ACT13 再会の航路
エンデュミオン号のエアロックの内扉が開く。瞬間、ショックパルス銃の赤い可視光ポイントに額を狙われて、響揮は息をのんだ。扉の向こうに無表情な顔のシャンメイがたたずんでいる。
ポイントをゆっくりと隣にいるサレムの胸に移し、シャンメイは促すように顎をしゃくった。
「手を頭の後ろに。武器は預かる」
「持ってませんよ。話をするだけですから」
近づいてきたシャンメイは軽くサレムの身体検査をして武器がないことを確認し、制服のフックにとめられていた手錠のキーをはずした。その後、響揮の腕をつかんで通路に出ると、キャビンのほうへ響揮の背中を押した。
突き当たりのドアが開き、キャビンの明るい光とともにパンツスーツ姿のディアナが通路に漂い出てくる。光沢のある淡いグリーンのシルク生地に、アップにまとめたハニーブロンドと耳元にのぞく小さな真珠のピアスが映える。
手足を拘束されている響揮は動きを制御できず、そのままディアナに抱き止められた。閉じたキャビンのドアにディアナの背が押しつけられ、反動で彼女の豊かな乳房が揺れるのを、響揮は触れあった自分の胸の下で感じて思わず赤面した。
「響揮……おかえりなさい」
軽く抱擁され、やわらかな声と甘い香水の匂いに迎えられて、響揮はとまどった。歓迎されていると勘違いしてしまいそうだ。
「ああ、これじゃ返事ができないわね」
響揮の口を覆っていたテープをはがし、顎をとらえて顔を自分のほうに向けさせる。
「口を開けて。キーを出しなさい」
「……キーなんてない」
ディアナは後ろに来たサレムに視線を投げた。
「手錠のキーは入れなかったの? 本物のサディストだったのかしら」
他意はないというように、サレムは両手をあげる。
「言ったでしょう。僕はフローレス家を敵に回す気はありません」
「……人でなしね」
「否定はしませんよ。長いものには巻かれるのが長生きの秘訣です」
響揮とサレムが共謀して芝居を打っているのではないかと、ディアナは疑っていたのだ。彼女は響揮の目をのぞきこみ、髪にすっと指を通してから、シャンメイにうなずきかけた。
「自由にしてあげなさい」
手足の電子手錠がはずされ、ようやく響揮は電撃の恐怖から解放された。
「サンキュ、シャンメイ」
ほほえんでみせると、シャンメイはかすかに口元をゆるめた。
ため息をついて手首をさする響揮に、ディアナが言う。
「その手錠、今度はきみが捜査官のお兄さんにかけてあげて。後ろ手にね」
ぎくりとしたサレムの背後にすっとシャンメイが回りこみ、銃をうなじに突きつける。
「……さすが、徹底してますね、ミス・ディアナ」
「響揮とどっちがより危険かといったらあなたでしょう、アフラム。調べさせてもらったわ。特殊部隊仕込みの腕を自由にさせてはおけない。この船は遊覧飛行中だから、いまスタッフはかよわい女ふたりだけだし」
「辞書があれば、かよわいって単語の意味を確認したいところですがね」
「長生きしたいなら言葉に気をつけたほうがいいわ。まあ、経歴を見るとあなたは十分運命の女神に愛されてるみたいだけど」
シャンメイに手錠を差し出されて促され、響揮は唾をのみこんだ。サレムがあきらめたように息を吐き、自ら手を後ろに回す。いかめしい金属製のリングを浅黒い肌の手首にはめるとき、響揮はそこに刻まれた古傷に気づいた。
修羅場をくぐってきたことを示す傷だ。
ためらいを捨て、響揮はサレムの両手を拘束する。シャンメイがキーをスリットに通し、センサーを作動させた。
ディアナが平坦な声で告げる。
「遊覧飛行の続きをするんだったわね。さあ、キャビンにどうぞ。あなたも、アフラム。遠慮はいらないわ」
すっとディアナの背後のドアが開いた。キャビンは響揮の記憶どおりにまぶしいほど明るく、ディアナの姿が一瞬、光に吸い込まれたかのように見える。目を細めた響揮の手をとり、ディアナが室内に導き入れた。
「……響揮? 響揮なのか?」
