哀 -Fear- 6
夜のとばりが静かに訪れる頃。
真は、桜の木にもたれ掛り座り込んでいた。
だが今は花の咲く季節とは異なる。
その木には、緑の葉が生い茂り、その隙間からは月の光が射し込み、真の顔を照らしている。
「奏楽…。」
真は、奏楽の名を呟く。
そして照らされた月を掴むように、宙へ向けて手を上げる。
そこは、奏楽の好きだった場所。
奏楽は昔から、郷を抜け出すと決まってここに居た。
この桜の木におでこをつけ、目を閉じて…まるで会話でもしているように…。
あの時―――。
俺は何度も、奏楽の名を叫んだ。
だが…奏楽には俺の声が届かなかった…。
俺は…何もできなかった…。
宙へ向けた手をギュッと握ると、キツく目を閉じる。
瞼に焼付いた光景は、つい先ほどの出来事のごとく鮮明に蘇る。
パチパチと音を立てて燃えていく柱。
焼けて崩れ落ちた天井が、あちこちに散らばる。
身体は炎の熱と、立ち込める煙に包まれる。
気持ちだけしか前に進まない身体。
視界の端に映るのは…傷だらけのまま、俺と同じ名を叫ぶ影。
そして…ただ見つめることしか出来ない先には……。
指一本動かない二つの亡骸と…
男へ向けて手を伸ばす…虚ろな瞳…。
そして男は差し出された手を握ると、自分の胸へ抱きかかえる。
男の胸に…眠るように凭れかかる―――奏楽。
動かない身体が…
届かない声が…
己の無力さを実感させる…。
男はそのまま奏楽と共に姿を消した。
俺は崩れかけた屋敷から、薫様を連れ出すことが精一杯だった…。
未耶たちの両親である二人の亡骸は、屋敷と共に燃え尽きた…。
目が覚めた時には、俺の傍には戒がいて…無事だったことに安堵した。
だが隣に眠る朱雀の姿…。
片腕を失くしたその姿を…俺は直視することができなかった…。
真は、悔しさに嗚咽を漏らしながら下を向き、掴んだ拳は力なく項垂れる。
ザッ…。
真は近づいてきた気配に気付くと、パッと顔を上げる。
「!!」
真は立ち上がると、剣を構えた。
そこに立っていたのは―――。
「貴様ッ!!」
真の目の前に立っているのは……
あの時、奏楽を連れ去った男―――ラウレストだった。
「…。」
ラウレストは、黙ったままゆっくり真へ近づいていく。
近づいてくるラウレストに対し、真の呼吸は少しずつ早くなる。
(身体が…動かない!?)
向かっていったところで、敵うはずもなく…
背を向けたところで、逃げられるはずもない…
目の前にいる男の…圧倒的な強さを前に、真の身体は硬直する。
ラウレストは剣を構える真の手首に触れると、ゆっくりと下ろす。
「この場を荒らすことは許さん。」
ラウレストは静かに告げる。
その言葉に戸惑う真。
だが、ラウレストが手を離した途端、糸が切れた様にその場に座り込む。
真は、はぁはぁと息を整える。
「はぁ…はぁ…どういう…つもりだ?」
真は、ラウレストを睨み付ける。
だがラウレストは真を振り返ることなく、桜の木を眺めると、その大木にそっと手を触れる。
そして、奏楽と同じように…瞳を閉じて、桜の木に己を預ける―――。
二人の間を、爽やかな夜風が吹き抜ける。
真は立ち上がり、ラウレストの様子を黙って見ていた。
暫くすると、ラウレストは、そっと木から離れ振り返る。
そして何事もないかのように、真の横をすり抜けて去って行こうとする。
真は、ラウレストのその後ろ姿に声をかける。
「奏楽は…何処だ…。」
言いながら唇を強く結んだ。
真の脳裏に、奏楽を抱いていく男の姿が思い出される。
ラウレストは立ち止まると、真へ向けて振り返る。
「お前たちは…奏楽を、どうする気だ!?」
真はラウレストへ向けて声を荒げる。
対照的に、ラウレストは静かに口を開く。
「それはお前たちだ。」
「なに!?」
ラウレストの言葉に、真は怪訝な顔を浮かべる。
「お前たちこそ、奏楽をどうしてきた?
