潜 -Lurk- 3
紗衣は、ネイトの腕を掴んだままグイグイと足早に引っ張っていく。
ネイトは黙ってそれについて行く。
二人は、無言のまま十分ほど歩いただろうか。
紗衣は急に立ち止まると、路地裏へとネイトを連れ込み、ドンッと壁に押し付ける。
「ウソつき。」
紗衣は不躾な言葉を浴びせると、ネイトを睨み付ける。
「嘘?」
ネイトは何のことだかわからないという顔をする。
「とぼけないで!先週約束したじゃない!」
あぁ、と言いながらネイトは微笑んで紗衣の髪を撫でる。
「誤魔化さないでよ!!」
紗衣は、思いっきりネイトの手を弾くと息を荒げる。
「ネイトはいっつもそう……。
優しそうに振る舞ってるけど、いつもいい加減にしか相手しないし。
あたしのこと…好きだとか、大切な主だとか言ったって……約束一つ守らないじゃない!」
そう言う紗衣の瞳には、次第に涙が溜まっていく。
ネイトは紗衣を見つめたまま何も答えない。
泣くまいと唇をかみしめる紗衣の頬を、溢れだした涙が伝う。
顔を見せまいとネイトから視線を落とすと、同時に壁へ押しつけていた手を放す。
「…あたしが、何も知らないとでも思ってるの?」
紗衣はゆっくりと、自分で自分を抱きしめる様に両腕に力を込めた。
「ネイト…いつも何やってんの?
最近、ほとんど帰ってこないし……この間も…。」
紗衣は少し口ごもる。
俯いている紗衣の肩が小刻みに震えていた。
「……女の人と、一緒にいた。」
「紗衣…。」
ネイトは紗衣に触れようと手を伸ばすが、紗衣は触れられまいと一歩後ずさる。
「…ちゃんと答えて。」
俯いたまま、声も少し震えている。
その様子に、ネイトは伸ばした手をゆっくりと下ろしながら答えた。
「紗衣…あなたが心配するようなことは何もありません。」
「心配って何よ!?」
一際大きな声を上げた紗衣は、泣きながらネイトを睨む。
「ネイトは…どうして、あたしと一緒に居るの…?」
縋るような紗衣の瞳を、ネイトは真っ直ぐ見つめている。
「…何で、何も言わないのよ。」
紗衣は更にキツくネイトを睨む。
だが、ネイトからは何の言葉も返ってこない。
「…そぅ…わかった。」
そう呟いた紗衣は、ゴシゴシと涙を拭うとネイトを真っ直ぐ見る。
「ネイト。もうあたしの傍に居なくてもいい。契約…ロストして…。」
「紗衣!」
ネイトは、紗衣が言い終わるより先に大きな声を上げる。
初めてのことに、紗衣はビクッと震える。
ネイトは大きなため息をつく。
「大きな声を上げてしまいましたね…すみません。」
それを機に、押しとどめていた紗衣の感情が溢れだす。
ボロボロと大粒の涙を流し、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる。
ネイトはその様子に、ひどく顔を歪める。
「今日のことは謝ります。急な仕事が入ってしまったので連絡が遅くなりました。」
ネイトは、そっと紗衣の髪に触れる。
一瞬ビクリとした紗衣だが、先ほどのようにネイトを払うことはしなかった。
「うぅ…ネイ…ト…うっ…ひっ…。」
「紗衣。私があなたの契約者であることが、それほど辛いなら…。」
言いかけたネイトを制すように、紗衣はネイトの両腕を掴む。
「どうして!?…ちが…う…。
そうじゃない!! そうじゃないよ…違うよ……ネイト…。」
紗衣は、ネイトの胸に頭を落とす。
「どうして?…あたしには話せないの?