突然なつかしい声に呼びかけられ、響揮はまばたきして声のほうに顔を向けた。
「……兄貴!」
数時間前には死んだように眠っていたはずの兄が、目を見開いてこちらを見ていた。キャビンの横手、ゆるくカーブした船の側壁に開いた丸い窓のそばにたたずみ、手首の片方を窓枠の手すりに手錠でつながれている。
響揮は壁の手すりをつかんで強く反動をつけ、いっきにキャビンを飛んで天音の首に抱きついた。触れあった頬はあたたかく、心臓の鼓動が命の営みを伝えてくる。
天音は拘束されていないほうの腕を響揮の体に回し、ぎゅっと抱きしめた。
「響揮、ほんとにおまえなのか? おまえは死んだと聞かされて……僕は……」
「アレックスに助けてもらったんだ」
「アレックスが? そうか、彼に会えたんだな。よかった、本当に……生きていてくれて――」
耳元でささやく言葉の語尾に涙がまじる。
「僕のせいでおまえを死なせてしまったと思っていた」
「兄貴のせいじゃない」
「ごめん」
同時に口にして、ふたりは顔を見合わせて苦笑する。互いの目をのぞきこむ、その一瞬で、お互いの気持ちはすべてわかった。
天音がふっと目を閉じ、「ありがとう」と言った。
「礼はまだ早いよ。兄貴は俺が助ける。そのために来たんだ」
「響揮――」
響揮は振り返ってディアナを見た。
「遙香はどこにいるんだ? 会わせてもらえる?」
「ゲストルームで眠っているわ」
ディアナは首をかしげる。
「覚醒のキーワードは日本語だったのね」
そういえば、と響揮は兄に視線を戻す。天音がうなずいた。
「キーワードはおまえに託していたんだ、響揮」
「俺に? でも……」
「世界中でただひとり、おまえだけが僕を〝兄貴〟と呼ぶ。たぶん僕が目覚めるまで、おまえは何度だって僕を呼び続けると思った。五回呼ばれたら覚醒する設定にしていた」
「兄貴……オールダー・ブラザー」
ディアナが口をはさむ。
「弟をあなたに会わせたわたしの判断は正しかったということね。感謝してほしいものだわ」
「すてきな冗談だな。大事な弟を殺そうとした女に、感謝などできるはずないだろう」
「弟に命を預けたりするのこそ、すてきな冗談だわ。なぜそこまで信じられるの?」
「弟だからさ」
まるでそれが全世界の共通認識だとでもいうように、天音はさらりと答える。
「たぶん響揮も、無条件で僕に命を預けてくれる。ぼくが兄だから」
「……兄貴」
喉が熱いかたまりでふさがれ、響揮はなにも言えなくなった。天音にしがみつき、白いジャンプスーツの胸に顔をうずめる。なつかしい兄のにおい。幼い日にもぐりこんだベッドでされたように、やさしく髪を撫でられていると、泣きたくなってくる。
「すまなかった、響揮。おまえにあまりにも多くを頼りすぎた。いまごろ反省しても遅いが」
「……兄弟は他人だわ。いつ裏切るかわからない」
ひとり言のようにディアナがつぶやく。
「きみはたったひとりの兄さんに爆弾を贈るような人だものな」
辛辣な天音の言葉を無表情に受け止めて、ディアナはついと兄弟に背を向け、フードウォーマーに近づいた。通路に続くドアの脇では、シャンメイがサレムの手錠の一方をはずし、それを改めて手すりにかけている。
「ミス・ディアナ、お招きはありがたいんですが、用も済んだし、僕は船に帰らせてもらえませんか」
ディアナはサレムに顔を向けてふっとほほえんだ。
「そんなに急がなくてもいいでしょう。コーヒーでもいかが?」
「ぬるいのは遠慮しときます。で、相談ですが、僕とアレックスは生体ゴミを拾ったことになってるんですよ。管制センターに報告しなきゃならないんで、手ぶらで帰るわけにもいかなくて。響揮の代わりに日本のお嬢さんを引きとらせてもらえませんか。手早く記憶消去して渡してもらえれば、適当にホテルに返しておきます」
「遙香の目が覚めたら連れて帰って。記憶消去はもうしてあるわ」
ディアナはあっさりと答え、コーヒーのパックをとった。
