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ACT10 約束の行方

 電話を切ったディアナが遙香を見おろし、薄くほほえんだ。

 遙香は後ろ手に手錠をかけられ、ソファに座らせられていた。バンに乗った直後、首筋に冷たいものが当てられて、十秒もしないうちに目の前が真っ暗になった。気がついたときにはここに運ばれていた。

 遙香からペンダントをとりあげたディアナはすぐに、それが響揮の購入したもので、天音のものとすり替えられたことに気づいた。

「心配しないで。彼すっとんでくるわよ。そしたらあなたは帰してあげる。もちろん記憶消去をしてね。数時間の記憶なら注射一本でできるの」

 ディアナを美しいと思ってあこがれていた記憶こそ、消してほしかった。

「なぜ響揮を呼ぶの? ペンダントが必要なだけなんでしょ。誰かに取りに行かせればすむじゃない」

「あの子自身に用があるのよ」

 感情の読めない冷たい緑の瞳で、ディアナはじっと遙香を見つめた。

 背中をぞくっと悪寒が走り、遙香は本能的に、ディアナは響揮をただでは帰さないつもりだとわかった。そのとたん、いままで恐怖でいっぱいだった胸に激しい怒りが満ちてきた。

「どうして? あのペンダントはあたしがもらったのよ。響揮には関係ないわ!」

「おばかさんね。天音はあれをあなたに送ったんじゃない、弟に送ったのよ」

「どういうこと?」

「弟が買ったものと同じデザインだったでしょ。わざとよ。弟に気づかせるため。どうやらその計画はうまくいかなかったみたいだけど」

「もしそうだとしても、なぜあなたがそれを欲しがるの? いったいあなたはなにをたくらんでるの?」

 ディアナはおもしろがるような表情になり、遙香の隣に来てふわりと腰を下ろした。バニラのまじった濃厚な香りが漂ってきて、遙香は顔をしかめた。エレベーターで乗り合わせたときはすてきな香りだと思ったが、いまはただ鼻についた。尊大で傲慢で自己主張が激しい、いやなにおいだ。

 ディアナが遙香の顔をのぞきこむ。

「どうせ記憶を消してしまうんだから教えてあげるわ。あの子さえ邪魔しなければ、計画はすべて成功していたのよ。悔しいからお仕置きしてあげるの」

「計画? 響揮が邪魔したって……爆弾テロも大統領の暗殺も、あなたが仕組んだことだったの?」

「あら、思ったほど鈍くはないのね」

「お仕置きって……響揮をどうするつもり?」

 そう問う言葉の端が、冷たい予感に震えた。

 ディアナは少し首をかしげて遙香を見つめた。

「あなたはあの兄弟とかなり親しかったのね」

 遙香の質問には答えないままソファから立ちあがり、遙香の腕をとってキャビンを出た。通路を進み、いくつかあるドアのうちのひとつを開ける。

 遙香は背中を押され、その部屋に入った。狭い部屋をぐるりと見まわして、驚きに目を見開いた。

「天音さん……!?」

 ディアナに促され、部屋の奥のベッドに近づく。

 まぎれもなく遙香の理想の兄、ボストンにいるはずの鷹塔天音だった。顔は紙のように白く、生気が感じられない。

「まさか、死んでいるんじゃ……?」

「死んではいないわ」

 ディアナが枕元にかがみこみ、親しげなしぐさで天音の髪を撫でた。

「天音さんになにをしたの!?」

「……その様子だと、あなたは知らないのね。残念だわ」

「どういうこと? わけがわからない。ディアナ、あなたはいったい……」

 ディアナは冷たい目を遙香に向けてから、また視線を天音に戻した。

「わたし? わたしは、そう……死神だって、天音は思っていたみたいよ」


      *      *


 祭りの夜とあって、市内は二十二時になっても大勢の人でにぎわっていた。響揮がネクサスホールのFゲートに着くと、見覚えのある中国系の少女が近づいてきた。ディアナの付き人、シャンメイだ。

「持ってきた?」

 響揮はベストの胸ポケットからペンダントを出し、シャンメイに渡した。裏を返して確かめると、シャンメイはうなずいて、それを黒いチャイナドレスのポケットにしまった。

「遙香は無事だね?」

「来ればわかるわ」

 シャンメイはついてくるよう手振りで示し、歩きだした。シリウス・グループの関連会社のマークが入ったバンに乗せられ、しばらく走る。やがて倉庫街に入り、シャッターの開いた倉庫のひとつに車がすべりこんだ。

