ACT2 天井の銀河
その日、響揮のマイティフォンには友人たちからAA二次選抜通過祝いの電話やメールが立て続けに入ってきた。それも一段落した夕方、響揮は日曜の習慣でランニングに出る。曇っているが、空気には日中の蒸し暑さが残っており、少し走っただけで汗が噴き出てくる。
自宅から一キロほど離れた公園に着くと、中央広場の噴水の前でストレッチをする木田真夏が見えた。
すぐに真夏は走り出し、背に青稜学園女子柔道部とロゴが入った白いTシャツが木立のあいだに消えていく。
真夏は遙香の親友で、柔道部では練習熱心な優等生だ。小柄で女子と体格が似ている響揮は、女子柔道部の顧問に頼まれ、試合前にときどき真夏の練習相手を務めている。
自宅を出るときにストレッチを済ませていたので、響揮はダッシュして真夏を追いかけ、横に並んだ。
「よう、木田」
「あ、鷹塔クン、おめでと!」
にこっとして、真夏はぐっと親指を立ててみせた。
「直接言いたかったからメールしなかったんだ。不義理な奴とか思ってなかった?」
ゆったりした真夏のペースに合わせて、響揮は歩調をゆるめる。青稜学園では日曜は部活がないため、夕方には気の合う仲間数人とつれづれに集まってランニングをするのが、運動部の生徒の慣例になっている。
「思うわけないだろ、そもそもまだ合格したわけじゃないし」
「鷹塔クンならもう合格したも同じだよ。二次通ったの、東京Bブロックでは鷹塔クンだけだったんだってね」
「らしいな。って、俺は担任から聞いたけど、なんで木田が知ってるんだ?」
真夏はぺろっと舌を出した。走るリズムに合わせて、肩までの癖のない髪が軽く跳ねる。
「ふふ、秘密だよ。いろいろ情報源あるんだから」
「うわ、なんかヤな言い方。変な情報集めてないだろうな?」
「なによぅ、変な情報って」
「俺の身長とか体重とかカラオケの十八番とか」
「それ、柔道部員なら誰でも全部知ってるし。残酷なようだけど、『ハル&レイ』のオープニングテーマはやめといたほうがいいよ。鷹塔クンには荷が重いって」
「……遙香にも同じこと言われたよ。じゃあエンディングテーマにするかな」
「歌詞ないじゃん。よけい荷が重いと思う」
真夏はおかしそうに笑う。
「変な情報っていえば、鷹塔クンの潜水記録は知ってるよ。三分二十二秒でしょ」
「遙香から聞いたのか? それは先週更新して、三分三十八秒になった。ってか、変な情報とか失礼だろ、並の人間はもって一分半くらいなんだぞ。三分半超えれば全国海女協会からスカウトされるレベルだ」
「海女って女の人しかなれないんじゃないの?」
「男も普通になれるよ。イケメン海女が採った天然アワビは、市場でえらい高値がつくらしいぜ」
「へぇ、そーなんだぁ!」
「嘘だよ、ばーか」
響揮はにやりとして、ぽんと真夏の頭をたたいた。真夏がむっとした顔でたたき返そうとするのを、響揮はひょいと頭をそらしてよける。
「でもさ、採ったイケメン海女さんの写真をアワビに添えてお店に並べたら、メチャ売れだと思うな。うんうん、イケるよそれ」
「マジ? 女ってわかんねー。誰が採ったって味はおんなじじゃん」
いつものようにとりとめのない話をしながら、木立を縫うように設営された一周約一キロのランニングコースを周回する。小一時間で十周するのがいつものパターンだ。
八周したところで横手から、公園を囲む道路を自転車で走る遙香に声をかけられた。
「ハイ響揮、真夏! 暑いのによく頑張るね!」
「よう、遙香」
木立とフェンスをはさんだ向こうに、響揮は手を振った。
「運動部は体力勝負だもん。手は抜けないよ」
真夏がちょっととげのある声で返す。
「遙香こそ、暑いのにどこ行くの?」
「病院。呼び出されちゃって」
