ACT1 運命のファンファーレ
6・2・3。
四ケタの数字の頭三つにそれを選んだのは、六月二十三日が彼女の誕生日だったからだ。最後のひとつは0から9まで、順にキーを押していくことにした。
6230、6231、6233……。一連の数字を打ちこむたびに、画面の上部に表示された緑の星がひとつ消え、画面の左から右に白いボールが転がっていく。白は〝はずれ〟だ。
自室の総合情報端末で機械的にオンラインくじを引きながら、鷹塔響揮は〝その日〟のことを想像していた。
彼女をちょっと大人っぽい雰囲気のレストランに誘ってランチをとり、午後はバーチャルシアターで『刑事ハル&レイ』劇場版最新作を観る。そして夕方、黄昏の公園を散歩しながら……いよいよ……。
思わず椅子の上で姿勢を正したところで、違う色のボールが画面を横切ったのに気づき、響揮ははっと夢想から覚めた。
いまのボール、金色だったんじゃ?
突然、大音量の明朗なファンファーレが部屋に鳴りわたった。
『大当たり~! 特等当選です。おめでとうございます!』
「は?」
その言葉の意味がすぐには理解できず、響揮は訊き返した。
いまや三十インチの画面いっぱいに色とりどりの紙吹雪が舞い、〝コングラチュレーション!〟という大きな文字が派手に点滅している。
『特等が当たったんですよ』
すぐにスピーカーから答えが返ってきた。同時に、画面にウィンドウが開いてスーツ姿の中年男性が現れた。ライブ映像を示す緑色のLの文字がウィンドウの隅にともる。
「特等、って……」
いちばん上のヤツだよな、とぼんやりと考えた。
ワールドネット上にあるシリウス・オンラインモールはいまセール期間で、買い物をすると金額に応じてくじを引ける。はなから当たるとは思っていなかったのでうろ覚えだが、記憶が正しければ、特等の賞品は……。
響揮はごくりと唾をのみこんだ。
にこやかな笑みを浮かべた係員が、得意げに告げた。
『そう、賞品はこれです!』
ディジフレームの画面がぱっと切り替わった。
星空。
漆黒の宇宙に、無数のダイヤモンドを散らしたように星が輝いている。カメラはゆっくりと下にパンしていき、やがて、まるで奇跡のように青い地球が丸く浮かびあがった。その前景には、太陽光を受けてきらきら輝く半球形のガラスのドーム。
響揮はかすれた声でつぶやいた。
「ルナホープ・シティ」
月面都市・ルナホープ――三十八万五千キロの向こうにある、地球連邦市民あこがれの街。
息をつめて見守る響揮の目の前で、ドーム上空に特大のオレンジ色の3D文字が現れた。
〝特等「ルナホープ・シティ訪問七日間ペア旅行ご招待」〟
響揮はまばたきするのも忘れて、呆然と画面を見つめた。信じられない。まさか、月旅行が当たったのか? この俺に?
