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ACT4 生と死のルーレット

「ゴー・アセント」

 その日ラッシュダイブから帰還したとき、天音はかなりひどい〝ラッシュ酔い〟をおぼえていた。今回は副作用を承知でラッシュを二本打ち、オペレーションに出たのだが、やはり無理がたたったようだ。

 しかし、酔いをさましている時間はない。危機はすぐそこに迫っている。

 天音は吐き気をこらえ、震える手でヘッドセットをはずした。視界がぐるぐる回っている。背もたれにすがってシートを下りたが、脚に力が入らず、その場にがっくりと膝をついた。

「くそっ……急がないと」

 最悪の事態の光景が脳裏にフラッシュした。

 砕け散るガラスの像。逃げまどう市民。胸を朱に染めて倒れるフランク・ロシュフォード。閃光とともに幾万の塵となる船。

 この情報をなんとしても友人に伝えなければ。いかに危険でも、直接コンタクトをとるしかないだろう。

 そのときドアノブが回る音が部屋に響き、天音はぎくりとしてドアを見た。

 胃がぎゅっと締めつけられ、不快な嘔吐感が食道を駆けあがる。ぐっと唾をのみこんでこらえるうちに、ゆっくりとドアが開いた。

 こうなることを予想はしていた。次善の手も打ってはある。

「響揮……!」

 その名前をまるで祈りの言葉のようにつぶやき、天音はシートの台座に背をもたせかけた。

「おかえりなさい、天音。ラッシュ酔い? 情けない姿ね」

 ドア枠に片手をかけて、スタイリッシュな黒のパンツスーツに身を包んだ長身の女性が首をかしげた。肩を覆うブロンドの巻き毛を背に払い、ルネサンス彫刻のような整った顔に冷たい笑みを浮かべる。

「……ディアナ。招待したおぼえはないんだが」

 アパートメントの玄関はてのひらの静脈パターンと虹彩のダブルチェックで本人を確認し、侵入者を防ぐシステムだが、ディアナには自動ドアも同然だったようだ。

「あなたこそ、わたしの城に無断で入ったじゃない」

 天音は答えず、目を細めてディアナの緑色の瞳を見つめた。ディアナは肩越しに背後を振り返り、ひとつうなずいて体を引いた。すっと、ショートボブの黒髪をなびかせた少女がディアナの脇をすり抜けて部屋に入ってくる。

 丈の短い黒のチャイナドレスに黒のスパッツは、十七、八歳と思われる少女の均整のとれた体の線を引き立て、訓練された身のこなしを優雅に見せている。

「やあ、シャンメイ。監視人の次は拷問吏の役? ご苦労だな」

 ディアナの付き人の少女に、天音は皮肉な口調で言った。シャンメイはいつも影のようにディアナにつき従っているが、この十日ほどはずっと天音に張りついて行動を監視していた。

「……あるいは死刑執行人かな」

 天音はひとりごとのようにつぶやいて首を振り、シートにすがってなんとか立ちあがった。こめかみを押さえて頭痛をこらえる。

 ディアナが部屋に入ってきて天音の前に立った。

「天音、単刀直入に訊くわ。どこまで知っているの?」

 死神の足音を聴いたときにはどんな気分がするものだろうと、天音は最近よく考えていた。そのとき自分を支配するのは恐怖か、狂気か。だが現実になってみると、そのどちらでもなかった。奇妙なくらい冷静で、頭がきりりと冴えている。

「教えたら計画を中止してもらえるか?」

 ディアナの顔が一瞬凍りつき、瞳が冷たくきらめいた。

「相当なところまで知っているってわけね。シャンメイ」

 ディアナが呼ぶと、シャンメイが無駄のない動作ですっと天音の脇に立った。身長は天音より少し低いが、シルクの生地越しに明らかにトレーニングをしている筋肉質の体がわかる。

 手錠をかけられ、シートに座らされて胸と上腕を背もたれにベルトで縛りつけられるあいだ、天音は抵抗しなかった。ディアナのボディガードを兼ねているシャンメイは、武闘術の一種、カリの達人だと知っていた。お世辞にもスポーツが得意とは言えず、しかもラッシュ酔いでふらふらの自分など勝負にならない。

