ACT3 聖域を侵す者
イタリア産の白大理石がふんだんに使われた広いバスルームを出ると、ディアナ・フローレスは赤いペディキュアを施した爪先を寝室の床に下ろした。敷きつめられたペルシャ絨毯の深い毛足を足裏で楽しみながら部屋を横切る。
マホガニーの四柱式ベッドは十七世紀フランス製のアンティークだ。バスタオルを無造作に足元に落とし、ディアナはベッドの上に裸体を投げだす。そして、淡いグリーンのカバーの表面をいとおしげに撫でる。まだしっとりと濡れている肌に、真珠のような光沢のある生地がやさしくまつわりつく。
ディアナは絹が好きだった。なかでも日本のある地域にしか生息していない天然蚕の糸で織られたものがとくに気に入っている。このほのかな緑は染めてあるのではなく、生糸そのものの色だ。いまや彼女のためだけにしか生産されない希少品でもある。
絹そっくりの人工繊維もあるが、本物にはとうていかなわない。それはたぶん、本物の絹はあまたの蚕の命と引き換えにつくられるから。犠牲があるからこそ、この布はこんなにも、せつないほどに美しいのだ。
しばらく絹の感触をめでてから、ディアナは一糸まとわぬ姿のままゆっくりとベッドを下り、ベッドとおそろいのアンティークのドレッサーの前に立った。大きな鏡の前で自分がいちばん美しく見えるポーズをとり、内から輝くような裸体を見つめた。
白磁の肌、つややかに波打つ黄金の髪、切れ長の目。瞳は母親と同じエメラルド色だ。百七十八センチの長身を縁取る体のラインは完璧なバランスを保ち、トップモデルとしてファッション界に君臨していた一年前と寸分も違わない。
この体で、数え切れないほどの男を虜にしてきた。ひと目見ただけでプロポーズしてきた男も両手の指に余る。
それなのに。
ある男性の顔が頭に浮かび、ディアナは唇を引き結んだ。
彼はわたしに、仲間として以外のどんな関心も示さない。
ディアナは鏡から視線をはずした。ウォークインクロゼットに歩み入り、スポーツ用のシンプルなタンクトップと五分丈のスパッツを身につける。髪を後ろでまとめながらクロゼットを出て、部屋の一角に設けられた小さなバーコーナーに行く。
時刻は午前四時を過ぎたところ。床から天井まである窓には遮光カーテンがかけられているが、窓の外はまだ夜明け前の薄闇だ。
「オーダー、スクリーンをつけて」
部屋の電子機器を一括管理するAIに命じると、象牙色の壁にはめこまれたパネルの一部が広いスクリーンに変わり、3Dフォロの画像が浮かびあがる。
「南米ニュースチャンネル、平和共立党党首のサンパウロ党大会演説を」
映し出されたのは、ダークブラウンの巻き毛に小麦色の肌の青年だ。瞳はディアナと同じエメラルド色。ぱりっとした明るい色のスーツに細身の体を包み、演壇で熱弁をふるっている。
『……現政権にこれ以上の横暴を許してはならない。社会をこの不公平な政策が陥れた泥沼の混迷から救い出すためには、わが平和共立党が政権を執ること、すなわち私、ジョアン・フローレスが新しい大統領として連邦を導くことが第一に重要なのであります』
大きな拍手と喝采を受け、若き党首は演壇を下りた。支持者がどっと彼をとりまき、握手を求める。すかさず護衛のシークレットサービスが飛びだしてきて遮ろうとするが、支持者とのふれあいを大切にするジョアンは、次々に伸ばされる手と握手を交わしていく。
そんななか、かわいらしい黒人の少女が必死な顔で小さな花束を差しだした。ジョアンはにっこり笑って花束を受け取る。そして得意気な顔で頭上高く掲げた。
その瞬間。会場に閃光が走った。
画面はすぐに真っ暗になり、音声も途切れた。数分後に映ったのはニューススタジオの映像だ。あわてた様子のキャスターが横手から来てデスクにつく。
『臨時ニュースです。サンパウロ時間、本日午前十時八分ごろ、平和共立党ジョアン・フローレス党首を狙った爆弾テロが発生した模様です。フローレス党首の安否については情報が入りしだいお伝えします』
ディアナは氷を浮かべたライムソーダを飲みほした。
連邦大統領選挙をこの秋に控え、ディアナの兄、ジョアン・フローレスは地元の南アメリカを遊説中だった。彼はブラジルを出発点とし、現在は世界中に一万を越す事業所と関連企業を抱える巨大コングロマリット、シリウス・グループ総裁ナタリア・フローレスの長男だ。フローレス家からの巨額の支援に加え、卓越した政治的才覚とカリスマ性で、三十二歳にして平和共立党党首となった。
ディアナは二杯目のライムソーダをグラスに注ぎ、スツールに腰を下ろした。長い脚を組み、カウンターに片肘をついて手に顎をのせる。スタジオではキャスターと解説者が事件の背景について推測を述べている。
『やはり、グリーン・サンクチュアリ法を支持する勢力の過激な反応ということでしょうか』
『その可能性は否定できませんね。フローレス党首の扇動で、グリーン・サンクチュアリ法廃止の動きが活発化していたのは事実です』
緑の聖域法は、人類の経済活動で破壊され、縮小の一途をたどる熱帯雨林を守るための法律である。
地球の大気が生命の繁栄に適したバランスに保たれているのは、この広大な熱帯雨林の力によるところが大きい。だが森林破壊の進行はとどまるところを知らず、大気バランスが崩れて世界各地に異常気象が頻発している。