自転車の後ろのかごにはボストンバッグが積まれている。公園の先には遙香の母親の勤務する病院がある。おそらく着替えを持っていくのだろうと、響揮は当たりをつける。
「おばさん、また夜勤になったのか? 大変だな」
「いつものことだから」
遙香は笑い、大きく手を振って自転車のスピードをあげた。そしてちらちら後ろを振り返りながら、先の角を曲がって姿を消した。
はぁ、と真夏がため息をついて、ひとりごとのように言う。
「遙香には……かなわないや」
真夏の様子がいつもとちょっと違うと感じ、響揮は首をかしげる。そのとき、ダッシュしてきた友人の剣道部員ふたりに追い越された。
「鷹塔、なにちんたら走ってんだ?」
「このくそ暑いのにランでデートかよ。うらやましいから抜いてやる!」
「ばーか、そんなんじゃねーよ!」
響揮はダッシュしてふたりを抜き返し、余裕で百メートルほどの差をつけて最後の一周を走り切った。公園中央の噴水の前で持参したスポーツ飲料をあおり、置き去りにしてきた真夏を待つ。
「うぅ、疲れたぁ」
髪を乱した真夏が噴水の前で止まった。腰のホルダーからスポーツ飲料のボトルをとり、いっきに飲んでぷはっと息を吐く。首にかけていたタオルで汗を拭きながら、噴水の縁にどさりと腰を下ろす。
「鷹塔クン、ラスト一周速すぎ」
「木田が遅すぎだろ。そういえば今日は早瀬、とうとう来なかったな」
響揮はストレッチをしながら、卓球部に所属するクラスメイトの名前をあげた。
「AA二次通過祝いのメールもらったけど、ランに来ないとは書いてなかったのに」
「あぁ……そうだ、ね」
その返事の微妙な間に気づき、響揮は不審げに真夏の上気した顔を見る。目が合うと、真夏はタオルで顔の下半分を覆って視線をそらした。さっき木田の様子がいつもと違うと感じたのを思い出す。
「もしかして木田……早瀬にコクられた?」
早瀬がラン仲間に加わったのは半年ほど前だが、目当ては真夏であることを響揮は知っていた。そもそも早瀬を日曜ランに誘ったのは響揮なのだ。早瀬が告白するタイミングをはかっているのも本人から聞き、早くしろとけしかけていた。
さて結果はと、かなり興味津々で真夏の答えを待つ。
「んー、あのさ、あたしはね……」
真夏はちらりと響揮を見て、すぐにまた視線をそらす。それからぱっと立ちあがってタオルを胸の前で握りしめ、くるりと体ごと響揮のほうを向いた。
「えぇい、言っちゃうよ! あたしは鷹塔クンが好きなの!」
響揮はアキレス腱を伸ばした姿勢のまま硬直した。
「あぁ、あの、えぇっと……わかってるんだ、うん、鷹塔クンは遙香しか見てないって」
顔を真っ赤にして、真夏は所在なげにタオルを両手でもてあそぶ。
「いやでもさ、ほらなんていうかあれよ、その……もぅ、なんか言ってよ鷹塔クン!」
「あ……ごめん、いきなりで……心の準備が……」
「う、やっぱ気づいてなかったんだね……」
「ご、ごめん」
「いいよ、わかってたし。あー、なんかすっきりした!」
夕闇が落ちかかる空を見あげて、真夏はふぅと息を吐いた。タオルを首にかける。
「じゃあまた、明日学校でね!」
さっと身を翻して、真夏は駆け去った。
その段階になってようやく響揮はストレッチ姿勢をやめた。伸ばしすぎたアキレス腱がきしむ。
まだ残っているラン仲間に別れの手を振り、家へと軽く流して走りながら、響揮はぼんやりと真夏のことを考えた。
目鼻立ちの整った美少女タイプの遙香の脇ではかすみがちだが、真夏は明るくてチャーミングな、魅力的な女子だ。三年間ずっと気の合う仲間として過ごしてきた彼女が、自分に特別な感情を抱いているなどとは思いもしなかった。
家に着くと風呂場に直行し、ぬるめの湯に浸かりながら防水仕様のマイティフォンを確認した。