「……いいのか?」
息をのんだ響揮に、ディアナは苦い笑みを向ける。
「意外だった? それに……きみも天音も、記憶消去して返すつもりよ」
「本気なのか、ディアナ? 死神に情けがあるなんて聞いたことがない」
疑わしげな天音に、またディアナは苦笑してパックの封を切る。
「そんな皮肉を言うと気が変わってしまうかもしれないわよ、天音」
「勝手なことを! いままでさんざん僕や響揮をもてあそんでおいて――」
「命は取らないって言ってるのよ。感謝しなさい」
「きみに感謝など――」
「兄貴」
響揮は天音の言葉を遮り、ディアナに顔を向ける。
「あなたの目的は、大統領を殺して連邦を壊すことだったはずだ。それをあきらめたってこと?」
コーヒーをひと口飲んでから、ディアナは響揮と視線を合わせた。
「これから花火があがるわ。それが見られれば、ほかのことはもうどうでもいい」
天音が息をのむ気配に気づき、響揮はちらりと兄に目をやった。窓枠の手すりに手錠で繋がれた天音の手は、かたく握りしめられている。
「花火ってなんです? どうもきな臭い予感がするんですが」
壁際から、緊張した口調でサレムが訊く。
ディアナは答えずにまたコーヒーを口に運び、ディジフレームを見つめた。開いたヴィジのウィンドウには、パトシップのコクピットの画像が映し出されている。操縦席にいるアレックスはまだ目覚めていない。
「シャンメイ、ブローディの様子を見てきて」
「はい、ミス・ディアナ」
キャビンを出ていくシャンメイを見送って、サレムがそっと息を吐き、うつむいてなにかつぶやいた。
「さっき管制センターの通信を傍受したの。大統領専用船はすでに宇宙港を離れた。これから月の軌道を一周して地球に進路をとる。まもなくよ……花火が見られるわ」
「大統領専用船って……まさか、爆弾をしかけたのか?」
響揮は愕然とした。
「テイラーが死ぬ前にやらせたんですか?」
サレムが身を乗りだす。その拍子に手錠のセンサーが反応して軽い電撃に打たれ、彼は歯を食いしばった。
「奴だって、連邦一警戒が厳重な大統領専用船に爆弾を仕掛けるのは――」
「テロリストなんて自己中心的な連中、あてにしていないわ」
ディアナは飲み終えたコーヒーのパックをダストシュートに放った。
「大統領専用船にはこの船と同じエンジンが積まれている。だからわたしはこの船を手に入れたのよ」
BGMが欲しいわね、とディアナはつぶやき、天音に顔を向けた。
「《魔法使いの弟子》でいい? どうしてか、花火にはこの曲って気がするわ」
* *
「くそっ、地獄に堕ちて三千年呪われろ、だったか? サレムが言ったのは。まったく同感だよ」
サレムが響揮を連れてエンデュミオン号に移るのを待ち、アレックスはシートベルトをはずした。ショックパルス着弾の痛みが残る胸を押さえて顔をしかめ、席を離れる。
「ガキの芝居に引っかかるなんざ、俺もヤキが回ったな」
あの少年には不思議に人を和ませる雰囲気があり、つい無防備な部分をさらしてしまうようだ。ふだんは用心深いサレムが簡単に気絶させられたのもそのせいだろうと、いまなら理解できる。
しかも、してやられたとわかっても憎む気になれないところが癪にさわる。それはおそらく、ディアナも同じに違いなかった。
アレックスはディスプレイをのぞいた。サレムの制服の胸ポケットには通信機がセットされており、マイクロサイズのカメラから画像が送られてきている。ディアナはいつものように美しく、まさに女神の名にふさわしい堂々とした存在感だ。美は善なりのはずじゃないのかと、アレックスは心のなかで突っ込みを入れた。
こちらからエンデュミオン号に送られるヴィジの画像はサレムが細工して、操縦席で正体なく眠りこけているアレックスの録画をリピート再生している。
アレックスは顎を撫でた。これでいつまでディアナをごまかせるだろう? 今後の展望は明るくはないが、ただ手をこまねいてはいられない。