そこで連邦政府は赤道付近のいくつかの熱帯雨林地域を〝聖域〟として経済活動を禁止し、研究者とレンジャーを除いて人の立ち入りを禁じる法案を議会に提出した。連邦議会がまっぷたつになり、激しい論議が闘わされたが、結局は与党人民党のごり押しで強行採決されて法案は成立した。それが去年一月のこと。
『熱帯雨林は南極や月と同じく、全地球連邦市民の共有財産であるという政府の主張は、地球規模で見れば正論に思えますが』
『しかし実際に当該地域で生活し、自然の恩恵を受けていた国や住民、企業にはいわば晴天の霹靂ですよ。移住や転職にともなう補償も十分ではありませんでしたしね。連邦政府の強引さに対する不満が鬱積するのも当然でしょう』
『地球連邦の崩壊・分裂を予測した政治学者も多かったわけですが』
『ええ、とくに聖域指定地域が多い中南米やアフリカ、東南アジア諸国では現政権への批判が噴出し、各地で大規模な抗議行動が――』
「オーダー、スクリーンを閉じて」
ディアナがAIに命じると、スクリーンから画像が消え、ふたたび象牙色の壁と同化した。彼女はからになったグラスをけだるげに振る。残った氷が澄んだ音をたてる。
「退屈。早く来ないかしら……」
つぶやいてグラスをカウンターに置き、スツールを下りて部屋を出る。裸足のままカーペット敷きの廊下を歩き、オペレーション室に向かう。
ドアを開けるとなじんだシートとコンソールに迎えられ、ディアナは口元をゆるめた。ディスプレイにはファイアーウォールに仕掛けたいくつもの監視プログラムの作動状況がモニターされている。
システムに未許可の侵入があったことに気づいたのは一週間前だ。コンピューターセキュリティの世界でトップクラスとされるプロを複数雇い、自らもクロスネットオペレーションの技術を駆使して構築したセキュリティの壁は万全だと自負していただけに、ショックは大きかった。
犯人の見当はすぐについた。
アマネ・タカトウ。しなやかな黒髪と理知的な黒い瞳を持つ東洋人の若者だ。
ネットポリスシステム強化プロジェクトチームのなかでも彼の才能は飛び抜けており、穏やかな物腰といやみのないユーモア感覚で、癖のある人物が多いチームのまとめ役になっている。
ディアナがチームに加わった当初、ビットダイバー歴の浅い彼女が天音から得るところは非常に大きかった。自身のコンピューターのセキュリティに関しても、壁の構築にあたって天音から得た知識や技術を応用した。
だからこそ、自分のシステムに侵入できるとしたら彼しかいないとわかる。
天音には動機もある。彼はチームの同僚、エメラインの恋人だったのだ。
エメライン・ブローディはあせた赤い髪でそばかすだらけの、やせっぽちで内気な女だった。二十四歳といえばディアナと同い年だが、高校生といっても通る外見をしていた。その彼女が先月、ラッシュダイブ中に突然死した。
エメラインの使ったラッシュが密かにすり替えられていたことに、天音は気づいたのかもしれない。
そのときスピーカーから抑えた警告音が響いてきて、ディアナはディスプレイに注意を向けた。ウィンドウのひとつに侵入検知のサインがつき、文字列がスクロールしている。
ぞくりと、歓喜にも似た震えが背中を走り抜けた。
クラッキングに気づいてから天音の身辺を監視していたが、彼が情報を盗んだという証拠は出てこなかった。エメラインの死の原因にもなった自分の〝計画〟について、天音はどこまで知っているのか。再度クラッキングに来たということは、十分な情報を得てはいないということだろう。
ディアナは手早くラッシュを一本打ち、ヘッドセットをつけてオペレーションリングをはめた。シートに身を落ち着けてバーチャル・ディスプレイを立ち上げ、鋭く己に命じる。
「ゴー・ディセント!」
データの海にダイブする。
自分のコンピューターにはいくつか、彼の興味を引きそうな偽の情報を収めたファイルを隠してある。天音ほどのビットダイバーになると、過去のクラッキングの痕跡をたどるのは至難の業だ。気づかれる危険はあっても、リアルタイムのほうが追跡しやすい。
〝計画〟はすでに動きはじめている。誰にも邪魔をさせるわけにはいかないのだ。
つかまえるわ、天音。もうあなたの好きにはさせない。
* *
月への出立を二日後に控えた朝、響揮のもとに天音からビデオメールが届いた。
月旅行に誘って断られた翌日、響揮は遙香が同行することをメールで天音に知らせ、マグカップの絵文字にモーツァルトの《バイオリンソナタ第三四番変ロ長調》を添付して送ってやった。ピアノとバイオリンが軽快に競う明るい曲だ。天音からは翌日、「39、4649」と精神状態が疑われる数字列が返ってきた。
それ以来の、久しぶりにまともな通信だった。天音の笑顔はいつものように穏やかだったが、頬がだいぶそげ、やつれた印象だ。無理をしているようだと、響揮は心配になる。
『響揮、いよいよあさって出発だね。準備で忙しいことと思う。少しだけどこづかいを送るから使って。渚沙ちゃんにお土産を忘れるなよ。それじゃ気をつけて、よい旅を。あ、それから例の件、よろしく頼むよ。ナンバーは十三だ。いまの時期はいいね。じゃあな』
響揮は思わずまばたきした。
例の件ってなんだ? ナンバーは十三だって? いまの時期はいいって言っても、月には季節なんかないぞ。
意味がさっぱりわからない。だが天音は例の響揮にだけわかる言外のメッセージでこうも告げていた。「質問は受け付けない」と。
響揮は腕組みをして考えこんだ。いったいどういうことだろう?