口では大そうなことを言いながら、その本質はどうだ?」
ラウレストは真っ直ぐ真を見据える。
「奏楽を騙し、何も教えず、お前たちはそれで奏楽を守っていると言う。」
「なっ! 俺たちは、奏楽を騙してなんかっ!!」
真がラウレストに言い返そうとするが、ラウレストは容赦なく攻め立てる。
「では、お前たちは何のために奏楽を守る?」
真は、躊躇する。
―――何のため―――
ラウレストの言葉に、返すべき言葉が浮かんでこない…。
黙ってしまった真に、ラウレストが追い打ちをかけるように呟く。
「お前たちでは、奏楽を守ることはできない。」
その言葉は、真の深くに突き刺さる。
「俺は…俺たちは……。」
真は拳を強く握る。
ラウレストは、真に背を向けるとゆっくりと歩き出す。
そして…
「お前は、奏楽を何も知らない。」
「!!」
そう告げたラウレストの姿は消えていた―――。
「俺は………何も、知らない…。」
繰り返すラウレストの言葉。
「守る…理由…。」
奏楽が神魔として覚醒する前も、その後も…真の奏楽に対する想いは変わらない。
ただ、奏楽を好きだという気持ちだけ。
大切にしたい、傷つけたくない…だから、守りたい…。
だがあの男に尋ねられた時、真は答えることができなかった…。
―――何のために奏楽を守る―――
自分の素直な気持ちを答えるのとは、何か違うと感じた。
奏楽が大切だから守る…それは真の個人的な理由。
だが、男が問うた意は…『お前たち』…死神として守るべき理由。
真は、それに答える術を持ち合わせていなかったことに気付いたのだ。
「やっぱり…俺は何も知らない…。」
真は鼻で笑いながら、己を恥じた。
そして先ほどのラウレストとの会話を思い出す…。
―――お前たちでは、奏楽を守れない―――
(あいつは何を知っている?俺たちが、奏楽を騙してる…?)
思い当たる節など無かった真は、名も知らぬ男に対し、劣等感を覚えた…。
「まるで、お前なら奏楽を守れるみたいな言い方だな…。」
真は、ラウレストが去って行った暗闇を見つめながら呟いた…。
夜風が真の頬を撫でていく…。
真は、剣を地面へと投げる。
そして徐に上半身の服を脱ぐ。
「はぁ―――。」
静かに構えを取る。
「はぁっ!」
シュッ!
「はぁっ!」
シュッ!
その拳は、真の中に残る、薄弱とした心を打ち消すかのように…
「はぁっ!」
シュッ!
真は只管に没頭した―――。
「はぁっ!」
シュッ!
「……。」
真は拳を突き出した先を睨み付ける。
静かに構えを解くと、そのまま後ろへ向けてバタンと倒れ込む。
そして瞳を隠すように、片腕を顔の上に乗せる。
「何なんだよ…アイツ…。」
呟く声は、夜の闇に溶けていく―――。
「真…。」
倒れ込んだ真を見つめていたのは、戒だった…。
様子を見に来た戒が、近づこうとしたとき…真の前に突然現れた男。
戒は、その男を知らない。
だが真は、戒の目の前で剣を抜く。
ただならぬ雰囲気に、飛び出していくか迷っていると、男が真に近づきそっと触れる。
そして―――。
「この場を荒らすことは許さん。」
男の声は、戒にもハッキリと聞こえる。
男は、戒の存在に気付いていると言わんばかりに…チラリとこちらを睨み付ける。
だが真は、それに気づく様子もなく、その場に崩れ落ちた。
(アイツは…一体、何者?…まさか!?)
戒の脳裏に、無残な郷の光景が浮かび上がる。
そして戒の推測は真の次の言葉で、確信に変わる。
「奏楽は…何処だ…。」
「お前たちは…奏楽を、どうする気だ!?」
戒は、そのまま二人のやり取りを黙って見ていた。
「そらちゃんを…騙す……ね…。」
戒は少し顔を歪める。
はぁ…と大きなため息をつくと、カチャリと眼鏡を掛け直す。
倒れ込んだ真を見つめる戒。
だが戒は、真に呼びかけることなく、踵を返した。