ACT11 ブラックアウト
地上で星がまたたくのは、厚い大気の層を通って光が届くためだ。真空の宇宙では星はまたたかず、強くまっすぐな光がそのまま闇を飾っている。
銀河の腕はくっきりと全天を囲み、刺すような輝きを放つ太陽ははるか左手に、右手には荒涼として明るい月、そして奇跡のように青い海をたたえた地球が前方に見える。
見慣れた星座を探すのは、幾万の星のすべてがはっきりと見える宇宙空間ではなかなか難しい。銀河のほとりにたたずむひときわ赤い恒星、蠍座のアンタレスを見つけて、なんとはなしにほっとする。
エンデュミオン号の白い船体は、とうの昔に星々にまぎれてしまった。自分の体は船と同じく時速数千キロで飛んでいるのだが、まるでそんな感じはしない。止まっているのではないかと思えるほどだ。
酸素の残量表示は三十分を切った。もともと簡易生命維持システムは、短時間の作業を行うためのものだ。命綱なしで宇宙を漂流するには向かない。
呼びかけても応えるものはなく、ただ果てしなく落ちていくような感覚だけが続く。底知れぬ寒さに全身が覆われ、頭の芯までゆっくりと凍っていく。
永遠に続く拷問だ。
「……希望がなければ頭がおかしくなるだろうな」
響揮は片腕を軽く振って重心を移し、体を反転させた。
つかまるものがなにもない状態では、方向転換するのにもコツがいる。宇宙空間は絶対零度に近いマイナス二百七十度と言われるが、実際は太陽が当たる部分と当たらない部分では、スーツの外温に二百度近い差ができる。生命維持システムを効率よく稼働させるには、適度にローリングして温度差をならすほうがいい。
生きのびる可能性を高めるために。
響揮はできるだけ呼吸をゆっくりと保ち、リラックスに努めた。精神状態も酸素の消費量を左右する。コンテナのなかで目覚めたときにパニックに陥りかけ、だいぶ酸素を無駄に使ったことが悔やまれた。
「死ぬわけにはいかない。遙香と兄貴のためにも」
自分に言い聞かせる言葉が、むなしくヘルメットに反響する。
凍るような絶望がまた胸に忍びこんでくるのを感じて、響揮は頭を振った。
死の訪れを一秒でも先に延ばす。それがいますべきことだ。
〝希望〟はある。アレックスだ。
月の周辺宙域には、絶えず多くのデブリクリーナーが巡回している。それらは生体ゴミ、すなわち生命反応のある人間を発見すると、直ちに座標を管制センターに送って救助を要請する。たいていは座標にいちばん近い船が救助に向かう。
病院に残したメモを見れば、必ずアレックスはエンデュミオン号を追ってくるだろう。デブリクリーナーが自分を見つければ、きっとアレックスの船が救助に来てくれる。
スーツの警告音が鳴りだして、AIが『酸素残量はあと二十分です』と無情に告げた。
『酸素パックの交換をしてください』
「あればそうしてるさ。もっと気のきいたこと言えないのか?」
漂流開始からの時間は、一瞬だったようにも、一日だったようにも、あるいは永遠だったようにも思える。
虚空に放り出された直後、響揮はショックで遠のきそうになる意識を必死につかみとめながら敗因を考えた。シャンメイはエアロックの自動制御システムを上部管理できる特殊コードを知っていたのだろう。機械より人間の判断のほうが上というわけで、無理やり外扉を開ける指令を出したのだ。
その後、響揮はなんとか体の回転を止めて与圧スーツの環境を調整した。通信システムを作動させて外部からのコンタクトに応えられるよう設定し、位置情報発信ビーコンをオンにする。これで多少は見つけてもらいやすくなるはずだった。
それからは孤独との闘いだった。
AIの声も警告音も音楽のように聴こえだし、意識がもうろうとしはじめていることを自覚する。ディアナの船で最後に聴いた《惑星組曲》が耳の奥によみがえる。
もう父さんと母さんも地球を発ったはずだ。いまどのあたりにいるんだろう。
両親の顔が頭に浮かぶと、熱いかたまりに胸をふさがれた。さまよいだす意識は地球に還り、家や学校をめぐる。
ひらひらと手を振る渚沙。ジャージ姿で公園を走る木田。部活仲間。クラスメイト。
遙香。兄貴。
『酸素残量はあと十五分です』
AIの声にわれに返り、響揮はゆっくりと左腕をあげてコントロールパネルを見た。酸素残量ゲージで点滅する数字が徐々に減っていく。
