2話
命を救ってほしい、と男は言った。
エルナは門の格子を挟んで、膝をついたままのシグバルト・クレンツを眺めた。
隣国ベルンスタットの英雄。年齢は二十代後半のはずだ。整った顔に無骨な傷跡。深い緑の外套の下に見える体格は、絵画に描かれた騎士そのものだった。前の人生で遠目に見た時と変わらない。ただひとつ違うのは、その顔が今、祈るような切実さで自分を見ていることだが。
「あなたが求めているのは、薬ですか」
エルナはできるだけ平静な声で尋ねた。
「そうだ」
「どんな症状を」
「十年前から、魔力が暴走する。満月の夜に抑えきれなくなる。国の治癒師はことごとく匙を投げた。呪いの類だと言う者もいる」
暴走する魔力。呪い。
エルナは記憶を探った。前の人生で、シグバルトに関するそんな噂を聞いたことがあっただろうか。……なかった。それほど徹底して隠していたのか、あるいはエルナが王宮の柵の中に閉じ込められていて届かなかったのか。
「なぜ、私の名前を知っているのですか」
核心を突くと、シグバルトは一瞬、複雑な表情をした。何かを堪えるような顔だった。
「……噂を聞いた。ヴァルトハウゼン家の令嬢が薬草の才に長けていると」
「十歳の子どもの噂を、隣国の英雄が」
「信頼できる筋から聞いた」
嘘ではない、とエルナは思った。目が泳いでいない。ただ、全部を話しているわけでもない。
まあいい。今夜のところは。
「夜中に令嬢の屋敷に押しかけることの非礼は、ご存知ですよね」
「承知している。詫びる」
「詫びていただいても門は開けません。明日、正式に父に面会を申し込んでください。話はそれから」
シグバルトはしばらくエルナを見た後、静かに立ち上がった。
「……わかった」
そして、また頭を下げた。普通の礼ではなかった。深く、丁寧な、真摯な一礼だった。
「今夜は失礼した。明日、改めて」
馬の音が遠ざかった。
エルナは月を見上げた。
前の人生では起きなかったことが、もう起き始めている。
◆
翌朝、シグバルト・クレンツは本当に来た。
しかも正規の使者を先に寄越して、ヴァルトハウゼン侯爵家との面談を正式に申し込んだ上で、昼過ぎに馬車で現れた。父は隣国の英雄という肩書きに慌て、最上の応接室に通して、自分も礼服に着替えて応対した。
エルナも同席させられた。
シグバルトは昨夜と同じ顔で椅子に座っていた。ただし今朝は外套ではなく、紺地に金の刺繍が入った正装だった。場慣れした礼儀があった。父と挨拶を交わす所作に、育ちの良さが滲んだ。
「本日は突然のお願いを申し上げに参りました」
シグバルトは父に向けて話しつつ、視線はわずかにエルナに向いていた。
「エルナ・ヴァルトハウゼン令嬢に、我がクレンツ公爵家の専属薬師をお願いしたい。期間は二年を目処に。相応の報酬と、令嬢にとって最良の環境をご用意する所存です」
父が目を丸くした。「専属……薬師?」
「はい。加えて、できれば」シグバルトはそこで一拍置いた。「婚約者候補として、お傍に置かせていただければと」
応接室が静まり返った。
父の顔が「昨日断った王子より格上では?」という色に染まるのをエルナは横目で確認して、静かに口を開いた。
「クレンツ公爵家と言えば、ベルンスタット王国でも五指に入る名門ですね。そのご当主自らがこちらにいらした理由を、もう少し詳しくお聞きしてもよろしいですか」
「無論」シグバルトはエルナを正面から見た。「他の誰でもない、あなたに頼みたいからだ」
「昨夜の話を続けると、あなたの持病の治療のためですね」
「そうだ」
「つまり薬師としての私が必要であって、婚約者候補というのは」
「私が望んでいる」シグバルトは迷わず言った。「治療とは別に、あなたに傍にいてほしい。だから両方お願いしている」
父が咳払いをした。「エルナ、これは――」
「お父様、少し考えさせてください」
エルナはシグバルトを見た。この男は嘘をつかない。それは分かる。だが動機がまだわからない。十歳のエルナになぜここまで執着するのか。
でも。
隣国に行けば、この国から離れられる。レオンハルト王子からも、フローラからも、全部から遠くなれる。薬師として働けるなら、願ってもない。婚約者候補というのは……追々、断るか考えればいい。
「一つ条件があります」
エルナは言った。
「調薬室の設備と薬草の調達については、私の指定する内容で用意していただくこと。私は薬師として働きたいのであって、飾り物になるつもりはありません」
シグバルトの目が、かすかに和らいだ。
「全て、あなたの望む通りにする」
「それから、隣国に渡ることについては父の同意が必要です。お父様」
父は三度瞬きして、「……わかった」と言った。
◆
出発は三日後だった。
馬車の中で、エルナはシグバルトと向かい合って座っていた。彼の部下が数名、護衛として馬で随行している。父は門の前で名残惜しそうにしていたが、結局止めなかった。クレンツ家の格に押された部分もあるし、昨日から「エルナは案外強情だ」と気づき始めた部分もあると思う。
「薬師の見習いはいつから始めたのか」
シグバルトが先に口を開いた。
「六歳の頃から、庭の薬草を育てていました。書物は図書室のものを片端から読んで」
「独学で?」
「半分は。あとは薬師組合の文書を取り寄せて」