 一部だけともされた照明の下に、蓋のあいたコンテナが置かれている。

 バンから降りたシャンメイはコンテナのそばに響揮を立たせ、脇に置かれていた暗いオレンジ色の与圧スーツを指さした。

「着方はわかる?」

「……いちおう。俺は荷物ってわけ?」

「まあ、そうね」

 人間がルナホープ宇宙港で船に乗るときには必ずチェックゲートを通り、月域渡航ビザを提示しなければならず、乗船記録が公に残る。だから自分は貨物として積まれるというわけだ。

 殺して船から捨てても、誰も気づかないように。

 落ち着けと、響揮は自分に言い聞かせた。予想はしていたことだ。兄のメッセージに書かれていた内容が事実なら、ディアナは人ひとりを殺すことなどなんとも思わない、冷酷な女なのだ。

 コンテナは密封されるうえ、貨物室では人間の生存に適した環境が恒常的に維持されるとはかぎらない。与圧スーツを使わせてもらえるだけでもありがたいと思うべきだった。

 響揮は構造をたしかめながら、ゆっくりと身につけた。溶岩洞窟探検ツアーで使ったものより生地が薄く、外観もスリムだ。生命維持システムやプロテクターなど、外部ガジェットの組み合わせ方しだいで多目的に使える、新方式のシステムスーツ。ごく最近実用化されたばかりだが、今後、与圧スーツの主流になると目されている。

 実物を目にするのは初めてなので、こんな状況でなければ喜々として試着するところだ。しかし、さすがにそんな余裕はない。

 シャンメイは響揮がスーツに慣れていないと判断したらしく、装着に手を貸してくれた。簡易生命維持システムを腰の後ろに接続し、左腕にコントロールパネルをはめ込む。

 スーツはあつらえたかのように響揮の体にフィットしていた。小柄な自分のために、ディアナはわざわざジュニア用を用意したのだろうか。親切なことだと、響揮は皮肉っぽく考える。

 視界が広いフルウィンドウタイプのヘルメットを取ろうとしたところで、シャンメイに止められた。シャンメイは生命維持システムを作動させ、コントロールパネルをチェックする。

 酸素残量百五十分、通信システム未設定、簡易ビーコン未設定。響揮は内心でため息をついた。いざというときに使える機能が軒並み未設定だ。

 それからすぐに両腕をとられて後ろに回されてしまい、ほかの機能や数値がどうなっているかは確認できなくなった。スーツ越しに手首に手錠をかけられたのがわかり、息をのみこむ。腕を動かそうとすると、強化プラスチック製らしい手錠が乾いた音を立てた。

「こんなことしなくても――」

 思わず弱音がもれた。額に冷たい汗が浮いてきて、言いようのない不安におびえているのを自覚し、情けなくなる。

「そう指示されてるの。お仕置きが必要だからって」

 言い訳めいたつぶやきが返ってくる。

「お仕置き? なるほどね、なら納得だ」

 直後、響揮はうなじに冷たいものが押しあてられるのを感じた。

「少し眠っていて」

 麻酔剤を打たれたのだ。ヘルメットをかぶせられたところで、響揮の意識は途切れた。



 目覚めたのは真っ暗闇のなか、軽い振動と加速のGに体を揺さぶられたときだった。船が飛び立ったのだろう。ディアナから遊覧飛行に誘われたことを、響揮は思いだした。少なくともその約束は守られたわけだ。

 まだコンテナに閉じこめられているらしく姿勢が窮屈で、拘束されている腕はまったく動かせない。

「荷物にしたってこの扱いはひどすぎるんじゃないか?」

 言っても誰にも聞こえないのはわかっていたが、言わずにはいられなかった。ヘルメットのなかで自分の声が反響し、鼓膜の奥にむなしくこだまが届く。

 生命維持システムからは乾いた空気が送られてきているが、いつまでもつのかと不安が頭をもたげる。この姿勢ではスーツのコントロールパネルを見ることもできない。せめて明かりが欲しかったが、スーツの肩に装備されたライトをつけるのも無理だ。

 締めつけられるような恐怖がじわじわと胸を這いのぼってきて、響揮はわきあがる唾をのみこんだ。

 出してくれ、早く早くはやくはやく!