俺は……死ぬのか。
自分でも意外なほど冷静だった。真っ暗闇のコンテナのなかで感じたような恐怖はない。もっとも、実際に酸素が切れたときには冷静ではいられないだろう。まだ死ぬという実感がないだけだ。
響揮は深くため息をついた。最後になにを目に映していようかと考える。
重心を移動させ、体の正面をふたたび地球に向けた。あざやかなブルーの海、緑と茶色の大陸に、掃いたような真っ白な雲のコントラストがまぶしい。
響揮はしばし時間も、確実に近づいてくる死の足音も忘れて、ただみとれた。
地球――もう帰れない故郷。
ユーラシア大陸の南、はるか太平洋の沖合に生まれたばかりの台風の渦が見える。インド西部のあたりは雲がなく、パキスタンとの国境に近いタール砂漠は晴天だ。
いまごろ渚沙がラクダの背に揺られて、こちらを見あげて手を振っているかもしれない。そう考えてほほえんだところで、響揮ははっとして笑みを消した。
小指に、切ない思いのこもった約束の感触がよみがえる。
『約束して、響揮』
「渚沙……」
渚沙の声に遙香の声が重なる。
『約束して、すぐまた会えるって』
「遙香……!」
そうだ。渚沙を月に連れていく約束を果たさないままにするつもりか? 二度と遙香に会えないまま、こんなところでのたれ死んでいいのか?
渚沙の手紙に書かれていた占いにはなんとあった? 〝ねばり強く頑張れば、運勢は好転します〟
「そうだ、あきらめるな響揮! まだ時間はある。勝負は終わっちゃいない!」
響揮は必死に周囲を見回した。だがなにも見えない。そのとき、スピーカーから突然、与圧スーツのAIとは違う声が聞こえてきた。
『こちらはルナエリア・デブリクリーナーP361号です。生体反応を確認しました』
やはり抑揚に乏しいAIの声だ。それでも響揮の耳には女神の声のように響いて、涙が出そうになった。船体は見えないが、デブリクリーナーが近くにいるのだ。
「遅いよ! どれだけ待ったと――」
安堵のまじった抗議はあっさり無視された。
『このメッセージは自動設定でお送りしています。あなたの現在座標とベクトル情報は月域管制センターへ送信されました。救助船到着は約十五分後の予定です』
「十五分――」
響揮は絶句した。
『酸素残量はあと七分です』と、警告音とともに与圧スーツのAIが告げる。
幼稚園生レベルの、単純な引き算だった。
間に合わない。
頭がフル回転しはじめる。
酸素残量は七分だが、これは普通に呼吸可能な時間の値だ。ゼロになったときにすぐ死ぬわけではない。まだスーツ内には地球上と同じ二十パーセントの酸素が残っている。
酸素濃度が十六パーセント以下になると人体は構造上、酸素を取りこむことができなくなる。つまり自分は、差し引き四パーセントと体内に蓄えた分の酸素で八分持ちこたえなければならない。
問題は、低酸素濃度の空気を一度でも吸えば、意思に関係なく反射呼吸が起こることだ。そうなると肺の生理機能上、逆に体内の酸素を吸い出される事態に陥り、人間は瞬時に窒息する。だから酸素濃度が十六パーセントを切ったら、呼吸を意識的に断つ必要があるのだ。
「三分三十八秒」
響揮はつぶやいた。自分の現在の潜水記録だ。
普通の人なら三十秒から一分のところを、響揮は兄が溺れたことをきっかけに、息をこらえる訓練を続けて記録を伸ばしてきた。
「なにが役に立つかわからないもんだな」
反射呼吸によって酸素を奪われることなく、体内の酸素を消費し尽くす。これは人体の生理現象――人間の生存本能への挑戦だった。
いままでは限界がくる前に呼吸を再開させたが、今回はそのまま意識喪失――ブラックアウトを目指す。
その後はもう、意思でコントロールはできない。自分の体は酸素を求めてむなしく反射呼吸を繰り返し、まもなく心臓が止まる。
「脳細胞が完全にやられて蘇生不能になるまで、猶予は三分てとこか。三分半の潜水記録をいっきに五分にしろって? キツイぜ」
わずか九十秒。だがそこに、明確な生と死の境界がある。
響揮は目を閉じ、深く息をついた。ぱっと目を開けてAIに命じる。
「スーツ内の温度を三十度、湿度をリミットまで上げろ」
だがAIは命令の実行を拒んだ。当然ではあった。実行するとスーツ内の環境は最悪になる。けれども、結局は機械より人間の判断が優先されるのだ。