「響揮、もうそっち行っていい?」
窓の向かいのベランダから遙香の声がした。
「ああ、オーケイ」
学校も夏休みに入り、今日は遙香と旅程の最終的な相談をする約束だった。響揮は天音のメールを閉じ、マイティフォンをとって階段を下りた。ちょうど玄関に現れた遙香が、響揮を見るなり顔をしかめる。
「響揮ってば、また超絶寝癖頭だ」
「そっか? 今朝はいちおう直したんだけど」
あわてて指を髪に通す。
遙香の後ろからひょいと渚沙が顔を出した。背中に回した手に楽譜を持っている。
「ハイ、響揮。ピアノ借りていい?」
「どうぞどうぞ。遙香、俺準備しとくからコーヒーいれてくれる?」
「了解。これクッキー。響揮が好きなプレーンとチョコチップ。星形はジンジャーだよ」
遙香が花柄の密閉容器を差し出す。
「おう、いつもサンキュ。ジンジャーは遠慮しとくけどな。渚沙は飲み物ジュースがいいか?」
「渚沙もコーヒー!」
「了解、ミルクと砂糖たっぷりね。響揮、おじさんとおばさんは出かけてるの?」
「買い物。いまになって持ってくものが足りないのに気づいたらしいよ」
勝手知ったる他人の家で、遙香はさっさとキッチンに向かい、響揮は廊下の奥にある音楽室に入った。外は小糠雨で湿度が高いが、この部屋はグランドピアノや弦楽器が置いてあるのでいつも空調がきいている。
シアターコーナーのテーブルにマイティフォンとクッキーの容器を置くと、響揮はさっそくふたを開けてチョコチップクッキーをとった。歯を立てるとさくっと口のなかでほどけ、舌にビターチョコレートのほろ苦さが広がる。
「うん、うまい!」
プレーンも一枚口に入れてから、響揮は壁面のシアターシステムを起動し、旅行社から送られてきた3Dデモ画像を呼び出した。自動的に部屋の窓ガラスが遮光モードになり、照明が落ちる。壁にはめこまれた大型スクリーンが明るい銀色に変わり、中央に〝月域トラベルガイド〟という文字が浮かびあがる。
響揮は部屋の奥に行った渚沙に声をかけた。渚沙はピアノのふたを開け、楽譜を立てている。
「渚沙、まだ見てなかっただろ。ついでだから見てけよ」
画面が切り替わり、スクリーンいっぱいに漆黒の宇宙、次いで月の象徴ともいえるルナホープ・シティのガラスのドームが映しだされる。
「わあ、きれーい!」
響揮の隣に来た渚沙がため息をついた。
「渚沙も行けたらよかったなぁ」
「病気が治ったらいつでも行けるさ」
「そうだね。じゃあ来年! 響揮がAA入って宇宙船のパイロットライセンス取ったら、連れてってくれるよね?」
渚沙は首をかしげて響揮を見あげ、にこっと笑った。
「大気圏を出たらぐるっと地球をまわって、オーロラを見るのが夢なんだ」
渚沙の病気がそう簡単に治る種類のものではないということを、響揮は知っていた。
「どんな奇跡が起きたって来年は無理だろ。一年は地上飛行実習だけだし。軌道ステーションから月域限定の二級ライセンスなら三年次でとれるけど、大気圏を行き来するなら特殊一級ライセンスが必要だからな」
「それ、とるの大変なの?」
そもそも在学中に特殊一級ライセンス取得が義務づけられているのはパイロットコースの生徒だけだ。他コースの生徒は不必要なことに膨大な学習量をあてたりせず、自分の専門に集中するのがふつうだ。なにしろ、卒業できなければ意味がない。
「かなり大変。よほどやる気がないと無理。俺はパイロット志望じゃないからな、とれるとしたら最速で七年後かも」
遙香がコーヒーポットとカップやミルク、砂糖を載せたトレイを手に部屋に入ってきた。
「おまちどうさま」
トレイをテーブルに下ろし、湯気のたつコーヒーを三つのマグカップに注ぐ。
「サンキュ」