 呼吸が速まり、心拍が上がっていく。頭ががんがんして全身が熱くなる。

 パニックに陥りかけているのに気づき、響揮は歯を食いしばった。

「落ち着け、響揮!」

 これが〝お仕置き〟なら、パニックに陥ったりすればディアナの思うつぼだ。

 響揮はぎゅっと目を閉じ、自室の天井に浮かぶ蛍光塗料の星々をまぶたの裏によみがえらせた。

 琴、鷲、白鳥、アンドロメダ、ヒアデス、プレアデス。

 狂ったように暴れて肋骨を揺さぶる心臓をなだめながら、星座をなぞり、星雲をたどる。

 プロキオン、ポルックス、カペラ、アルデバラン、リゲル、シリウス。

 恒星を数え、震える息をのみこんで、意識して呼吸を浅く保つ。

 兄貴のメッセージを無駄にしないために。遙香を無事に地球に還すために。俺にはしなくちゃならないことがある。

 永遠のように思える時間が過ぎ、ようやくコンテナのロックがはずされる音が聞こえた。ふたが開き、抑えた照明がヘルメット越しに入ってくる。暗闇から解放され、シャンメイの手でヘルメットがはずされると、響揮は深く息をついた。

 空気にはほどよい湿気があり、かすかに甘く感じられる。

 生き返った気がした。死は覚悟していたはずだったのに、と苦い思いが胸にあふれてくる。

「出られる?」

 シャンメイが訊いた。

 響揮は努力したが、暗闇との闘いで消耗したのに加えて、長時間同じ姿勢でいたせいで体がこわばり、動けなかった。見かねたように、シャンメイが腕をつかんで引っ張りあげてくれる。

「ああ……サンキュ」

 言ってから響揮は後悔した。反射的にとはいえ礼を言うなんて、俺はばかか?

 シャンメイも意外だったのか、目に一瞬驚いたような色が走った。だが彼女はなにも言わず、またいつもの無表情に戻った。

 船はすでに慣性飛行に入ったらしく、無重力状態になっている。シャンメイに腕をつかまれたまま、響揮は貨物室の気密ドアを抜け、薄暗い通路に出た。さっと視線を周囲に走らせる。天井に緊急脱出ポッドの派手な蛍光オレンジのハッチが並んでいる。正面は標準タイプのドッキング用エアロック。

 それから、いくつかのドアが並ぶ通路を奥へと漂うように進んだ。突きあたりのドアがさっと開き、まぶしい光がもれ出てきて、響揮は思わず目をつぶった。

「ようこそ、エンデュミオン号へ」

 やわらかな声が聞こえた。

 ゆっくりと、目を光に慣らしながらまぶたを開ける。

「道中は快適だった?」

 白と金を基調とした豪華なキャビンのソファの上で、ディアナが艶然とほほえんでいた。

「……BGMがあればもっとよかったかな」

 冗談めかして答えたが、ディアナは響揮の虚勢を感じとったようだった。くすっと笑ってソファを離れぎわ、船のAIに命じる。

「《惑星組曲》を。アジアン・フィルで」

 流れてきたホルスト作曲のシンフォニーに、響揮は聴き覚えがあった。父、佑司の指揮になるものだ。一瞬、両親の顔が脳裏に浮かび、喉元に熱いものがこみあげてくる。

「《火星・戦争をもたらす者》か。あなたのテーマ曲にふさわしいね」

 皮肉な口調で言い、響揮はぐっと奥歯を噛んで喉元のかたまりをのみくだした。反抗的な態度は控えるべきだとわかっていたが、抑えるのが難しかった。ティンパニの刻む不穏な五拍子のリズムに引きずられるように、響揮は怒りを目にこめてディアナをにらむ。

 ディアナはただほほえんだだけだった。

「シャンメイ」

 響揮のそばにいたシャンメイがうなずいた。チャイナドレスのポケットにクリップでとめてあったキーをとり、響揮の右手首から手錠をはずす。それをドア脇の壁に設置された手すりにかけてからキャビンを出ていく。

 利き手が自由になったのはありがたかった。響揮はそっと左手を引っ張ってみた。こちらは残念ながらしっかりと手すりにつながれている。

 やがてシャンメイが戻ってきた。片方の腕に、もがく遙香を抱えて。

「遙香!」

 さっと遙香がこちらに顔を向け、大きく目を見開いた。後ろ手に手錠をかけられ、口は粘着テープでふさがれている。

「ううう……!」

 くぐもった声がもれる。それは響揮の耳に、自分の名を呼んだのだと聞こえた。

 響揮は深くうなずいてみせ、大丈夫だと目で伝えた。

 シャンメイが遙香をソファにストラップで固定するのを見届けると、ディアナは無重力慣れした動作でついと響揮のほうに漂ってきて、間近に顔を寄せてささやくように言った。

「天音のペンダントの秘密を話してもらいましょうか。きみの持ってきたこれ、数字だけしかないのよね。きみのコンピューターにもヒントがなくて、困ってるの」

 響揮は内心でにやりとした。ディアナはあのウイルス・プログラムの解析まではしていなかったようだ。弟のコンピューターの管理がいいかげんなことをよく知っている天音ならではの、木を森に隠す作戦が功を奏したというわけだ。おそらく、ロシアン・ルーレットのウイルス自体も、天音がつくってばらまいたのに違いない。