『よろしければ〝ヴィジ〟の使用を許可していただけませんか?』
「えっ? ああ、はい」
係員の声にわれに返り、響揮はあわてて画面に表示された〝ヴィジ許可〟のアイコンに指を触れた。これでカメラを通じて相手と顔を見ながら話せる。オンライン通信では個人情報保護のため、ヴィジの使用は許可制だ。
『ありがとうございます』
ウィンドウのなかで係員がうなずき、ほほえんだ。画面いっぱいの月面都市の映像はいつのまにか消えていて、響揮は夢だったのかと一瞬疑い、目をぱちぱちさせる。
『では改めて、特等当選おめでとう』
響揮がまだ少年だと見てとったためか、係員の口調が親しげなものに変わった。
『これからシリウス・オンラインモールの顧客リストに登録されている事項を確認させてもらうよ。そちらはヒビキ・タカトウくん、だね? 居住地はニッポン・トウキョウ、年齢十五歳、ワールドネット会員IDは――』
てきぱきと必要事項を確認していく係員に、響揮は夢見心地のままただうなずいていた。連邦内では英語をベースにした連邦標準語が使われており、市民はほとんどが標準語を話せる。係員との会話も当然標準語だが、家族のあいだでは日本語で話している。
『詳細はいまメールで送るよ。確認して、なにかわからないことがあったらいつでも顧客担当室に質問してくれたまえ』
その言葉が終わらないうちに、メールソフトのウィンドウが開く。表示された〝ルナホープ・シティ訪問七日間・ご招待内容〟というタイトル文字を、響揮は釈然としない面持ちで眺めた。
『まだ信じられないって顔だね。でも当選は本当だ。今期のセールでは十五億本のくじが出るけど、特等はたった五本なんだ。きみ、とんでもなく運がいいよ』
このオンラインくじは、引いた日付・時間と四ケタの数の組み合わせで当選者を決めるシステムだ。三億分の一という確率がどれほど小さいのか、響揮には見当もつかない。
「はあ、そうなんでしょうね。全然実感ないけど」
なま返事をしつつ、メールをプリントした。画面で見るだけでは現実とは信じられなかったからだ。
だがプリントを手にしても、目は白い用紙の上をさまようばかりで、肝心の内容はちっとも頭に入ってこなかった。正月におとそを飲みすぎたときのような、奇妙にふわふわした感じだ。響揮は二度三度とまばたきをして、文字に意識を集中しようとした。
係員がウィンドウのなかでくすりと笑みをもらした。
『五百UDとは、きみくらいの年齢にしてはかなり高額の買い物だね。ショップはジュエリー・エレクトラ、ってことは、ガールフレンドへのプレゼントかな?』
図星をさされ、響揮は返事をする代わりに赤面してうつむいた。
『じゃあ月へも彼女と?』
からかいを含んだまなざしが注がれるのを感じたが、響揮は否定しなかった。
ガラスのドームを頂く公園で、ベンチにふたり並んで座り、かなたに輝く青い地球を眺める。そんな光景が頭をかすめた。
ふたりで行けたら、どんなに楽しいだろう……。
『タカトウくん?』
「えっ? は、はい」
係員は、きみの心中などお見通しだというようにウインクをした。響揮はふたたび赤面して、プリントを意味もなく折りたたんだ。
『読んでもらえばわかるけど、この賞品にはもうひと組のペアも正規料金の半額でご優待、っていう特典も含まれてるんだ。ご両親とも相談して決めるといい。それじゃ、よい旅を。ゆっくり楽しんできてくれたまえ』
ヴィジのウィンドウが閉じ、係員の姿が消えた。それから数分、響揮はディジフレームの前でただぼうっとしていた。オンラインモールのウィンドウには注目アイテムの3D画像が次々に流れ、耳の底ではファンファーレが永遠のリフレインを続けている。
ルナホープ・シティは人口三万を有する月域の首都だ。十年前、一般の連邦市民に月域が開放されて以来、観光の拠点としても重要性を増している。
だが月への渡航費用はそれこそ目が飛び出るほど高額だから、誰でも気軽にというわけにはいかない。そこに、いわば買い物のオマケで行けるなんて。
……目が覚めたら夢だった、とかいうオチだったら悲しすぎる。
不安になって手のなかのプリントを開くと、パリパリと乾いた音がした。響揮は蛍光色の文字を声に出して読んでみた。
「〝市制施行十周年記念行事にわくルナホープ・シティ。あなたも平和行進に参加して、大統領とともに平和の輪をつくりましょう!〟」
旅程表によると、出発は六月二十一日。一年のうちでルナホープがいちばん賑わうのが、月条約締結記念日の六月二十二日だ。市制施行十周年と重なる今年は記念行事が盛大に行われ、地球連邦大統領フランク・ロシュフォードも祝賀に訪れる。
月域は入域ビザ発行のための審査が厳しいのだが、両親は犯罪歴ゼロの模範的市民で、病院にはここ何年もお世話になっていないほど健康だから、問題はないだろう。
とりあえず両親に報告しようと思いつき、響揮は椅子を立った。
父親の佑司は交響楽団アジアン・フィルの主任指揮者だ。上海での演奏会を終えて二日前に帰宅し、今日は朝から階下の音楽室にこもっている。母親の真城子はケアセンターの嘱託従業員。
「響揮、入るぞ!」
突然、ドアの向こうから佑司の声がした。と思うと返事も待たずにずかずか部屋に入ってきて、「おめでとう!」と言うなり響揮を抱きしめた。
響揮は目を白黒させた。どうして月旅行が当たったことをもう知ってるんだろう?