「案外度胸があるのね。泣き叫んで命乞いでもすればかわいげもあるのに」

 いらだったように言うディアナに、天音はこともなげに返す。

「無駄なことはしない主義だ」

 叫んで外に聞こえるならそうしていた。だが研究所の敷地内にある職員用アパートメントは、必要上完璧に防音されている。リビングに備えられた警報装置には、いまや手が届かない。

「……処刑方法は選べるのかな」

「安心して、わたしも無駄なことは嫌いなの。苦しまないようにしてあげるわ」

「エメラインのように?」

「心不全? ビットダイバーにはよくある死因ね。それでもいいわよ」

 さらりとディアナが答える。

「なぜエメラインを殺したんだ」

 天音の声に、抑えがたい怒りがにじむ。

 ディアナはわずかに顔をゆがめた。

「あなたを独占するためって言ったら?」

「僕とエメラインはつきあってはいなかった。理由にはならない」

「そうなの?」

 眉がかすかに上がったのが驚きのためなのか、演技なのか、天音にはわからなかった。

「でもあなたはいつもエメラインを見ていた。やせっぽちでそばかすだらけのあの女の、どこを気に入っていたの?」

 ディアナはついと指を伸ばし、天音の頬に指先をすべらせた。

「まあ、彼女はビットダイバーとしては優秀だったわね。わたしの城を荒らそうとしたから、罰を与えないわけにはいかなかった。計画の邪魔をする者は容赦しない。でもあなたは例外にしてもいいわ。記憶を消して、生かしておいてあげる。わたしの前にひざまずいて頼むならね」

「死神のしもべになれって言うのか? 謹んでお断りするよ。僕にもプライドがある」

 ディアナのまなじりがつりあがり、口元がこわばった。

「気に障ったかな。ああそうか、死神だなんて失礼だったね、ディアナ。仮にもきみは女神の名を戴いてるんだから。だが知っているか? ヒンドゥーの女神カーリーは、死体のイヤリングと髑髏のネックレスで身を飾ってるんだ。きみと気が合いそうじゃないか?」

「……残念だわ、天音。あなたのことは気に入っていたのに」

 平坦な声でディアナがつぶやく。その美しい顔には、もはやどんな感情も表れてはいなかった。

「ご期待に沿えなくてすまないね」

「謝る必要はないわ」

 気味の悪いほどやさしい声色で、ディアナが答える。かがんで顔を天音の顔に近づけ、間近から目をのぞきこんだ。

「あなたはもう逃げられない。わたしのものよ。なにをするのもわたしの自由」

 両手で天音の顔をはさみ、唇を重ねた。

 天音が体をこわばらせ、シートがきしんで手錠が小さく鳴った。

 ディアナは満足げにほほえんで体を起こした。

「全部話してもらうわ。わたしの城からなにを盗んでどこに隠したか、誰に伝えたか」

「……いまここで殺すんじゃないのか?」

「ご期待に沿えなくてごめんなさい。計画を知られたとわかったからには、ほかにもれていないことを確かめなくてはならないの。殺すのはいつでもできる」

 天音はきつく目を閉じ、唾をのみこんだ。

 腕をとられ、肘の内側に注射器が押しつけられるのを感じる。かすかな痛みが皮膚に走った。数分もすれば自白剤がききはじめ、問われるままにすべてを話してしまうだろう。

 天音は深く息を吸いこみ、気持ちを鎮めた。全身をめぐるアドレナリンの流れを感じとる。怯える心臓がどくどくと鳴っている。奥歯をぎゅっと噛みしめて、天音は頭の奥に隠されている扉を探した。