彼はコクピットを出て、トランクルームに続く二重のハッチを開けた。ここは狭い筒状のコンテナを接続したもので、通常は使用しない装備を納めてある。緊急時には荷物を外に出し、脱出ポッドして使える設計だ。
アレックスは対人戦闘用の火器一式を収めたツールベルトをとり、腰に巻いた。閃光弾、催涙弾、音波銃、機動阻止剤、ネット弾。どれも非破壊兵器で、船の設備を傷つけることはない。
スラックスの裾を上げ、脛に巻いたホルダーのサバイバルナイフのわきに、予備の小型ショックパルス銃をダクトテープでとめる。操縦席に戻ってバイザーつきのヘッドセットをつけ、バイザー内側のスクリーンに操縦席のディスプレイをリンクさせると、サレムが中継しているエンデュミオン号の内部が映った。
準備完了。
中継画像がキャビンに切り替わるのを確認してから、アレックスはエアロックを抜け、エンデュミオン号に足を踏み入れた。
響揮に撃たれたのち、アレックスが完全に意識を失っていたのはほんの一分ほどだった。ショックパルス弾には耐性が高いほうなので、三十レジオン程度なら数分で視覚と聴覚が戻り、十分もすれば体の麻痺も消える。したがって響揮が自分を撃った理由は理解していたし、サレムの行動も意図を察したうえで黙認した。
もちろんサレムも、アレックスがすぐに覚醒したのに気づいていた。銃をホルスターに戻すとき、「ここは僕にまかせて。しばらく寝たふりしててください」と耳打ちしていった。
いかに行動力があっても、響揮はやはりまだ子供なのだ。ディアナを脅せば逆効果だとは、少年の直線的な思考では気づけない。そもそもディアナに憎まれていると思っているところが幼すぎる。
かわいさ余って憎さ百倍と、アレックスは心中でつぶやく。
だからこそサレムは、ディアナの前でわざと響揮を痛めつけてみせたのだ。ワールドネットに情報を流すなどと脅されれば、ディアナは本気で響揮を殺しにかかるだろう。だが虐待された子供なら助けたくなる……とサレムは考えたに違いない。
母性本能などというものをディアナが持ち合わせているのかどうか、アレックスには大いに疑問なのだが、サレムは女という生き物になにかファンタジックな妄想を抱いているらしい。
ともあれ、芝居とはいえ、サレムは本当に響揮を切り札として――道具として利用した。そのいかにも現実的で潔い決断は自分にはできないと、アレックスは寝たふりをしながら感心していた。
おかげで、こうしてエンデュミオン号に入ることができたわけだ。響揮に指摘されたように、アレックスひとりで特攻しても、エアロックにさえたどりつけなかった可能性は高い。
それにしても、いつもどこか冷めた雰囲気のサレムが、自分の特攻につきあうつもりだったというのが意外だった。
ファンタジーな『ハル&レイ』なら、特攻しても最終的には勝てるだろうが、残念ながら自分たちにはリアルな制約がある。物事、そううまくはいかない。サレムは自ら悪役を引き受けて魔女の城に潜入したが、どうやらミイラ取りがミイラになったようだ。人質が増えただけじゃないかと、アレックスはぼやく。
ともあれ、バイザーのスクリーンで天音の無事が確認できたのはよかった。これでキャビンには人質が三人、敵がふたりと判明した。不意打ちでなんとかなるとは言い切れない構成だ。
通路に並ぶドアをすばやくのぞいていく。ディアナの言葉によれば、遙香はゲストルームにいるはずだ。この件に本当になんの関係もない少女だけは、無事に地球に返してやらなければならない。
三つ目の部屋で、ベッドに横たわる少女を見つけた。アレックスが近づいても、少女はぴくりとも動かず、まるでコレクション用のビスクドールのように見える。生きているのかと不安になり、間近から顔をのぞきこむ。すると少女の目がいきなりぱっと開き、大きな黒い目に一瞬で恐怖がみなぎった。
叫ばれると直感し、アレックスはあわてて少女の口を手でふさいだ。
