懐 -Past- 1
穏やかな風が吹き抜ける丘。
春の日差しと柔らかい風が、桜の花を優雅に散らす。
これは―――過去の話―――。
桜の木に向かい、一人の少女が無邪気に駆けてくる。
だが、そこで目にしたものは、大きな桜の木にもたれかかるように倒れている男の姿。
どうしたものかと考えているのか、少女は一瞬立ち止まる。
そして、静かに近づくが、男がこちらに気付く気配はない。
よく見ると、黒いコートの裾に血だまりができている。
「…。」
その少女の表情からは、先ほどまでの無邪気な笑顔が消えていた。
だが、恐怖に怯えた様子もなく、その年齢からは想像もできないほど落ち着いている。
少女は、男の傍らに近づくと声をかけた。
「大丈夫?」
「!!」
シャッ!!
「わっ!?」
男は突然、持っていた刀を近づいた何者かの喉元へ突き当てた。
…つもりだった。
「!!?」
手ごたえを感じない男の刀。
すぐ傍に近づいていたはずの気配は、すでにそこには無かった。
「殺気を出して近づいたならともかく…随分と手荒な真似をするのね?」
声の主を確認した男は、眉をよせる。
そこに立っているのは―――子供。
少女は男の一突きを、咄嗟に後ろへかわしていたのだ。
「それとも、そこまで余裕がないほど苦しいのかしら?」
足元に着いた土埃を払いながら男へにっこりと笑顔を向ける。
対照的に、男は刀を抜いたまま、漆黒の瞳をギラつかせ少女を見据える。
男は不意に考えた。
果たして、己が万全の態勢であったならば…
この少女の喉元に、刀が届いていただろうか…。
両者とも、しばらく見つめ合ったまま動かない。
だが、傷を負っている男は意識を保つのがやっとの状態らしく…
少女へ向けていた刀は少しずつ傾き…
その瞳も焦点が合わないまま、目線も少しずつ少女の足元へと落ちていく。
「…何者だ?」
絞り出すように、男の口から出た一言。
黙ってその姿を見つめていた少女だが、
「…はぁ。」
呆れたと言わんばかりに大きなため息をついた。
「あのさ、質問したのはこっち。
で、あたしは一応、心配して声をかけてるんだから…ソレ…なんとかしない?」
そう言いながら、少女は男の持つ刀を指さす。
「…。」
黙っている男へと、少女は近づいていく。
チャキッ!
途端、男は刀を構えなおす。
「…もぅ…わかった。」
少女は両手を上げる。
「これ以上は近づかないから、とりあえずその刀をしまってくれないかな?
あたしは、あなたに何かしようなんて思ってないから。」
そう言うと、少女は両手をあげたまま、またにっこりと微笑む。
男はしばらく動かなかったが、やがて刀をおろす。
そして立ち上がろうとした途端、体制を崩して倒れてしまった。
「くぅッ!!」
立ち上がりかけて体制を崩した男は、そのままうつ伏せになり苦痛の声を漏らす。
少女は、苦しむ男に近づこうとはせず声をかける。
「大丈夫?」
息を荒げた男は、起き上がらないまま目線だけを少女へ向ける。
「はぁ・・はぁ・・はぁ…。」
「傷。…あたしに見せてくれない?」
少女は一歩近づく。
男は眉間にしわを寄せ、威嚇するように少女を睨む。
立ち止まる少女。
だが、少女はもう一度ゆっくりと微笑む。
その時、男には少女が一瞬表情を曇らせた様に見えた。
年頃は、まだ10歳ほどだろうか。
とは言え、先ほどの動きからも常人ではないことは確か。
男は体制を変えようと動いてみても、その体は己の意思に逆らう。
もがけばもがくほど、体中に痛みが駆け巡り、傷口からはドクンと脈打つかのように血が流れ、苦痛に顔を歪めるだけ。
「苦しいんでしょう?」
そう言いながら、少女は少しずつ近づいてくる。
男の意識は、すでに朦朧としていた。
防衛本能とでも言うのだろうか。
ただ近づいてくる何者かを排除すべく、野犬のように威嚇する。
そんな男の状況を把握しているか否か。
少女は男の傍らに座り、脇腹あたりの傷口へ手を掲げる。
男は、傍らにある刀を握ると、近づいてきた少女へ剣先を向けようとするが…
「大丈夫。」
そう言って、近づいてきた少女によって、その行動は阻止された。
少女は、男の手に自分の手を重ね合わせた。
その口から紡がれた驚くほど優しい響き。
“大丈夫”
それは、先ほどまでは男に問いかけるように紡がれていた言葉。
だが、今度は言い聞かせるように…。
優しく、暖かく、男の胸に響く。
男は、刀を握っていた手の力を抜くと、大きく息をする。
その様子を確認した少女は、重ねた手を離し、両手を男の傷口へ掲げる。
そして、綺麗な金色の瞳を静かに閉じた。
パアァァァァァァ――――――
男の傷口を、優しい光が包んでいく。
まるで少女の瞳のような、金色の光。
「!!」
突然の光景に理解できない男。
自分の身に起こっている現実。
これが何なのか?
何が起こっているのか理解できない。
だが、その光を通して感じられるのは…
先ほどの少女の言葉と同様に、包まれた光から感じる、優しさと、暖かさ。
その光はとても心地よく、体の中から力がみなぎってくる感覚さえ鮮明に理解する。
そして男は、その光に…
その得体の知れない少女に委ねる様に、ゆっくりと瞳を閉じた。
暫くすると、男を包んでいた光が徐々に小さくなっていく。
そして、少女もゆっくりと瞳を開ける。
「どうかな?もう動ける?」
首をかしげながら、男に尋ねる。
男は静かに起き上がると、自分の体の傷を確かめる。
治っている…。
酷かった腹の辺りだけではない…体中にあった傷が癒えている。
先ほどまで感じていた苦痛が嘘のように、何事も無かったかのように…。
そして驚くべきは、傷だけではない。
ボロボロになっていた着衣までもが綺麗に元に戻っている。
「お前は…。」
この少女は一体何者なのか?と。
今、いったい何が起きたのか?と。
男は驚いた表情のまま、少女へ問おうと顔を上げる。
「えへへ。」
幼い少女が見せた屈託のない笑顔。
その笑顔に、男は自分の問いかけに迷う。
その笑顔を前に、先ほどまで感じていた疑問を投げかけることが、何か意味を成すのだろうかと。
だがその少女の次の言葉に、男の疑問は容易に解明される…
同時に、その疑問は少女へ問うべきではないと…
己が踏み入れてよい領域ではない…そんな気がした。
「びっくりしたのはあたし。
あなた、人間とも死神とも違うのね?」
「!!」
少女の言葉に戸惑う。
少女の口から発せられた言葉…。
『死神』
彼女は…
死神なのだ…。
そう、これは過去のお話。
ラウレストの記憶にある。
奏楽の記憶の奥底に眠る。
二人の―――
最初の出逢い―――