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処刑台で死んだ私が十歳に戻ったので、今度は王子の婚約話を笑顔で断って薬草ライフを満喫することにしました  作者: 九十九 文


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4話





 レオンハルト王子とフローラが公爵邸に現れたのは、翌日の昼過ぎだった。


 エルナは応接室の端の椅子に座って、二人が入ってくるのを見た。


 レオンハルトは前の人生と同じ顔をしていた。金髪、青い目、整った顔立ち。十歳の今はまだ子どもだが、将来の「傲慢な美貌の王子」の片鱗がすでに滲んでいた。隣を歩くフローラは白いドレスで、入室した瞬間から潤んだ瞳を作っていた。才能だと思う、あの泣き顔の作り方は。


 二人はエルナを見た。それからシグバルトを見た。


 シグバルトはエルナの隣の椅子に座っていた。座っているだけで部屋の空気が変わる男だった。魔力の暴走が収まってから、その気配はさらに重くなった。十年分の封印が解けた英雄の圧というのは、そういうものらしい。


「久しぶりだな、エルナ」


 レオンハルトが言った。十歳の子どもの声だが、上から見下ろす癖はすでに完成していた。「随分遠くまで行ったものだ。心配したぞ、父上も、フローラも」


「ご心配いただかなくて結構でしたのに」


 エルナは穏やかに返した。


「私は薬師として招かれて参りました。至って順調です」


「薬師?」レオンハルトが眉を上げた。「令嬢が薬師などと。しかもよりにもよって他国の公爵家に、まるで使用人のように」


「専属薬師は使用人ではありませんが」


「言葉の綾だ。要するに、ヴァルトハウゼン侯爵家の娘が他国の男のところに転がり込んだということだろう。聞こえが悪い。家の恥だ」


 エルナは答えなかった。


 前の人生でも、この男はこういう言い方をした。「聞こえが悪い」「家の恥」。エルナ本人への配慮はゼロで、家名と体裁だけを気にする。変わっていない。変わるはずがない。


「エルナ、帰ろう」


 フローラが口を開いた。鈴を転がすような声だった。


「姉様が遠くにいると、私、寂しくて。ねえ、一緒に帰りましょう。レオンハルト様もそうおっしゃっているし、きっとお父様も喜ぶわ」


 寂しい、とフローラは言う。その顔がにこにこしていることに、エルナだけが気づいていた。


 シグバルトも気づいていた、かもしれない。隣で彼がわずかに目を細めるのが、視界の端に映った。


「フローラ」


 エルナは妹を見た。


「あなたが寂しいかどうかは、あなたの問題です」


 フローラが目を瞬かせた。


「私はここで働いている。帰る理由がない」


「で、でも、姉様は私のことが好きでしょう? ずっと仲良くしてきたじゃない」


 ずっと仲良く。


 エルナは前の人生を思い出した。侍女を全員買収されたこと。証人が全員消えたこと。縄の感触。フローラの勝利の笑顔。


「仲良く、していましたね」エルナは静かに言った。「私はそう思っていました」


 思っていた、と過去形で言った。フローラの顔が少し強張った。


「エルナ」


 レオンハルトの声が低くなった。


「聞き分けのないことを言うな。お前はヴァルトハウゼン侯爵家の娘だ。家の判断に従え。父上が連れ戻せとおっしゃったなら、それに従うのが筋というものだ。それとも何か、この隣国の男に何か言い含められたか?」


「言い含めてはいない」


 口を開いたのはシグバルトだった。


 それまで黙って座っていた男が、初めて声を出した。低く、静かで、それでいて部屋の空気を塗り替えるような声だった。


 レオンハルトが反射的にシグバルトを見た。


「エルナは自分の意志でここにいる。私が招き、彼女が承諾した。それだけのことだ」


「しかし彼女は子どもだ。正式な契約を結べる年齢でも――」


「ヴァルトハウゼン侯爵の承諾は得ている。書面もある」


 レオンハルトが口を閉じた。


 シグバルトは立ち上がった。座っていた時とは圧が違った。立つだけで、部屋の重力が変わった気がした。十年分の封印が解けた英雄の魔力が、ほんのわずか、空気に滲んだ。


「王子」


 シグバルトの声は穏やかなままだった。穏やかで、冷たかった。


「エルナは私の薬師であり、婚約者候補だ。彼女を『家の所有物』と呼ぶ者を、私は認めない」


「な……婚約者候補? この子が?」


「そうだ」


「馬鹿な。ヴァルトハウゼン家は我が国の貴族だ。他国の人間が勝手に――」


「勝手ではない。侯爵の承諾を得ている」シグバルトは繰り返した。「そしてエルナ自身も、今この場で帰国を望んでいない。それ以上何か言うなら、それは彼女の意志を無視することになる」


 レオンハルトの顔が赤くなった。


「お前は……隣国の人間が、我が国の内政に口を出すつもりか」


「エルナの意志を守ることを、内政干渉とは呼ばない」


 静寂が落ちた。


 エルナはその間、二人のやり取りを見ていた。シグバルトは声を荒げなかった。怒鳴らなかった。ただ、一歩も引かなかった。その圧倒的な静けさの前で、レオンハルトの言葉がどんどん薄くなっていくのが分かった。