「遙香はルナホープに帰してくれるね?」

「きみの出方によるわ」

 ここからは演技力が必要だ。響揮は表情に緊張と敗北感をにじませ、ディアナの視線から逃れるように目をそらした。

「逆らっても、どうせ自白剤を打たれて無理にでも言わせられるんだろ」

「わかってるじゃない」

 響揮は小さく息を吐く。

「……ペンダントの金属フレームのある部分に細工がしてあって、並んでいる原子一個一個をはぎとる方法で文字が書かれてるんだ。読み取るには高性能の電子顕微鏡が必要だ」

「そんな細工、いつしたのかしら」

 ディアナはいらだちを見せた。この船に電子顕微鏡などあるはずがない。

「この数字はなんなの?」

「俺と兄にだけわかる暗号だ。ちょっとひねると、兄のメッセージを読むためのパスワードになる。ウイルスの形になってたから、俺も兄の意図に気づかなかった」

 響揮は言葉を切り、無念そうな表情をしてみせた。

「あなたにペンダントを渡せって言われてはじめて、これが暗号かもしれないと気づいたんだ。さっき病院で兄のメッセージを読んで、ペンダントに情報が書かれてることがわかった。電子顕微鏡がないから内容は知りようがないけど」

 ディアナは悔しげに、わずかに口元をゆがめた。

「天音のファイルがまだコンピューターに残っている、ということはありえないでしょうね。彼のことだから、表示が終われば自動的にメッセージを消滅させるプログラムを組みこんだはずだもの」

「ああ。三十秒ほどで全部消えたよ」

「ペンダントはアレックス・ブローディに渡せと指示があったの?」

 響揮は答えなかったが、それ自体をディアナは肯定とみなしたようだった。人差し指を唇にあて、数秒のあいだ探るように響揮の目をのぞきこんでから、軽く目を閉じて首を横に振った。

 納得してもらえたらしい。響揮は内心で安堵の息をもらした。

「兄は休暇中なんかじゃないんだろう? 兄をどうしたんだ? 無事なのか?」

「天音のことが心配?」

「当たり前だろ、たったひとりの兄だ」

「天音のせいでこんなことになってるのに、恨んでいないの?」

「兄のせいじゃないさ。あなたは俺自身に用があるんだ。ペンダントの情報を聞きだすだけなら、手間をかけてこの船に俺を連れてくる理由はないからね」

 ディアナは軽く腕を組み、首をかしげた。

「それがわかっていて来たの? 度胸があるじゃない」

「遙香を人質にとられちゃ、来る以外選択肢はない。俺があなたの計画を邪魔したのがそんなに気に入らなかったのか? 爆弾テロと大統領の狙撃はあなたが仕組んだことだったんだろう? 爆弾魔をルナホープに密航させたり、警官を死客として雇ったりするのもあなたなら簡単だ」

「……そうね、簡単だったわ。きみさえ邪魔しなければ、わたしはいまごろ祝杯をあげていたはず」

 響揮は息を吐いた。

「爆弾テロは大統領を確実に平和行進に参加させるため? テロに屈しないのがロシュフォードのモットーだ。それを逆手にとったのか? 警備の目をルナホープの外の人間に向けさせる意図もあったのかもしれないけど」

「わかってるなら訊かないで」

「じゃあわからないことを訊くよ。なぜロシュフォードを殺したいんだ? あなたの兄さんのジョアンが大統領になれば、シリウス・グループがさらに発展するから? まあ、ジョアンは危篤だっていうから先は不透明だけど。あるいは、大統領が主導したグリーン・サンクチュアリ計画にあなた自身が反対だからかな。でも、それならわざわざ月で事件を起こさなくても――」

 くくっ、とディアナは抑えた笑い声をもらした。それはやがて笑いの発作のようになり、嬌声がキャビンを満たした。響揮と遙香はもちろん、シャンメイも目を丸くしてディアナを見つめた。

「政治とか経済とか、そんなものはどうでもいいの。ジョアンに爆弾入りの花束を贈ったのはこのわたしよ! なぜって、ジョアンはナタリアがロシュフォードと不倫してできた子だから! そしてかわいそうなパパを死に追いやったから!」