早瀬からは「玉砕した。しばらく日曜ランは休む。チキンな俺を笑ってくれ」と涙顔の絵文字つきで報告メールが入っていた。響揮は「ドンマイ」とだけ返し、ため息をつく。
真夏からは「これからも友達でいてくれるよね?」とらしくないメール。「当たり前だろ、ばーか」と返して響揮はまたため息をつき、マイティフォンのストップウォッチ機能を起動した。
湯気をたっぷり含んだあたたかい空気を三度、深く腹の底まで吸いこんで、頭を湯の中に沈める。
「ぶはっ」
記録、一分二十四秒。やはりまったく集中できていなかった。
* *
天音がデータの海から帰還したときには、すでにラッシュの効果が切れかかり、意識がもうろうとしはじめていた。緊張する作業は消耗が早く、効果の持続時間が短くなる。
「〝浮上せよ〟」
自分の意識にラッシュダイブの終了を命じる。天音は手に入れたデータを慎重に暗号化してプロテクトをかけ、ネットから隔離された記憶媒体に収納した。システムをシャットダウンし、むしりとるようにヘッドセットをはずす。
呼吸をするのさえつらいほど、疲労困憊していた。天音は汗だくになった体を引きずるようにバスルームに行き、冷たいシャワーを頭から浴びた。水をしたたらせたまま、裸でベッドに倒れこむ。
すぐに悪夢が襲ってきた。
天音は体高が自分の二倍はあろうかという巨大な黒い猟犬に追われ、ついには捕まって、がっしりした太い脚で地面に押さえつけられた。唾液に濡れた牙が眼前に迫り、鼻をつく異臭を含んだ息が吹きかけられる。鋭い爪が胸に食いこみ、激痛に思わず悲鳴をあげた。
そのとき。
「兄貴!」
なぜか弟が突然現れて猟犬に躍りかかり、手にしたペンダントを獣の眉間に押しつけた。瞬間、青みを帯びた閃光がペンダントからほとばしり、まばゆくあたりを照らした。
猟犬は苦しげに咆哮して後ろ足立ちになり、どうと横ざまに倒れる。
天音は解放されたものの、あお向けに横たわったまま起き上がれない。
すっと、目の前に手が差し出された。
「協力するって言ったろ?」
無邪気な顔で、弟がにっこり笑いかけた。
夢はそこで途切れ、はっと目が覚めた。
天音は頭痛に顔をしかめながら、のろのろと上体を起こす。全身が鉛になったかのように重い。服を着る気力もなく、冷えた体にシーツを巻きつけただけで、またぱたりとベッドに体を倒した。オペレーションリングをつけたままだったことに気づき、両方の中指から抜いて無造作にベッドサイドのテーブルに放る。
転がったリングのひとつが金属のフォトスタンドに当たり、澄んだ音が響いた。
天音は顔を上げた。
昨年引っ越すときに、成田空港で見送ってくれた家族三人を撮った写真だ。背景にはボストン行きの旅客機が見える。
天音は手を伸ばしてフォトスタンドを取った。肩を寄せ合い、ピースサインをしている両親の手前で、弟が笑っている。悩みなどなにもなさそうな、屈託のない明るい笑顔だ。
自然に笑みを誘われて、天音はそっとカバーガラス越しに弟の顔を撫でた。
「響揮。またありがとうって言い損ねたな」
弟には実際に命を救われたことがあった。もう十年も前の夏、響揮と遙香を連れてプールに行ったときのことだ。
勝負を持ちかけたのは天音のほうだった。
「よし、今度は水の中で長く息を止めていたほうが勝ちだぞ」
並はずれた運動神経の持ち主の弟には、すでに平泳ぎ勝負で負けていた。六歳も年下の弟にかなわないなんて、兄としてのプライドが許さなかった。
どんなことでも兄に挑んでくる響揮は、もちろん勝つ気満々でうなずく。まだ泳げない遙香は浮き輪をかかえ、日光が降り注ぐプールサイドにちょこんと座って観戦だ。
何度か深い呼吸をしてから、兄弟は声を合わせた。
