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第9話 女帝、ベルサイユに立つ

「……マリー。私の愛しい、そして少し頭のネジが外れてしまった可哀想な娘よ」


 ベルサイユ宮殿の最も豪華絢爛な「鏡の間」

 天井を埋め尽くすバカラクリスタルのシャンデリアが煌めくその金ピカな広間に、一瞬にしてシベリアの永久凍土のような恐るべき冷気が走った。


 そこに立っていたのは、私の実母にして、ハプスブルク帝国を統べるヨーロッパ最強の女帝、マリア・テレジアその人である。


 ウィーンの諜報網から「フランスに嫁いだ娘が、突然お菓子を断ち、ドレスを使い回し、あろうことか泥まみれになって豚の餌を育てている」という信じ難い怪情報を受け取った母は、国事を放り出して、文字通り馬車をすっ飛ばして「抜き打ち視察」にやってきたのだ。


「お、お母様……!! 遠路はるばる、よ、よくぞお越しくださいました!」


 私は、ついさっきまで畑でうねを作っていたため、爪の間にガッツリ残った泥を必死に背中に隠しながら、引きつった笑顔で優雅なカーテシー(お辞儀)をした。


 母様は、かつてヨーロッパ中を震え上がらせた冷徹な氷の瞳で、私の質素すぎるモスリンのドレス(※裾にはうっすら泥はねの跡アリ)と、宝石一つ着けていないノーメイクに近い顔を、頭の先から爪先までジロリと見定めた。


「……手紙では報告を受けていたけれど、にわかには信じられなかったわ。フランス王妃たるものが、本当にダイヤモンド一つ着けていないのね。ウィーンの誇り高きハプスブルク家が、フランスの野良仕事をするために『農婦』を嫁がせたと、全ヨーロッパの王室から指差して笑われてもいいのかしら?」


 鼓膜をビリビリと震わせる、重低音の効いた威圧感。

 ランバル夫人をはじめとするフランス側の侍女たちは、すでに恐怖で息をするのも忘れて壁際にへばりついている。


「お、お言葉ですがお母様! これは決して貧乏くさいわけではなく……その、現在パリの最先端をいく『ステルス・ロイヤル』という、あえて引き算の美学を追求したサステナブルなスタイルでして……!」


 前世のファッション誌で読んだ横文字を必死に並べ立てて防御を試みるが、鉄の女帝には全く通じない。


「意味のわからない言い訳はいいわ。……これを見なさい」


 母様が扇子でパチン! と合図をすると、ウィーンから随行してきた屈強な従者たちが、うやうやしく巨大な銀の保冷箱を運び込んできた。


 ガチャリ、と重厚な蓋が開けられた瞬間。


 ——ドゴォォォォンッ!!


 鏡の間に、めくるめく甘く、深く、そして暴力的なカカオの香りが大爆発を起こした。


「あなたがベルサイユで『お菓子断ち』などという正気の沙汰とは思えない奇行に走っていると聞いて、ウィーン宮廷の最高峰の職人を総動員して特別に作らせたわ。……名付けて、『ザッハトルテ・ロイヤル・スペシャル』よ」


(……っ!!!!!)


 私の両目が見開かれ、心臓が早鐘のように鳴り始めた。


 それは、もはや単なるケーキではなかった。兵器だ。

 直径三十センチはあろうかという巨大なトルテ。表面を覆う漆黒のチョコレートのコーティングは、顔が映りそうなほど分厚く、艶やかに黒光りしている。

 その下には、しっとりと高密度に焼き上げられたカカオのスポンジ。そして、スポンジの間には、甘酸っぱい極上のアプリコットジャムが、まるで黄金の血脈のようにたっぷりと挟み込まれているのだ。


 極めつけに、その漆黒のケーキの傍らには、銀のボウルに山盛りにされた「砂糖を一切加えていない、乳脂肪分100%の純白の生クリーム」が添えられている。


 一切れ口に運べば、濃厚なチョコの甘みとジャムの酸味が口の中で溶け合い、それを無糖の生クリームがまろやかに包み込んで、前世の記憶も今世の苦労も全て溶かして天国へ連れて行ってくれる……究極の魔導書スイーツ!!