 いっきに言って口をつぐむと、ディアナはキャビンの窓に漂っていき、外に広がる宇宙に視線をさまよわせた。

「パパは心からナタリアを愛していた。だから彼らを責める代わりに自分の肉体と精神を痛めつけた。パパは去年ここで、この宇宙で死んだわ。月から地球に戻るあいだに、船ごと行方がわからなくなったのよ。でも絶対に自殺じゃない。ドラッグ中毒の親がいると大統領選挙に不利だから、ジョアンが殺させたのよ。ナタリアは涙ひとつ見せなかったわ。船の捜索もほんの数日で打ち切った。あの女は――いまもロシュフォードを愛してるのよ」

 ディアナは潤んだ目を伏せ、やがて取り乱したことを恥じるようにうつむいて、きゅっと唇を噛んだ。

「だからって――ほかの人を巻き添えにするような復讐が正しいと思うのか?」

 響揮は思わず大声で言った。大義も理想も信念もない復讐劇のために、ルナホープ市民全員が危険にさらされたのだ。兄や自分、遙香までも。

「正しいわ、わたしには。ナタリアの汚らわしい欲望がジョアンを生み、ジョアンのくだらない征服欲のために父は殺された。月に行きたがっていた父を、ルナホープは受け入れてくれなかった。……月も地球も、全部壊れてしまえばいい」

 そのとき、響揮にはディアナの計画のすべてが見えた。

「あなたの兄さんが死んだら、暗殺はロシュフォードの指示だったって証拠がどこからか出てくるんだろうな。平和共立党の支持者は激怒する。もしロシュフォードの暗殺が成功していれば、こちらもじきにあなたの兄さんの指示だったって証拠が出てきただろう。人民党の支持者も黙っちゃいない。短期間に二大党首がふたりとも暗殺されて、政府も捜査機関も動けないうちに世界各地で大規模な衝突が起きる。それがあなたの目的だったんだ――連邦を崩壊させることが」

 ディアナは顔を上げ、疲れた笑みを響揮に向けた。

「かわいくない子ね」

「それでいったいどれだけの一般市民が死んだり怪我したりすると思うんだ? 勝手すぎるだろ!?」

「……きみにはわからないわ。誰にもわからない。わかってほしいとも思わない」

 抑揚のない乾いた声音で、ディアナはつぶやくように言った。

「今日は父の命日よ。冷たい宇宙にひとりぼっちで、きっと寂しがってるわ。……シャンメイ、もういいわよ。指示どおりにして」

 付き人の少女は一瞬目を見開いた。髪に手をやってためらいがちに口を開きかけ、また思い直したように閉じる。

 キャビンに流れる曲は《水星・翼のある使者》に代わり、さまざまな楽器が繰り返す旋律のきらめきがキャビンを満たしている。

 時間かせぎもここまでらしい。無意識に呼吸を止めていたことに気づき、響揮はゆっくりと息を吐きだして、心拍の上昇を抑えようとした。顔が青ざめたのは、もはや演技ではなかった。

「遙香にお別れを言わせてもらえる?」

「……そうね、それくらいは許してあげてもいいわ」

 ディアナがシャンメイにうなずきかけた。

 シャンメイはキーを手に、一瞬躊躇してから響揮の左手首の手錠をはずした。

「……サンキュ、シャンメイ」

 響揮は壁を蹴って遙香のほうに飛んだ。彼女の肩に手をかけて体を止め、口からテープをはがしてやる。

「ごめん遙香、こんなことに巻き込んで――」

「響揮、あたしはいいから逃げて! あの人、響揮を殺すつもりよ! あたし――」

 響揮はぎゅっと、遙香を抱きしめた。シャンプーのかすかな花の香り。三つ編みからほつれた遊び髪に頬をくすぐられる。

「大丈夫、俺は死んだりしない」

 遙香の目から涙があふれだした。涙は透明な粒になって空中を漂い、水晶のようにきらきら光った。

「約束して、響揮。すぐまた会えるって」

「約束する。だから泣くなよ」

 その約束の実現になんの根拠もないことは、ふたりともわかっていた。船の周囲は真空の闇、故郷の惑星ははるか三十八万五千キロの彼方なのだ。

「……やっぱりいや! あたしも一緒に行く! 連れてって、響揮」

「だめだ、遙香」

 静かな、だが強い拒否の口調で響揮は言った。遙香の肩をつかんで体から離し、すがるように見つめる遙香に穏やかな微笑を向ける。

「俺、遙香に謝らなきゃならない。いままではっきり言わなかったことを」

 少なくとも、ディアナがルナレイクのほとりで語った言葉は真実だった。

「遙香が好きだ。誰よりも、遙香がいちばん大切だ」

「……あたしもよ、響揮。謝らなきゃならないのはあたしのほう」

 潤んだ瞳を後悔の色が満たす。

「今日やっと気がついた。響揮が好き。ずっと前から……いつからかおぼえてないくらい昔から、誰よりも響揮が大切だった。真夏にも渚沙にも、ほかの誰にも渡したくない。響揮にはあたしだけを見ていてほしい」