「一、二の、三!」
夏休みの公営プールは混んでいて、兄弟が禁止されている潜水遊びをしても監視員は気がつかない。
先に息が続かなくなったのは響揮だった。弟がプールの底を蹴って弾丸のように浮上していくのを見ながら、天音は苦しい息をこらえ、潜水したままプールの底を移動した。まったく別の場所から上がって弟を驚かせてやろうと思ったのだ。
そして本当に突然、意識を失った。
あとで監視員に教えられたのだが、限度を超えて息を止め続けると陥る〝ブラックアウト〟という状態だった。体内の酸素が不足して窒息し、天音は溺れたのだ。
「兄ちゃん、兄ちゃん! 兄ちゃん!」
呼ばれて気がついたのは、青ざめた顔の監視員の手でプールサイドに引き上げられる間際だった。響揮が片腕に遙香の浮き輪をかかえ、もう片腕でしっかり天音の脇を支えていた。
水を大量に飲む前に弟が見つけてくれたので、天音は溺死せずにすんだのだ。
その後、救急車と両親が呼ばれた。監視員には注意不足を謝罪されたが、天音は自分が情けなくて、穴があったら入りたい気持ちだった。
小さい子をふたりも引率していながら、守ってやるどころか自分が助けられるなんて、恥以外の何ものでもない。優等生を自認する天音にはなおさら、自身の汚点となる失態が許せなかった。
駆けつけてきた両親にはいつものお気楽な調子はなく、天音の顔を見ると母親はその場に泣き崩れ、父親は黙って天音を抱きしめた。しかってくれればいいのにと、天音は居場所のない思いを抱えてただ憮然としていた。
幸い入院は免れ、帰宅した。その夜はなかなか眠れず、エアコンの効いたなかブランケットにくるまって、何度も寝返りを繰り返した。
真夜中を過ぎたころ、誰かが部屋に入ってくる気配がした。
「……兄ちゃん?」
背にしたドアのほうから、遠慮がちな声が聞こえた。
なんとなくばつが悪くて、天音は寝たふりをしていた。すると響揮がブランケットに潜りこんできて、そっと背中から抱きしめられた。
幼い子供のつねで弟の体は熱く、腹部に回された小さな手はしっとりと汗ばんでいる。背中に弟の耳と頬が押しつけられるのを感じた。
「心臓の音って、音楽みたいだ」
弟がほほえむのがわかった。
やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。体に投げかけられた弟の腕から力が抜け、心地よい重みを感じたとき、天音は自分が泣いているのに気がついた。
兄弟喧嘩をした日は、夜になるとよく響揮がこんなふうにベッドに入ってきて〝仲直り〟を要求する。まどろむ背中には謝罪や文句を言いやすいらしい。でも今夜、弟が伝えてきたのは言葉ではなく、生きているという事実そのものだった。
完璧な兄でありたい。兄たるものはどんなときもかっこよく、弟の前を歩いてなくちゃいけない。ずっとそう思ってきた。けれども、響揮の前にはそんなプライドなんて塵ほどの価値もなかった。
天音は体を返し、弟を正面からぎゅっと抱きしめた。響揮が眠ったまま吐息をつき、身をすり寄せてくる。小さな体のなかでたしかに刻まれている心臓の音は、音楽というより生命の謳う崇高な詩のように聞こえた。
「響揮、ありがとうな」
弟のやわらかい髪を撫でながら、天音は眠りについた。朝になったらもう一度、ちゃんとありがとうと言おうと考えながら。
天音はため息をついた。
結局ありがとうを言いそびれたまま十年がたち、「兄ちゃん」という呼び方はいつのまにか「兄貴」になった。でも響揮は少しも変わらない。さっき夢で見たそのままに、まっすぐなまなざしを投げてくる。ただ自分が兄であるというそれだけで、絶対の信頼と協力を約束してくれる。