「響揮、すごいじゃない!」
真城子が佑司の腕から息子を奪いとり、強く抱きしめてからぐりぐりと頭を撫でる。
「ヒューストン行きの航空券、予約しといたから。頑張りなさいよ!」
響揮ははっとして問い返した。
「ヒューストンって……もしかして、AAのこと?」
「そうよ。なんだと思ったの?」
「二次選抜、通ったって? ほんとに?」
たちまち心臓がどきどきしはじめて、響揮は手にしたプリントを思わずぎゅっと握りしめた。
四月に願書を出した地球連邦アストロノーツ・アカデミー――通称〝AA〟は、連邦唯一の公立宇宙飛行士養成機関だ。AAの卒業生は主に連邦宇宙省の管轄下、宇宙開発の最前線で任務につく。それは出世コースでもあり、宇宙省の上層部にはAA出身者が多い。
受験にあたっての学校推薦を受けるだけでも難しいが、さらに三次にわたる選抜試験が行われる。一次選抜の基礎学力試験を通ったのでさえ奇跡だと、響揮は思っていた。
二次選抜では数人ずつのグループ実習と体質適性審査、面接で国内候補を絞る。三次選抜はヒューストン郊外にあるAA本校での一週間に及ぶ実技実習と面接。最終的な倍率は二百五十倍だ。
佑司が穏やかな笑みを浮かべ、響揮の肩に手を置いた。
「嘘なんかつくわけないだろう。いま学校から連絡があったんだ。おまえの携帯端末にもすぐに連絡が来るはずだ」
「さあ、早く知らせてあげなさいよ」
真城子が意味ありげに片目をつぶった。
「え? 誰に?」
「やだなーもぅ、決まってるでしょ。は・る・か・ちゃん」
その名前を聞いたとたんに赤面した響揮の頭を、真城子はまたぐりぐりと撫でた。
「このっ、正直者め!」
「ち、違うよ!」
「なぁにが違うって?」
「それよりさ、これ――」
響揮はくしゃくしゃになったプリントを両親に差し出した。
「ふたりとも、たしか六月の後半は休暇がとれるって言ってただろ? 優待割引があるからさ、四人までなら安く行けるよ」
「なになに……ルナホープ・シティ七日間の旅ご招待だってぇええ!?」
言葉の最後はほとんど悲鳴のようだった。
それからの両親の狂気乱舞の様子といったら、ふたりが興奮しやすい性格だとわかっている響揮でさえあっけにとられたほどだった。
やがて真城子が鼻息も荒く力説した。
「家族旅行をしましょう! こんな機会はもう二度と来ないわ!」
佑司が勢いよくうなずく。
「もうひと組が半額になるなら、四人でひとり分の値段ってことだ。行かなきゃ損だな」
「じゃあさっそく天音に電話しましょう! 今日は日曜だからきっと家にいるわ」
いそいそとディジフレームに向かう真城子に、響揮はあわてて声をかけた。
「いまボストンは夜中だぜ? それに兄貴は行けないと思うよ。仕事があるからって正月にも帰ってこなかったくらいだし」
「なに言ってるの。休暇をとるのは労働者の権利、いいえ義務だわっ! しかも月旅行よ? 天音だって行きたいはずよ!」
鷹塔家の長男・天音は響揮より六歳年上で、いまは北アメリカのボストンに住んでいる。東都大学を去年卒業し、大学院に進学する予定だったのだが、連邦政府のプロジェクトに引き抜かれてしまったのだ。勤務先は地球連邦政府・総合科学研究所。
響揮は兄と電話やメールでやりとりしているが、去年の秋以来、直接顔を合わせていなかった。しかも最近は電話もメールもほとんどない。
天音は二十回を越す呼び出し音のあとでようやく顔を見せたものの、熱をこめた母親の誘いにはきっぱりと首を横に振った。
『とても行けないよ、母さん。いま大事な仕事のまっ最中なんだ』