 扉の向こうには、暗黒の宇宙のごとき闇が広がっているはずだった。ふたたび出てこられるかどうかわからない、底のない落とし穴。だが、行かなければならない。

 十年前に真夏のプールで遭遇した一瞬の闇を思いだす。あのときとは違って、いまは死の自覚がある。しかし恐怖はなかった。

 あの夜、自分を慰めるように抱いた幼い弟の体温が背中によみがえる。

 目が覚めたら今度こそありがとうと言おうと決め、天音は長く息を吐きだした。



 天音の顔から表情が消えた。眠っているかのような青ざめた顔に、ディアナはそっと呼びかけた。

「天音、目を開けなさい」

 薬が効いているのなら命令に従うはずだ。だが天音の目は閉ざされたままだった。

 ディアナははっとした。

「まさか……仮死催眠を?」

 あわてて天音の肩をつかんで揺さぶったが、頭が前後左右に揺れるばかりで反応はない。

 力まかせに頬をたたこうと手を振りあげたところで、ディアナは動きを止め、手を下ろした。

 仮死催眠は自己暗示の一種で、情報を守るために心の深層にしかける強力な地雷だ。情報を奪われることが決定的になったときに踏み抜けば、自律神経系が一時的に狂い、肉体が仮死状態に導かれる。心拍も呼吸も極限まで落ち、体温も低下する。

 こうなると、どんな薬を用いても自白を引き出すことはできない。

 覚醒にはキーワードが必要で、それを知らされているのは本人が絶対の信頼をおく者だけだ。だが仮死状態が長引くに従い、覚醒する確率は低くなる。危険な賭けなのだ。

 ディアナは唇を噛んだ。

 機密を扱う者は最後の手段として仮死催眠を使う。だが研究段階のプロジェクトのメンバーにすぎない天音がそれを実行するとは思いもしなかった。ふだんは音楽を愛する穏やかな青年で、命がけの駆け引きをするタイプにはとうてい見えない。

「つまりあなたは、仮死催眠を使わなければならないほど深くわたしの計画を知っていたってことね」

 計画実行の日まで、あとたった二日だ。とくに念入りに準備した華々しいクライマックスに向けて、すべてが順調に進んでいる。だが数日前にクラッキングに来た天音を、ディアナは結局つかまえ損ね、ビットダイバーとしてはまだ天音に及ばないことを思い知らされた。

 時間切れだった。そろそろ地球を離れなければならない。後顧の憂いを断つためには直接彼を問い詰めるしかなく、ディアナは今日ここを訪れたのだった。

「シャンメイ、引きあげるわ」

 天音に関する記録をすべて洗い直さなければならないだろう。コンピューターの中身はもちろん、郵便物や電話、このアパートメントの盗聴記録も。

「はい、ミス・ディアナ」

 付き人兼ボディガードの少女が足音も立てずに部屋を出ていくと、ディアナはかたわらのシートに目を落とした。

「……そうね。インドに行ったらカーリーに会ってみるわ。でもあなたの死体はイヤリングには大きすぎるみたい」

 力の抜けた天音の手をとり、ゆっくりとオペレーションリングを抜く。ふたつのリングをことりとコンソールに置いてから、ディアナは胸の前で腕を組み、まだシャットダウンされていないシステムを眺めた。


      *      *


 昨日の朝降りだした雨は、今日の午後になってもやむ気配がなかった。夏至を間近に控え、昼間がいちばん長い季節のはずだが、どんよりとたれこめた雲は夕暮れの時刻をふだんよりずっと早めている。

 ディジフレームに向かっていた響揮は、部屋の照明がついたのに気づいて顔を上げた。センサー式の照明は、部屋に人がいるときは照度が一定以下になると自動的に点灯するようになっている。

 椅子の上で大きく伸びをして、できあがった両親のための旅行ガイドを眺める。

「よし、カンペキ!」  自宅からルナホープ宇宙港まで、3Dマップと音声で道案内するオプションも付けた。これならそそっかしい両親も迷わずルナホープにたどりつけるだろう。

 両親に渡しがてらこづかいを請求しようと、銀行口座の残高を確認した。記憶よりかなり多いのに驚き、きのう兄がメールでこづかいを送ると言っていたのを思いだした。出納明細を見て目を丸くする。

「五百UD!? マジで?」

 月ぎめで両親からもらっているこづかいの五カ月分だ。

 サンキュ、兄貴。おみやげ奮発するからな。

 心のなかで両手を合わせてからふと、あのメールはどこか変だったと考える。もう一度見てみようとウィンドウを開いた瞬間、水玉模様の服を着たピエロが画面に現れてぴょんと跳ね、派手なフェイスペイントを施した顔が大写しになった。