天音はそっと、写真を胸に抱いた。金属のフレームが素肌にひやりとするが、すぐになじんであたたまる。
世界中のすべての人間が信じられなくなったとしても、弟だけは――響揮だけは信じられる。
安心感がやわらかなベールのように意識を包む。そして天音は、夢も見ない深い眠りに落ちていった。
* *
夕食を終えた響揮は二階の自室に入り、西に面した窓を開けた。正面には遙香の部屋のベランダが見える。距離はわずか三メートル。部屋は暗く、遙香はいないようだ。
響揮は安堵と落胆のまじった、複雑な気分で空を見あげた。雨が降り出すのか湿度が高く、空は灰色の雲で覆われている。
だめだ、星空は期待できない。
響揮は部屋の明かりを消し、ベッドにあお向けになった。暗くなった天井には一面に星がきらめいている。小一のとき、天音とふたりがかりで描いた蛍光塗料の星々だ。天の川にはスプレーをかけ、星雲や星団は色分けしてある。この人工の夜空を眺めると、どんなときも不思議に気持ちが落ち着く。
「蠍、白鳥、鷲、琴……」
夏の星座がひときわ明るく見える。晴れていればいま頭上に輝いているはずの星たちだ。中学の入学祝いに室内プラネタリウムも買ってもらったが、響揮は兄と相談しながらひと夏かけてつくったこの星空のほうが好きだった。
「デネブ、アルタイル、ヴェガ……M1、M31……」
星をたどり星雲をたどり、そして心は宇宙を翔ぶ。
宇宙に限りない憧れを抱くようになったのは五歳のときだった。テレビをつければルナホープ・シティ誕生のニュースが流れ、夜になると連邦市民の誰もが月を見あげる、そんな時代だ。
東京の夜空はお世辞にもきれいとは言い難い。それでも月の輝きや星々のきらめきは、幼い少年の心を揺さぶるに十分な魅力を備えていた。響揮はごく自然に天音の本棚にあった子供向けの天文入門書を手にとり、たちまち夢中になった。
子供向けとはいえ、細かなデータも含めれば情報量は膨大だ。響揮はそれらをすべて暗記した。星座や星の名前はもちろん、星雲や星団の名前、メシエ星表とNGC星表のナンバー、月面地図や火星地図、人工衛星や宇宙ステーションの軌道表も。
そして当然のように、将来は宇宙で働きたいと考えるようになった。
AAに合格すれば、夢への第一歩を踏み出せる。三次選抜は月旅行から帰って三日後だ。合格率は二十パーセント。わかってはいるが、狭き門だ。
ため息をついた響揮の目の前を、すっと白い紙飛行機が横切った。響揮は跳ね起き、あわてて窓から首を出した。
「寝てたの?」
向かいの家のベランダで、手すりに肘を置いた遙香が頬杖をついてこちらを見ていた。逆光になっているせいで顔の表情はよく見えない。
「まだ九時だぜ? 子供じゃあるまいし」
響揮が自分の部屋の明かりをつけると、遙香はちょっとまぶしそうに目を細めた。
入浴したばかりらしい。遙香は下着が透けそうな薄いタンクトップとショートパンツ姿で、濡れた髪に無造作にバスタオルをかけている。彼女の身長は響揮よりも六センチ高い百六十五センチ。発達した胸やすらりと伸びた脚は、もう幼い少女のものではない。
目のやり場に困って、響揮はつんとそっぽを向いた。心臓の鼓動が大きくなり、頬が熱くなる。
「窓開けたままだと虫が入るよ。響揮、蚊に刺されやすいんだから気をつけなきゃ」
「よけいなお世話だ」
「なによ、親切で言ってあげてるのに。てか響揮、なんでこんな時間に超絶寝癖頭なわけ?」
響揮はあわててさっと髪に指を通す。
「ああ、ランのあと風呂入って、夕食まで音楽室のソファで寝てたからかな。遙香こそ、そんなかっこで外に出るなよ。恥ずかしくないのか?」
「いいじゃない、見てるの響揮だけだもん」
だからまずいんだと、響揮は心中で毒づく。俺だって男なんだぞ?
