3話
クレンツ公爵邸での暮らしが始まって、一ヶ月が経った。
エルナの一日は調薬室から始まる。日が昇る前に起きて、薬草に水をやって、昨日の試作品の経過を確認して、新しい調合を始める。昼食は調薬室で取ることが多い。夕方になれば執事のクラウスが「令嬢、お夕食の時間でございます」と迎えに来る。
完璧だった。前の人生で夢見ていた薬師ライフが、そのまま現実になっていた。
問題が一つあるとすれば。
「エルナ、これを」
シグバルトが調薬室の扉を開けて入ってきた。手に小箱を持っている。
「何ですか」
「市場で見つけた。サファイアがあなたの目の色に似ていたから」
エルナは開けずに箱を押し返した。「受け取れません」
「なぜ」
「理由もなく宝石を受け取れるほど、私たちの関係は近くありません」
「婚約者候補だが」
「候補は候補です。正式に承諾した覚えはありません」
シグバルトはしばらくエルナを見た後、箱を自分の外套の内側にしまった。「ではいずれ、承諾してもらった時に渡す」
「渡す機会は来ないかもしれませんよ」
「来る」
根拠のない確信で言い切るのが、この男の癖だった。
エルナは溜め息をついて試作品に向き直った。シグバルトは部屋に入ったまま、壁際の椅子に腰を下ろした。邪魔はしない。ただ、いる。この一ヶ月でわかったことだが、シグバルトはエルナが調薬室にいる間、一日に必ず一度は様子を見に来た。用があることもあれば、今日のように用もなくただ座っていることもある。
「見ていても面白くないと思いますが」
「面白い」
「薬草を刻んでいるだけですよ」
「あなたがやっているから面白い」
エルナは答えなかった。頬が少し、熱くなった気がしたが、気のせいだということにした。
◆
事件が起きたのは、翌週のことだった。
国境付近に駐屯するベルンスタットの騎士団から、急使が届いた。伝染性の熱病が騎士団内で広まり、百名以上が倒れている。宮廷の治癒師では手が足りない。
報告を聞いたシグバルトは即座に判断した。
「エルナ、同行を頼めるか」
「もちろんです」
返事は一瞬だった。
馬車で半日かけて駐屯地に着いた時、惨状は想像以上だった。テントの中に騎士たちが横たわり、高熱と咳に苦しんでいる。宮廷から来た治癒師が三名、手をつくしているが、次々と倒れる者が出て追いつかない。
「症状を確認させてください」
エルナはすぐに動いた。倒れている騎士の傍に膝をついて、額に触れる。高熱。目が赤く充血している。喉が腫れている。発症からの日数を確認する。感染経路を推測する。
「これは魔力枯渇による免疫低下が引き金です。術式の使いすぎで体の防御が落ちたところに、今の季節の風邪が重なっている」
治癒師の一人が「しかし子どもが……」と呟いたが、エルナは構わず続けた。
「魔力の回復を促す薬と、発熱を抑える薬を同時に使う必要があります。エキナセア、アルニカ、ブルーアイリスが大量に要る。手持ちの材料はどれくらいありますか」
一時間後、エルナは一人で調合を始めた。
両手を動かしながら頭の中で計算する。百名分の薬を作るには材料が足りない。四十名分が限界だ。まず重症者から優先して投与して、軽症者は代替案で凌ぐ。並行して近隣の町に薬草の買い付けを頼む。シグバルトに人を出してもらう必要がある。
「シグバルト」
「何でも言え」
いつの間にか傍に来ていたシグバルトに、エルナは手を動かしたまま指示を出した。近隣の町の名前と買い付ける薬草のリスト、交渉の際の優先順位。シグバルトは黙って全部聞いて、「わかった」と言って動いた。文句も確認も挟まない。エルナの判断を信頼して、ただ実行する。仕事がしやすい、とエルナは思った。
夜通し調合して、翌朝には全員分の薬が揃った。
投与から三日後、騎士団の熱が引き始めた。一週間後には全員が回復した。
◆
問題はその後だった。
帰還した騎士たちが、口を揃えて言い始めたのだ。
「クレンツ公爵令嬢が救ってくださった」
「あの小さなお方が一晩で薬を作り上げたのだ」
「聖女様だ、救世の聖女様が現れた」