スクリーン正面のソファに腰を下ろし、響揮はさっそく自分のブルーのカップをとって口に運ぶ。
渚沙は響揮の隣にちょこんと座り、渚沙専用のピンクのキリンの絵のついたカップをとった。砂糖をスティック二本分入れ、ミルクをたぷたぷと注いでかきまぜる。カフェオレ色のコーヒーをすすり、露骨に顔をしかめた。
どうやらまだ苦かったらしい。
噴きだしそうになるのをこらえ、響揮はクッキーの容器を渚沙のほうに押しやった。
デモ画像が終わると響揮と遙香は旅程の相談に入った。月面での初日には〝アペニン山脈・溶岩洞窟探検ツアー〟に参加することに決めた。〝晴れの海・アポロ十一号メモリアルサイト訪問ツアー〟も捨てがたいのだが、日程的に両方は無理だ。
月面ではルナホープ・シティの〝外〟に出るだけでひと仕事になる。シティの内部は厚い月の砂と強化ガラスのドームに保護され、地球とほぼ同じ成分の空気が満たされているが、一歩外に出れば真空だ。気密を保つ与圧スーツと生命維持システムなしには生きられない。そういった装備の装着には思いのほか時間がかかるからだ。
「現地滞在がたった四日なんて、短すぎるよね! 二日目の宇宙遊泳ツアーははずせないし」
「メインイベントだもんな。父さんたちと合流したら、氷の海遊覧ツアーだろ」
「あとはエアバスケットとムーンサーカスを観て、時間があればスーパートランポリンにトライ。そんなとこかな?」
重力が地球の六分の一の月面では、どれも高度にアクロバティックでおもしろいと評判だ。
ポットのコーヒーを飲みほしてしまったので、遙香はおかわりをつくりに席を立った。響揮も立ちあがり、ピアノを弾いている渚沙のそばに行って譜面をのぞきこむ。去年までは週に一度天音が教えてやっていたのだが、いまはたまに時間があるときに佑司が見てやる程度だ。
「《子犬のワルツ》か。通して弾いてみてよ」
響揮は演奏記録用のレコーダーを作動させる。
「えー? まだへたくそだよぅ」
そう言いながらも、渚沙は二分半ほどの曲をちょっとつかえながらも弾きあげる。
「すごいじゃないか、楽しそうな感じがよく出てるよ。あの超テキトーな親父先生の指導だけなのに、たいしたもんだ」
響揮がぐりぐりと頭を撫でると、渚沙は照れくさそうに肩をすくめた。
「もうブルクミュラーは終わったのか?」
響揮は練習曲集の名をあげる。自分には音楽の才能が絶望的に欠けていると悟った八歳までは、自身も使っていたものだ。
「途中だけど、もうやめたの。音楽家になるわけじゃないから、好きな曲を楽しく弾くほうがいいもん」
「ああ、それ賛成。まあ俺は楽器弾いても楽しくないけどな。むしろ苦行?」
「そのかわり響揮はスポーツめちゃ得意でしょ」
「いくらスポーツが得意でもなあ、カラオケの採点で五十点いかないってどうよ?」
ため息まじりに言うと、渚沙はくすくす笑った。
「おねえちゃまだって八十点くらいだし。自分で思ってるほどうまくないよね?」
「……命知らずだな。遙香に聞かれたら、今夜の夕食のおかずピーマンだけになるぞ、きっと」
「げー、飢え死にしたほうがマシ。ま、デートでカラオケはタブーってことね。……あの日のことは決めたの?」
「あ、ああ……だいたいは」
あの日とは、もちろん遙香の誕生日、ルナホープに着いて二日目のことだ。響揮も段取りは遙香に内緒でいろいろと考えている。
「おねえちゃまって、ああ見えてけっこうロマンチストなのよ。場所とセリフはよーく考えてね。間違っても公園のトイレの前とかでしちゃダメだよ」
渚沙が真剣な顔で言う。響揮は内心で苦笑しながら調子を合わせた。
「了解。でもそういうのってなりゆきだと思うんだけど」
「ムードがよければその後のなりゆきもよくなるの。女の子ってそーいうものよ」