『ヒーッヒッヒ! 俺とゲームをしようぜ。知ってるかい? ロシアン・ルーレットっていうんだ』

「げっ――!」

 コンピューターが、数日前から流行しはじめたウイルス、〝ロシアン・ルーレット〟に感染したのだ。

「くそっ、やられた!」

 実物を見るのははじめてだが、プロバイダーから警告のメールは届いていた。ウイルスとしては悪質なものではないが、まだワクチンプログラムがないため猛威をふるっている。響揮のコンピューターは十日ほど前にも別なウイルスに感染して、ハードディスクの一部が使用不能になっていた。

『ゲームの方法を説明しよう。おまえが正しい数字を打ちこめば俺さまは消える。だが間違った数字を打ちこむとファイルがひとつ消える。楽しいだろ?』

「全然まったく、一ミクロンも楽しくないぞ!」

 響揮の抗議はきっぱりと無視され、ピエロが無情な声でカウントダウンをはじめた。

『十、九、八……』

 プロバイダーからの情報では、0から9までの数字のうちどれかひとつを〝当てる〟とピエロはウイルスごと消滅し、二度と出てこないという。たしかに悪質ではないのだが、はた迷惑には違いない。

「よし、7だ」

 響揮はなんの根拠もなく数字を選んでキーを押した。

 ガーン!

 銃の発射音とともに、画面中央に放射状のひび割れが走った。ディスプレイ全体が一瞬真っ暗になり、ファイルの消滅を示す赤い文字が画面の中央に浮かんだ。

『キャーッハッハッハ! 俺さまの勝ちだ。また来るぜ』  数秒後に画面はピエロが現れる前の状態に戻ったが、両親のための旅行ガイドは影も形もなかった。

 響揮は呆然とした。

「あれ作るのに二時間かかったんだぜ!?」

 ファイルをコピーして両親のアドレスに送っておけばよかったのだが、後の祭りだ。

「ちっくしょー、頭にきた!」

 退治を決意し、ランダムに時間をおいて現れるピエロとゲームを続けた。だがどの数字もはねつけられ、画面がひび割れて終わる。重要なファイルは別に複製保存しておいたので、とくに被害はないが。

 一時間後にすべての数字を試し終え、響揮は憮然とした表情で腕組みをした。

 おかしい。情報と違う。

 こんなときこそ兄の出番だと、響揮は天音にメールした。この程度のウイルスなど兄ならコンマ一秒で退治できるだろう。

「破格のこづかいをどうも。ありがたく使わせてもらうよ。それと、ちょっとコンピューターのことで頼みがあるから都合のいいときに連絡ちょうだい。以上」

 天音の顔に疲れがにじんでいたのを思い出し、渚沙が弾いたショパンの《子犬のワルツ》を添付する。「弟子も頑張ってるぜ」と追伸し、送信した。これでちょっとは元気になるといいのだが。

 入浴と夕食を済ませたのち、響揮はピエロに悩まされながらも両親の旅行ガイドを作り直した。首尾よくこづかいをせしめ、自室に戻ったときにはすでに夜中に近い時刻だった。

 母親がリビングに放置していた郵便物の束に、渚沙からの手紙がまぎれていたのを発見し、救出してきたので封を切る。何色ものサインペンを使って手書きされた、かわいらしい手紙だ。

 楽しんできてね、といった内容の最後には、おまけとして〝今週の運勢〟が書いてあった。

〝獅子座のあなたへ。今週はいいことと同じだけ悪いことも起こりそう。でもねばり強く頑張れば、運勢は好転します。ラッキーカラーは青。ラッキースポットは公園です〟

 響揮はくすっと笑った。俺が占いを信じるなんて、本気で思ってるんだろうか?

