人だけ。父とはただ結婚していただけだった。父はわたしにとてもやさしかったわ。正気のときはね。じきにアルコールとドラッグにむしばまれて、心を病んで……姿を消した。月に行ったとわかったのは一週間後だったわ。シリウス・スペースカーゴ社の小型貨物船をチャーターして、無理やり飛ばせたのよ」

 ディアナは目を室内に戻した。ベッドに横たわる青年の、青白い顔を見つめる。彼はこの船の贅沢な内装を見ることも、流れているゆるやかなクラシック音楽を聴くこともなく、眠り続けている。さながら神話のエンデュミオンのように。

 ここにいるのが父親だったら、とディアナはふと考える。

 幼いころ、父親と屋敷のベランダからよく夜空を眺めて話をした。いつか一緒に月に行こうと言って、父親はほほえんだ。

『だってディアナの名前は月の女神からもらったんだから、一度は行ってみないとね。その次は火星だ。ほら、あの赤い星。火星ではね、ディアナ、夕焼けが青いんだぞ』

『ほんと? じゃあ木星の夕焼けは何色?』

 ディアナが訊くと、父親は笑ってディアナの頭を撫でた。

『パパと一緒に行って確かめよう。木星の次は太陽のお隣の恒星、リギル・ケンタウルス。それから天の川の先にある大マゼラン雲だ。ちょっと遠いけど、ふたりならきっと行ける』

 父親が指さした先、天の南極近くにある星雲は、ぼうとしたやわらかな光を銀河のそばに広げている。

『まるで花嫁さんのベールみたいね、パパ? ねえ、大マゼラン雲に着いたら、ディアナをパパのお嫁さんにしてくれる?』

 父親はまた笑い、ディアナを肩の上にかつぎあげた。

『ディアナにはパパよりずっとすてきな花婿が現れるさ。ディアナを誰より愛してくれる王子さまがね』

『その人はパパよりもディアナを愛してくれるの?』

『もちろんだ。それが運命の相手なんだよ。パパがママにめぐり会ったように、ディアナもいつか、たったひとりの相手にめぐり会うだろう』

 父親の肩の上、やわらかな黒い髪に覆われた頭につかまって、ディアナは星雲を眺めた。近くには小マゼラン雲やオメガ星団、そしてひときわ目を引く南十字星にケンタウルス座。一等星は十個以上見え、南半球の夜空は華やかだ。

 手を伸ばせば星がつかめそう。そう思って父親の頭から手を離し、空に向ける。バランスが崩れて体が傾くが、すぐに父親の大きな手が支えてくれる。

『大丈夫かい、ディアナ?』

『うん』

 目を見交わし、ふたりはほほえんだ。そしてまた、彼方の星々に顔を向けた。

 大マゼラン雲が十六万光年もの彼方だとディアナが知ったころには、父親の体は月への渡航ビザの申請さえできない状態になっていた。

 それでもディアナは夢を捨て切れず、自分で父親を月に連れていけるように、モデル業のかたわら猛勉強して特殊一級パイロット免許をとった。ビットダイバーを目指したのも、公のデータを改ざんするクラッキング技術を身につけ、父親をこっそり月面に下ろすためだった。

「……地球を出ることはできても、ビザがなければルナホープには入れない。だから、父の船はしばらく月の軌道を周回していたみたい。そしてあきらめて、地球に進路をとった。でも……船は突然連絡を絶ち、航路から消えた。それがちょうど一年前」

 ディアナは窓から離れてベッドに体を漂い寄せた。青年の胸にそっと耳をつけ、目を閉じて、鼓膜に響いてくる間遠な心臓の音に聞き入る。

 なぜこの男を始末してしまわないのだろう。

 理由はわかっていた。黒い髪と黒い瞳、穏やかな笑顔が、正気のときのやさしい父に似ていたからだ。はじめて天音に会った瞬間に惹かれたのは否定できない。

 天音はディアナを特別扱いすることもなく、ただの仲間として接してくれた。彼のそばではくつろいだ気分になれた。父親とベランダで夜空を見あげていたときのように。

 ディアナは目を開け、ゆっくりと頭を起こして、天音の動かない指に自分の指をからめた。男にしてはほっそりとした繊細な指。バイオリンを持てば巧みに弦を押さえ弓を操る器用な指も、いまはただ冷たくこわばっている。

 この指で、どんなふうにエメラインに触れたの?