響揮は生命維持システムの自動制御を強制解除した。手動で数値を上げ、AIの警告を無視して実行ボタンを押す。
たちまちむっとする湿気に包まれて、自宅の風呂場のイメージが頭に浮かんだ。体がいい具合にゆるんでリラックスする環境だ。
スピーカーからノイズが聞こえ、続いて外部通信の音声が入る。
『――こちらUCCI1022。遭難者、聞こえるか?』
待ちこがれていた人の、なつかしい声だった。
「アレックス!」
『……まさかとは思ったが――響揮おまえ、こんなところでいったいなにをしてるんだ! この大ばかものが……!』
アレックスの声には怒りと、抑え切れない絶望がにじんでいた。つながった通信回線を通じて、アレックスは響揮のスーツ内環境やバイタルのデータも受け取っているのだ。つまり、間に合わないことをアレックスも知っている。
「きっと来てくれるって信じてたよ、アレックス」
響揮はぐるりと周囲に視線をめぐらす。
「船はまだ見えないけど、もうそばに来てるんだろう?」
『ああ、俺にはおまえが見えてるぞ。すぐつかまえてやる』
「頼むよ。待つあいだに、俺は潜水の自己記録更新に挑戦する。目標は五分だ。俺さ、今週のラッキーカラーは青なんだぜ」
『占いの話なんかしてる場合か!?』
響揮は苦笑した。
「俺も占いは信じないけど、いまだけは違う。俺を今日、二度助けてくれた人の目の色が青だったからね」
スピーカーの向こうの沈黙に、涙がまじるのが感じられた。
『……二度あることは三度ある。そうだな?』
スーツの環境不適を警告するブザーに、『酸素残量ゼロです』というAIの声が重なった。
「時間切れだ。アレックス、行ってくるよ」
『……待ってるから。還ってこい、響揮』
その声には信頼と覚悟、そして祈りが満ちていた。
響揮は湿気を含んだあたたかい空気を深く、腹の底まで吸い込む。いつものように三度繰り返して、呼吸を止めた。全身の力を抜き、視線を虚空の彼方に向ける。
いま見ている銀河と星々の光は、何万年も何十万年も、あるいは何億年も昔に発せられたものだ。光はまっすぐに、はるかな時間と空間をわたって響揮のもとに届き、あまたの星座をかたどって尽きない夢を見せる。
その宇宙の営みと比べれば、たかだか数十年しか生きない人間が数分のためにあがいても、なんの意味があるだろう?
それでも、希望があるかぎり人は生にしがみつく。
響揮は目の前の宇宙に蛍光塗料の夜空を重ねた。どんなときも心を落ち着かせてくれる、兄との絆の星図。紙飛行機がすっと横切るとき、自分だけが知っている南十字星が現れる。
もう一度、あの六畳間の小さなプラネタリウムに帰るんだ。遙香と、兄貴と一緒に。
やがて肺が空気を求めて暴れだした。いつもなら水から出るタイミングだ。
大丈夫、俺の体にはまだ酸素が残ってる。最後の一分子まで使うんだ。
自分にそう言い聞かせ、与圧スーツの上から体を抱きしめて、本能の叫びを抑えこむ。
『響揮、あと二分で着くから頑張れ! 頼むから死ぬな――!』
アレックスの声が遠くに聞こえているが、もう意味はわからない。希望の糸を必死にたぐり、響揮はかすむ視界に船影を探した。
近づいてくる銀色の船を認めたときは、すでに耳の奥が高い金属質のうなりで満たされ、ほかの音はなにも聞こえなくなっていた。全身が燃えるように熱くなり、やがてざらりとした重たいけだるさに手足からのみこまれていく。
どうやらここが限界らしい。
意識を手放す直前、最後に目に映っていたのは地球でも月でもなく、船体の横腹に描かれた星と太陽のマークだった。
響揮はかすかにほほえみ、息をつくことを自分に許した。
* *
間に合わないのはわかっていた。
それでもアレックスは目をそらさなかった。励ましの言葉を送りながら、断末魔の苦悶を受け止めた。
サレムが操る船外マニピュレーターの腕のなかで、オレンジ色の与圧スーツは数秒痙攣して動かなくなった。心拍と血圧の数値が急激に下がっていく。
『行ってくるよ』
耳の底に、悲壮な決意のにじむ少年の声がよみがえる。
これほど残酷な拷問があるだろうか? 目の前で命の火が消えていくのを、ただ見ていることしかできないなんて。胸を荒れ狂う焦燥に、全身が焼き尽くされそうだ。
あるいは、これは自分が知らぬ間におかしたなんらかの罪への、神が与えた罰なのだろうか?