 涙の粒がまた遙香の目からあふれだし、きらきらとキャビンを漂っていく。

 きれいだなと、響揮はつかのまその行方を見送った。遙香に目を戻し、ためらいがちに訊く。

「……キスしていい?」

 遙香はかすかにうなずき、そっと目を閉じた。

 わずかに震える唇に、響揮はかすめるようなキスをした。そして遙香の肩を強く押し、離れながら体をひねって彼女に背を向けた。

「響揮! 響揮――!」

 背中から遙香の声が追いかけてくる。響揮はディアナとシャンメイに両脇をとらえられ、キャビンから連れ出された。ソファにつながれたままの遙香には、追いかけることはできない。響揮は振り返らなかった。

「待って! 響揮――!」

 キャビンのドアが背後で閉まる。遙香の悲痛な声の残響だけが薄暗い通路の壁にこだまして、響揮の胸の奥を震わせた。

 響揮は隣のディアナに訊く。

「約束だ、遙香は無事に返してくれるね?」

「そんな約束はしていないわ。あなたの出方によると言ったのよ」

 哀れむようにディアナが眉をひそめてみせる。

「なんだって? 知ってることは全部話しただろ! 遙香は関係ない、殺すのは俺だけで十分なはずだ!」

「なにか誤解してるみたいね。十分かどうか決めるのはわたしなの」

 ディアナは通路に面したドアのひとつで体を止めた。まとめた髪からほつれた金色の筋が頬にかかるのを、うるさそうに払いのける。

「ルナレイクできみに言ったことは忘れて。あのときのわたしはどうかしてた。他人の恋を応援するなんて柄じゃないのよ。ままごとみたいな青い恋なんてなおさら、踏みにじってずたずたに引き裂くのがわたしの流儀だわ」

「……なんだよそれ」

 響揮には理解できなかった。つまり、ディアナは俺をそこまで憎んでいるということか? 関係のない遙香まで殺そうと思うほどに?

 ディアナが通路に面した部屋のドアを開け、響揮の腕を乱暴に引いてなかに押しこむ。

「もうひとりお別れを言わせてあげる」

 視界に飛びこんできた光景に、響揮は目を見開いた。

「兄貴……!」

 狭い部屋の奥のベッドに、天音がベルトで固定されていた。響揮は急いでそばに行き、血の気のない頬に手を当てて呼んだ。

「兄貴、兄貴! 兄貴!」

 体をゆすったが、意識のないことを示すように頭が大きく揺れるだけだ。

「……仮死催眠か」

「知ってたの?」

「アレックスから聞いた。やっぱりあなたが兄を拉致してたんだな。こんなところまで連れてくるなんて、どういうつもりなんだ?」

 憤りのこもった響揮のまなざしを受け止めて、ディアナは平坦な声で返した。

「覚醒のキーワードを知ってる?」

「……いや。残念だけど」

「ブローディは?」

「知らないと言ってた」

 ディアナはいらだったようにため息をつき、肩をすくめた。

「仕方ないわね、このまま自然に死ぬのを待つわ。あと数日は持つかしら。ひとりじゃ寂しいでしょうから、お隣の女の子も一緒に逝かせてあげる」

「なんだって? 待てよ――」

 聞く耳を持たず、ディアナは冷たく遮った。

「さあ、お別れは済んだ? キスはしなくていいの?」

 ディアナにつかみかかりたくなるのを、響揮は必死にこらえた。そんなことをすればまた拘束されて体の自由を奪われる。つまり脱出の可能性が低くなる。

 ディアナはふたりをすぐ殺すとは言っていない。まだ救うチャンスはあるのだ。そのために、自分はなんとしても生き延びなければならない。

 怒りが急速に引いていき、代わりに研ぎすまされたナイフのように頭が冴えわたるのを感じた。そう、病院のコンピューターでピエロを撃ち殺し、兄のメッセージを知ったときのように。

 ディアナは信じたようだったが、さっき響揮が話したことの半分は大嘘だった。ペンダントにはどんな微小な文字もいっさい隠されてはいないのだ。

 天音はすべての情報をピエロに託していた。内容は、ディアナが企んでいるルナホープでの大統領暗殺計画について。狙撃手の警官の名前と、事前に爆弾テロがあること。監視されているため自分はこの情報をアレックスに直接伝えられない、だからおまえに頼むと書かれていた。