 結局、天音が選んだのはやせっぽちでそばかすだらけの女だった。自分のどこがあのさえない女に劣っていたというのだろう?

 青年の乾いた唇にキスをしてから、ディアナはベッドを離れた。興ざめしたように、冷たい一瞥を青年に投げて部屋を出る。自分の個室に行き、ディジフレームに向かう。

 天音が仮死催眠を使ってまで守ろうとした情報はなんだったのか、いまだにわからないのが気にかかっていた。

 ディアナは天音の交信記録を再度チェックし、弟とのやりとりに目をとめた。天音の寝室にあった家族の写真に、弟が写っていたのを思い出す。名前は響揮。天音によく似ているが、顔立ちにまだ幼さを残した少年だ。兄弟の仲がいいことは、交信記録からも十分にうかがえた。それに、とディアナは考える。彼女が天音のオペレーション室に入る直前に、天音が弟の名を呼ぶのがたしかに聞こえた。

 もちろん、弟のコンピューターはすでに調べた。セキュリティは最低レベルでウイルスに汚染され、破壊されたファイルの残骸があちこちに散らばっていて、掃除をしてやりたくなる気持ちを懸命に抑えたものだった。ネット上にある弟のデータ保管庫ストレージにも、気になるものはなかった。

 腕組みをして考えこむ。天音が最後に送ったビデオメールには、『例の件、頼むよ。ナンバーは十三だ』とある。だが過去の交信記録からは、〝例の件〟にあたるものが見つからない。日本語の暗号解析にもかけてみたが、結果は芳しくなかった。

 ただ、『39、4649』は〝ありがとう、頼むよ〟という意味の暗号らしいと判明した。そんなことをわざわざ暗号で伝える必要があるのだろうか? 仲のいい兄弟のすることは、ディアナには理解の外だった。

 弟はもう月に着くころだと考えて苦笑する。シリウス・グループの招待とは、なんとも皮肉な偶然だ。しかもホテル・クレセントに泊まるなら、接触の機会があるかもしれない。

 ディアナは再度、弟の旅程を確認した。同行者は三井遙香、十五歳。誕生日は六月二十三日。

 ふと、なにかが頭をかすめた。

 女の子、誕生日……。

 そのときパイロットの声がスピーカーから聞こえてきて、思考が中断された。

『ミス・ディアナ、緊急通信が入っています』

 定員が六人以上の船が大気圏を出入りする際は、特殊一級ライセンス保持者が二名以上必要と宇宙航行法で定められているので、いまは臨時雇いのパイロットに操船を任せている。この船にはエンジニアも乗っているが、トラブルがないかぎりは個室から出ないよう言い含めてあった。

 ブザーとともに、宇宙省所属パトロールシップからのメッセージが流れてきた。

『宙航機登録ナンバーHLD630SSTR、こちらはUCCI2357。この宙域は現在レベルBのスペースデブリ警戒警報が発令されています。最新のデブリ情報を送信しますので、そちらの航行制御システムの受信回路をひらいてください』

 ため息をつき、ディアナは指示に従うよう機内通信でパイロットに告げた。大統領機がまもなく通過予定なので、連邦宇宙軍の警戒艇はもちろん、宇宙省のパトシップも多数動員されているのだ。レベルBの警報なら緊急で知らせるようなものでもないのに、こちらがVIPということで気を遣ったのだろうか。時計を見ると、ルナホープ宇宙港までは約一時間だ。

 もうすぐ計画が動きだす。

 ディアナはディジフレームを離れて革張りのソファに座り、腰のストラップをゆるくしめた。

 慣性飛行中で、船内は無重力状態だ。ソファに座った状態を保つためには、体をソファに繋いでおかなければならない。地球でのようにソファにゆったりと〝身を沈める〟ことができないのは不満だが、物理の法則を曲げることはできなかった。

 目を閉じて、船のAIに命じる。

「《新世界交響曲》を。アジアン・フィル、指揮は鷹塔佑司で」

 部屋に勇壮なシンフォニーが流れてくる。さきほど頭をかすめた日本の少女に関するかすかな疑問は、いつのまにかディアナの頭から消え去っていた。


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