「いや、神なんていない。罪を裁くのも、罰を与えるのも人間なんだ」
棺に横たわる妹の白い顔がまぶたの裏にフラッシュする。
あのときの自分と同じ思いを、天音に味わわせるわけにはいかない。
「ラッキーカラーだと? 笑わせやがって。おまえが信じてるのはちんけな占いなんかじゃない。この俺なんだろう?」
あいつが俺を信じるなら、俺もあいつを信じるだけだ。
無言で収容作業に集中するサレムを横目に見て、アレックスはぎりりと奥歯を噛みしめた。
* *
呼ばれたのがわかった。何度も、何度も。
待ちこがれていた人の、なつかしい声。
闇の中、冷たく閉ざされていた心の門の鍵がはずされ、扉がきしみをあげてゆっくりと開いていく。
光が見えた。太陽のない極地の冬をいろどるオーロラのように、虹色の光がゆらめきながらときどき強く輝く。やがて虹に闇が払われて、象牙色の夜明けが訪れた。
心臓が、ためらいながらもふたたび力強く鼓動をはじめる。血液がしだいにあたたまって全身をめぐる。指先と爪先にしびれるような感覚が走り、自分の体が少しずつ目覚めていくのがわかる。
けれども、まぶたが重くて持ちあがらない。
ため息をもらす唇に、しっとりとしたあたたかな唇が重ねられた。濃く甘い香りに疲労した体が反応し、飢えたようにその唇をむさぼった。より深く求めてしまうのを止められない。
やがて満足げな吐息とともに、蜜をまとった唇が離れていくのを感じた。惜しむように追いかけようとすると、ひんやりした指先が唇に押しあてられた。
「もう少しじっとしていたほうがいいわ。覚醒したばかりで体力が落ちているから」
そのやわらかな声には、聞き覚えがあった。
懸命に努力して、天音は半分ほどまぶたを開けた。ぼんやりとしていた視界がしだいにはっきりして、翡翠のようにとろりと潤む緑色の瞳が見えた。まなざしに安堵の色を認めて、天音は意外に思う。
彼女とは敵同士だったはずだ。
「……ディアナ」
「おかえりなさい、天音」
天音はゆっくりと頭をめぐらせ、周囲を見回した。見覚えのない狭い部屋。天井と壁との境はなく、ゆるい曲線でつながっている。小さな窓を覆うように迫って見える丸い天体は明るい灰色で、表面にクレーターが穿たれている。
月だ。
なにより体の重さを感じないところから、飛行中の宇宙船のなからしいと天音は察した。ディアナがプライベートシップを所有しているのは知っていた。
ようやく脳もはっきりと目覚め、思考が回りはじめる。
僕はいったい何日眠っていたんだ? ディアナの計画は阻止できたのか?
