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ACT9 祈りの環、つなぐ思い

 照明弾が次々にあがり、華やかな光でパークを照らしだす。建物は連邦旗の青で彩られ、歩道の両脇は鮮やかなイルミネーションで飾られて、セントラル地区のお祭り気分は最高潮に達していた。

 スピーカーから流れる地球連邦讃歌のメロディに、ルナ放送の人気DJの声が重なる。

『俺としちゃあ、政府に望むことはただひとつ。この辛気臭い連邦讃歌をリニューアルしてくれってコトだね! 大統領閣下、聞いておいでですかね?』

 タワー近くの特設会場から、大統領が抑揚豊かな声で答えた。

「貴重なご意見は承ったよ。しかしこの曲はそんなに辛気臭いかね? わたしには荘厳ないい曲に思えるが。ここにお集まりの諸君はどうかな。わたしの意見に賛成してくれる人は拍手してくれないか?」

 パークじゅうから拍手が起こったが、ブーイングのほうが圧倒的に大きかった。

 DJが勝ち誇った声で言った。

『市民投票を勧めますよ、大統領。しかし賭けてもいいが、ルナホープ市民三万の意見は〝ノー〟だ!』

 わっと歓声があがり、大統領は笑った。

「オーケイ、議会にはかってみることを約束しよう」

 大統領はつい二時間前に爆弾テロ事件があったにもかかわらず、平和行進への参加を強行していた。もちろん市民は大喜びだ。

『では大統領、市民にひとことメッセージを。ねがわくば――』

「わかってるさ。話は短く、だろう?」

『そのとおり。〝時は金なり〟ですからね。いや、いまの状況だと〝時は票なり〟かな』

 辛辣なDJの物言いに、大統領は苦笑をもらす。

「では〝簡潔に〟言わせてもらうよ。――ルナホープは連邦の誇りだ。地球に比べると不自由なことも多いだろう。しかし諸君らがこの宇宙の最前線で頑張ってくれているからこそ、現在の連邦の平和と安定がある。そして未来の発展も。月域外の連邦市民九十七億を代表してお礼を言いたい。ありがとう」

 一瞬、パークがしんと静まった。次の瞬間大きな拍手と歓声がわき起こり、木々の梢を揺らした。

『シンプル・イズ・ベストですね、大統領閣下。票の行方はわかりませんが』

 語尾に皮肉な笑いをにじませてから、DJは続けた。

『さあみんな、平和行進をはじめよう。ブルーの標識のある通りまで出て。隣の人と手をつなぐんだ。輪が全部つながったとき、願う心もまたつながる。平和が未来永劫続くように、全員で祈ろうじゃないか。地球や宇宙にいる同胞に祈りを届けよう!』

 人々が笑いさざめきながら歩道を埋めていく。大人も子供も、女性も男性も。

 ルナホープ市内だけでなく、月面の鉱山でも軌道ステーションでも人々は手を取りあい、たくさんの小さな輪をつくっていた。

 ルナホープの治安がいいのは、この平和行進が市民全員の心をつないでいるからだと、市民は誇りに思っている。さっきの爆弾テロだって〝よそ者〟のしわざだったではないかと、みんなささやきあっていた。

『中継で見ている月域外のみんなも、近くに誰かいるならためらわずに手をとろう! いけすかない上司しかいないって? じゃあ早退を申し出るんだな。明日、会社に席があるかどうかは保証できないけどね!』


      *      *


 ルナレイクでディアナと話してから、響揮はしばらくパーク内をうついていた。遙香に正面から向き合う決心がつかなかったのだ。そのうちにどんどん人が増えてきて、ふと気づけば平和行進の開始時間になっていた。

 神々の広場にたどりつき、ほっと息を吐く。マイティフォンがないのはとにかく不便だ。レンタルしようと考えながらタワーへ向かう。広場の一角、アルテミス像の前には赤いカーペットが敷かれ、その上には十名ほどの市民が緊張した面持ちで立っている。大統領と手をつなぐべく、あらかじめ抽選で選ばれた人々が主賓の到着を待っているのだ。

 響揮はカーペットを囲む青い制服の警官たちのなかに、右頬にほくろのある顔を見つけた。爆弾テロの前に響揮を泥棒扱いした、あの警官だ。鋭い目つきで周囲を警戒している。彼に会った直後に、あの事件は起こったのだった。

「まったく誰だよ、幸運の場所は公園なんて言った奴は……」

 ひとりごち、響揮は人の少ないほうへ――カーペットの反対側へと歩きだした。花壇のそば、〝月の都、ルナホープ・シティへようこそ〟と書かれた大看板の前に、宇宙省の星と太陽のマークをつけたバンがすべり込んでくる。止まると同時にドアが開き、捜査局の腕章をつけた人々が数名、あわただしく降りてきた。

 そのなかにアレックスの姿を認めて、響揮は足を止めた。赤毛の青年は厳しい表情で部下らしい捜査官たちに指示を出している。

 兄についての話が途中だったのが気になっていたが、いまアレックスに声をかけられる状況ではないと響揮は判断した。

 そのとき、タワーのほうから大統領がやってくるのが見えた。四人のSPをまるで衣服の一部ででもあるかのようにぴったり身辺に張りつけている。待機していたマスコミの取材陣が飛び出していき、周囲を囲む。爆弾がしかけられる危険があるフライングアイの使用が規制されたので、みんな中継カメラを手に持っている。

