1話
処刑台で死んだ私が十歳に戻ったので、今度は王子の婚約話を笑顔で断って薬草ライフを満喫することにしました
冷たい。
首に巻きついた縄の感触が、エルナ・ヴァルトハウゼンの最後の記憶だった。
二十三年。生きてきた年月の締めくくりがこれかと思うと、笑いすら出なかった――いや、実際には笑えた。口の端を吊り上げて、処刑台の上から群衆を見下ろして、笑った。泣いてやるものか。こいつらの前で膝をつくものか。
「エルナ・ヴァルトハウゼン。お前は我が弟、第一王子レオンハルト殿下の婚約者の地位を笠に着て、その善意を踏みにじり、清廉なる聖女フローラを虐げ続けた。その罪、万死に値する」
読み上げる声が遠かった。
フローラ。名前を聞くだけで鉄錆の匂いがした。父違いの妹。エルナが生まれた時にはすでに存在していた、母の情事の残骸。清廉? 笑わせる。あの娘のどこが清廉だ。蜂蜜を塗った舌で男を転がし、泣き落としで貴族を操り、そうして最後には姉を処刑台に送り込んだくせに。
「姉様、ごめんなさい。でも……レオンハルト様はずっと私のことを……」
囁き声が聞こえた。振り返ると、処刑台の脇、貴賓席にフローラがいた。白いドレス、潤んだ瞳、頬に伝う美しい涙。その隣で、婚約者だった王子が腕を組んでいた。
「最後まで往生際が悪い。お前が罪を認めていれば、もう少し楽に死ねたものを」
レオンハルトの声は退屈そうだった。
エルナは黙って二人を見た。
ああ、そうか、とその時初めて理解した。これは最初から決まっていたのだ。フローラが「いじめられた」と泣けば、レオンハルトは信じた。証人は全員買収されていた。エルナの侍女たちは前日に全員屋敷を去っていた。何もかも、仕組まれていた。
だから今さら怒りもなかった。ただ、惜しかった。
もっとポーションを作りたかった。あの薬草の香りをもう少し嗅いでいたかった。
縄が締まった。
世界が暗くなる前の一瞬、エルナはフローラの微笑みを見た。完璧に計算された、勝利の微笑みを。
◆
目が覚めたら、部屋が明るかった。
眩しい。天蓋のカーテンが白い。この天井には見覚えがある。
「……え」
声が、高かった。
跳ね起きて、枕元の鏡を引き寄せる。映ったのは十歳のエルナ・ヴァルトハウゼンだった。
白銀の髪。まだ丸みの残る頬。首に縄の跡はない。
しばらく鏡を見つめて、エルナは深呼吸した。
戻った。どういう理屈かは知らないが、戻った。十歳、つまり――婚約打診の日だ。今日、レオンハルト王子の使者が来る。「第一王子の正式な婚約者になる意思はあるか」という打診が。前の人生でエルナは二つ返事で受けた。名誉だと思った。選ばれたと思った。
馬鹿だった。
エルナはベッドから降り、窓の外を見た。秋晴れの空。庭師が花壇を整えている。何もかもが十三年前と同じだ。
今日、全部変えられる。
そう気づいた瞬間、エルナの胸の中で、何かがすっと溶けた。怒りでも恨みでもない。もっと静かな何か。諦めと、それから――自由の予感。
◆
王宮からの使者が訪れたのは昼過ぎだった。
エルナはすでに着替えを終え、一番地味なドレスを選んで応接間に座っていた。父ヴィルヘルム侯爵は顔を紅潮させて隣に座っている。今日がどれほどの機会か、滔々と語っていた。王家との繋がり。家門の名誉。エルナへの期待。
エルナは聞き流した。
使者は若い男で、羊皮紙を広げながら畏まった声で告げた。
「レオンハルト王子殿下より、ヴァルトハウゼン侯爵家のご令嬢に対し、正式な婚約のお申し出がございます。殿下はエルナ様の聡明さと品格をご評価なさっており――」
「ありがとうございます」