さも経験ありげに渚沙がうなずいたので、響揮はついからかいたくなる。
「渚沙は? 誰か好きな人がいるのか?」
渚沙は黒目がちの大きな目を見開き、つかのま響揮を見つめた。長いまつげの陰をあこがれと悲しみの色がよぎる。それが一瞬、彼女をひどく大人びて見せた。
どんな言葉よりも雄弁な、渚沙の答え。
響揮はなにも言えず、ただ渚沙を見つめ返した。
「あのね、響揮。……七年後じゃなくてもいいよ。渚沙は病気を治して、ずっとずっと待ってる。だから……約束してくれる?」
その声には、どれほど願っても得られないものへの渇望がにじんでいた。渚沙は顔を伏せ、小指を立てた小さな右手を響揮の前にかかげた。
「ライセンス取ったら、誰より先に渚沙を乗せてくれるって。そして月に連れてってくれるって」
「渚沙……」
あふれる思いを、受け止めてやりたかった。響揮は自分も小指を立て、細い指にそっとからめた。
「約束だ」
刹那、渚沙の指に力がこもった。それから渚沙はぱっと指を離し、手を膝のあいだにしまいこんだ。下を向いたまま数秒のあいだじっとしていたが、次に顔を上げたときには、もういつもの無邪気な九歳の少女の顔に戻っていた。
「ありがと。じゃ、夏休みの宿題やらなきゃいけないから、帰るね」
とん、と椅子から勢いをつけて下り、ひったくるように楽譜をとって、駆け足で部屋を出ていった。
響揮は一瞬、渚沙を追いかけて抱きしめてやりたくなった。響揮に対してもまるで姉のようにふるまっているが、渚沙はせいいっぱい背伸びをしていたんだろう。天音の背中を追いかけていた、かつての自分のように。
「あれ、渚沙は?」
ポットを手に戻ってきた遙香がいぶかしげに訊いた。
「……夏休みの宿題するから帰るって」
響揮はピアノの鍵盤を軽くふいてふたを閉じた。
「宿題? そんなのいまじゃなくたっていいのに、へんな子」
「タイに行く前に片づけたいんだろ、きっと」
ソファに戻り、響揮はクッキーに手を伸ばした。ふと気づくと星形のクッキーをつまんでいた。
しまった。これはジンジャークッキーだ。ずっと避けていたのに。
だが手をつけた以上食べないわけにはいかず、おそるおそる口に入れる。ほんのりと甘く、ぴりりと舌をさす香味があった。
「味、どう?」
心配そうに遙香がたずねる。
「ん。……食べれるよ」
響揮としては褒めたつもりだったが、遙香はぷうっと頬をふくらませて、「いいよ、無理して食べてくれなくても」とすねた声で言った。
* *
午後、響揮の両親は帰宅するやいなや旅行用の荷物をリビングいっぱいに広げ、パッキングをはじめた。これだけの荷物が制限重量内に収まるのかと、響揮は眉をひそめる。スペースシップが大気圏を脱出するために必要な燃料は重量に比例するから、荷物の重量制限は厳しいのだ。
響揮はうんざりした顔で、洗面所で見つけた書類を真城子の顔の前でひらひらさせた。
「母さん、これは捨てちゃっていいの?」
「なにそれ」
「参加誓約書。旅行社に返送しないといけないはずだけど?」
「そうそう! 探してたのよ。ありがと、見つけてくれて」
どこにあったのか訊けよ、と響揮は心のなかで突っこんだ。なぜ大事な書類が洗面所の、しかもゴミ箱になど入っていたのか、響揮には見当もつかない。
「薬局には行ったのか? 宇宙酔いの予防薬のまないと、絶対気分悪くなるよ。とくに母さんはバスでも酔うんだから」
「それは今日買ってきたわ!」
真城子は胸を張り、小さな箱を掲げてみせた。
「……〝スペースヨイノン〟?」
安易すぎるネーミングが非常に怪しい。本当に効くのかと響揮は疑った。なぜ市販薬にはこういうやっつけなダジャレ商品名が多いんだろう?