 大統領はにこやかに手を振って周囲に応えながら広場に入ってきて、赤いカーペットへ近づいた。警官隊の青い輪が動き、大統領を迎えるべく代表市民の一団が前に進み出る。握手が交わされる瞬間を見逃すまいと、マスコミと野次馬連中が色めきたつ。

 広場の全員がそちらに注意を向けるなか、響揮の目は、広場を囲むように四棟設置されているの警備塔のひとつに引きつけられていた。高さ七メートルほどの塔の上に、あのほくろのある警官の姿を認めたからだ。背後にパークの照明柱を控え、大統領の側からは逆光で見えにくいはずだ。

 爆弾テロのとき、あの警官はテロリストと爆弾のそばにいた。そして、まるで爆弾を守るかのように、響揮をベンチから追い払った。

 もし、それが偶然ではなかったとしたら?

 市民代表の名前を読みあげるDJの声がパークじゅうに響いている。

 響揮は広場の反対側に据えられた大スクリーンに目をやりながら、ほくろの警官がいる警備塔に近づいた。スクリーンには式典の模様がライブで映しだされている。

 大統領が十人の市民代表と順に握手を交わす。そしていよいよ平和行進をはじめようと、カーペットの中央に立って両手を広げた。

 盾のように大統領を囲んでいたSPたちが、周囲に警戒の目を走らせながら、一歩大統領から離れた。黒い制服のすきまから、大統領の全身がのぞいた。

 響揮ははっとして、警備塔の上に目を戻した。

 ほくろの警官の右腕がさっとあがり、腰高の壁の上部に銃身がのぞいた。ほかの警官が携えている標準タイプのショックパルス銃ではなく、あきらかに銃身が長い。アクション映画でもおなじみの、長射程で殺傷力の高いレーザー銃だ。

 あの警官はテロリストの仲間だ!

 体は考えるより先に動いていた。数歩だけ助走してリズムを取り、思い切り地面を蹴って、跳んだ。

 月面はまるでトランポリンのように、警備塔のてっぺんめがけて響揮を投げあげた。

 警官の銃口が大統領に向けられる。標的まで約五十メートル。警官はまだ響揮が下から接近しているのに気づかない。トリガーにかかった指に力がこもるのが、スローモーションのように響揮の目に映しだされる。

 間に合うか?

 懸命に差し伸ばした右手が警官の肩口に届いた瞬間、トリガーが引かれた。

 大統領が目を見開き、焼け焦げたジャンプスーツの左肩に顔を向ける。その様子が大スクリーンに映しだされるのを、響揮は視界の隅でとらえた。ふたりのSPがすぐさま大統領をかばって前に立ちはだかり、もうふたりが大統領の両脇を守りながらカーペットから避難させる。市民代表の一団が悲鳴をあげ、ばらばらと散っていく。

 響揮は警官の制服の肩をつかみ、腰高の壁の縁に両足をついた。警官が激しい怒声をあげ、体をひねりざま左のこぶしを繰り出す。響揮はそれをよけ切れず、こめかみを強打された。一瞬視界が暗くなる。そのまま床に引き倒され、乱暴に組みしかれた。

「このくそガキが!」

 明らかな殺意のこもった指が、容赦なく喉を締めあげる。

 声帯をつぶされて叫ぶこともできず、響揮はただあえいだ。必死に警官の手を喉から引き離そうとするが、力の差がありすぎてびくともしない。かすむ視界で、警官の憤怒を映したふたつの目がぎらぎらと燃えている。

 額に銃口が押しつけられた。

 撃たれる! 響揮は目をつぶった。

「サンダース――!」

 声が頭上から聞こえ、はっと目を開ける。腰高の壁に仁王立ちになったアレックスが、伸ばした両手に銃をかまえ、ぴたりと警官を狙っている。

 上を振り仰いだ警官がさっと銃をアレックスに向けた。だがトリガーが引かれる前に、アレックスの銃から放たれたショックパルスが警官の腕に命中した。

 悲鳴とともに、響揮の喉を締めつけていた手がゆるんだ。警官の手を離れた銃が床に落ちて転がる。アレックスが警官に飛びかかり、床に組み伏せて腕を背中にねじりあげる。

 響揮は激しく咳きこみながら上体を起こした。

「響揮、無事か?」

 アレックスの視線が一瞬、響揮のほうにそれた。警官が痛みに顔をしかめながらも、無事なほうの手で床に落ちていた銃をすばやくつかみ、アレックスに向けた。

「危ない!」

 とっさに響揮は脚を伸ばして、銃を握った警官の腕を蹴りあげた。その瞬間に放たれたレーザー弾がアレックスの頬をかすめ、皮膚が切れて鮮血が散る。反射的に腰を浮かせたアレックスの隙をついて、警官が立ちあがろうとする。

 響揮はその警官の腕をとらえてぐいと引き、立ちあがりざま体を相手の脇に入れて一本背負いをかけた。

 警官の体が腰高の壁を越え、放物線を描いて宙に舞う。だが警官の腕を放すタイミングを逸した響揮も、そのまま警官とともに警備塔からダイブする羽目になった。

 警官がしぶとく握っている銃からレーザー弾が乱射され、照明灯が破壊される。強化プラスチックの破片が飛び散り、市民のヒステリックな悲鳴が響きわたる。

「響揮――!」

 上からアレックスの叫び声が降ってくる。

「くそ……っ!」

 響揮は体をひねって背中から警官の腰に両脚をからめ、締めあげた。地面が迫り、ふたりはもつれあったままタイル張りの歩道に転がる。そこへ警備塔から飛びおりたアレックスが駆け寄り、警官の両腕をとらえてがっちりと手錠をはめた。