 しかし、たしかに悪いことは起こったなと、一転渋い顔になる。

〝追伸。おみやげいっぱい待ってるよ!〟

 いちばん言いたかったのはここだろうと考えながら、手紙を丁寧にたたんだ。

 ベッドに入って部屋の明かりを消すと、頭上に蛍光塗料の星々が輝きはじめた。

 ふと、天音から連絡がないことに気づく。もう一度メールしてみようか。考えているうちにまぶたが重くなってきて、響揮は眠りに引きこまれた。


 夢のなかでピエロが踊っていた。

「ゲームをしようぜ!」

 その手には、一般に使われるショックパルス銃ではなく、昔ながらの金属の弾丸がこめられたリボルバー。嬌声とともにトリガーが引かれ、弾丸が響揮の肩をかすめる。

「やめろよ!」

 響揮の手にもいつのまにか銃が握られていた。ためらいながらもピエロに狙いをつける。

 耳を打つ発射音。重たい反動を手に感じた瞬間、ピエロの額に穴があく。派手なフェイスペイントにひびが走り、まるで漆喰の壁がはがれるようにぼろりと割れ落ちて、別な顔が現れた。

 うつろな目でこちらを見ているのは――。

「兄貴――!」

 響揮は悲鳴をあげ、目が覚めた。

 朝になっていた。

 全身に冷や汗をかいていて気持ちが悪い。しばらくは悪夢の影響で頭がぼんやりしていて、時計を見るのも忘れていた。

「響揮!」

 窓の外から声がしてわれに返った。あわててベッドを下り、窓を開ける。すっかり身支度を整えた遙香が向かいのベランダに立っていた。

「まだ着替えてないの? あっ、また超絶寝癖頭!」

「……悪かったね」

 梅雨の晴れ間の太陽がベランダの手すりにあたっていてまぶしい。と、遙香の胸にきらりと光るものを認めて、響揮ははっとした。そしてあまりの驚愕に、心臓が止まったかとさえ思った。

 遙香の胸にはペンダントがあった。三メートル先でもわかるそのデザインは、響揮が買ったものとそっくり同じだったのだ。

「……なんだよ、それ」

 訊く声がかすれる。

「これのこと?」

 答えながら指先でチェーンをつまんで掲げ、遙香は得意げに顎を上げた。

「天音さんが送ってくれたの。バースデー・プレゼント」

 バットで頭を殴られるというのは、こんな感じだろうか? 響揮は思わずよろけそうになったが、しっかり窓枠を握って体を支えた。

「すてきでしょ? きのう届いたのよ。あたしうれしくて……」

 遙香はしゃべり続けていたが、響揮の耳にはもうなにも聞こえていなかった。

「……俺、着替えるから」

 ようやくそれだけ言い、窓を閉めて意味もなくカーテンを引いた。そしてへなへなと床に座りこんだ。


      *      *


「動いたって?」

 高速パトロールシップの広いとは言えないコクピットの操縦席で、アレックス・ブローディは隣の座席にいる部下に訊き返した。クルーカットの赤毛を撫で、澄んだブルーの目をきらめかせる。体格と同じくがっしりとした顎に、意思の強さが感じられる風貌だ。

「そうですよ、大当たり。いま月域管制センターからの情報が入りました。で、まだゴミ監視を続けますか? いままで回収できた分じゃ、爆破事件かたんなる事故かも特定できませんけど」

「サレム、おまえはどう思う? 恋人のにおいはするか?」

 浅黒い肌で端整な顔立ちの青年、サレム・アフラムが眉をひそめ、短い髭をたくわえた顎を撫でた。

「恋人なんてぞっとしないな。奴とはもう縁を切ったはずだったのに。まあ奴のいつもの手口と矛盾はしませんね。船主はシリウス・グループの関連会社だし」

「なら決まりだ。いったんルナホープに帰ろう。生体ゴミも見つからなかったし」

「乗員がひとり行方不明っていうあれですか? ゴミとはひどいな」

 アレックスは無表情な顔で計器をチェックしはじめる。

「誰だって死ねばただのゴミさ。もう望みはない。緊急脱出ポッドも使われてないし、仮に与圧スーツを着る暇があったとしても、ちゃんとした生命維持システムなしじゃ三時間ももたない。そんなことわざわざ言わなくてもわかってるだろう」