「オーケイ。カルシウム吸収促進剤と筋力低下防止剤は?」
「カル……なに?」
真城子はにっこりして首をかしげた。
「いや、いい。忘れて」
響揮は手を振った。低重力環境で過ごすと骨のカルシウム不足や筋力低下が起きる。AAの三次選抜を控えた響揮には対策が必須だが、一週間程度の旅行だから両親にはさほど問題はないだろう。
「んでさ、荷物減らさないと空港で重量チェックにひっかかると思うよ。制限七キロってわかってる?」
父親のスーツケースから、どこからどう眺めても折りたたみ傘にしか見えない物体をつまみあげ、響揮はため息をついた。月面都市で傘が必要か? 旅行社がよこした持ち物リストにはなかったと、百二十パーセント断言できる。
「これはいらないだろ、父さん。そもそもスーツケースなんて重い箱に詰めるのが間違ってるよ。案内書ちゃんと読んだのか?」
佑司は悪びれもせず肩をすくめる。
「苦手なんだよなあ、文字がいっぱいあるのって」
父親が音楽以外のことにひどく不器用なのは、響揮もわかってはいた。ディジフレームやマイティフォンも最小限の機能しか使えない機械音痴でもある。
「なんか不安になってきた。ほんとにふたりだけでルナホープにたどりつけるのか?」
「そう思うなら手伝ってよ」
真城子がむっとした顔を響揮に向ける。
「えー? 俺だって暇じゃないんだけど。帰ってすぐ三次選抜だから準備もあるし――」
「ぐだぐだ言わない! あたしたちがトラブル起こすと、結局きみが困るんだよ?」
正論だ。響揮はまたひとつため息をついた。
「まず軽いバッグを探さないと」
そのとき電話のコール音が響いた。ディジフレームの近くにいた佑司が、すぐにやわらかな声で応じた。
「はい、鷹塔です……ああ、シリウス・ツアーズの。お世話になってます……えっ? なんですって? 日程を変更!?」
にわかに緊迫感を帯びた佑司の口調に、響揮と真城子は顔を見合わせる。佑司に手招きされて、ふたりはディジフレームに近づいた。
ヴィジのウィンドウで担当者が申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。
『事情をご説明しますので、ご協力いただければありがたいのですが……』
額の汗をハンカチでぬぐいながら話しはじめる。
『市制施行十周年の記念行事がありますので、わが社も月行きのロケット便の増発を前提に予約をお受けしていました。しかし本日、航路で貨物船の爆発事故があった関係で増便がキャンセルされてしまいまして。事情をご理解いただいて、三日遅れの便に旅程を変更していただけないでしょうか』
「ああ、そのニュースは聞いた。たしかシリウス・スペースカーゴ社の船だったな。おたくのグループ会社だろう」
佑司が責めるような口調で言う。
『ええ。申し訳ありませんとしか……。もちろん相応のサービスをさせていただきます。宿泊もできるかぎりハイクラスなホテルに――』
「しかし、息子は三十日からAAの最終選抜に臨むことになってましてね」
担当者は驚いたように片方の眉を上げた。
『ほう、AAに。それはすばらしい』
「ありがとう。だからねきみ、月から帰ったその日が試験というのではまずいんだよ」
『では来月の出発ではいかがです?』
「僕と妻の休暇は今月いっぱいしかない」
『では――』
「だからどうしても、あさって出発のコースでなければ困る」
『しかし四名さまというのはなかなか空きがありませんので……お客さまは優待コースでもありますし――』
「優待コースだからわれわれが我慢すべきだっていうのか?」
佑司は明らかに憤慨した顔つきでまくしたてた。
『それを理由に旅程を変えさせるというなら、きみたちはオンラインモールで買い物をした客すべてを侮辱することなるんだ。シリウス・グループは信頼に値しないとワールドネットに意見広告を出すが、それでもいいかな?』
ふだんは穏やかな佑司だが、こういった理不尽なことには黙っていられない性格で、がぜん強気になる。
「まあまあ、佑司さん」
青ざめた担当者を気の毒げに見やって、真城子が仲裁に入った。
『折衷案があるんだけどな。ねえ、ふたりだけ予定どおり発つっての、できない?』
特上の笑みを向けると、相手はほっとした顔になって手元の端末のキーをたたき、うなずいた。
『ええ、それでしたらなんとか。ホテルもクレセントのツインルームをおとりできます。最高級ホテルですよ、運がいい。ちょうどキャンセルが出たところでした。あと二名の方は……翌日の便ではいかがです?』
「すてき! それでお願い」
『では先に行かれる方のお名前を』
「ヒビキ・タカトウとハルカ・ミツイ」
真城子の答えにはあまりにもためらいがなさすぎたので、響揮が事態をのみこむまでに数秒かかった。
「ちょっと、母さん!」
叫んだときには遅かった。担当者の指は名ピアニストさながらにキーボードを走り、予約変更終了の文字がウィンドウに現れる。
呆然として言葉もない響揮の前で、真城子は通話を切り、得意げに胸を張った。
「われながら名案だわ」
「どーいうつもりだよ、勝手に決めちゃって」
ようやく口を開いた響揮に、真城子はすました顔を向ける。
「だってこれがいちばん合理的でしょ? あたしは佑司さんと久しぶりのハネムーン気分を楽しめるし」
「父さん――」
響揮は助けを求めるように父親を見たが。
「さすがマキちゃん! ナイスアイデアだね」
佑司は感嘆のまなざしを真城子に注ぎ、ほれ直したとでも言いたげな顔をした。
だめだ、このふたりはどこか頭のねじがゆるんでいる。響揮は絶望的な気分でなおも抗議する。
「でも俺困るよ。いや、遙香が困るじゃないか。俺と父さんが先に行って、母さんたちはあとから来れば――」
「ごちゃごちゃ言わない、もう決まっちゃったんだから」
真城子は人さし指で響揮の額をつんとつつき、にやっと笑った。
「しっかり遙香ちゃんのハートをつかみなさい! でも言っとくけど、泣かせるようなマネしたら許さないからね」
「そーゆー問題じゃないだろ!?」
「まあ、おまえのことだから大丈夫とは思うが……」
言いながら顎に指を当てた佑司の目には、わずかに不安の色が見てとれる。やはり父親のほうが頼れると響揮は思ったが、それもつかのま。
「押しは大切だが無理強いはいけない。僕がマキちゃんにプロポーズしたときも――おっと、こいつは男同士の話だ。あとでゆっくりな」
意味ありげににんまりした父親に、響揮は思わず口をぽかんと開けてしまった。まったくどういう親なんだ。常識ってものがないのか?