「怪我はないか、響揮?」

「ああ……なんとか大丈夫みたい」

 響揮は息をつき、締めていた脚をほどいて立ちあがった。

 駆けつけた市警の警官たちが狙撃犯を引き起こし、やるせない口調でつぶやいた。

「サンダース、どうしてこんなことを……」

 サンダースと呼ばれた警官は、ただ虚ろにほほえんだ。右頬のほくろがえくぼをかたどる。次の瞬間。彼の目は大きく見開かれて眼球が反転し、眼窩からとびださんばかりにふくれあがった。白目がむきだしになり、唇がまるでコミック画のようにめくれあがる。獣のような咆哮が喉の奥からあがったかと思うと、ゴボッと音をたてて口から血が吹きだした。

 どろりとしたどす黒い液体をまともに浴びてしまい、響揮はその場に凍りついた。警官たちがわっと跳び離れる。狙撃犯は断末魔の悲鳴をあげながらころげまわり、まもなく、糸が切れたように静かになった。大きく開いた口から紫色の舌がだらりとたれている。広場に敷かれた白いタイルのあちこちにまがまがしい血溜まりを残し、彼は息絶えた。

 周囲の者たちは声もなく立ち尽くした。騒然とした広場で、そこだけがまるで時が止まったかのようにしんとしている。

 呆然と、響揮は自分の体を見おろした。ジャケットの胸に広がった大きな赤黒い染みから、なまあたたかい血のにおいが立ちのぼる。

 胃をぎゅっとつかまれたように感じて、口を手で覆った。食道をえずきが駆けあがり、視界がぐるぐる回りだす。膝がくだけてよろけたところを、たくましい腕に抱き止められ、体をすくいあげられた。

「響揮」

 見あげると、心配そうな青い目がのぞきこんできた。

「すぐ病院に連れてってやる。もう少し頑張れ」

「アレックス……」

 急激に気がゆるみ、すっと目の前が暗くなった。響揮の意識はそこで途切れた。


    *      *


 雑踏も陽気なDJの声も、遙香には虚ろに聞こえていた。数万人規模のイベントのただなかで響揮を見つけるのは、砂浜で針を探すようなものだった。

 あきらめかけてぼんやり歩いていると、十歳くらいの少女に手をとられ、輪の中に引き入れられた。

「おねえちゃん、観光に来たんでしょ? 歩き方が地球テラっぽいもん」

 少女が大きな目をくりくりさせて話しかけてくる。

「うん、まだ今日着いたばかりだから」

「ひとりなの?」

「……友達と……はぐれちゃって。電話もつながらない」

「そっか、だから寂しそうな顔してたんだね。でも大丈夫、きっとお友達も輪の中にいるよ! だって平和行進だもん。ルナホープにいる人は、みんな輪になってるんだよ」

 少女は確信に満ちた口調で言い、にっこり笑った。その表情が渚沙と重なって、遙香はたまらなく地球が恋しくなった。地球は遠い。そして自分はひとりぼっちだ。

 無理に笑みを返すと、唐突に少女が訊いた。

「おねえちゃん、好きな人いる?」

「え……?」

 好きな人。

 浮かんだ面影に、胸がずきんと痛んだ。そばにいるのが当たり前で、笑いかければいつも笑顔を返してくれる、ずっと手をつないでいてくれる――幼い夏の日、ふたりで自転車を飛ばした午後のように。

 そんな関係が、永遠に続くと思っていた。

「やっぱ、いるんだ?」

 いたずらっぽい表情で、少女が遙香にウィンクした。

「いいこと教えてあげるね。行進してるときにその人の名前を百回心のなかで唱えると、両想いになれるんだよ。だってその子も輪のなかにいるから、きっと気持ちが伝わるの。ルナホープの子はみんなやってるよ」

 たあいのないおまじないだ。真に受けたわけではもちろんなかったが、遙香は信じたい気持ちになった。でも、いま響揮は輪の中にいるんだろうか?

 どこにいるの、響揮。あたしをひとりにしないで。

「響揮……」

 ほろほろと涙がこぼれてきた。少女が驚いたように目を丸くして見あげる。

『遙香は泣き虫だからな』

 耳の奥で響揮の声が聞こえた。なつかしくて、悲しくて、涙は止まらない。

 会いたいよ、響揮。

 胸の奥の深いところから、強く熱い想いがつきあげてくる。遙香は一瞬めまいをおぼえ、ようやく悟った。

 ああ、人を好きになるって、こういうことだったんだ。

 遙香はほほえんだ。不思議に心が落ち着いていた。

 まだ握ったままだった少女の手をそっと放して「ありがとう」と言い、人々の輪から離れた。

 行進のあいだ待っているなどと悠長なことはできない。一秒でも早く響揮を探し出して、言いたいことがあった。

 手の甲で涙をぬぐい、人の波を抜けてホテルのほうに歩きだす。木立の向こうの広場のほうがなにやらざわついている。妙な胸騒ぎがして、遙香は走りだした。

 広場は二時間前と同様に規制テープで通行が止められていて、周囲をマスコミと野次馬が囲んでいる。遙香はそのひとりの袖を引いた。後頭部がはげかけた中年男性が振り向いた。