充血した目をこすりながら、行きたいのはやまやまだけど、と思いだしたようにつけ加える。いつもの天音らしくなく、どこかいらいらした様子だ。伸びすぎて目にかかる前髪をうるさそうに払う仕草にもそれが現れている。半袖の白いTシャツには、胸元にコーヒーをこぼしたらしい染みがあった。
家族旅行を断る理由は〝大事な仕事〟とやらだけではなさそうだと、響揮は直感で思った。
「……なんかあるの、兄貴」
言外に「母さんに言えない理由が」という意味を含めて問う。ひと月ほど前に親しい同僚が突然亡くなり、天音はかなり落ち込んでいた。それが関係しているのかもしれない。
天音の顔に一瞬、驚きに似たものがよぎったように見えた。しかし、それは次の瞬間には消え去り、代わりにあいまいな微笑が浮かんだ。
『めちゃめちゃ忙しくてね。遊びに行く暇があるなら寝ていたいのさ。それにしてもすごいな、月旅行が当たるなんて。その運を少し分けてもらいたいよ』
あからさまな話題転換だ。兄貴は絶対になにか隠してると響揮は確信したが、追及はしなかった。天音が無言でそれを強く拒んでいるのがわかったからだ。
「分けたら三次選抜の分がなくなっちゃうからダメ。あ、まだ言ってなかったよね。俺AAの二次通ったんだ。ラッキーが続くと思わない?」
『三次はいつ?』
「六月三十日から。って、二次通ったことはスルーかよ。ちょっと冷たくないか?」
『ラッキーで通れるほどAAは甘くないさ。響揮の実力なら問題ないと思ってた』
見慣れた、穏やかな表情で天音はほほえんだ。笑うと天音は父親の佑司によく似ている。なんとはなしにほっとして、響揮は片目をつぶってみせた。
「運も実力のうちなんだぜ」
『それは少し違う。実力がない奴に運はついてこないさ。昔、プールで僕が溺れたとき、おまえは誰に教えられたわけでもないのに遙香ちゃんの浮き輪を持ってきただろ』
「ああ……必要な気がしたから」
『それがおまえの実力なんだよ。あのとき浮き輪がなければ、おまえも僕に引っ張られて溺れていたかもしれない』
「よくわかんないけど、俺、褒められてる?」
しょうがないなというように、天音は笑った。
『もっと自信を持てよ、響揮。三次選抜で必要なのはそういう実力だ。だから僕はまったく心配していないが、まあ頑張れ』
「了解。兄貴は、あんまり頑張りすぎるなよ」
天音はなんにでもとりかかるまでは慎重だが、いったんはじめると脇目もふらず突っ走る傾向がある。現在の仕事はワールドネットのセキュリティ強化システムの構築で、〝クロスネットオペレーター〟という連邦政府公認のクラッカーといった性格の特殊ライセンスを持っている。門外漢の響揮には実感がないが、天音はその道で一目も二目も置かれる存在らしい。
仕事のことかプライベートかは知らないが、いまの兄にはモーツァルトと蜂蜜入りのココアが必要な状況だと思えた。天音が家にいたなら、確実に勧めるところだ。
「俺に手伝えることがあったら言って。なんでも協力するよ」
天音は驚いたように眉を上げ、つかのま響揮を凝視した。そしてふっと目を細めてうなずいた。
『サンキュ。月へは遙香ちゃんを誘えばいいよ。夏休みなんだし』
響揮はいま、六年制の中高一貫校、私立青稜学園の三年生だ。地球連邦の成立とともに日本の学校制度も世界基準に合わせられ、六月下旬から八月中旬までの長い夏休みが設けられている。
『それに推測だけど』
天音がにやっと笑いかけた。
『買ったのは遙香ちゃんへのバースデー・プレゼントだろ。だとしたら僕より彼女のほうに行く権利がある。な、響揮?』
「あ、兄貴――」
さっと響揮は赤面した。
『図星か、わかりやすい奴。で、なにを贈るんだ?』
「……ペンダント」
