哀 -Fear- 1
カランッ―――
「メシだ。」
そう言って投げ出された皿は、石が剥き出しの床に投げられ、皿の上には汚物と代わらぬ物体が跳ねる…。
『………。』
部屋の隅では、布に包まった女が一人。
冷たい石床に膝を抱え、顔を伏せている。
窓一つないそこは、部屋と言うには暗く、寒い。
そこはまるで……牢獄。
皿を持ってきた男は、女の反応を確かめることもなく、バタンと扉を閉めると去っていく。
『………。』
腰ほどまである黒い髪がゆっくりと揺れ、女が顔を上げる。
男が居たであろう先を見据えたその瞳は黄金色。
『………。』
女はその場を動かない。
ただ…
自分の膝を抱えていた腕に力を込め、また伏せる……。
その姿は、かつての彼女を連想させる面影など何一つ残っていない。
誰と逢うこともなく
何か見ることもなく
声を発することもない…
それは…女に与えられた自由。
それは…女が望んだ自由。
それは…奏楽が望んだ自由。
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あの後、男に連れて来られたのは古びた洋館だった。
人が住んでいるような気配などなく、手入れなどされていない庭は荒れ果てている。
男は私を抱きかかえたまま部屋まで運び、椅子に座らせた。
「一族を守る立派な姫…か。」
男は、奏楽を見下ろしながら呟く。
一族を守る…。
男の言葉が、頭の中で繰り返される…。
厭味とも取れるその言葉だが、私は反論することもできない。
……私は、一族を守ったんじゃない。
「それが、お前の望む未来か…。」
奏楽を見つめる男の瞳は、愁いを帯びているように見える。
私の望む未来…。
違う……私は……。
私が守ったのは…私自身。
望んだのは、現実から目を逸らすこと…。
考えることから…
見えていることから…
聴こえる声も、感情も、すべてを…
何もしないで…
すべてを投げ出して…逃げた…
体が重い…
沈んでいく…
黒い闇に…
奏楽は男に応えることなく、静かに瞳を閉じた―――。
ガチャ。
奏楽の意識が深い闇へと堕ちていくとき、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは、背広姿の男。
「ご苦労だった。ラウ。」
「…。」
奏楽は閉じた瞳を開け、声のした方を見やる。
その男の姿には見覚えがあった。
―――秋月。
ラウと呼ばれた男は、返事もせず、秋月へ目線を合わせることもしない。
そんなラウを気にする様子もなく、秋月は奏楽へ近づきながら続けて問う。
「キースはどうした?」
「…。」
見向きもせず、入口の壁にもたれかかると、目を閉じて少し俯く。
応える様子のない態度に少し苛立った様子の秋月は一瞬足を止める。
だが、目線を奏楽へと移すと、
「神宮も素直に話を聞いていれば良いものを。」
そう言いながら、奏楽の前まで近づいてきた。
ラウは奏楽へ近づいていく秋月を視線で追いかけ、その様子を黙って見ている。
「奏楽、歓迎しよう。
我々も、犠牲を出すことを望んでいるわけではない。
ただ、君の父君はあまりに消極的すぎる。
だから少し強引だったかもしれないが、君はいい判断をした。」
秋月は、奏楽の顎を掴み自身に引き寄せる。
奏楽の黒髪が揺れる。
「…思ったよりも、綺麗な顔をしているな。
それだけでも十分利用価値はありそうだがね。」
厭らしい笑みを浮かべ、なおも奏楽へ顔を近づける。
「…。」
しかし奏楽には抵抗する様子は伺えない。
秋月の吐息が奏楽の唇へかかる…。
その時―――。
「いい加減にしろ。」
大きな声ではないが、静かな部屋には十分すぎるほどよく響く。
止めたのは、奏楽を連れ帰った男…ラウだった。
「俺は、そんなことのためにコイツを連れ帰ったんじゃない。」
奏楽へかけた手を離さないまま、秋月はラウへ苛立った声を上げる。
「…貴様。何のつもりだ?」
「俺は早く帰りたいだけだ。」
ラウは先ほどとは違い、今度は秋月をまっすぐに見つめて答える。
秋月の表情が一層険しくなる。
「笑わせるなよ。ラウレスト。
住む家など持たない悪魔が、早く帰りたいだと…っ!」
秋月は奏楽から手を離すと、息を荒げながらラウレストへ近づく。
「いつから主人に意見できるほど、悪魔ってのは偉くなったんだ?
あぁ!? 感情も持たない殺人鬼が、一人前に説教か!?
ナニか?…俺がこの女に触れるのは、それほど我慢ならないか?
どうしたラウレスト?自分の立場を忘れているのか?
なぁ…いい加減にするのはどっちだ!?」
「…。」
ラウレストは詰め寄られた秋月から目線は逸らさず、ただ黙って話を聞いている。
秋月はラウレストの胸ぐらを掴み耳元で囁くように告げる。
「番犬は大人しく、飼い主の言うことを聞くもんだ。」
「…。」
何も答えないラウレストに、秋月はフンッと鼻を鳴らすと、ラウレストを壁へ叩きつけるように離す。
秋月は、ネクタイを緩めながら扉へと向かう。
「その女は地下牢だ。お前は今後、ここへ近づくな!」
吐き捨てるように言い残し、勢いよく扉を閉めた。
シンと静まり返った部屋の中。
ラウレストは奏楽へ近づき、そっと頬に触れた。
「…。」
奏楽はラウレストを見つめているようにも見えるが、その焦点は合致しているとは言い難い。
「奏楽…。」
ラウレストは、頬に添えた手の親指で奏楽の唇をなぞる。
堕ちてしまった奏楽には、ラウレストの声は届かず…
その唇が、何かを紡ぐことはなかった。