「あの、なにかあったんですか?」

「お嬢ちゃん、アナウンス聞いてなかったのかい? 大統領が撃たれたんだよ」

「大統領が? でも平和行進は続いてるじゃない」

「大統領は無事で、もう平和行進に戻ってるからね。なにがあっても行進はやめないって言って。小さな男の子が犯人に飛びかかって捕まえたらしいよ」

 小さな男の子。いやな予感に襲われ、遙香は自分でもびっくりするほどの強引さで人垣をかきわけて規制テープの前まで進んだ。

 監視塔の前の一角が青いシートで囲まれている。脇に停まった救急車に、捜査局の腕章をつけた体格のいい赤毛の男性が早足で近づく。その腕のなかに、響揮がいた。意識がないのかぐったりしていて、見慣れた白いジャケットの胸には赤黒い染みが広がっている。

 遙香は凍りついた。

 響揮!

 叫んだつもりだったが、声にはならなかった。さまざまな恐ろしい想像が頭を駆けめぐり、足は石にでもなったかのように動かない。

 すぐに救急車が走りだした。

 追いかけなければ。

 けれども、足がもつれてうまく歩けない。遙香はよろよろと人垣から離れ、ガラス像の冷たい台座にもたれかかった。

 響揮は大丈夫、死んでなんかいない。そう自分に言い聞かせるが、不安で胸がつぶれそうで、呼吸が苦しい。

 そのとき電話の着信音が響き、遙香はぎょっとして飛びあがった。

 もしかして、悪い知らせでは? 遙香はショートパンツのポケットからマイティフォンをとった。番号は非通知で、画像もない。

「はい……?」

『三井遙香さん? 鷹塔響揮くんはあなたの友達ね?』

 事務的な女性の声。遙香は凍るような恐怖と激しいめまいに襲われた。

「響揮は――まさか……」

『彼、さっき病院に運ばれたの。南エレベーターを降りたところに迎えを行かせるから、一緒に病院にいらっしゃい』

「南エレベーター……」

『そうよ、早くね』

 電話が切れると、遙香は周囲を見回して表示を探した。こんもりと茂る林を抜けたところにも、地下の市街とパークとを結ぶエレベーターがある。

 不安に張り裂けそうな胸を自分の両腕でぎゅっと抱き、遙香はエレベーターに乗り込んだ。市街まで永遠に着かないのかと思うほど、下降の時間が長く感じられる。

 ようやくドアが開き、ホールに出た。ネクサスホールとは違って人も少なく、こぢんまりとしている。

 すぐに中国系らしいチャイナドレス姿の少女が近づいてきた。どこかで見た顔だと遙香は思ったが、頭が混乱していて思い出せなかった。

「遙香さんね? 一緒に来て」

「響揮は――」

「話はあとよ。さあ、早く」

 少女に腕をとられ、遙香は花壇の向こうに停まっていたバンに導かれた。乗り込むとすぐにドアが閉まり、車が動きだした。


      *      *


 白目をむいた男が地面をのたうちまわっている。自分の体はぴくりとも動かず、男を助けることもこの場を去ることもできない。鼓膜を破りそうなほどの絶叫が絶え間なくあがり、口から噴きだす血の泡が地面を、男の体を、そして響揮の全身を真紅に染めていく。助けを求めるように、男の手がこちらに伸ばされる。

 男が自分の兄だとわかったのは、その瞬間だった。

「兄貴――!」

 自分の叫び声で目が覚め、はっとして上体を起こした。

「落ち着いて、大丈夫だ、響揮」

 額に冷たい手が当てられる。首をめぐらすと、赤い髪の青年が映った。ブルーの目に安堵の色が浮かぶ。

「アレックス……ここは?」

「病院だ、もう少し休むといい」  夢だったのか。

 響揮は息を吐いた。全身が汗にまみれている。悪夢の記憶とともに警官の死の瞬間が脳裏によみがえり、底知れぬ寒さを感じてぶるぶると震えだす。

 響揮の歯ががちがちと鳴っているのに気づくと、アレックスがベッドのそばにスツールを寄せ、響揮の体に腕を回して抱きしめた。大きな手で髪を撫でる。

「鎮静剤が必要か?」

「……いや、大丈夫」

 アレックスの手や広い胸から伝わるぬくもりが、無残な死の残像をやわらげてくれる気がした。目を閉じて体をあずけるうちに、震えが止まった。

「無理するなよ。正直、俺も吐きそうになった。精神科医の許可がおりたら記憶の部分消去をしてもらうといい。覚えていると害になる記憶もあるからな」

 響揮は目を開けてアレックスを見あげた。

「そういう経験があるの?」

「俺は大人だ。トラウマとつきあう術は知ってるさ。それにしてもおまえ、ほんとに無茶しすぎだぞ」

 響揮の肩に両手を置いて体を引き、かがんで顔をのぞきこむ。厳しい色をたたえた目で諭すように見つめる。

「あの爆弾が強い振動に反応するタイプだったらどうなっていた? サンダースがジャンプして近づいてくるおまえに気づいて、標的をおまえに変えていたら? おまえは今日、二度死んでいてもおかしくなかったんだ」

 響揮の首筋には、首を絞められたときのあざが残っている。アレックスはいたわるようにそっとそのあざを撫でてから、また響揮の体を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。