まあ、たしかに遙香とは裸で一緒に風呂に入った仲ではある。もちろん小学生になる前の話だが。遙香のおへその脇にはほくろが四つあって、それがちょうど南十字星の形に並んでいるものだから、よくつついてはからかったものだ。
いまもきっと、その星はそこにあるんだろう。確かめることはできないけれど。
「あ、なんかヘンなこと考えてるでしょ」
すかさず遙香が言うが、響揮は流して話題を変えた。
「それでどうなった? ツアーのこと」
遙香はうれしそうな顔で片目をつぶり、右手を突きだしてVサインをした。
「行く!」
「やった!」
響揮は小躍りしたくなる気持ちを懸命に抑え、親指を立てるだけにとどめた。
「あ、でも渚沙は? 納得してくれたのか?」
「ん、渚沙も自分の体じゃ月に行けないことはわかってるから」
ちょっと目を伏せて続ける。
「もともとその時期は、ママがお休みとってみんなでパパに会いに行く予定だったの。だからあたしが抜ける感じかな」
「そっか。なんか悪いな」
「全然。あたしはタイより月のほうがいいもん。でも、ほんとにあたしが行ってもいいの? 迷惑なんじゃない? 天音さんは――」
「迷惑なんてことないよ!」
響揮は語気も荒く言ってから、遙香の言葉の最後を聞きとがめた。
「兄貴がなんだって?」
「天音さんは行かないんでしょ?」
「母さんが説明したろ、兄貴は仕事が忙しいから行けないって」
「そうだけど……」
遙香は頭からはずしたバスタオルを手すりにかけ、まだ濡れている髪の房を指でもてあそびながら、思案する表情になる。
むらむらと、響揮の胸に嫉妬の雲がわきあがってきた。
「兄貴が一緒じゃないと不満なのか?」
遙香がむっとした表情でこちらをにらんだ。
「そんなこと言ってないよ。せっかく家族で月に行けるチャンスなのに、あたしが邪魔しちゃ悪いかなって思っただけじゃない」
「旅行なら温泉にだってよく一緒に行ってるじゃないか」
「温泉と月は違うでしょ」
響揮はついと視線をそらし、南の空を見あげた。雲の切れ間にぽつぽつと星が見えている。星を探すふりをしながら、遙香と天音のことを考えた。
遙香は昔から兄貴が好きなんだ。
響揮は背伸びして兄に追いつこうとしていたが、六歳の年の差はどう頑張っても追いつけるものではなかった。おまけに天音は飛び級を重ねて大学を二十歳で卒業した秀才だ。
遙香はそんな天音のあとを、響揮と一緒に追いかけていた。そのまなざしに憧れの輝きが含まれているのに気づいたのは、いつのことだったろう。
天音がボストンに移住したいまも、遙香はよくなつかしそうに天音の名を口にする。以前は響揮も気にしていなかったが、AAの受験を決めてからは、とりわけそれが耳につくように感じられていた。
ちらりと遙香に目をやる。
「響揮、あたしに隠してることあるでしょ」
唐突に遙香が言った。
「え?」
困惑して問い返すと、遙香はすねた顔をつくってぷいと横を向く。
「AAのこと」
「あ、そうだった。ツアーの件で頭いっぱいで、話すのすっかり忘れてた。悪い!」
両手を顔の前で合わせて謝罪のポーズをとる。
「ひどいよ響揮、そういう大切なことは真っ先にあたしに話してくれなきゃ。おばさんからうちのママ経由で知るなんてありえなくない?」
非難めいた口調で口をとがらせたが、すぐに満面の笑みを見せた。
「おめでとう! やったね! 響揮なら絶対大丈夫って思ってたよ」
「おめでとうってのはまだ早いよ。三次もあるんだから」
照れながら響揮が答えると、遙香はふっと真顔になってつぶやくように言った。
「響揮も行っちゃうんだね……」
響揮はどきっとした。そして遙香の次の言葉を待った。自分が離れていくのを、遙香はどう思ってるんだ?
