第三十二話 大聖女の治療を断った少年が、父さんにだけ話したこと
施療院の廊下で、少年セスは治療師の足音を聞くたびに布団を頭まで引き上げた。
「傷口が化膿しかけています」
セーラの声は慎重だった。
癒やす力があっても、少年が彼女を見る目には恐怖しかない。
ライアンは診察室に入らず、扉の外に椅子を置いた。
「今日はここで昼飯を食べる。嫌なら話しかけなくていい」
返事はなかった。
ただ、扉の下から小さな影が動いた。
セスの手首には古い縄の跡があった。
ライアンはそれを見ても、理由を問い詰めなかった。
食事の皿を廊下に置き、「片づけるのはあとでいい」とだけ告げる。
しばらくして扉が細く開いた。
皿はなくなったが、セスはまだ顔を見せない。
それでもライアンは、昨日より一歩進んだと思った。
セーラは診察室の机から、金具のついた固定具を下げた。
治療に必要な道具でも、セスにとっては拘束の記憶を呼び起こす。
「触る前に、何をするか説明するね」
彼女は助手にも同じ決まりを伝えた。
患者が嫌がるのは治療の妨げではない。
何を怖がっているのか知るための、大切な手がかりだった。
セスは治療台を見るだけで身を固くした。
セーラが一歩近づくと、少年は壁際へ逃げた。
ライアンは床に座り、持ってきた林檎を自分で一口かじった。
「食べたくなったら、ここに置いておく」
それだけ言って待った。
三十分後、少年が「痛いのは嫌だ」と呟いた。
セーラは包帯を広げ、触れる前に何をするか説明した。
「嫌なら止めるよ」
少年は何度も首を振ったが、翌日には自分から手を出した。
治療は一日で終わらなかった。
だが、初めて自分で決められたことが大切だった。
翌日、ライアンはセスに古い木の匙を渡した。
「俺が子供のころから使っている。柄が少し欠けてるが、まだ役に立つ」
「……なんで僕に?」
「返すのはいつでもいい。預かってくれないか」
セスは匙を握ったまま黙り込んだ。
施設にいたころ、物を借りると必ず返礼を求められたという。
ライアンは理由を問い詰めなかった。
セーラは診察の方法を変えた。
治療台ではなく椅子に座り、包帯を外す前に何をするか説明する。
扉は閉めず、少年が望む位置にライアンを座らせた。
「今日は傷を見せるだけで終わりにできる?」
「できるわ。痛みが強ければ、その時点で止める」
セスは震える指で包帯の端を持ち上げた。
しかし途中で手を引っ込めた。
「やっぱり、怖い」
「分かった。今日はここまで」
セーラが即座に答えると、少年は驚いて顔を上げた。
断っても怒鳴られない。
その経験を、少年は一度もしたことがなかった。
夜、セーラは父にこぼした。
「治せるのに、待つしかないのがつらい」
「待つのも、相手のためにできることだろう」
ライアンの言葉に、彼女は治療記録の余白へ『本人が決める時間』と書き加えた。
夜、負傷した少年セスはライアンを呼び止めた。
そんな小さな循環が生まれた。
数日後、セスは自分から治療室の扉を開いた。
セーラは手を差し出さず、椅子を指した。
「今日は傷を見るだけでもいい。途中でやめてもいい」
「……僕が決めていいの?」
「もちろん」
ライアンは廊下でパンを二つに割った。
少年が治療を選ぶまで待てたことを、誰も奇跡とは呼ばなかった。
けれどセーラには、それが自分の力だけでは起こせない大切な変化に思えた。
セスが拒んでいたのは、治療の痛みだけではなかった。
以前の施療院で、説明もなく身体を押さえられたことがあるという。
「治してもらえるって分かってる。でも、また動けなくされるのは嫌だ」
セーラは黙って聞いた。
善意であっても、恐怖を無視すれば傷になる。
「私のやり方が正しいと決めつけていたかもしれない」
その言葉を聞いて、セスは初めて彼女を見た。
「聖女でも、間違えるの?」