「無事でよかった」

「……ごめん。俺なにも考えてなかった。頭より体が先に動くのが悪い癖だって、よく言われるよ」

 ふたたび響揮を離して、アレックスはぽんと響揮の頭をたたいた。

「命はひとつだ、粗末にするなよ。ところで、なぜサンダースが大統領を狙ってることがわかったんだ?」

「神々の広場でアレックスと会う前に、サンダースは爆弾が置かれたベンチから俺を追い払った。その彼が監視塔の上にいるのに気づいて、変だと思ったんだ」

「いい勘してるな。俺もベンチのそばに警官がいたはずだと考えて名前を割り出したんだが、UCCIと市警はまあ、いろいろと訳ありでね。居所がわかったときには、おまえが走り高跳びの世界記録をつくってた」

 アレックスはにやりとしてスツールから立ちあがり、壁際のキャビネットに歩み寄った。さほど広くない病室に、ベッドは一台だけ。キャビネットの脇には洗面台とトイレに続くドア、部屋の隅にはディジフレームが置かれたテーブルがある。

「倍の体重じゃあ無理な芸当だから、俺は素直に監視塔のリフトを使ったがね」

「ありがとう。あなたが来てくれなければ、俺は……殺されてた」

 冷静に考えると怖くなって、響揮は首筋に手を当てた。喉を絞めつける手の感触が肌によみがえってくる。

「お互いさまだ。認めるのは癪だが、俺も助けられた」

 キャビネットの上のビニール袋をとって響揮に放り、アレックスは左の頬に貼られた治療パッチをさっと撫でてみせる。

「礼を言うよ。未成年でなけりゃ局にスカウトするのに、残念だ」

 ゆるい放物線を描いて落ちてくる袋を、響揮は胸の前で受け止める。

「おまえの服はクリーニング中だが、いずれにしてももう着られないだろう。とりあえずそれを着ててくれ。局の支給品だ」

「サンダースは……自殺だったのか?」

「ああ。検死の結果、死因は薬物による中毒死。自殺用の毒を歯に仕込んでた。もっと楽に死ねる薬もあるだろうにな……。背後関係は調査中だが、まあ、これで表向きは一件落着だ。あとは天音が無事でいてくれれば……」

 響揮ははっとして息をのんだ。

「そうだ、兄貴は……兄になにかあったのか?」

 その瞬間、アレックスの目に激しい後悔の色がよぎった。アレックスはベッドのそばに戻り、スツールに座って響揮の顔を見つめた。

「もっと早く話すべきだったな。すまない。天音にはある重要人物の調査を依頼していたんだ。局としての公式なものじゃなく、俺の個人的な頼みだった。天音も危険性は承知していた」

「危険性?」

「……調査が相手にばれたら、消されるかもしれないってことだ」

「消されるって……」

 響揮は絶句した。一瞬めまいがして視界が揺れた。差し出されたアレックスの腕にすがり、悲痛な色をたたえた顔を見あげた。

「まさか兄は……殺されたのか?」

「わからない。自分と連絡がとれなくなったら弟にコンタクトするようにと天音は言っていた。中学生だが、自分にとっては誰よりも信頼できる相手だから、と。それで俺は今日、おまえに声をかけたんだ。天音からなにか渡されてるんじゃないか――情報を託されてるんじゃないかと思ってね」

「いや、俺はなにも受けとってない。情報ってなんの情報?」

「情報のことはもういい。対象の事件はすべて終わった」

 ふいにアレックスの表情があらたまり、捜査官の顔になる。それ以上訊くなということだと響揮は理解したが、おとなしく引き下がるわけにはいかなかった。

「なるほど、爆弾テロと大統領狙撃事件についてだね」

 アレックスが渋い表情になるのを無視して、響揮は続ける。

「兄はその情報を重要人物の調査から得た。つまりふたつの事件はその人物の指示によるものなわけだ。誰なんだ、その重要人物って?」

「……教えられない」

「俺は関係ないってこと? 兄はその人に殺されたのかもしれないのに!」

「そうじゃない! マジで危険なんだよ、おまえ自身が狙われる可能性もあるんだ。今日おまえは二度も彼女を――」

 失言したという色をあらわにして、アレックスは口を閉じた。

「彼女、ね。女性なんだ。で、俺は今日二度も彼女の計画を邪魔したから狙われるって?」

「まったく油断ならねぇな。やりにくいったら」

 苦々しげにアレックスがつぶやき、それから納得したようにひとつうなずいた。

「天音がおまえを信頼している理由がわかった気がするよ。だから俺もおまえを信頼して話す。天音はまだ死んではいないと俺は思ってる。おそらく彼は仮死催眠を使ったはずだ」