「月域はまだ慣れないもので」

 サレムは弁解がましく言ってため息をつき、フードウォーマーからとってきたコーヒーのパックの吸い口をくわえた。

「……ぬるい。こういう飲み方はコーヒーへの侮辱だって思いませんか、主任?」

 無重力慣れしているアレックスにとっては、パトシップでコーヒーがパック入りなのはしごく当然で、やけど防止のためにぬるいのも当然だった。しかし地上職が長かったサレムには違和感があるようだ。

「どんな飲み方だって味は変わらんだろう。もっと柔軟になれよ、サレム」

「僕は柔軟ですよ。礼拝だって一日一回で我慢してますし」

 アレックスはとりあわず、ただ肩をすくめた。日の出も日の入りも定かではない宇宙空間では、聖典の教えを守るのは難しいのだとサレムはこぼしている。信仰心というものがゼロどころかマイナス値のアレックスにとって、サレムのような人種はエイリアンに等しかった。

 宇宙でしばらく働いていれば、運も不運も死の訪れも、信仰心とはなんの関係もないことが骨身にしみてわかる。

「主任、もうひとつ情報が入ってます」

「なんだ」

「アマネ・タカトウの家族の月旅行、旅程が変更になりました。このゴミどものせいで客船の臨時便が出なくなったので、弟と隣家の女性が先に来て、両親は翌日になるそうです」

 アレックスは短くため息をついた。

「彼らも爆破事件の犠牲者ってわけだ」

 サレムは眉をひそめる。

「感想はそれだけですか? 十五歳の男女が両親のつきそいもなしに旅行するっていうのに」

「たった一日のことだろう。それに十五ならひとりで行動できる年だ」

「ふたりで行動するのが問題なんです!」

 アレックスは数秒のあいだサレムを見つめてから、大声で笑いだした。

「まったくおまえって奴は〝柔軟〟だな! おそれいったよ」

 サレムは皮肉を無視してむっつりと続ける。

「しかもクレセントのツインルームに泊まるそうです」

「へえ、最高級ホテルだ。俺も泊まったことないぞ」

「突っこみどころはそこじゃなく、ツインルームってとこでしょ!」

「まったくおまえって奴は、以下略。ダブルルームじゃないだけマシだと思えよ」

「主任のモラル感覚はアバウトすぎます。なにがどうマシなのか僕にはわかりませんね」

 本当に怒っているらしいサレムに、アレックスは絶滅した野生動物の剥製を見るようなまなざしを注いだ。

「クレセントに招待で泊まれるなんてラッキーだって、素直に喜んでやれないのか?」

「ラッキー? 主任、本当にそう思いますか?」

 サレムの真剣な目に、アレックスはさっと表情を厳しくした。「いや」と短く答える。そして、スクリーンの隅で輝くクレーターに覆われた天体をじっと見つめた。

「……祈りたいような気持ちだよ」

 月と、月を訪れるすべての人が無事であるように。

 だが、祈りを聞き届けてくれる神はどこにいるのだろう? 宇宙で働くようになって十年、教会で祈ったことはない。

 しかし祈りはしなくても、教会に行くことは多かった。

 アレックスの脳裏に、つい先月の光景がよみがえった。祭壇の前に置かれた白い柩。喪服に身を包んだ男女がつぎつぎに花をたむけ、やがて彼女の姿も、胸に抱かれた一挺のバイオリンも、純白の花に埋もれていった。

 エメライン――最愛の妹。

 アレックスは祈らなかった。ただ誓ったのだ。このままでは終わらせない、と。

「……アッサラーム・アライクム・ワラハマトゥッラー」

〝あなたがたに平和と恵みを〟。サレムはアラビア語の祈りをつぶやき、いつもと変わらない表情でコーヒーのパックをダストシュートに放りこんだ。

 アレックスはこんなとき、宗教を――自分自身以外に頼れるものを持つ人間を、心底うらやましく、またうとましく思う。

「くそっ! なんとかしてやるさ、この俺が!」

 サレムがこちらをちらりと見て、かすかに肩をすくめた。

 そのせりふが強がりにしか聞こえないことは、アレックス自身よくわかっていた。


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