「静かに! 俺はUCCIのアレックス・ブローディ、天音と響揮の知り合いだ。きみのことは知ってる。南十字星を持ってる響揮のガールフレンド、名前は遙香。だろう?」
少女の目に理解の色がひらめく。それからなぜか、少女は頬を染めた。
「俺、なにか変なこと言ったかな?」
アレックスがゆっくりと手を口から離すと、遙香ははにかんだ顔で首を振った。アレックスは胸を撫でおろす。天音が教えてくれた南十字星の秘密には、彼女の気持ちをやわらげる効果があったようだ。
「あなたはパークで響揮を救急車に運んでいた人ね?」
「見てたのか。というか、それを覚えているのか? きみは記憶消去を受けたはずだが」
遙香はベッドに体をとめていたストラップをはずし、ふわりと宙に体を浮かせた。
「夢のなかで一生懸命思い出してたの。忘れちゃいけないと思って。響揮と約束したから――」
少女の声の端が震えたのに気づき、アレックスはぽんと遙香の肩に手を置いた。
「響揮は生きてるよ、怪我もしてない。天音も無事だ」
「ほんと!?」
泣かれたら困るとアレックスは思ったが、遙香はきゅっと唇を噛んでこらえていた。
「ふたりはどこにいるの?」
「この船のキャビンだ。だが会うのはもう少し待ってくれ。人質にされてる」
遙香はうなずいた。
「あなたがふたりを助けてくれるのね?」
素直な、頭のいい子だ。おまけに美人だ。アレックスはほほえんだ。
「ああ。俺の船がドッキングしてるから、きみはそっちへ移って待っていてくれ」
部屋を出てエアロックからパトシップに入るあいだに、ツールベルトから筒状の催涙弾とネット弾、それにキャンディ状の閃光弾をとって少女の華奢な手にゆだねる。
「これからきな臭いことになるかもしれない。自分の身は自分で守れ。敵が来たらピンを引いて投げつけろ。くれぐれも味方には当てるなよ」
遙香は覚悟した顔でこくりとうなずいた。
なかなか肝が据わってるじゃないか。アレックスは安心しかけて、即座に自分を戒めた。結局のところ、この子は響揮のガールフレンドだ。類は友を呼ぶってやつかもしれない。
つまり行動的で無駄に頭の回転が速く、危険分子で不確定要素だ。
さすがに手錠でつないでおくわけにもいかないが、隠れていろと言えばきっと我慢できずに出てきて無茶をする。……そんな予感がした。
被害妄想だろうかと考えながら、アレックスは少女にトランクルームを見せた。
「きみに頼みがあるんだが、受けてもらえるか?」
任務を与えれば、よけいなことに頭を回す可能性も減るだろう。
遙香は勢い込んで首を縦に振った。
「あたしにできることならなんでもするわ」
「助かるよ。俺が響揮と天音を連れて戻るまで、ここを守っていてほしいんだ」
アレックスは天井にある透明なカバーを示す。
「この部屋は緊急脱出ポッドでもある。カバーの奥の赤いレバーを引けば、船体と切り離される。棚のホルダーにマニュアルがあるから、しっかり読んで、いつでも使えるようにしておいてくれないか。きっと必要になると思うから。もし俺が戻る前に危険が迫ってきたとしても、迷わずにこれを使って逃げろ。ひとりでも行くんだぞ。きみはきみ自身の命を守ることを最優先に考えろ。いいね?」
「わかった。響揮と天音さんはあなたにまかせるから、きっと助けて。約束よ?」
遙香の目に絶対の信頼を認めて、アレックスはたじろぎつつうなずいた。
「約束する」
なぜかエメラインの面影が脳裏に浮かび、彼は表情を引きしめた。
信頼に応えたい。だが、状況は思わぬほうに変化していた。
遙香をトランクルームに入れてハッチを閉じ、アレックスはバイザーに映る画像に神経を集中させて顎を撫でた。
まったく、想定外の事態だ。ディアナは遙香だけでなく、天音も響揮も解放すると言っている。
信じていいのか? 花火とは爆弾なのか? あの女はどうやって大統領専用船を爆破する気なんだ? 情報は不確実だが、大統領専用船に警告すべきか?