「間違える。だから、嫌だったことを教えてほしい」
セーラは器具を一つずつ机に並べ、使い道を説明した。
セスが触れて確かめる時間も取った。
傷を洗う前に、いつでも中断できる合図を決める。
治療は短く、何度も止まった。
急げば済む処置に時間がかかったが、終わったときセスは逃げなかった。
廊下で待っていたライアンが尋ねる。
「どうだった?」
「怖かった。でも、止めてって言ったら止まってくれた」
その報告を聞いたセーラは、治癒の成功より深く胸を打たれた。
セスは水差しを倒したとき、反射的に両腕で頭をかばった。
ライアンは布を拾ったが、すぐには近づかなかった。
「怒らないの?」
「水は拭けばいい」
「前のところでは、失敗すると腕を押さえつけられた」
廊下の向こうで聞いていたセーラは、足を止めた。
彼女が善意で差し出した治療の手が、少年には同じ恐怖を思い出させていたのだ。
「セス。傷が悪くなる危険も、治療が怖い気持ちも、どちらも本当だと思う」
セーラは扉越しに話した。
「今日は説明だけにする? それとも、見えるところに道具を置いて、一つずつ確かめる?」
「……道具を見せて」
少年の返事は小さかった。
セーラは笑顔で近づくことさえせず、頼まれた道具だけを机に並べた。
処置の前、セスは包帯の端を指でいじり続けていた。
「嫌だって言ったら、みんな困る?」
セーラは薬箱を閉じた。
「困るかもしれない。でも、困ることと、あなたを無理に押さえることは別よ」
痛みを減らす方法、途中で止める合図、今日は傷を洗うだけにする選択肢。
一つずつ説明すると、セスは初めて薬箱を見た。
「手を上げたら止めて」
「約束する」
セーラは小さな椅子を運び、少年が自分で座るまで待った。
ライアンは廊下へ出た。
処置の内容を知る必要があるのは、まずセス本人だった。
秘密を預かることと、すべてを知ることは違う。
翌朝、セスは包帯を巻き直す時間を自分で決めた。
セーラは扉の外で待ち、合図があってから入った。
「途中でやめてもいい?」
「いいよ。でも傷の具合を見ないままにすると危ない。そのことも隠さず話すね」
少年はうつむき、しばらくして袖をまくった。
ライアンはその場に残らなかった。
自分がいるから従ったのでは、少年の選択にならないからだ。
処置が終わると、セスは初めて自分から水を求めた。
小さな声だったが、誰も聞き逃さなかった。
診療記録には、セスが自分で決めた合図と、次回の処置予定だけが記された。
過去の出来事は本人の許可なく書き足さない。
セーラは処置の後、助手を廊下へ呼んだ。
「彼が合図を変えたいと言ったら、誰がいても止めて」
助手は頷いたが、困った顔をした。
「治療を断られたら、責任は誰が取るんですか」
「危険は説明する。必要なら別の方法を示す。でも、怖がっている子を押さえつけて治したら、次に病院へ来なくなるかもしれない」
翌日、セスは『入る前に三回ノック』と紙に書いた。
助手はその紙を扉の外に貼った。
セスが望んだのは特別扱いではない。
自分の身体に触れる前に、ひと声かけてもらうことだった。
次の包帯交換の日、セスは扉を二回叩いた。
「今日は三回じゃないの?」と助手が尋ねると、少年は首を横に振った。
「二回でいい。僕が開けるから」
セーラは診察台を動かさず、少年が自分で椅子を選ぶまで待った。
傷の状態はまだ楽観できない。
それでもセスは、痛みが強いときに手を上げること、処置を止めたあと再開するかを自分で決めることを覚えた。
ライアンは廊下で冷めた昼飯を食べながら、その小さな変化を聞いた。
「治してもらったんじゃない」とセスは言った。
「一緒に治したんだ」
セーラはその言葉を診療日誌の最後に書き留めた。
セーラは本人がまだ答えたくない欄を空白のままにし、包帯の交換に必要な清潔な水を用意した。