シグバルトは黙ってエルナを見ていた。感心しているのか、あるいは別の何かを考えているのか、表情が読めなかった。
「あなたの症状を教えてください。詳しく」エルナは続けた。「満月の夜に魔力が暴走するとのことでしたが、その前後で体に他の変化は? 発熱、倦怠感、睡眠の乱れ」
「発熱はある。三日前から微熱が続く。眠りが浅くなる」
「痛みは」
「胸の奥に、熱を押し込んだような感覚がある。暴走が近づくほど強くなる」
エルナは頭の中で症状を整理した。魔力の暴走。周期性。熱感。呪いの可能性。
前の人生で独学した薬師知識の中に、似た症例があった。魔力の流路が詰まる病。治療薬は理論上存在するが、材料が希少で、調合の難度が高い。国の治癒師が匙を投げるのも頷ける。
「試作できるかどうかはわかりません」エルナは正直に言った。「でも、調べる価値はあると思います」
「それで十分だ」
シグバルトはそれだけ言って、また静かになった。馬車の揺れに揺られながら、エルナはこっそり彼の横顔を観察した。
前の人生で、この人は処刑台の向こうで剣を抜いていた。遅すぎた。縄が締まった後だった。だから間に合わなかった。
なぜ抜いたのか、とずっと思っていた。他国の、自分とは縁もゆかりもないはずの令嬢の処刑に、なぜ。
今も答えは出ない。ただ、この男が嘘をつかないことだけは分かってきた。
◆
クレンツ公爵邸に到着したのは夕刻だった。
馬車から降りたエルナは思わず足を止めた。
石造りの壮麗な屋敷。手入れされた庭。そして使用人たちが整然と並んで頭を下げている。壮観、という言葉がよく似合う。
「エルナ様のご到着です」
執事が高らかに告げた。エルナは目線だけでシグバルトを確認した。彼はエルナの反応を待つように視線を向けていた。
「思っていたよりずっと大きいですね」
「気に入ってもらえると嬉しい」
「調薬室はどこですか」
シグバルトが一瞬、きょとんとした。人生で初めてそういう顔をした、という雰囲気だった。それから小さく笑った。笑うと、少し人間になった。
「案内させる。ただし、今日は部屋の確認だけにしてくれ。夕食を共にしたい」
「……わかりました」
案内された調薬室は、エルナの期待を大きく上回った。天井まで届く棚に薬草が並び、蒸留器から精製器まで一通りの器具が揃っている。
「これは」
「令嬢が来ると決まってから、急いで用意させた。足りないものがあれば言ってほしい」
三日で、これを。
エルナは棚を一つ一つ確認した。ミントにカモミール、アルニカ、エキナセア。そして、一番奥の引き出しに、
「……ルナリス草?」
思わず声が出た。月光を浴びた夜にのみ採取できる希少な薬草。魔力の流路に直接作用するとされる。実物を見たのは初めてだった。
「それは、希少品だと聞いている」シグバルトが背後から言った。「何かに使えるか」
エルナはルナリス草を手に取った。淡い光沢。独特の清涼感のある匂い。
「……使えます」
使えるどころではない。これとあとほんの数種類の材料があれば、理論上、魔力の詰まりを溶かす薬が作れる。
「あなたの症状に合う薬の、材料が揃っているかもしれません」
シグバルトが黙った。
「試作してみます。効くかどうかは約束できません。でも」
エルナはルナリス草を棚に戻し、振り返ってシグバルトを見た。
「やってみる価値はあります」
その夜、エルナは夕食の後でひとり調薬室に戻り、試作第一号を作った。栄養剤として使われる基剤に、ルナリス草の抽出液を三滴。魔力の循環を助けるとされるブルーアイリスの粉末をひとつまみ。直感と知識の狭間で、指が動いた。
できた薬は無色透明の、小指の爪ほどの小瓶に収まった。
「たいしたものじゃないかもしれない」
呟きながらエルナはそれを眺めた。ただの栄養剤かもしれない。気休めにしかならないかもしれない。
翌朝、シグバルトに手渡した。「まず様子を見てください」と言った。効果が出るとしたら一週間後か、もしかしたら最初の満月の夜か。
一週間後、シグバルトは蒼白な顔でエルナの部屋に現れた。
「エルナ」
「何ですか、急に」
「十年間、一度も止まらなかった魔力が、今朝、止まった」
エルナは手を止めた。
「昨夜は満月だった。それでも暴走しなかった。生まれて初めて、満月を普通に眠って過ごした」
静寂があった。
それから、執事が廊下を駆けてきた。「大変でございます、宮廷薬師のテオドール様が、あれは伝説の霊薬だとおっしゃっています、一体どこで――」
エルナはシグバルトを見た。シグバルトもエルナを見た。
「……ただの栄養剤のつもりだったんですが」
「そうらしいな」
シグバルトは、また膝を折った。今度は昨夜の格子越しより、ずっと深く。
「エルナ。どうか、もう少しだけ、私の傍にいてくれ」
十年分の呪いを解いた男が、床に膝をついて、十歳の令嬢を見上げていた。
エルナは深呼吸した。
「……膝が痛くなりますよ、そういう姿勢は」
「痛くない」
「嘘をつかないと言ったじゃないですか」
「……少し痛い」
エルナは小さく息を吐いた。
「わかりました。もう少し、いましょう。薬師として」
薬師として、と念を押しながら。
廊下の向こうで、宮廷薬師テオドールが「あの小瓶の成分を分析させてください!」と叫んでいた。