上体を起こそうとして、胸と上腕にベルトがきつく巻かれ、体がベッドに固定されているのに気づいた。両手足は手錠で拘束されている。思わずかっとして拘束を解こうともがいたが、強化プラスチックの手錠が締まって皮膚に食いこむだけだった。
いらだちの息を吐き、ディアナをにらむ。
「……ルナホープはどうなったんだ? 大統領は?」
ディアナの瞳の色が冷たくなった。
「そんなことより自分の身を心配すべきじゃないの? あるいは弟の身とか」
「弟の? なぜ――」
「どうして仮死催眠が解けたと思うの? あなたが覚醒のキーワードを弟に預けていたからでしょう」
「弟が……響揮がここにいるのか?」
「もういないわ」
「なんだって……?」
混乱した頭で、天音は懸命に考えた。たしかに覚醒は響揮に託した。だがディアナの船に響揮が来る状況などありえない……はずだ。
「まさか……拉致してきたのか? 弟をどこへやったんだ?」
青ざめ、狼狽をあらわにした天音に、ディアナは苦い笑みを向けた。
「きょうだいもいろいろよね。弟はあなたによく似ていた。顔立ちだけじゃなく、賢くて生意気なところも。かわいい子だったわ、とっても。さすがにわたしもためらいを感じた。でもやっぱり許しておけなくて」
「弟を……殺したのか」
凍るような恐怖に胸をつかまれ、天音は唇を震わせた。
「わたしは死神だもの。邪魔をする人間は容赦しないわ」
突然、視界が真っ暗になる。
響揮が死んだ――殺された。大切な弟が。僕のせいで。
信じられない。信じたくない。
「――なぜだ? なぜ響揮を……! あいつは僕の指示どおりに動いただけだ。なんの関係もないんだ! 頼むディアナ、嘘だと言ってくれ!」
「せっかくあなたがプライドを捨てて頼み事をしてくれたのに、応えてあげられないのが残念」
「……あいつはまだたった十五なんだ。殺したなんて、たちの悪い冗談なんだろう? 頼むから響揮には――弟にだけは手を出さないでくれ」
ついとディアナが手を伸ばし、天音の目からあふれた涙を指で払った。涙の粒が空中を漂っていく。ディアナはかすかに目を伏せ、緑の瞳にまつげの影が落ちた。
「どんなに頼んでももう遅いわ」
かたく握りしめられた天音の手に、自分の手を重ねようとして寸前で止める。そして一瞬のためらいののちに手を引っこめ、唇をきゅっと結んだ。
「せいぜい自分を責めるといい。あなたが仮死催眠なんか使ったのがいけないのよ」
天音は反応せず、ただぼんやりと天井に目をさまよわせていた。
こんなはずじゃなかった。いったいどこで間違ったのだろう?
できるなら時間を巻き戻したかった。自宅のオペレーション室で自白剤を打たれたあのときに。響揮を失う結果になるとわかっていたら、仮死催眠など使わずにすべてを話していた。月都市の未来も大統領の命も、天音にとって弟の笑顔以上の価値はなかった。
そもそも、弟に頼るべきではなかったのだ。遠い日本にいて、まだ中学生の弟にならディアナの目も届かないなどという考えが甘すぎた。
だが、過去は変えられない。
まだありがとうも言っていないのに。ごめん、もおまえにはもう届かないのか。
――全部、僕が悪いんだ。
天音はうつろなまなざしをディアナに向けた。
「もう僕に用はないだろう? 早く殺してくれないか。響揮と同じやり方で。必要ならいくらでもひざまずいて頼むよ。結局、僕のプライドになんか塵ほどの価値もないんだ」
ディアナはぐっと顎を引いた。
「いいえ。あと少しつきあってもらうわ。最後の花火を見届けるまで」
「……最後の花火」
天音は平坦な声で繰り返す。
「あなたもそこまでは気づかなかったみたいね。このフライトはその花火を見るためのものなの。あなたにも響揮にも、これ以上邪魔はさせないわ」
* *
名前を呼ばれたような気がして、遙香は目を開けた。明るい色の壁には丸い小さな窓があり、外には宇宙と、カーブを描く灰色の月面が見える。
「遊覧飛行……いつのまにか眠っちゃったのね」
あこがれのセレブ、ディアナ・フローレスからプライベートシップに招待されて、遙香は胸を躍らせて船に乗った。でも今日ははじめての月面とルナホープ・シティの観光で疲れていて、船が宇宙港を離れる前にキャビンで眠ってしまったのだった。
この部屋はゲストルームらしく、広くはない空間に体を固定できるベッドとユーティリティコーナーが設けられている。おそらくシャンメイと呼ばれていた中国系の美しい付き人の少女が、自分をここに運んでベッドで休ませてくれたのだろう。
壁の時計を見ると、もう午前零時だった。
「うわ、こんな時間。きっと響揮が心配してるよ……」
響揮。
その名前を思い浮かべた瞬間、頭がずきんと痛んで、遙香は片手を額に当てた。
「響揮が心配してる……響揮はどこ? ああ、そうだ。ホテルで喧嘩して、あたしだけこの船に乗ったんだっけ……」