 情報は正しかった。響揮がすぐ暗号に気づいていれば、事件を未然に防ぐことができたのだ。

 しかし、そうはならなかった。

 俺が兄貴に嫉妬してたせいだ。

 響揮はきつく目を閉じた。天音のメッセージの最後の部分が、兄の声で耳の奥に再生される。

『こんな厄介なことに巻き込んですまない。だが、信じられるのはおまえだけなんだ。許してほしい。ルナホープ行きはキャンセルしてくれ――月はいま、あまりにも危険すぎる。僕に万一のことがあったら、響揮、父さんと母さんを頼む』

 そのメッセージを読み終えたとき、響揮は正直、呆然とした。結果的にディアナの計画を阻止はできたが、命をかけた兄の努力を無にしたのはたしかだったからだ。

 それでも、メッセージの本当の内容をディアナに知られないうちは、時間稼ぎに使える。だからディアナにあんな嘘をついたのだった。

 響揮はゆっくりと目を開けた。

「兄貴……ごめん」

 兄の信頼を裏切る結果になったのが悔しくてたまらない。けれど、まだ挽回のチャンスはある。そう信じたかった。

 必ず助けるから。待ってて。

 響揮は心のなかで語りかけた。そのとき、天音のまぶたがかすかに動いたように見えた。錯覚だろうか?

「もういいでしょう」

 ぐいとディアナに腕を引かれ、響揮は彼女を見あげた。ディアナの顔は無表情で、目にはいらだちがほの見える。

「俺を……どうやって殺すつもり?」

 ディアナの後ろにいるシャンメイにも聞こえるように、響揮は心細げな声で訊いた。シャンメイが自分に同情のようなものを抱いているのを感じていた。年齢より幼く見える外見のせいかもしれない。

 ディアナはおもしろがるように眉を上げた。

「選んでもいいわよ。毒? それとも銃? あとは太陽に向かって放ってあげるから、いずれ一千万度のプラズマに焼かれて原子以下の粒子に戻れるわ」

 ちょっと考えて、響揮は「銃」と答えた。狙撃犯の警官、サンダースのような死に方はごめんだった。

 背中を押されてドアへと漂うあいだ、響揮は名残惜しげに天音を振り返った。うつむき、肩を落としてドアをくぐる。そうすると自分がいっそう幼く、頼りなげに見えるとわかっていた。

 背後でドアが閉まった。

「あとはまかせるわ」

 さすがにディアナも気がとがめるのか、そうシャンメイに言うと振り返りもせずキャビンに行ってしまった。

 シャンメイはためらうように数秒その場にとどまってから、響揮の腕をとって通路を貨物室へ進んだ。

 こうして間近で観察すると、シャンメイは女性ながら筋肉質で、無駄な脂肪がいっさいついていないのがわかる。身長も百七十センチ以上あるだろう。自身も柔道をたしなむ響揮は、シャンメイがなにがしかの実践的な格闘技を身につけているのを察していた。機敏な身のこなしに加えて、彼女からは常時、隙のなさを感じるからだ。

 自分が正面から挑んでも勝ち目はないだろう。体格で劣るうえ、与圧スーツを着ている状態ではとても無理だ。

 シャンメイは貨物室のドアを抜け、コンテナに背を押しつけるように響揮の体を置いた。背中に手を回し、スパッツのウエストに差していた小型の銃を抜く。形状からはショックパルス銃のように見えるが、殺傷力の強いタイプなのだろう。