「さあ、お食べなさい、マリー。これを食べて、昔の素直なあなたに、正気に戻るのよ。王妃の仕事は、土を掘って泥まみれになることではなく、豪華なドレスを着て、最高級の菓子を嗜み、華やかに笑って権威を示すこと。……さあ、一口だけでいいから」


 母様の目が、蛇に睨まれたカエルのように私を射抜く。

 香りの暴力が、数ヶ月間お菓子を我慢し続けてきた私の脳髄を直接揺さぶる。


(食べたい……っ! 食べたい食べたい食べたい!!)


 私の胃袋が、全身の細胞が、全力で「降伏」の白旗をブンブンと振り回した。


(一口、たった一口でいいじゃない! お母様がわざわざウィーンから持ってきてくれたんだよ!? これを食べれば、私は幸せな『お菓子大好きマリー』に戻れる……! 生クリームの雪山にダイブして、チョコの海で溺死したい……!!)


 私は震える手を、吸い寄せられるように純銀のフォークへと伸ばした。

 指先が冷たい銀に触れ、フォークの先が、艶やかなチョコの表面にツン、と触れた、その瞬間。


(……待って)


(これを一口でも食べたら……その瞬間に私のタガは外れる。明日からまた『朝食からケーキをホール食いする浪費家王妃』に完全逆戻りだわ。そしたらまた、あの『ギロチンへのカウントダウン』が再起動する……!)


 脳裏を鮮烈によぎる、冷たくて重い鉄の刃の感触。

 ブクブクと太って、重いドレスのせいで革命軍から走って逃げ切れず、群衆の前に引きずり出される自分の惨めな姿。


 私は、ギリッと奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばり、フォークを「カチャン!」と銀の皿に置いた。


「……お母様。そのお心遣い、そしてウィーンの職人たちの技術には、心から痛み入ります。……ですが、今の私には、この究極のケーキの香りよりも、甘美に聞こえる『音』があるのです」


「……音、ですって?」

 母様が怪訝な顔で眉をひそめる。


 私は、背後にある巨大な窓を指差した。

 そこからは、私が配ったジャガイモの苗を手に、泥だらけの笑顔で自分の畑へ向かうパリの民衆たちの、力強く活気に満ちた喧騒が聞こえてきた。


「あれこそが、私の望む音楽です。……お母様、この素晴らしいザッハトルテは、私ではなく、今夜の迎賓館の警備を任されている兵士たちに分け与えてください。彼らは、ウィーンから来た大切なあなたを、一睡もせずに命懸けで守り続けているのですから」


「……っ!」


 母様は絶句した。

 いつも甘えん坊で、お菓子のことしか頭になかった末娘が、目の前の究極の誘惑を自らの意志で断ち切り、自分ではなく部下を労い、民衆の笑顔を誇ったのだ。


 広間に、重い沈黙が流れる。

 やがて、鉄の女帝は深く、深いため息をついた。

 その目には、怒りではなく、微かな驚きと……ほんの少しの安堵が混じっていた。


「……マリー。あなたは本当に、私を驚かせるのが得意な子ね。昔からそうだったけれど、まさかここまでとは……」


 母様は扇子をパチンと閉じ、ふっと口元を緩めた。


「……わかったわ。あなたがそこまで覚悟を決めているというのなら、その『豚の餌』だか『泥の塊』だか言う不味そうな芋とやら……。この私が、毒見してあげようじゃないの」


(よっしゃぁぁぁぁっ!!)

 

 私は心の中で、前世の推しのライブで最前列を引き当てた時のようなガッツポーズを決めた。


 マリー・アントワネット、18歳。

 どうやら、最大の関門は突破したらしい。

 ヨーロッパ全土を震え上がらせる女帝公認の「芋王妃」としての地位を確立した、歴史的な瞬間だった。

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