そのとき捜査局から通信が入り、アレックスは思考を中断されていらだった。
出ると厄介なことになりそうだが、出ないのもまた厄介なことになる。なにしろ、エンデュミオン号を追っていたこともドッキングしたこともまだ局に報告していないのだ。
『UCCI1022、ブローディ主任? サレム? 早く出てくださいよ』
じれた声は、部下のムスマン・バヤルのものだ。アレックスはヴィジを入れずに応じた。
「こちらブローディ。まだ取り込み中だ。用件はなんだ?」
『生きてるなら連絡くださいって。緊急事態です、部長がいまにも噴火しそうです! 俺ひとりじゃ抑え切れません』
「なんとか頑張れ。殉職なら葬式代は局持ちだから安心していいぞ」
『葬式代の心配するのは主任のほうじゃ? さっきも緊急救難信号無視したし。気になって座標見たら、お隣はP船じゃないですか。いったいどんなヤバイことに足突っ込んでるんです?』
優秀な部下はときとして非常にうっとうしい。
「いまは訊くな」
短く返すと、ムスマンは状況を察したらしかった。
『じゃああとで。ランデブーの件と遭難者救助の件、管制センターに報告は?』
「これからする」
抑えたため息がスピーカーから聞こえてくる。
『さすが〝弾丸〟』
「なにか言ったか?」
『いいえ、空耳ですよ。取り込んでるのがP船の件なら、ルナサウス警察からの最新情報を送ります。役立つはずです』
「すまんな、ムスマン。部長には――」
『P船の護衛って言っときます。噴火が収まるかも』
すばらしい、やはり持つべきものは優秀な部下だ。上司の教育のたまものだと自画自賛しながら、アレックスは送られてきたファイルを開いた。そして内容を確認し、しばしその場に呆然と立ち尽くした。
バイザーのスクリーンをディアナの付き人の中国系少女が横切ったのに気づき、アレックスはわれに返る。
『すみません主任、ばれたみたいです』
サレムのささやきが聞こえた。
数秒だけ目を閉じて考え、アレックスは唇を噛んで目を開けた。ブルーの目には冷たいきらめきが宿っている。
彼はムスマンから送られたファイルをフォロディスクに落として胸ポケットに入れ、ヘッドセットをはずしてディスプレイから離れた。エアロックに向かいながらツールベルトとショルダーホルスターをはずし、トランクルームわきのホルダーにとめた。
エンデュミオン号のエアロックが開く。アレックスを認めたシャンメイが、さっと銃をとって可視光ポイントをアレックスの額に当てた。
アレックスはゆっくりと両手をあげ、頭の後ろで手を組んだ。
「落ち着け、俺は丸腰だ。まだ足のナイフをはずしてないが」
「動かないで。わたしがやるわ」
正確にアレックスに漂い寄り、スラックスの裾をまくるシャンメイに、アレックスは話しかける。
「ディアナと話したい。伝えなければならないことがある」
「交渉なら――」
「いや、交渉じゃない。ディアナは人質を全員解放するつもりのようだからな」
シャンメイはちらりとアレックスの顔を見て、はずしたサバイバルナイフと予備の銃を自分のスパッツのウエストにはさんだ。アレックスの背後に回り、銃口で背中をつついて進むよう促す。
「すべてはミス・ディアナのお気持ちしだいよ。変わることもある」
「……なるほど」
特攻するつもりが一転、投降する判断を下したのは是か非かと、アレックスはつかのま考え、近づいてくるキャビンのドアをにらみつけた。
* *
「いいところに来たわね、ブローディ。じきに花火があがるわ。一発だけだから見逃さないようにして」
ディアナは冷たい笑みを浮かべて言い、AIに命じて三Dフォロの大きなスクリーンをつけさせた。キャビンには《魔法使いの弟子》のきらめくようなシンフォニーが流れている。