「両手をあげて、頭の後ろで組んで」

 速まる鼓動をなだめながら、響揮はゆっくりと指示に従った。わずかに加速のGを感じるのは、ディアナがさっきの言葉どおり、船を太陽に向けて加速しているからだろう。

「シャンメイ」

「……なに?」

「きみの名前って、漢字でどう書くの?」

 シャンメイの切れ長の目にとまどいが浮かぶ。

「なぜそんなことを?」

「ただ知りたいだけ。こんなふうに会ったんじゃなければ、友達になれたかもしれないと思って。日本人は名前の漢字の意味にこだわるんだ。中国の人もだろ?」

「……香、梅」

「ああ、女の子らしいきれいな名前だね。俺は――」

 シャンメイはさっと銃を構えた。照準の赤い可視光ポイントが響揮の額の中央をぴたりと狙う。

「言わなくていい。わたしはミス・ディアナの命令を実行するだけよ」

「……いまキャビンにいる子――俺の好きな女の子の名前にも、香って漢字が入ってるんだ。これもなにかの縁かな」

 一瞬、銃口が揺れた。ぽつりとシャンメイがつぶやく。

「シャンフィ」

「え?」

「あなたの名前。〝響、揮〟。中国語ならそう読むのよ」

 響揮は苦笑した。

「知ってたのか。まあ当然だな。ディアナは俺のことかなり調べてたみたいだし。シャンフィ? なんか不思議な感じだ」

「……響と香は、中国では読み方が同じなのよ。縁、かもしれない」

 シャンメイの腕から力が抜け、銃口が下を向いた。響揮はそっと息をつく。だが、それもつかのま。

「銃は苦手なの。毒ではだめ?」

 シャンメイが困ったように少し眉をひそめて訊いた。

 響揮は頭の後ろで組んでいた手をほどき、ゆっくりと下ろしたが、シャンメイはとがめなかった。

「人を殺すのは本意じゃなさそうなのに、なぜディアナの命令に従ってるんだ?」

「……お金が必要だから。妹と、病気の弟を養わないとならないの」

「弟さん、病気なのか」

 シャンメイは小さくうなずく。

「もう入院して二年になる。名前は〝春、帆〟と書いてチュンファン。あなたと同い年よ。でも背はずっと高いわ」

 しゃべりすぎたと思ったのか、シャンメイはまたとまどった顔をした。

「どうせ俺はチビだよ」

 すねたように響揮が口をとがらせると、「気にしてるのね」と言い、シャンメイはくすっと笑った。それは蕾がほころぶさまに似ていて、ともすると機械人形のようにさえ見えるいつもの無表情からは想像できず、響揮は思わず口にした。

「もったいないな、きみもっと笑えばいいのに」

 はっとしたように笑みを消して、シャンメイは響揮を見つめた。そして何秒かのち、響揮に視線を据えたまま、ふたたび銃を構えた。ポイントを今度は響揮の胸に当てる。

「それをかぶって。早く」

 コンテナの脇に留められていたヘルメットを目で示す。

 シャンメイの意図を察して響揮はためらったが、ポイントを額に当てられて促され、仕方なく従った。ヘルメットをとってかぶり、接続リングをシールして生命維持システムを作動させる。シャンメイが近づいてきて背後のコンテナを示した。

「入って」

 スーツのコントロールパネルには、酸素残量が五十五分と表示されている。

 コンテナに閉じこめて窒息死させるつもりなのだ。毒殺よりたちが悪いだろ、と響揮は心中で悪態をつく。躊躇していると、シャンメイがじれたように響揮の腕をとろうとした。

 彼女の利き手には銃がまだ握られているが、照準は響揮からはずれている。

 一瞬の隙。

 これを待っていた。

 響揮はさっと手を伸ばしてシャンメイの上腕と襟をつかんだ。コンテナに押しつけた背中を支点にして巴投げをかける。シャンメイの体が宙を飛ぶ。同時に響揮はコンテナを思い切り蹴って、開いていたドアから通路に飛びだした。

 残念ながら無重力状態では、得意の投げ技でも有効ポイントはとれない。シャンメイはくるりと体を回転させて貨物室の奥の壁にタンと足をつき、反動を利用してドアに向かってくる。

「シャンフィ!」

 怒りのまじったシャンメイの声を、響揮は勢いよくドアを閉めて断ち切った。通路を横切って壁のボタンを押し、ドッキング用エアロックの内扉を開ける。

 天井には緊急脱出ポッドがあるが、使うことはできなかった。ポッドが射出されると自動的に船から管制センターに救難信号が送信され、脱出したことが公になってしまうからだ。

 響揮は扉が開き切らないうちに体を横にしてエアロックにすべりこみ、扉を閉めて減圧ボタンを押した。

 エアロックのコントロールパネルにイエローランプが点滅し、減圧中を知らせるのを確認しながら、響揮は横手の壁にある収納庫の赤い扉に手をかけた。

 ドッキング用エアロックは緊急時に宇宙空間でも開放できるよう、内側からも気圧と空調をコントロールできるつくりだ。収納庫から七十二時間使用可能な生命維持システムや、姿勢制御用のハンドジェットスラスター、救難信号発生装置をとって船外に出れば、救助してもらえる可能性がある。

 おそらくそうやって響揮が船外に出たことを、シャンメイはディアナに報告はしないだろう。

 エアロック内の減圧が完了して外扉を開けられるようになるまで、ふつうはおよそ三十秒かかる。気圧差があるあいだは、セキュリティ上、内扉は絶対に開かない。気圧差のある状態で扉を開けると、圧力を均衡に保とうとする力が働き、空気が急激に動いて危険だからだ。エアロック内に人間がいる場合は、外部より内部からの、つまり響揮からの指示が優先されるはずだった。

 だが命綱ともなる非常用物資を手にする前に、外扉が突然開いた。

 手すりをつかもうとした手はむなしく宙を切り、響揮の体はエアロック内に残っていた空気とともに虚空に吸いだされた。


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