『へえ、それはまたしゃれたものを』
天音がにやにやしながらさらに問いつめようとする気配を察して、響揮は必死に抵抗を試みた。
「シリウスのオンラインモールで買ったんだ。兄貴、シリウス・グループの人に知り合いがいるんだろう?」
この話題転換の効果はてきめんで、天音ははっとした様子で表情を改めた。
『……そんなこと、僕が言ったかな』
天音の声には警戒するような響きがまじっている。響揮は説明する必要を感じた。
「ネットニュースで兄貴のプロジェクトの紹介してて、メンバーの写真が載ってたんだよ。一緒に見てた遙香が、この人は前にモデルやってた超有名人って教えてくれた」
天音を含めて十名ほどが映っているなかに、その女性はいた。波打つハニーブロンドにエメラルド色の瞳。細身だがめりはりのある体つきをしており、身長は男性と肩を並べるほど高い。そこだけスポットライトが当たっているのかと思うほど目を引かれる、絵に描いたような美女だった。
「たしかミス・ディアナ・フローレスだったかな? シリウス・グループ総裁の娘なんだろ? 彼女にもお礼言っといて。この月旅行はシリウス・グループの招待みたいなものだから」
『オーケイ、伝えておく』
天音はにっこりしたが、目は笑っていなかった。兄とその女性とは仲がよくないのかもしれないと、響揮は漠然と思う。
『じゃあ、僕は仕事に戻るよ。響揮、遙香ちゃんによろしくな』
電話が切れ、ヴィジのウィンドウが閉じた。
真城子がため息をついた。
「週末だってのに、夜中に仕事? それだけ忙しいってことか、仕方ないわね。となれば善は急げ、遙香ちゃんを誘いましょ。ほら、響揮も来るのよ」
「えぇ? なんで俺が?」
「きみの買い物で当たった旅行じゃないの。責任持ちなさいよ」
「責任ってなんの責任? 意味わかんないし」
「ぐだぐだ言わない! きみだって遙香ちゃんが来てくれたらうれしいでしょ?」
「そっ、それはもちろん……いや、だけど……」
響揮は抵抗したが、有無を言わさず真城子に腕をつかまれ、部屋から引っ張りだされた。
幼なじみの三井遙香は鷹塔家の隣に住んでいる。父親は機械メーカーの技術者で、いまはタイに長期出張中。母親は病院勤務の医師。両親ともに家を留守にしがちなので、遙香はよく鷹塔家に遊びに来ていて、天音や響揮とはきょうだい同然に育った。
真城子が階段を下りかけたところで、ピンポン、とチャイムが鳴った。
「きっと以心伝心ってやつね! 幸先いいわ!」
響揮の腕を放して階段を駆けおり、玄関のたたきに裸足で下りて、勢いよくドアを開けた。
遙香が驚いた表情で家のなかをのぞきこんだ。
「あ、おばさん。こんにちは」
「やっぱり遙香ちゃんだ! パーフェクトなタイミングねっ!」
「あの、あたしになにか?」
とまどいぎみの笑みを浮かべ、遙香は首をかしげた。長いストレートの黒髪のひと房が肩からさらりとすべり、白いブラウスに包まれた胸に乱れかかる。それをまた肩に払いのけ、遙香は手にした花柄のプラスチック容器を真城子に差し出した。
「これジンジャークッキー。たくさん焼いたからおすそわけ」
「わぁ、ありがと!」
言い終わらないうちに真城子は容器のふたをとって星形のクッキーをつまみ、口に放りこんだ。
「んー、おいし。やっぱり女の子はいいわねぇ。失敗したな、男ふたりなんておもしろくもなんともないわよ、ほんと」
真城子は遙香がお気に入りで、自分の娘のように思っている。
「悪かったね、おもしろくなくて」
階段を下りながら響揮が言うと、遙香が彼を認めてにこっと笑った。
「ハイ、響揮」
ぱっと玄関が明るくなったように感じて、響揮はどきっとする。それを気づかれたくなくて、ぶっきらぼうに言った。