「仮死催眠って……刑事ドラマに出てくるあれ?」

「『ハル&レイ』か?」

 アレックスは苦笑する。

「そうだ。重要な情報を奪われないための手段のひとつだ」

 響揮は唾をのみこんだ。

「そんなものをどうして兄貴が……。たしか覚醒にはキーワードが必要なんだろう? キーワードはあなたが知ってるの?」

「いや。おまえが知ってるんじゃないかと期待してたんだが」

 響揮は顔を曇らせ、首を振る。

「俺は兄貴が仮死催眠を使えることさえ知らなかった」

「そうか……。だが天音がもし仮死催眠を使っているなら、覚醒する算段はちゃんとあるんだろう。無計画に命を捨てるような奴じゃないからな」

「でも対象の事件が終わったというなら、兄貴が守ろうとした情報はもう役に立たないはずだ。兄貴自身も用済みってことじゃないのか? だとしたら……」

 その先が続けられなかった。言葉にすれば現実になってしまうような気がして怖かった。

「……天音は俺がきっと探しだす。だから信じて待っててくれ」

 アレックスの目には決意が鋭く輝いていて、響揮は圧倒され、うなずいた。

「兄貴があなたを信頼している理由が、俺にもわかった気がするよ」

 ふっと目を細めたアレックスの視線が、響揮を通り越して彼方を見つめた。

「その信頼を、俺は裏切ってしまった。私的なことで天音を巻き込んだ結果がこれだ。彼を守ってやれなかった。最低だな」

「私的でもなんでも、兄貴は危険を承知で引き受けたんだろ。覚悟はしてたはずだ。このところ兄貴の様子がおかしかったのはそのせいだったんだな。友達が亡くなったせいかと思ってたけど……」

 その瞬間、アレックスにはじめて会ったときのことが響揮の頭をかすめた。どこか見覚えがあると思った理由がわかった。

「ああ、そうか。あなたは兄貴の友達の――エメラインのお兄さん?」

 アレックスの顔に驚きの色がよぎった。

「妹を知ってるのか?」

「前に兄貴に電話したときにたまたま部屋に彼女が来てて、紹介してもらったんだ。ふたりでバイオリンの練習をしてると言ってた。彼女が突然亡くなって……兄貴はひどく落ち込んでた。あなたの妹だったんだね。どうりで似てるはずだ」

 そこで響揮ははっとした。

「もしかして、エメラインは殺さ――」

 さっとアレックスが手を響揮の口に当て、言葉を封じた。また遠くを見るまなざしになり、深く息を吐く。なにか振り切るように首を振ると、冷たい青い目で、刺すように響揮の目をのぞきこんだ。

「ヒビキ・タカトウ、おまえはこれ以上この件に関わるな。俺が許可するまで、当分ここでおとなしくしてろ。わかったな?」

 アレックスの言葉には、命令することに慣れている人間ならではの有無を言わせぬ雰囲気があり、響揮は反射的にうなずいた。アレックスが口から手を離し、にやりとして響揮の髪をくしゃっとかきまぜた。

「ガールフレンドにはさっきメールして、ここに来るよう伝えておいた。まだ返信はないが、じきに来るだろう。悪いが『ハル&レイ』でも観て時間をつぶしててくれ」

「あなたも『ハル&レイ』ファンなんだ」

 響揮がからかうように言うと、アレックスはわざとらしく顔をしかめてみせた。

「言っとくが、あれは嘘のかたまりだぞ。あんな警察組織は存在しない。ファンタジーとして観るのが正解だ」

「おもしろけりゃなんでもいいよ。ハルとレイ、どっちが好き?」

「そりゃハルだろ」

「俺もだ。意見が合うね」

 そのとき軽いノックの音が響き、ドアが開いてアラブ系の男性が顔をのぞかせた。

「主任」

「なんだサレム?」

「ちょっと……いいですか?」

 アレックスはうなずき、「すぐ戻る」と響揮に言って病室を出ていった。

 響揮はすばやくベッドから下りた。アレックスになんと言われようと、おとなしくしている気はなかった。

 アレックスの話から、兄が何者かに拉致されたらしいのはわかった。しかも、自分に重要な情報が託されていた可能性がある。それがなにかわかれば、兄を救出する手がかりが得られるかもしれない。

 グレーの診察衣を脱ぎ、アレックスから渡された服に袖を通す。白の半袖Tシャツとスウェットパンツは薄手で軽い合成繊維製。濃紺のベストの左胸には宇宙省のマークが入っている。女性用Sサイズというのが気に入らないが、文句は言えない。ラバーソールの月面用ブーツに足を入れる。サイズはぴったりだ。

 まず自分のコンピューターを呼び出して兄からのメールを再チェックしようと、病室の隅にあるディジフレームに向かった。コンソールの脇には響揮の所持品が置かれていた。腕時計、月域渡航ビザ、それにペンダントを包んだハンカチ。

 ペンダント!

 なぜ思い出さなかったのかと、響揮は自分にあきれた。直接渡されたわけではなかったが、これはまぎれもなく〝兄から送られたもの〟だ。

 あわててハンカチからペンダントを出したとき、電話が着信して画面にヴィジのウィンドウが開いた。

『元気みたいね、ヒーローくん?』

 聞き覚えのある女性の声だった。

「……ミス・ディアナ?」

 画像は現れず、ヴィジのウィンドウには〝ノー・イメージ〟と記されたまま、音声だけが流れてくる。

『そうよ。今夜会う約束をしたでしょう』

 やわらかいアルトの声にはとがめるような調子があった。

『これからわたしが言うことには答える必要はないわ。質問もなしよ。二十二時に天音のペンダントを持って、ネクサスホールのFゲートにいらっしゃい。もちろんひとりでね。ガールフレンドもあなたを待ってるわ』

「遙香が……?」

 電話の向こうから、いまにも泣きだしそうなかぼそい声が聞こえた。

『響揮? あたし――』

『わかった? 来ないと彼女にはもう二度と会えないかも。この件は他言無用よ。意味はわかるわね? きみ賢いから。じゃあ』

 電話は一方的に切れた。

 響揮は呆然として、ヴィジの閉じた画面を見つめた。口調はやわらかかったが、内容はまぎれもなく脅迫だった。

 どういうことだ? 遙香はなぜディアナの船に? ディアナはどうしてこれを欲しがるんだ?