言えないことなの? そんなに頼りない? あたしじゃ何が足りないの!?」
紗衣は問い詰めるように、掴んだネイトの両腕を何度も揺する。
「どうして!!? ねぇ、どうして……。」
「紗衣…。」
ネイトは際に掴まれた自分の両腕の感触を確かめるように瞳を閉じた。
二人の間の時間は止まっているのではないかと思うほどの沈黙。
そんな二人をを覆うように、夜空には灰色の雲が広がっていた…。
「ネイトと一緒に居た人……。」
紗衣は顔を上げないまま、言葉を紡ぐ。
「彼女も『悪魔』なんでしょう!?」
「…。」
ネイトは唇を噛みしめ、顔を歪めたが、何も答えない。
いくら待っても、返ってこないのであろう返答に耐え切れなくなった紗衣は、掴んでいたネイトの腕にしがみつくように力を入れた。
「どうして?……ネイト………わかってるんでしょ?
辛いのは……何も答えてもらえないからだよ……。」
消え入りそうな声で呟く。
だがそれでも、ネイトは何も答えない。
ネイトは優しく紗衣を抱きしめると、紗衣の髪に顔をうずめた。
「…紗衣。私は契約をロストする気はありません。
たとえ、契約印がなかろうとも…私はあなたが息絶えるまで傍にいるつもりです。」
ネイトは抱きしめる腕に力を込める。
「紗衣…愛しています…。」
ネイトの言葉を黙って聞いていた紗衣は唇を噛みしめる。
いつもの紗衣なら、囁かれるネイトの言葉に、包まれる腕の温もりに身を委ねている。
だが今の紗衣には、ネイトの声は響かない。
「ネイト…その言葉は、本当に私に向けて伝えてくれているの?」
「!!」
紗衣からの問いかけに、ネイトは動揺を隠せなかった。
抱きしめた腕が自然と緩み、紗衣は静かにネイトから離れる。
「何にも…答えてくれないのね……。」
紗衣からの返答に、ネイトもいつもと様子が違うことはわかっている。
だがそれでも…ネイトは、紗衣の問いかけには答えない。
「もういい!ネイトなんて知らない!!」
紗衣は吐き捨てる様に言うと、その場から走り去っていく。
ネイトは紗衣を追いかけようとはせず、去って行く紗衣の後姿を目で追いながら見送った。
紗衣の姿が見えなくなって暫く―――。
ネイトは、幾分前から向けられていた、路地奥からの気配に声だけを向ける。
「……覗き見…ですか?」
すると、何処から現れたのか…その気配は少しずつネイトへと歩み寄る。
姿を現したのはバーニャだった。
ネイトの隣に並ぶと壁にもたれ掛りながら腰を下ろす。
「いい趣味ですね。」
ネイトは尚も、すでに見えなくなった紗衣の影を見つめたまま冷たく言い放つ。
「……言えば、いいじゃん。」
バーニャも悪びれる様子はなく、然も当然の如く言い放つ。
だがその言葉は、いつもより少し丁寧に紡がれている気がした。
「…。」
ネイトは何も答えない。
代わりに、紗衣へ向けられていた視線を隣に座りこんだバーニャへ向けた。
「そんなに大事なんだ…契約主って…。」
バーニャは煙草を取り出すと、口に咥える。
そして、その箱をネイトへ差し出す。
「…。」
ネイトは差し出された煙草を見つめる。
「あなたも、主を持てばわかりますよ。」
そう言うと、差し出された煙草の箱から一本手に取る。
「ソレ…。喧嘩売ってんの?」
バーニャは煙草を咥えたまま、ネイトをギロリと見上げる。
「まさか、失礼しました。」
ネイトはいつもの調子に戻り、笑顔を作る。
煙草を口にくわえると、バーニャがライターに火をつけた。
バーニャの持つライターを挟むように、ネイトもその場に腰を下ろし、二人は顔を近づけ、目を閉じながら煙草に火をつける。
そして、ゆっくりと離れる二人の距離。
バーニャはライターを仕舞うと、煙草を咥えたまま、フーッと煙を吐く。
「…追いかけないの?。」
ネイトもため息と一緒に煙を吐く。
「えぇ。」
ネイトはもう一度煙草を咥えると、大きく吸い込み、ゆっくりと吐く。
「人間とは、感情的になりやすい。少しは頭を冷やす時間も必要でしょう。」
バーニャが咥えていた煙草を手に取り、灰を落としながら、フッと鼻で笑う。