「ジンジャーってショウガだろ? 薬味入りのクッキーなんてうまいのか?」
「わかってないなぁ、甘いなかにピリッとするとこがいいのよ」
遙香は頬をふくらませた。
「ま、この味は子供にはわかんないわね。それより遙香ちゃん、大ニュースなの!」
真城子は口早に月旅行のことを告げた。
「ねっ、一緒に行きましょうよ!」
三井家とは家族ぐるみのつきあいで、一緒に旅をしたのも一度や二度ではない。それが隣県の温泉でも三十八万五千キロ先の月でも、真城子は気にする性格ではなかった。
「ほんとにあたしが行ってもいいの!?」
遙香の頬が興奮に輝く。
「もちろんじゃない。天音は仕事で行けないって言うし、遠慮はなしよ!」
「でも……渚沙がかわいそうだな」
遙香の妹、渚沙はいま九歳だ。循環器系の持病があるので、重力の変化が激しい月への旅は無理だとわかっていた。遙香の返事が予想でき、響揮は周囲に気づかれないように小さく嘆息した。
「……やっぱり行けないわ」
「そんなこと言わないで。こんなチャンスめったにないわよ!」
「そうだよ、遙香ちゃん」
二階から下りてきた佑司も口を添える。
「渚沙ちゃんはたしかにかわいそうだけど、病気のことがあるから仕方ないさ。僕からもご両親に話すから、どうだい?」
考えこんでいる遙香に向けて、響揮は心のなかで強く念じた。
イエスって言ってくれよ、頼む。だって、この旅行はきみのためのプレゼントを買ったオマケなんだから。きみにはいちばんに、行く権利があるんだ。
「ありがとう、おじさん、おばさん」
遙香はにっこりほほえんだ。
「父と母に相談してみます。渚沙にも」
「いい返事を待ってるわ!」
真城子が、響揮の心を代弁するように声をかけた。
ぺこりとひとつおじぎをして、遙香はスキップをするような軽い足取りで帰っていった。
* *
電話が切れてからも天音はしばらくシートを立たず、暗くなったヴィジのウィンドウを見つめていた。電話をかければすぐ家族の顔が見られるのに、もう何週間も連絡を怠っていた。ボストンはいま午前一時。東京がとてつもなく遠く感じられる。
「協力、か……」
弟の言葉を思い出す。本来天音はポーカーフェイスが得意なのだが、弟にはどういうわけかそれが通じたためしがなかった。いまの電話でもだいぶ怪しまれていたのはたしかだ。響揮の勘が鋭いせいだけでなく、天音自身が弟に対して無条件の信頼を寄せているためかもしれない。
それにしても、家族がシリウス・グループの招待で月旅行に行くとは、幸運と言うべきか、大いなる皮肉と言うべきか。
天音は頭を振ってもの思いを絶ち切り、オペレーション室を出てキッチンに行った。実家から電話が来る前は、夜中のオペレーションに備えて一時間ほど仮眠していた。朝からコーヒー以外なにも口にしていないが、空腹は感じない。
無理やり栄養剤を一本流しこむと胃が痛んだ。胃腸薬を二錠口に放りこみ、スポーツ飲料でのみくだす。それから冷蔵庫を開けてブルーのアンプルを一本とり、慣れた仕草でセンサー式の注射器にセットした。
直径七ミリほどの円筒の底を肘の内側の静脈の上あたりに当てる。すぐにセンサーが静脈を探し当て、皮膚にかすかな痛みが走った。この薬は通称を〝ラッシュ〟といい、オペレーションの処理速度を高める効果がある。これからすることを考えると二本打ちたいところだったが、副作用が出るのでやめておく。
スポーツ飲料のボトルを手に薄暗いオペレーション室に戻り、幅のあるゆったりしたシートに腰を下ろした。やや固めに調整されたグレーの座面は、長時間のオペレーションでも疲れにくい設計になっている。