響揮は天音のそばから離れず、シャンメイがアレックスとサレムを電子手錠でつなぐ様子を見つめた。ふたりはドア脇の手すりをくぐらせた手錠で互いの右手首を拘束されて、なにか文句を言い合っている。『ハル&レイ』を地でいっているようだと場違いなことを考えつつ、響揮は気持ちを引きしめた。
拘束されていないのは自分だけだ。下手に動けば数少ない切り札を失うことになる。慎重に行動しなければならない。なにしろ、ディアナが自分たちを無事に解放する保証はなにひとつないのだから。
スクリーンには航路を監視する衛星からの画像が中継されている。放送局から流される正規の映像ではなく、管制センターのシステムをクラッキングして得ているものらしい。
カメラは画面中央の、エンデュミオン号と同型のパールホワイトの船体を追っている。
「そろそろよ」
ディアナは画面の隅に表示された座標を見た。
「あと数秒……」
「くそっ」
アレックスが画面を見つめて歯を食いしばる。
スクリーンに見入るディアナの瞳には抑えた興奮の炎が燃え、エメラルドのように輝いている。いつもよりいっそう美しく見えるのは皮肉なものだ。響揮には惨事を直視する勇気がどうしても出てこず、画面から顔をそむけた。なにか起きるとわかっているのになにもできないのは、一種の拷問だった。
「響揮」
天音が小さな声で呼んだ。
「なに?」
「僕にかまわず、おまえはなんとか遙香ちゃんを連れて逃げろ。彼女はたぶん、ぼくがいたゲストルームの隣の部屋だ。緊急脱出ポッドを使え」
「兄貴、どういう――」
刹那、キャビンにディアナの叫びが響きわたった。
「なぜなの!? どうしてなにも起きないの?」
さらに数秒スクリーンを見つめてから、ディアナはぱっと天音を振り返った。
「天音、まさかあなた……」
呆然としていた顔がやがてみにくくゆがみ、まなざしが鋭い憎しみに満たされる。
天音は顎を引いてディアナの視線を受け止め、窓枠につながれた手のこぶしに力を入れた。
「ぼくのほうが上手だったな、ディアナ」
「……ワクチンを入れたのね」
「効果を検証する暇がなかったから一発勝負だったが。効いたらしい」
「そうか……大統領船に仕掛けたのは爆弾じゃなく、ウイルスプログラムだったのか」
アレックスがうなる。
「だからあんたは同型船を手に入れたんだな。エンジン制御システムを研究して、ウイルスを仕込むために」
響揮は船影を追い続けているスクリーンに目をやった。白っぽい船体が画面の中央で小さくなっていく。
「あんな混雑した航路のど真ん中で船を粉々にするなんて――」
サレムが歯ぎしりする。
「いったいどれだけのデブリが巻き散らされて、何隻の船が犠牲になるか」
「そんなこと気にする必要はないわ、アフラム」
答えるディアナの声は平坦で、その顔にももう感情は表れていなかった。
「……花火が終わったらあなたたちを解放するつもりだったけれど、気が変わったから。シャンメイ、銃を」
通路に続くドアの前にいたシャンメイが、ぎくりとして手すりを離した。
「ミス・ディアナ――」
「わかってる、あなたは銃が苦手よね。心配しないで、わたしが自分で始末をつけるから」
ディアナはシャンメイに近づき、ためらう手から銃を奪った。くるりと体を返し、銃口を天音に向ける。
響揮はとっさに兄を背にかばい、照準のポイントを自分の胸に受けた。
「どきなさい、響揮!」
「もうやめてくれ、ディアナ! こんなこと意味ないだろ!」
響揮は叫んだ。
「大統領は地球に帰る。フローレス党首もまだ死んだわけじゃない。やり直すチャンスがあるってことだ。直接彼らと話すチャンスが。言葉で言わなければわからないって、俺に言ったのはあなただろう? 憎いなら憎いって彼らに言えばいい。それであなたのお父さんが生き返るわけじゃないけど――」
「そうよ、大切なのはそこ。パパはもう戻らない! みんな――みんな、パパと同じように宇宙の塵になるといいわ!」