「悪魔も、変わんないよ…。」
ネイトも、そうですね…と自嘲気味に笑う。
「心配…かけてます?」
小さな声で呟くネイト。
バーニャは顎を突き上げ、空へ向けたまま煙草を咥えて煙を吐く。
「らしくねーこと、言わせんな。」
ネイトは少しだけ表情を緩めると、吐き出した煙草の煙を見ながらポツリと呟く。
「禁煙…。」
「?」
一言呟いたネイトに視線を移すバーニャ。
「…してたんですけどね。」
ネイトはバーニャへ振り向くと、笑顔を見せる。
バーニャは意地悪そうに、ニヤッと笑う。
「それもマスターの言いつけ?優等生も反抗期だねぇ。」
そう言うと、煙草を咥えたまま立ち上がり、パンパンと尻に着いた誇りを払う。
「バーニャは、いつまで経っても抜けないですけどね。」
「何か、言った!!?」
勢いよくネイトに迫るバーニャ。
咥えた煙草もろとも、ネイトの顔に迫る。
「いいえ…いえ、何も。」
何だよ、と悪態を付くバーニャだが、スッとネイトから離れる。
腰に腕を置いたまま煙草を吹かすバーニャを見上げるネイト。
彼女なりに気を使ってくれているのがとても伝わり、自然と笑みがこぼれる。
そして、バーニャの足元へ視線を投げると、小さな声で語りだす。
「紗衣には、関係のないことです。彼女は、ただ研究をしたいだけ…。
彼女が望むのは、力を得ることでも、戦いをすることでも、何かを守るためでもないんです。」
バーニャは黙ってネイトの話を聞いていた。
「無関係な彼女を、私の都合で危険な目に巻き込むことは出来ない。
それでも、彼女から離れることもできない…それは、私のただの我儘です。
その所為で、彼女を不安にさせているということも、わかっています…。」
バーニャは咥えていた煙草を足元へ落すと、靴底で踏み消した。
「ネイト…降りても構わないんだぜ?」
バーニャはいつになく真剣な表情のまま続ける。
「ネイトだって、もともとは関係ないんだ。
ただ偶然に、あの死神の存在を知って、人間たちの目論見を垣間見ただけ。
あたし等とは、置かれてる状況も、立場も違う。」
バーニャは、足元で踏みつぶされた煙草の残骸を見つめたまま。
ネイトも、同じようにバーニャの足元にある残骸を見つめていた。
「関係ないとは…随分ですね。」
別に腹を立てているわけではない。
ただ、その言葉は…先ほど自分が紗衣に対して抱いていた感情とダブり、苦笑う。
「私程度の悪魔が一人いたところで、何か変わるものでもないのでしょうが…。
私にだって、貫きたい正義もあるんですよ。
バーニャたちとは状況も、立場も違うからこそ、出来ることもある。」
「正義ね…。」
バーニャは、自分の足元を見つめているネイトを見下ろす。
「それが、ネイトの大事な契約主を傷つけることになっても?」
ネイトは少し考えた後、バーニャを見上げた。
「そうならないために、こうして考えてるんですけどね。」
そう言って、少しだけ目を細めた。
だがその笑みは、バーニャにはネイトが己を責めているように見えた。
「悪かった。さっきの言葉は忘れて。別に、本気じゃない。」
「えぇ、わかっています。こちらこそ、くだらない話を何時までも申し訳ない。」
お互いに視線を逸らすと、バーニャはゆっくりと歩き出した。
「女の誤解くらい、解いとけよ。
あたしも、メンドーに巻き込まれるのは勘弁だからね。」
冗談交じりに告げると、軽く手を上げて、そのまま路地から出て行った。
その後ろ姿を黙って見送るネイト。
ネイトはしばらく座り込んだまま、煙草を味わう。
冷たい風は、いつの間にか湿気を帯びており、ポツリポツリと空から滴が落ちてくる。
ため息と一緒に、最後の煙を吐き出し、煙草の残火を地面に擦り付けるように消した。
短く草臥れた煙草を見つめると、少し考える。
「優等生…ね…。」
フッと笑うと、ネイトは立ち上がりながら、煙草を握った手を、そのままポケットに突っ込んだ。
降り出した雨の中、ゆっくり立ち上がったネイト。
空から落ちてくる雨粒を確かめるように、宙を見上げると、バーニャの消えた姿を追った。