そう考えて、響揮は顔をしかめた。この両親にかぎっては常識などあってないようなものだ。長いつきあいで、それは十分すぎるほどわかっていた。
ともかくも、遙香に事の次第を告げるという厄介な問題を解決しなければならない。
顔をしかめたまま家を出た響揮が、隣の家の玄関の前でベルを鳴らすのをためらっていると、後ろから声をかけられた。
「響揮!」
振り向くと、腕に買い物袋を下げた遙香が立っていた。
「……遙香」
響揮はごくりと唾をのみこんだ。やけに喉が渇いているような気がする。
遙香がわずかに首をかしげた。
「どうしたの? なにか急用?」
「……じつは……」
話を聞くと、遙香は「えっ!?」と言って目を丸くした。
「母さんはそれがいちばん合理的だって言うんだけど……やっぱ気になるだろ?」
「……ツインルームって、響揮と部屋一緒ってこと……だよね?」
内心動揺しているらしく、遙香は髪の端を神経質にもてあそんでいる。だがやがて、こくりとうなずいた。
「いままでだって部屋が一緒のことはあったし、気にしないよ。クレセントに泊まれるチャンスだもん。あのホテル、あこがれてたの。ほんとラッキーかも!」
「そっか。ならオーケイだね?」
響揮がほっとした顔でほほえむと、遙香もまたほっとした表情になった。
「じゃ、あたし夕食の支度しなきゃならないから。バイ!」
* *
遙香は玄関のドアを閉めた姿勢のまま、遠ざかる響揮の足音を聞いていた。
心臓がどきどきしている。
「もう、真夏のせいだ。あんなこと言うから……意識しちゃうじゃない」
親友に責任を転嫁してひとまず気をとりなおし、買い物袋をキッチンに運んだ。ジャガイモの皮をむきながら、ついさっき会った真夏との会話を思い返す。
近所のスーパーの入口で偶然会った真夏は、ふわっとしたスカートの黄色いワンピースを着ていた。今日は美容院に行ったのと言い、ゆるくパーマをかけて毛先を遊ばせた髪を自慢げに振る。柔道着姿の真夏とは別人で、急に大人っぽくなったように見えた。
「へえ、すっごく似合ってるよ!」
遙香がお世辞でなくそう言うと、真夏はふふっと含みのある笑みをもらした。
「あたしも頑張らなくちゃと思って。遙香のカレなんかよりずーっとイイ男、つかまえるんだ!」
「カレって誰よ、まさか響揮?」
「なぁによ、いまさら。月にも一緒に行くくせに」
真夏は怒った口調で唇をとがらせる。
「あれは家族旅行みたいなものよ。天音さんの代わりにあたしが行くだけ」
「あのねぇ遙香、いいかげん幼なじみごっこは終わりにしてくれない? じゃないとあたし、本気で彼をとっちゃうよ?」
「……どういうこと?」
「鷹塔クンとつきあうってことだよ、もちろん」
真夏は挑むような視線を遙香に向けた。
「もう告白もしたんだから」
「告白って……」
思わず遙香の声はうわずった。
「まぁなんていうか、勢いってやつよ。彼、死ぬほどびっくりしたみたいで、まだちゃんとした返事もらってないんだけどね。あたしが鷹塔クンを好きなこと、遙香だってちょっとは気づいてたんじゃないの?」
「ううん……ごめん、全然」
どうしようもないなという顔で、真夏は息を吐いた。
「たしかに、あたしも遙香に遠慮して表に出さないようにはしてたけどさ。遙香が知らないだけで、鷹塔クンを好きな女子ってじつはいっぱいいるんだよ。遙香、近くにいすぎるから彼のよさがわからないんじゃない?」
「……そんなことないよ」
「じゃあままごとは卒業して先に進めば? わかってるの? 八月の半ばには彼、ヒューストンに行っちゃうんだよ? 三次は実技でしょ、鷹塔クンが受からないわけないもん」
真夏に言われるまでもなかった。響揮が二次選抜を通ったと聞いたとき、うれしさと誇らしさの次に胸に浮かんだのはそのことだったのだ。無事に三次も通過して合格してほしいと願ってはいたが、心の片隅にそれを喜ばない自分がいるのもたしかだった。
答えない遙香に、真夏の疑いの目が注がれる。
「もしかして遙香、まだ鷹塔クンをお兄さんと比べてるの?」
「天音さんと?」
「うん」
「そんなことあるわけないじゃない! 響揮と天音さんは全然違うんだから。響揮は天音さんみたいにやさしくないし、ガサツだし、身長低いし、寝起きはいつも超絶寝癖頭だし――」
「ストップ! 遙香、それマジで言ってる?」
あきれたという表情で真夏は遙香を見つめ、姿勢を正して腕組みをした。