ディアナはトリガーを引いた。ショックパルスが響揮の胸に吸い込まれ、瞬間、小柄な体がはじかれたように跳ねあがる。
「響揮――!」
天音の絶叫がキャビンにこだまするなか、弛緩して漂う響揮の体をシャンメイが抱きとめる。
ディアナは銃を天音に向け、ほほえんだ。
「ひとりずつ殺していくわ。あなたは最後よ。残される者のつらさをたっぷり味わうといい。選びなさい。次は誰にする? 死んだ恋人の兄さん? 妹みたいな隣の家の女の子? そうね、あの子も起こしてここに連れてきて――」
「やめろ、ディアナ!」
アレックスが叫び、左手に握ったキャンディ状の物体をキャビンの中央に投げた。振り向いたディアナの目前で物体がはじけ、瞬間、真っ白な光がキャビンを埋めつくした。
「閃光弾――こんなものを持っていたなんて」
視力を一時的に奪われ、ディアナはその場にただ立ち尽くす。
「響揮、目を覚ませ、逃げるんだ!」
アレックスの声に促され、響揮は必死で目を開けた。ディアナが撃ったのは、シャンメイがアレックスからとりあげた予備の小型銃だ。設定はパトロールモードの十五レジオン。響揮が気絶していたのはほんの数秒だった。もちろんアレックスはそれに気づいていたのだ。
シャンメイはディアナと同じく視力を奪われ、呆然としている。響揮は彼女の腕から抜けだし、部屋を一瞥した。アレックスと、気絶していた響揮以外は閃光弾をまともに浴びたらしい。だが閃光弾の目くらまし効果は三十秒程度で切れる。
「響揮、俺の船に行って――って、こら、人の話を聞け! 響揮! このばかものが!!」
アレックスの怒声が追いかけてくるが、響揮は無視してコクピットへ飛んだ。ドアに鍵はかかっていない。
よし、ついてる!
コクピットに入ってドアを閉め、鍵をかけた。自動的に照明がつく。ぐるりと内部を見回し、正面のスクリーン脇に目指すものを見つけた。透明プラスチックのカバーをはずし、ボックスのなかの赤いボタンをためらいなく押し込む。
緊急救難信号だ。
十秒もしないうちに管制センターから確認を求める通信が入ってきたが、響揮は応えなかった。応える必要はない。いずれにしても近くにいる船が駆けつけてくる。
ドアが外からたたかれる音がした。響揮は深呼吸をしてから鍵をはずし、ドアを開けた。
「あなたって子は……」
目前にたたずむディアナの瞳には、激しい怒りの炎が宿っている。キャビンのBGMはクラシックな楽器の織りなすハーモニーから、警戒を告げるAIの耳ざわりなアナウンスに変わっていた。
「自由にさせておいたのが間違いだったわ。アフラムの言うとおり、なにをしでかすかわからない。……油断したわたしが悪いんだけど」
響きは刺すようなディアナのまなざしを受け止め、顎を引いた。コクピットには緊急通信の着信ブザーが鳴り響き、管制塔からの切迫した呼びかけの声が続いている。
「二十分もすれば救助船が来る。あなたがしようとしたことも、したことも、すべて公になる。でもこの船にはアレックスの船がドッキングしてるからね。いまならアレックスしだいで救難信号は間違いだったことにできる。……俺たちを解放してくれ、ディアナ」
ディアナは首をかしげ、ふっと笑った。すいとドアの縁に手をかけて体をコクピットに入れる。その動作は素早く、響揮はふわりと舞った甘い香りに気をとられて、逃げるタイミングを逸した。一瞬でしなやかな腕に引き寄せられ、正面から抱きすくめられる。
「わたしを脅してるの? いい度胸ね。でもごめんなさい、もうなにが公になろうとどうでもいいわ」
耳元でささやく声が終わるか終わらないかのうちに、響揮の脇腹でショックパルスが炸裂した。声もあげられないまま、響揮は気を失った。
「今度はゲージを確認したわ。三十なら死なないわね。簡単には殺してあげないわよ」