エルナは微笑んだ。練習してきた微笑みだった。完璧に穏やかな、礼儀正しい微笑み。
「大変光栄なお話です。ただ」
使者が顔を上げた。父が僅かに身じろぎした。
「その役目は、妹のフローラに任せるのがよろしいかと思います」
静寂が落ちた。
使者が目を瞬かせた。「は……?」
「フローラは私よりずっと王子殿下とご縁があると聞いております。年齢も近い。それに、私はどうも王宮向きの性分ではないようで」エルナは続けた。「薬草の調合が好きでして。ずっとそちらの道に進みたいと思っておりました。こうして王子殿下からのお申し出をお断りするのは恐れ多いことですが、無理に婚約しても殿下にご迷惑をおかけするだけかと」
「エルナッ」
父の声が裏返った。エルナは父を見た。穏やかに、しかし揺るがない目で。
「お父様。私の幸せを願ってくださるなら、どうかこの選択を尊重してください」
父は絶句した。使者は二度三度口を開閉させた後、「……持ち帰って報告いたします」と言って退室した。
応接間に残されたエルナと父の間に、長い沈黙があった。
「なぜ、断った」
「向いていないから、です」
「それだけか」
「それだけです」
父はしばらくエルナを見て、それから重い息を吐いた。何か言いかけて、やめた。
エルナは心の中で静かに宣言した。
今度は、自分のために生きる。薬草を育てて、ポーションを作って、誰かの役に立てるなら立って、それで十分だ。王子も婚約も処刑台も、全部前の人生に置いてきた。
二度目の人生は、自分のものだ。
◆
その夜、エルナは屋敷の薬草庭園にひとりで出た。
暗い庭に月の光が落ちていた。ミント、カモミール、サルビア。指でそっと葉に触れる。懐かしい香りが立ち上がった。前の人生でも、追い詰められるたびにここに来ていた。唯一、自分が自分でいられる場所だった。
「今度は誰にも奪わせない」
呟いた声は、静かな夜に溶けた。
この庭を守ろう。ここからポーションを作って、行商人に卸して、いずれは独立した薬師として生きよう。貴族令嬢の義務など知らない。父が許さなければ、説得するか、逃げるかすればいい。前の人生の経験がある分、今のエルナはただの十歳じゃない。
満足して屋敷に戻りかけた、その時だった。
庭の門の向こう、街路に馬が止まる音がした。
続いて、低い声。
「……ここか」
エルナは足を止めた。
門の格子越しに、人影が見えた。長身の男だった。闇の中でも際立つ、深い緑の外套。腰に剣を佩いて、こちらをまっすぐに見ている。
月の光が顔を照らした瞬間、エルナの全身が凍り付いた。
その顔を、知っていた。
忘れるはずがない。処刑台の遠くに、あの日もいた。群衆の中で唯一、剣を抜いていた。遅すぎたけれど。間に合わなかったけれど。
隣国ベルンスタット。最強と名高き英雄。
「シグバルト・クレンツ……」
名前が口から零れた。
男は――シグバルトは、格子の向こうでエルナを見た。そして、ゆっくりと、膝を折った。
騎士が、跪く時の姿勢で。
「やっと、見つけた」
声が震えていた。あの冷徹な英雄が、鉄のような男が、声を震わせていた。
「ずっと、探していた。エルナ・ヴァルトハウゼン」
エルナは動けなかった。
前の人生でこの男は、自分に関わったことなど一度もなかった。名前を知っていたのは、彼が隣国の有名人だったからだ。それだけだ。なのに。
なぜ、こんな目で見る。
なぜ、跪く。
なぜ、その声はまるで――長年の祈りが届いたような、安堵に満ちているのだ。
「あなたに、頼みたいことがある」
月明かりの中で、英雄が言った。
「私の、命を救ってほしい」