まもなく視界が全体に明るくなり、ものがくっきりと見えるようになってきた。薬が効きはじめたしるしだ。
天音はデスク状の広いコンソールに体の正面を向けた。バイザーとマイク、イヤホンのついたヘッドセットをかぶり、センサーが組みこまれた幅広のオペレーションリングを両手の中指にはめる。
コンソール手前に並ぶボタンのひとつに触れると、正面に大画面のディスプレイが立ちあがった。このディスプレイは現実に目の前にあるわけではなく、バイザー内側に張られた特殊な極薄フィルムに投影されたバーチャルなものだ。コンソール下部に構築された専用システムと連動し、高速かつ高精度なオペレーションを実現する。
天音は左右と手前に合計四面のバーチャル・ディスプレイを手早く立ちあげて、深呼吸をした。
「レディ」
準備を指示して右のてのひらをコンソールの端にある認証用スキャナにかざす。システムがてのひらの静脈パターンと声紋を分析し、使用者が天音本人であることを確認する。天音はコンソールのキーボードに指を踊らせ、システムの要求に従っていくつかのコードを入力した。やがて〝準備完了〟の文字が、視界いっぱいに展開されたディスプレイ群の中央に浮かび、環境がオペレーションモードに切り替わった。
ここからが本番だ。
てのひらを正面ディスプレイに向け、指を鳴らしてメインの作業ウィンドウを開く。ディスプレイ自体はバーチャルなものだが、中指のリングに組みこまれたセンサーの働きによって、手で自在に操れる仕様だ。
昼間の作業で、必要なルート設定やプログラムの準備はすませていた。天音は流れるような動作でディスプレイのウィンドウをさばき、キーボードに指を走らせる。
作業途中で止めておいたファイルを呼び出し、作業を再開。一方で、地球連邦総合科学研究所のローカルネットを管理するサーバに侵入し、自分のコンピューターをダミーとすり替えて偽の作業情報を置く。外から見ると、天音はプログラム作成作業をしているように見えるはずだ。
周囲に地雷プログラムを埋め込んで侵入者をブロックする処置をしてから、天音は右ディスプレイにファイアーウォールのファイル構成を全体表示させた。ファイアーウォールはローカルネットを侵入者から守る、いわば警備の壁だ。だが内部のスタッフである天音には自分の庭のようなもので、あまたのフォルダーに納められたファイルのひとつひとつまで熟知している。
必要なファイルを苦もなく選びだし、要所にダミーや偽の分岐を設けながら脱出と侵入のルートを複数確保。五面めのディスプレイを右奥に重ねて立ち上げ、ファイアーウォールの監視プログラムを配置して警報と追跡プログラムをセット。念のために偽のクラッキングプログラムを仕掛けてから、不要になったウィンドウを閉じ、要らないファイルははじき捨ててディスプレイを整理した。
ここまでわずか二十秒。さっき打ったラッシュの効果で処理速度が上がっている。
天音は息をつき、スポーツ飲料のボトルをとって口に運んだ。監視プログラムのウィンドウを見つめて数秒待つ。アラームは鳴らない。
オーケイ。
天音は深呼吸して目を閉じ、眉間の奥に意識を集中させた。
「下降せよ!」
鋭く口にして、ぱっと目を開けた。
視界が先ほどよりさらに明るくくっきりとして、ウィンドウのフレームの濃いブルーがあざやかに浮き出て見える。ウィンドウいっぱいに表示された文字が、まるで脳に直接映されているかのように一瞬ですべて読み取れる。周囲の時間の流れが極端に遅くなったような錯覚に陥る。
いや、錯覚ではない。