 手を開き、ペンダントに目を落とす。けむる月光の石を抱いた銀の三日月。兄が遙香に贈ったものだ。

 そのとき、響揮の頭で理解がはじけた。

 ディアナ・フローレス。彼女は〝女性〟で、言うまでもなく〝重要人物〟だ。

「兄貴はディアナを調査していたのか……!」

 じゃあ、爆弾テロも大統領暗殺も、ディアナが仕組んだのか?

 信じられなかった。ルナレイクのほとりで会ったディアナは親切で、とてもそんな事件をたくらむような悪人には見えなかったのに。

 答えはきっとこれに隠されている。

 響揮はペンダントを裏返した。1、31、27。謎の数字。

 気持ちを鎮めるために目を閉じ、深く息を吸いこんで、ゆっくりと吐き出した。

 ふたたび目を開けたときには、すべてが明瞭になっていた。これは宛先が遙香だっただけで、兄が本当に渡したかった相手は自分だったのだ。このデザインを選んだのもわざとだ。弟の目に触れれば必ず手にとって、暗号に気づいてもらえると期待していた。

 だが響揮はそれに気づかなかったばかりか、愚かにも兄にいわれのない嫉妬をつのらせた。

「最低だな……」

 響揮はつぶやいた。兄貴は俺を信頼して、重要な情報を伝える役を頼んだのに。遙香の気を引こうとしてるなんて、どうして誤解できたんだろう?

 だが、いまそれを悔やんでも意味はない。響揮は気持ちを切り替え、兄と交わしたやりとりの記憶をたどった。この数字の謎を解く鍵が、どこかにあるはずだ。

「考えろ、響揮。兄貴が解けない暗号をよこすはずがないんだから」

 響揮は病室のドアを少し開けて外をうかがった。アレックスが戻ってくる気配はない。サレムと呼ばれていたアラブ系の男性捜査官が、少し離れたところでブルーの制服姿の警官ふたりとなにか話している。口調は丁寧だが、表情にはいらだちがほの見える。どうやら楽しい話ではないらしい。

 アレックスの同僚とはいえ、サレムに相談するのはためらわれた。響揮はドアをそっと閉めてディジフレームの前に戻り、地球にある自分のコンピューターにアクセスした。ディアナはペンダントを手に入れる絶対の自信があるようだ。ならばこの部屋も通信も監視されてはいないだろうと、響揮は判断していた。

 数日前に起きた磁気嵐の影響で、地球との通信回線は不安定だ。焦る気持ちを抑え、響揮はまず兄からのビデオメールを開いた。

 ここにも謎の数字があった。『ナンバーは十三だ』。ナンバーは……。

 そのとき、ディスプレイがぱっと切り替わった。派手なフェイスペイントを施したピエロが現れ、嘲るような笑い声をたてる。

『ヒーッヒッヒッ! 俺とゲームをしようぜ』

「ちくしょう、忘れてた! こいつまだ退治してなかったんだっけ」

 響揮は歯噛みした。

「勘弁してくれよ、おまえにつきあってる暇はないんだ!」

 ピエロがにたっと笑う。

『間違った数字を打ち込むとファイルがひとつ消える。楽しいだろ?』

 ……数字!

 響揮の指がキーボードをすべる。1、31、27。

 ガーン!

 発射音が轟き、ファイルが壊れたことを知らせる表示がディスプレイに流れた。

「くそっ、違うのか」

 このウイルスをしかけたのは兄かもしれないと、そしてこのロシアン・ルーレットに勝てば、兄が自分に託した情報が現れるのではないかと思ったのに。

『キャーッハッハッ! 残念! もう一度やってみるかい?』

 楽しそうにピエロが言った。

 このせりふははじめてだと、響揮は気づいた。いままでは数字をひとつ入力するたびにピエロは消えていた。もしかしたら、正解に近づいているのかもしれない。

「兄貴なのか?」

 にたにた笑っているピエロに、響揮はすがるような目を向けた。

「だったらそう言ってくれよ」

 ピエロは答えない。

「ヒントをくれよ兄貴、俺は兄貴みたいに頭よくないんだぜ?」

 数字を入れるブロックでカーソルが点滅している。

『響揮、おまえならわかるはずだ』

 耳の奥で天音の声がささやいた。

『ナンバーは十三だ。いまの時期はいいね』

「Mか!」

 響揮は思わず短く叫んだ。

 天文の世界では、新たに発見された彗星や小惑星に、数字とアルファベットを組み合わせた仮の名称をつける。アルファベットの十三番目はM。そしてMは六月後半、つまり〝いまの時期〟に発見された小天体に付される文字なのだ。

 1、31、27はそれぞれM1、M31、M27だ。そうなると数字の意味はまた違ってくる。星雲・星団をリストアップした〝メシエ星表〟の掲載順だ。メシエは十八世紀の天文学者で、地球から見える主な星雲・星団の星表をつくった最初の人物だ。

 メシエ星表には百十個の星雲・星団が記載されている。名前と座標はもちろん響揮の頭に入っている。M1はかに星雲、M31はアンドロメダ星雲、M27はあれい星雲。ポイントは、これらの天体がすべてもうひとつのナンバー―― 〝NGCナンバー〟を持っているということだ。メシエ星表より多い八千個あまりの星雲・星団を記載したリストの番号だ。

 にやにや笑うピエロをにらみつけ、響揮は点滅しているカーソルに、メシエナンバーと対応するNGCナンバーを打ち込んだ。

 1952、224、6853。

 瞬間、ピエロがほほえんだように見えた。

 ガーン!