「だって……天音さんは理想のお兄さんなんだもの」
「でもさ、お兄さん引っ越してからもう一年近くたつよね?」
「うん。会えなくて寂しいよ。天音さんのバイオリンもしばらく聴いてないな。響揮は楽器てんでダメだからなぁ。歌うほうもひどいけど。あ、それは真夏も知ってるよね、一緒にカラオケ行ってるし」
「…………」
絶句した真夏を見て、遙香は首をかしげる。
「ねえ遙香、この際はっきり訊くけど、鷹塔クンのことどう思ってるの?」
「どうって……いわゆる幼なじみってやつ? 腐れ縁とも言うかも」
「ごまかさないでよ。男子としてどう思うのか訊いてるの」
「男子としてなんて……考えられないよ。響揮は響揮だもん」
真夏は本気で怒った顔になり、声を荒らげた。
「遙香はずるい! 最っっ低! 遠慮してたあたしがバカだった。月から帰ってもそんなこと言ってるようだったら、戦闘開始だからね!」
真夏はさよならも言わずにくるりと遙香に背を向け、振り返りもせず早足で去っていった。
遙香は包丁を握る手を止め、長いため息をついた。
真夏が怒った理由がよくわからなかった。けれども、真夏が響揮に告白したという事実が思ったより胸にずしんとこたえているのはたしかだ。さっぱりした性格の真夏には、男子の友達も多い。響揮もそんななかのひとりなのだろうと単純に思っていた。
真夏は柔道部で三年間響揮と一緒で、ときどきは練習相手にもなっている。日曜のランニングもいつも一緒だ。自分より真夏のほうが、響揮のことをよく知っているのかもしれない。
「あたしに遠慮してたって言われてもね……そんなこと頼んでないし」
つい声に出してつぶやく。
でも。もし真夏が遠慮なんかしないで、もっと早く響揮に告白していたらどうなっていただろう?
響揮も真夏のそばではすごく楽しそうだ。告白されたことも自分には黙っていたうえ、まだ返事をしていないらしい。つまり迷っているということだ。
もしかしたら……響揮も真夏が好きなの?
「おねえちゃま!」
ふいに声をかけられ、遙香は飛びあがるほど驚いてジャガイモをとりおとした。ゴロゴロと床をころがっていくジャガイモを、小さな手がすばやく受けとめる。
「どぉしたの? ぼーっとしちゃって」
「ど、どうもしないわよ」
まだ半分もむけていないジャガイモを受けとり、遙香はまた長いため息をつく。
「渚沙、さっきママからメール来たよ。夜勤になっちゃったから帰るのは明日の朝だって」
「またぁ? ママほんとにお休みとれるのかな、心配だよ」
「お休みとるからいま忙しいんじゃない?」
「そっかな。おねえちゃま、今夜のおかずなに?」
「スペイン風オムレツ」
「わーい!」
渚沙は歓声をあげ、テーブルのまわりをぐるりと一周した。軽くゆでたジャガイモを卵でとじるだけの簡単な料理だが、渚沙は大好物なのだ。
「ドライトマトも入れてね。あーよかった、おかずがピーマンだけじゃなくて」
「ピーマン? どうして?」
「んー、べつに意味はないけど」
言葉とは裏腹に、思いっきり意味ありげな口調だ。そのとき、妹の手に薄いピンク色の封筒があるのを、遙香は見とがめた。
「手紙? 誰に?」
渚沙はさっと表情を改め、手を後ろに回して手紙を隠した。
「誰だっていいでしょ」
生意気な態度でつんと顎を上げるので、遙香はついからかいたくなる。
「ふうん。じゃあこのジャガイモ、サラダにしちゃおーかなぁ?」
渚沙はうらめしげな顔になる。
「意地悪。でも秘密だよーだ」
ぱたぱたと足音をたてて、廊下を走っていってしまった。
遙香には、手紙の宛先の見当はついていた。それが正しかったことは、渚沙がすぐに戻ってきたことで裏づけられた。ポストは公園の近くにあるので、ポストに投函したのならこんなに早く帰ってくるはずはない。
妹は響揮を本当の兄のように慕っている。ここ数週間は遙香にも内緒で、響揮となにかやりとりをしているようだった。気になってはいたが、妹に嫉妬しているみたいでなんとなくたしかめにくかった。
「響揮、か」
改めて口にすると、わずかな違和感があった。胸のなかにもやもやしたものが浮かんできて、息苦しくなる。だが、その理由を追及するのは危険な気がした。
深く考えちゃいけない。明後日から一緒に月に行くのに、ぎこちない雰囲気になるのはいやだ。
そう、いままでどおりでいい。なにもかも。
「オムレツ、オムレツ」
呪文のように繰り返して、遙香はおもむろにジャガイモの皮をむきはじめた。