〝ゴー・ディセント〟は自己暗示のキーワードのひとつで、ラッシュとの相乗効果でオペレーション速度を飛躍的に高める〝ラッシュダイブ〟開始の合図だ。実際に口にし、耳から音声として認識されることで効果が発揮される。
実際にいま天音が感じている時間の流れは、相対的に遅くなっている。その分体力と精神力の消耗は激しいが、時間との闘いになる場合には必要不可欠なスキルだ。
天音は立ち上げた計七面のディスプレイと無数のウィンドウを駆使し、複雑に絡み合ったネットワークの糸をたどって目的地を目指した。加速のかかった切れの鋭い動作でウィンドウを操り、キーボードに指を踊らせる。宙に舞うてのひらの一閃で開かれるウィンドウに、滝のようにとうとうと文字が流れていく。聞こえるのは自分のやや速い息づかいと、まるで歌うかのような打鍵の音だけだ。
全世界に張りめぐらされたコンピューター網に潜り、膨大なデータとプログラムの海を渡って任務をこなすオペレーティングのプロ――通称〝ビットダイバー〟。天音はそんな電脳空間をすみかにする者のひとりだ。なかでも〝クロスネットオペレーター(CNO)〟と呼ばれる連邦政府公認のビットダイバーは、任務中のクラッキング行為をかなりの程度許され、ネットの海を自由に泳ぎ回れる。
天音がいま携わっている仕事の正式名称は、〝第四次ネットポリスシステム強化検討及び再構築プロジェクト〟。セキュリティが脆弱なまま巨大化の一途をたどるワールドネットでは、悪質なネット犯罪があとをたたないどころか年々増加している。ネット犯罪を摘発するネットポリスシステムは役立たずとの悪評が高く、強化と再構築は連邦政府にとって大きな課題だ。
しかし、いま天音がしていることは、その仕事とはなんの関係もなかった。関係ないどころか、ネットポリスに摘発されれば即逮捕され、CNOのライセンスを剥奪される犯罪行為だ。
天音はある地方大学のコンピューター使用者のIDを盗み、いくつかのローカルネットとプロキシを経由して足跡をごまかしながら目的地に向かっている。
ときおり出合うネットポリスプログラムをかわすのはあまりにも簡単で、これはたしかに役立たずだと、内部の人間ながら情けなく思う。だが、天音と同類のビットダイバー――人間のネット捜査官がパトロールしている場合もあるから、油断は禁物だった。
エメラインは優秀なネット捜査官だったなと天音は思いだし、その記憶が過去形でしか語れないことに、つかのま強い哀しみをおぼえた。
ラッシュダイブ中に雑念は無用。天音はいまは亡き同僚の面影をきっぱりと頭から消し、先を急いだ。追跡者が来たときのためにトラップやダミープログラムをしかけながら進む。ようやく目的地が見えてきたときには、開始から三十分が経過していた。
相手の〝城〟は予想以上に堅牢だった。何重にも張りめぐらされたファイアーウォールが不正アクセスを監視しており、天音でも舌を巻く高いセキュリティの壁が築かれている。門番に当たるプログラムは一見して凶暴で、侵入者をその鋭い牙で恫喝するドーベルマンのごとき表構え。だが本体は、退散する侵入者の気配をたどってどこまでも密かに追う、狡猾な追跡プログラムだ。
ビットダイバー歴がまだ二年足らずなのに、これほどの壁を築けるとは。感嘆を超えてうすら寒いものさえおぼえながら、天音は不用意に手を触れないよう注意して、入りこむ隙間を探した。やがて、壁の構築には天音も知っているプログラマーが何人か関わっているようだとわかった。
プログラマーたちにはおのおの癖がある。それを自分は熟知している。ここからは経験の差が優位に働くはずだ。
悪いが、僕のほうが上手だ。
慎重に狙いをつけて、天音は侵入を開始した。