 大きな発射音とともにピエロの額に穴があいた。

 やった!

 響揮は息をのみ、画面を見つめた。ピエロの顔がこなごなに割れ散る。

 次の瞬間に現れた、白地の画面全体を埋め尽くす黒の文字列を目にすると、響揮はがっくりと肩を落とした。これも暗号らしい。

 落ち着けと自分に言い聞かせて文字列を観察する。ギリシャ文字やロシアのキリル文字のアルファベット、韓国のハングル文字、中国の繁体字、画数の多い日本の旧漢字が雑然と並んでいる。小さな文字なので目がちかちかして、響揮はまばたきした。

 ふと、〝遙〟という漢字に目を引かれた。数えると全部で十個、規則性もなく置かれている。

 いや、規則性は……ある!

 響揮は十個のうち六個を手早く削除していった。画面の上下左右、対称に配された四個の〝遙〟の文字を残して。

 南十字星だ。

 数秒後。四個の漢字がぱっと青色に変わった。次の瞬間、文字が全部消えて画面が真っ黒になった。

「ビンゴ」

 静かにつぶやき、響揮はなにひとつ見逃すまいと画面のほうに身を乗りだした。おそらく表示されるのは一度だけだ。集中して記憶しなければならない。

 星が輝くかのように、真っ黒な画面に白く、日本語の文字列が浮かびあがってきた。


      *      *


 アレックスが病室に戻ったとき、時刻はすでに二十二時を回っていた。護衛としてドアの前にいるはずのサレムがいないのに気づき、顔をしかめる。ドアを開けて病室をのぞく。誰もいない。乱れたベッドの上には丸めた診察衣が無造作に置かれている。

「しまった! あいつ――」

 アレックスは病室に飛びこみ、ディジフレームの前にメモが置かれているのに気づいて手にとった。

〝遙香を人質にとられた。ディアナの船に行く〟

「くそっ――」

 ありとあらゆる罵倒のことばを並べながら、アレックスはトイレのドアを開けた。思ったとおり、バキューム式のコンパクトな便器に、首をうなだれたサレムが座っていた。アレックスは部下の顔を乱暴に上げさせ、容赦なく頬をたたいた。

「起きろサレム! 職務怠慢だぞ!」

 サレムはうめき、目を開ける。

「ああ、主任。……くそっ、あのガキめ――地獄に墜ちて三千年呪われろ」

 アレックスはサレムの顔の前で響揮のメモを振ってみせた。

「どうしてこんなことになったんだ? おまえらしくもない失態じゃないか」

 サレムはメモを読むとまた、神には聞かせられないたぐいの言葉をつぶやいた。

「主任が行った直後に市警が来て、十五分ほどもめてたんですよ。サンダースが家族あての遺書を残していて、大統領狙撃事件はグリーン・サンクチュアリ法の強行採決とジョアン・フローレス暗殺に抗議するためだったってわかったんだそうです。〈赤いドクロ〉とは無関係だから捜査権は市警にある、事情聴取のためにあの子を市警本部に連行するってうるさくて」

「ブルータス、おまえもか」

 アレックスは毒づき、サレムの腕をつかんで立たせた。

「俺も責められてたんだ。ルナホープ・シティ警察署長殿から、かたじけなくもじきじきにね。報道規制も行き過ぎだ、響揮をマスコミに取材させろとおっしゃる。冗談じゃない。ネタに飢えた野獣の群れにあの子を放りこめってのか?」

 連邦の個人情報保護法では、十五歳以下の少年についての報道に細かく段階を設け、制限している。アレックスは最高度の規制を適用しているので、いまのところ響揮の名前は表に出ていない。

「サンダースが身内だったんであわててるんでしょ。あの子をヒーローに仕立てて祭りあげれば内部の失態が目立たなくなる。姑息な作戦が見え見えです」

 歩きだしたサレムはみぞおちを押さえてうめいた。

「くそっ、サムライの国の子孫のくせに、だまし討ちなんて卑怯だ。気分が悪い、吐きそうだって言うから介抱してやったのに、いきなり肘鉄を。狭い場所で逃げ場がなかったんです」

「言い訳は見苦しいぞ、サレム。油断するのが悪い。外見はまるで子供だが、あいつは柔道二段なんだ」

「柔道はスポーツでしょ。反則ですよこんなの」

 恨めしげな顔のサレムの背中を、アレックスが軽くたたいた。

「子供に不意打ちくらって失神したなんて、局に広められたくなきゃ黙っとけ」

「子供? じつは特殊工作員でしたって言われても僕は信じますね」

「それは同意する」

 ふたりは病室を出ると、足を速めて病院を後にした。捜査局のバンに乗りこみ、AIに公用宇宙港行きを指示して、アレックスはサレムのほうを見た。

「祈ってくれ、サレム。神のご加護とやらがたっぷり必要になりそうだ」

 いつもは明るい青のアレックスの瞳は、不安と焦りのために深い藍に沈んで見えた。


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