だが、耳に届いたのは期待とまったく反対のことだった。
「ボストンとヒューストンがもっと近ければいいのにね。そしたらあたしが行ったとき、天音さんと響揮と一緒に遊べるじゃない?」
俺は兄貴のついでか、と響揮は苦々しく考える。
「ね、響揮?」
首をかしげて、遙香が同意を求めた。乾きかけの髪がぱさりと肩をすべり落ちる。
「知るかよそんなの。第一、まだ受かったわけじゃないし」
かたい声で答えた響揮を、遙香は不思議そうに見つめた。そのとき。
「おねえちゃま! パパからメール来てるよ!」
明るい声がして、ベランダにひょっこりとおさげ髪の少女が顔を出した。
「あ、響揮だ! ハァイ!」
こちらに気づいて顔を輝かせ、小さな手をひらひらと振る。
「やあ、渚沙」
救われたような気持ちで、響揮は少女に挨拶の手をあげる。
「月に行くんでしょ。いいなあ! 渚沙も行きたい行きたい行きたい……でも無理だから、ママとタイに行くの。それでね、パパと会ってインドとパキスタンを旅行するの。タール砂漠をラクダで歩くんだよ。手を振ってあげるから、響揮も月から渚沙のこと見つけてね!」
「それはちょっと難しい注文だな」
大げさに悩む表情をつくると、渚沙はくすくす笑った。それから意味ありげに首をかしげ、右手で小さく〝OK?〟というしるしをつくった。
響揮は軽く親指を立てて応える。渚沙が得意げに胸を張って、つんと顎を上げた。
遙香はけげんそうな顔で響揮と妹を見くらべ、やがてこれみよがしに肩をすくめた。
「じゃ、あたし行くね。おやすみ、響揮。また明日ね!」
「おう、おやすみ」
遙香の姿が消えると、待ってましたとばかりに渚沙が手すりから身を乗りだした。
「どう、うまくいった?」
「もうばっちり。とんでもないオマケもついて、言うことなしだ」
「ほんと! 月旅行のオマケなんて、響揮ってば運がいいよね。渚沙に感謝してる?」
「ものすごーく感謝してる」
渚沙は満足げにほほえんだ。
『おねえちゃまは六月生まれの蟹座だから、守護星は月で、誕生石はムーンストーンなの。いつも身につけていられるアクセサリーがいいと思うな。指輪はまだ早いし意味深すぎるから、ペンダントがお勧めだよ』
そう言って買い物をけしかけたのは、このおしゃまな妹なのだった。
「ステキなの見つかった?」
「うん。俺的には最高に気に入ってる」
「でも響揮の趣味でしょ、ちょっとどころかすごーく心配だなぁ。買う前に渚沙に相談してくれればよかったのに」
「ごめん。見た瞬間に気に入っちゃってさ。即、購入ボタン押しちゃったんだ」
中天高くかかる冬の満月を思わせる色の石が、三日月をかたどったプラチナ台に貴婦人然とした表情でたたずむ。そんなデザインだった。遙香の胸にそのペンダントが揺れるところを想像すると、銀行口座の残高がみじめな数字になることも気にならなかった。
「ま、どんなのでも響揮からもらえばおねえちゃまは喜ぶと思うけど」
渚沙はふっとうらやましそうな顔をした。
「あ、それからね、響揮」
小悪魔的な笑みを口の端に浮かべ、人さし指を顎に当てる。
「響揮がAAの二次通ったってわかったとき、おねえちゃまってばけっこう動揺してたの。やっぱり響揮が好きなのよ。受かったら離れ離れになっちゃうでしょ、それがイヤなんだと思うな」
「……そうは思えないけど」
響揮が暗い声で返すと、渚沙は断固とした口調で言った。
「自信持ちなさいよ、響揮! 絶対大丈夫なんだから。渚沙が保証する!」
九歳の恋愛カウンセラーではこころもとないなと、響揮は苦笑した。
「ま、結果は月から帰ってのお楽しみだな。とにかくサンキュ」
「ユアウェルカムだよ! じゃ、おやすみ!」
渚沙はまたひらひらと手を振り、家に入っていった。ベランダのガラス窓が閉まり、ネコの絵柄のピンクのパジャマがカーテンの奥に消える。それを見送って響揮は微笑した。
大人っぽい口はきくけど、あんなパジャマ着てるなんて、やっぱりまだ子供だよな。