そのとき、ジャケットの胸を朱に染めた響揮の姿が脳裏にフラッシュした。
「なに、いまの……」
急に心臓がどきどきしはじめる。不安に襲われて、遙香はストラップをはずしてベッドを離れ、ドアに向かった。マイティフォンをホテルに忘れてきたのを悔やみながら、たぶんキャビンに行けばホテルと連絡をとってもらえるだろうと考える。
薄暗い通路に出て、突き当たりのドアを目指した。センサーに触れるとさっとドアが開く。なかはまぶしいほど明るい。内装の壁は白がメインでところどころに金色が使われている。宇宙船のなかとは思えない贅沢なつくりだ。
正面の左手には、主に大気圏を行き来するときに使う八人分のリクライニングシートが据えられている。右手はリビングスペースで、奥に三人掛けの革張りのソファ、ガラステーブルの対角の窓際にラブシート。無重力でも浮きあがらないよう、家具はどれも床に固定されている。
遙香が来たのに気づいたのか、正面奥のコクピットのドアが開き、付き人の少女が顔を出した。
「あの、ごめんなさい、すっかり眠ってしまって。シャンメイ、だったわよね。そう呼んでもかまわない?」
遙香がにっこり笑いかけると、シャンメイは一瞬とまどった顔をしてから、ぎこちない笑みを浮かべた。
「ええ。喉は乾いていない? なにか飲む?」
「あ、じゃあコーヒーを。あたしのことは遙香って呼んで」
「……座っていて、遙香」
シャンメイがソファを示す。なぜか座りたくなくて、遙香はためらった。
「見ていてもいい? こんなすてきな船、はじめてだからなにもかも珍しくって」
そばに寄っていくと、シャンメイは困ったようにかすかに眉をひそめた。フードウォーマーからコーヒーのパックを取り出し、遙香に手渡す。
遙香はその場で封を切り、口をつけた。
「うん、すごくおいしい。もう少し熱いと最高だけど、味はセレブ御用達だね」
シャンメイはかすかにほほえんだ。人形のような無機質さがやわらぎ、親しみがのぞく。
「ミス・ディアナはなんでも特別なものが好きなの」
「わかるよ。この船も、それにあなたも特別だもの」
「わたしが……特別?」
「うん。すごくきれいだし、スタイルいいし、身のこなしがこう……うまく言えないけど、キレがある感じ? とにかくかっこいい」
「あ……ありがとう」
シャンメイが頬を染め、照れたようにほほえんだので、遙香もにっこりした。
「笑うといちだんと美人だね」
「美人? わたしが?」
遙香は大きくうなずく。
「誰が見たってそう思うんじゃないかな。きっと響揮も――」
また一瞬、今度はオレンジ色の与圧スーツを着た響揮の後ろ姿のイメージが脳裏をよぎった。遙香は言葉を切り、顔をしかめる。これはいったいなんだろう?
「響揮……」
シャンメイの顔にさっと緊張が走り、たちまち無表情な人形の顔に戻る。
「ああ……友達。月にも一緒に来たの。ちょっといま喧嘩してて……マイティフォン忘れてきちゃって連絡つかないし、どうしてるかなって少し心配」
「そう」
シャンメイの反応はそっけない。
「あの、ミス・ディアナはどこにいるの? 招待してもらったのはうれしかったけど、あたしそろそろ帰らないと。友達もたぶん心配してると思うし」
「ミス・ディアナはいま手が離せないの。遊覧飛行はミス・ディアナがご自分でパイロットをするから、ルナホープに帰るのはもうしばらくあとになるわ」
「そっか……。じゃあホテルに連絡してもらえない?」
「ええ」
遙香は飲み終えたコーヒーのパックをダストシュートに放りこみ、スクリーンを起動するシャンメイに近づいた。
「シャンメイってきれいな名前よね。どういう漢字書くの?」
後ろからなにげなく訊くと、シャンメイが明らかにぎくりとして振り返った。
「どうしてそんなことを?」
おかしな質問だっただろうかと、遙香はうろたえる。
「……ただなんとなくだけど。日本人の名前は漢字の意味にこだわってつけるから。中国の人もそうでしょ?」
ためらってから、シャンメイは答えた。
「……香、梅」
「かわいい名前だね。ふんわりいいにおいがしてきそう。香って字、あたしの名前にもあるよ、すごい偶然じゃない? 遙香って中国語でどう読むの?」
「ヤオシャン」
「ヤオシャン? なんか不思議な感じ」
遙香がくすくす笑うと、シャンメイはなぜか泣きそうな顔になった。
「……どうして同じことを言うの?」
「同じこと?」
シャンメイは答えず、つと壁を蹴ってドアに向かった。そのまま通路に出ていく。
「あの、シャンメイ、ホテルに連絡は……」
ドアが閉まり、シャンメイの後ろ姿が見えなくなる。
その瞬間、また遙香の脳裏に響揮のイメージがフラッシュした。
両脇をディアナとシャンメイにかかえられて、オレンジ色の与圧スーツの背中が遠ざかる。響揮は振り返らないまま、キャビンの白いドアの向こうに消える。
待って、とあのとき自分は叫んだ。
……あのときっていつ?