噂はベルンスタット中に広まった。速さが尋常ではなかった。一週間後には王都の市民が「救世の聖女がクレンツ公爵邸にいる」と話し、二週間後には王宮から正式な謁見の打診が届いた。
「聖女ではありません」
エルナはシグバルトに言った。
「ただの薬師です。知識と材料があれば誰でもできた」
「できなかった。国の治癒師が三人いて、手が足りなかった」
「方針を間違えていただけです。私が運良く正解に近い答えを出せただけで」
「エルナ」
シグバルトの声が静かになった。静かになる時は、大事なことを言う前だと覚えてきた。
「あなたは自分を過小評価しすぎている」
「適切な評価です」
「なら聞くが。君の言う『誰でもできた』は、現場で百名分の薬の手配を一瞬で計算して、夜通し一人で調合して、翌朝全員分を揃えることか」
エルナは黙った。
「あなたがいなければ、騎士団の半数は死んでいた。それは事実だ」
「…………」
「受け取ってくれ、その事実を」
エルナはしばらく窓の外を見た。
前の人生では、何をしても「令嬢らしくない」と言われた。薬草いじりは「汚らしい趣味」と父に嗤われた。調合の知識を披露しようとしたら「女が出しゃばるな」と婚約者に遮られた。
ここでは違う。シグバルトはエルナの判断を信頼する。邪魔をしない。追認する。
「……わかりました」
小さく言った。
「受け取ります、その事実は」
シグバルトが何か言いかけた。エルナはその前に立ち上がった。
「王宮への謁見は、どうしますか」
「断る。あなたが望まないなら」
「行きましょう。薬師としての名前が広まれば、材料の調達が楽になる。実利があります」
「……本当に、あなたは」
「何ですか」
「いや」シグバルトは口を閉じた。「何でもない」
その顔が、また少し、柔らかくなった気がした。
◆
王宮への謁見から戻って数日後、クラウスが神妙な顔でエルナの部屋を訪ねてきた。
「令嬢、少しよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「実は……隣国から、客人がいらしているようで」
「隣国」
エルナは手を止めた。隣国、とはつまりヴァルトハウゼン家のある、あの国だ。
「どのような方が」
「正式な名乗りはまだですが、お連れの方の服装などから、王家の方ではないかと」
王家。
エルナの背筋が、静かに冷えた。
前の人生の記憶が甦る。白いドレス、潤んだ瞳、計算された涙。「姉様、ごめんなさい」と言いながら笑っていた顔。腕を組んで退屈そうに見下ろしていた男。
来た、とエルナは思った。
もっと遅いと思っていた。こちらの騒ぎが耳に届くまで、もう少し時間がかかると思っていた。見くびっていた。あの二人が「救世の聖女」の噂を聞いてどう動くか、読み切れていなかった。
シグバルトが部屋に入ってきたのは、その時だった。珍しく険しい顔をしていた。
「聞いたか」
「クラウスから今」
「レオンハルト王子と、ヴァルトハウゼン家のご令嬢が国境を越えた。こちらへ向かっている」
エルナはシグバルトを見た。
「公式には、外交視察という名目だ。だが」シグバルトの声が低くなった。「実際の目的は、おそらく」
「私を連れ戻しに来た、でしょう」
エルナは自分の声が平坦なのを聞いた。怒りでも恐れでもない。ただ、疲れに似た何かがあった。
やっと自由になったのに。
やっと、自分の場所を見つけたのに。
「エルナ」
「大丈夫です」エルナは言った。「来るなら来ればいい」
シグバルトは黙ってエルナを見た。その目に、何か強いものが宿った。
「私がいる」
それだけ言った。
「あなたに触れようとする者は、誰であっても通さない」
短い言葉だった。ただの一文だった。それなのに、エルナの胸の奥で何かが震えた。
前の人生で、誰かに「私がいる」と言われたことがあっただろうか。
答えは出なかった。出るはずがなかった。あの人生で、そんな言葉をかけてくれた人間は一人もいなかった。
「……ありがとうございます」
エルナは静かに言って、窓の外に目を向けた。
秋の空が、高かった。
来ればいい、とエルナは思った。今度は、処刑台に一人で立っているわけじゃない。