 そしてエルナは、その時初めて気づいた。


 前の人生で、自分のためにそこまでした人間は、一人もいなかった。



   ◆



「一つ、確認させてください」


 エルナが口を開いた。


 全員の視線が集まった。エルナはレオンハルトとフローラを交互に見た。


「あなたたちは私を連れ戻したいと言っている。理由は何ですか。家名のため? 体裁のため? それとも本当に、私のことを心配しているから?」


 レオンハルトが「それは……」と言いかけた。


「答えなくていいです」エルナは続けた。「どれが答えでも、私の返事は変わらないので」


 静かに、しかしはっきりと。


「私はもう、あなたたちとは他人です」


 フローラが息を飲んだ。


「他人……? 姉様、そんなこと」


「同じ屋敷に生まれて、同じ食卓を囲んだことは事実です。でも、それだけです」エルナは言った。「私はここで薬師として生きる。それがこれからの私の人生です。あなたたちの都合に、合わせるつもりはありません」


「エルナ、お前は――」


「レオンハルト殿下」


 シグバルトの声が遮った。


 今度は、少し違う声だった。今までの「穏やかで冷たい」ではなく、もう一段、低くなった。


「エルナが答えを出した。それ以上、彼女に言葉を重ねるなら、私はあなたたちをこの邸から追い出す。外交問題になっても構わない」


「……脅しか」


「事実を告げているだけだ」


 レオンハルトは歯を食いしばった。フローラは涙を浮かべた。いつもの武器だった。その涙に、エルナはもう揺れなかった。


 揺れない自分が、少し不思議だった。前の人生ではあの涙を見るたびに、自分が悪いのかと思った。自分が冷たいのかと思った。


 違った。揺れていたのではなく、揺らされていただけだった。


「……わかった」


 レオンハルトが最終的に言った。声が小さかった。


「今日のところは引く。だが、これで終わりだとは思うな」


「お好きにどうぞ」


 エルナは立ち上がって、二人に向かって礼をした。丁寧な、完璧に礼儀正しい一礼だった。


「遠いところをわざわざありがとうございました。お気をつけてお帰りください」


 レオンハルトとフローラが退室した。扉が閉まった。


 静寂。


 エルナはそのまましばらく立っていた。背中に力が入ったままだった。



   ◆



「エルナ」


 シグバルトが背後から声をかけた。


「終わりましたよ」エルナは言った。「思ったよりあっけなかった」


「あっけなくはなかった」


「あなたが圧をかけてくれたので」


「そのために私がいる」


 エルナは振り返った。


 シグバルトが近かった。思っていたよりずっと近いところに立っていた。その目が、まっすぐエルナを見ていた。


「怖かったか」


「……少し」


 正直に言った。怖くなかったと言えば嘘になる。あの二人を前にして、前の人生の最後の場面が脳裏をよぎった。


「そうか」


 シグバルトはそれ以上聞かなかった。ただ、手を差し出した。エルナの頭に、そっと乗せた。大きな手だった。騎士の手だった。


 頭を撫でられた。


「よくやった」


 それだけ言った。


 エルナは動けなかった。なぜだか分からないが、動けなかった。


 前の人生で、誰かに「よくやった」と言われたことがあっただろうか。父には「令嬢らしくしろ」と言われた。婚約者には「出しゃばるな」と言われた。「よくやった」は、一度もなかった。


「……やりすぎじゃないですか」


 絞り出した言葉がそれだった。


「何が」


「頭を撫でるのは、やりすぎです。子どもじゃないんだから」


「十歳だろう」


「中身は違います」


 シグバルトが少し間を置いた。「……そうか」


 手が離れた。エルナはほっとしたような、少し残念なような、よくわからない気持ちになった。よくわからないのでそのまま放置することにした。


「フローラたちは、また来るかもしれません」


「来ても同じだ」


「今度は大人を連れてくるかもしれない」


「それでも同じだ」シグバルトは言った。「私は変わらない」


 エルナは彼を見た。


 変わらない、とこの男は言う。根拠のない確信で、ただそう言う。なのになぜか、言葉に嘘の匂いがしない。


「……信じますよ」


 エルナは言った。


「そういう言葉を信じるのは、あまり得意じゃなかったんですが」


「知っている」


「なぜ知っているんですか」


 シグバルトは答えなかった。


 ただ、窓の外を見て、小さく言った。


「ようやく、二人きりだな」


 廊下の向こうで、クラウスが「夕食の準備が整いました」と告げる声がした。


 エルナはその声を聞きながら、シグバルトの横顔を見た。


 この男はいつか、全部を話すつもりなのだろうか。なぜ自分を探していたのか。なぜ「ようやく」と言うのか。なぜ、初めて会った十歳の令嬢にここまでするのか。


 答えはまだ、来ない。


 でもエルナは、急かす気にならなかった。


 今は、それでいい気がした。

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