猛烈な頭痛に襲われ、遙香は頭をかかえた。
なんだろう。なにか大切なことを忘れている気がする。
とても大切なことを。
* *
弛緩した体を覆う衣類を鋏で乱暴に切り裂きながら、アレックスは神を呪う言葉を吐き散らした。収容した少年はすでに心停止状態で、閉じきらないまぶたのすきまからのぞく目に光はない。
職業柄、死体は見慣れていた。それでも、これが死体だとは認めたくなかった。
「このばかものが! 還ってこい響揮! このまま死んだら一生恨んでやるぞ!」
罵りながら、少年の薄く開かれた唇を押し開き、喉に管を通して気道を確保する。呼吸補助マスクをつけて酸素を送りこみ、はだけた胸に電極を当てる。
サレムは少年の胸の中央を強く押し、心臓マッサージを施している。
「チャージ……離れろ!」
アレックスはサレムに促し、電気ショックをかけた。小柄な体がびくりと跳ねたが、心拍は戻らない。
「交代しろ、俺がやる!」
アレックスは力まかせにサレムを押しのけ、自らの手で心臓マッサージを再開した。重ねた両手のてのひらで胸を思い切り圧迫すると、華奢な肋骨がきしみをあげる。一方でサレムが少年の静脈からエピネフリンを追加投薬する。これで蘇生が促されるはずだが、パトシップに通常積んである心肺蘇生キットでは治療にも限界があった。
歯がゆいが、ERのある病院まではどんなに急いでも二時間はかかる。ここでなんとかするしかないのだ。
力いっぱい少年の胸を押しながら、アレックスは天井をにらんだ。
「おい! そこにいるのかよ、神さまって奴は! いるんなら奇跡を見せてみろ! こそこそ隠れてねぇで存在を証明しやがれ!」
見かねたように、サレムがアレックスの肩をつかんだ。
「落ち着いてください、主任! そんなに乱暴にしたら肋骨が全部折れてしまいます!」
「おまえはなんでそんなに落ち着いてられるんだ」
「主任が泣いてるからです。チャージ……離れて」
電気ショックをかけ、モニターを見る。心拍の値は動かない。
「もう一度。主任、奇跡は願っているだけじゃ起きないんですよ。奇跡を起こそうと努力する者にだけ、神がほんの少し手を貸してくれるんです」
サレムの目には揺るぎない信仰の光が宿っている。
アレックスは制服の袖で目をぬぐい、すがるように訊いた。
「だったらこいつには奇跡が起きる。そうだろう?」
潜水の自己記録更新に挑戦すると、響揮は言った。目標は五分のはずだったが、意識を喪失して反射呼吸が起きたのは七分二十秒後だった。そのあいだ心拍は通常の半分以下にまで落ち、無呼吸で深海に潜るベテランのフリーダイバー並みに自律神経系をコントロールしていた。
アレックスはコクピットの後部に治療スペースを確保し、心肺蘇生キットを準備して待機していた。少年を船に収容してからの時間のロスは、一秒もないと断言できる。
サレムが確信を持ってうなずいた。
「その資格は十分でしょ。あとは僕らがおかえりって言ってやるだけです。チャージ……離れて!」