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第5話 真夜中のベルサイユ・サバイバル

 予算の大幅削減、パルマンティエを巻き込んだジャガイモ普及作戦、そしてポリニャック夫人を泣かしてまでのドレスの使い回し宣言。


 完璧だ。私の計算上、「断頭台ギロチン回避ルート」へのフラグは順調に、いや、むしろ想定以上のスピードで立ちつつある。


 ……だが、私の肉体と精神の限界は、とっくの昔にレッドゾーンを突破していた。


(お腹が……空きすぎて、天井からぶら下がっているあの最高級のクリスタル・シャンデリアが、巨大な金平糖の塊に見えてきた……)


 深夜二時、広大な私室。

私は空腹のあまり、天蓋てんがい付きの豪華なベッドの上で、最高級のシルクのシーツにくるまりながら芋虫のようにのたうち回っていた。


 今日私の胃袋に入ったものといえば、少量の固いパンと、具の少ない薄味の野菜スープ、そして「国家のための毒見」と称して夫の皿から強奪したポテトチップス数枚のみ。


 前世では、深夜のコンビニでファミチキとカップ麺を買って貪っていた女子大生にとって、この「断頭台ダイエット」はあまりにも過酷すぎる。


(ダメ。このままじゃ、革命が起きてギロチンに斬られる前に、栄養失調とストレスで餓死してしまうわ。……そうだ、あそこなら。ベルサイユの巨大な厨房に忍び込めば、何かしら食材の切れ端が残っているはず!)


 私は弾かれたように起き上がると、豪奢な寝間着の上に、あえて一番地味で目立たない暗い色のガウンを羽織った。


 そっと扉を開け、近衛兵の巡回ルートを脳内で計算しながら、隠し通路へと滑り込む。


 冷たい大理石の床。足音を忍ばせ、壁の影に同化して進むその姿は、もはやフランス王妃ではない。ただの「深夜の冷蔵庫荒らし」を完遂しようとする、眼走りの鋭い野生動物だ。


「……あった!」


 月明かりだけが頼りの、暗く静まり返った広大な厨房。

 私は狩人の嗅覚で、作業台の隅に麻布を被せられたバスケットを発見した。

 震える手でそっと布をめくると、そこには昼間、私が涙を呑んで近衛兵に譲ったあの「クグロフ」の、切り分けられた残骸がひっそりと鎮座していたのだ。


(……神様、マリア様、ありがとうございます。これくらいなら、国庫の帳簿も揺るがないし、飢えた民衆も怒らないわよね!?)


 表面の粉糖はすっかり溶け、生地は少しカサカサになっている。だが、芳醇なバターとラム酒の香りは健在だ。今の私にとっては、三ツ星レストランのフルコースよりも輝いて見える。


 私は無我夢中で、そのクグロフの端っこを素手で掴み、大きく口を開けて放り込もうとした。


 その時。


「……そこで何をしているんだい? 泥棒さん」


「ひぶっ!!?」


 暗闇から突然、背後から声をかけられ、私はクグロフを喉の奥に詰まらせそうになりながら、バサァッとガウンを翻して振り返った。


(見つかった! 終わった! 王妃が深夜のつまみ食いで現行犯逮捕なんて、ギロチンより恥ずかしい!)


 だが、そこに立っていた人物を見て、私は二重の意味で息を呑んだ。


 そこにいたのは、私と同じように地味な寝間着用のガウンを羽織り、手にはなぜか「巨大な真鍮しんちゅうのネジ」を握りしめた、国王ルイ16世その人だったのだ。


「……ル、ルイ!? 陛下!? どうしてあなたがこんな時間に厨房に?」


「いや、新しい錠前の設計図を描いていたんだが、どうにも構造が行き詰まってね。腹が減っては思考の歯車も鈍ると思って、何かかじるものがないかと……。君こそ、お菓子は三日に一度、極小サイズにするという誓いを立てていなかったかい?」


 暗い厨房に、信じられないほど気まずい沈黙が流れる。


 王妃は両手でクグロフの欠片を握りしめ、国王は巨大なネジを握りしめて向かい合っている。世界で最も豪華な宮殿の夜の姿として、完全に終わっている。


「あ、あの、これには海よりも深い、深〜い事情がありまして! その、お菓子の味の経年変化を確認し、戦時の保存食としての適正を自らの胃袋で……」


 私が滝のような冷や汗を流しながら、しどろもどろで前世の「意識高い系言い訳」を並べ立てようとした時。


「ははっ、無理をして嘘をつかなくていいよ、アントワネット。……実は、僕もなんだ」


 ルイは優しく苦笑しながら、ガウンの懐から隠し持っていた茶色い紙袋を取り出し、ガサリと開けた。

 

 中から出てきたのは、いびつな形に切られ、少し焦げた「試作のフライドポテト」だった。


「……ポテト? しかも、なんだか形が……」


「君があまりにもジャガイモを美味しそうに、そして幸せそうに食べるから、自分でも一から作ってみたくなってね。厨房の火をこっそり借りて、油で揚げてみたんだ。火加減が難しくて少し焦げてしまったけれど。……食べるかい?」


「……陛下!!」


 私たちは真夜中の冷たい厨房で、マナーも作法もすべて投げ捨てて床に座り込み、一つの紙袋からポテトを分け合った。


 冷めた油の匂い。少し焦げた苦味。塩加減もまばらだ。

 でも、不思議だった。前世で食べたどんな高級スイーツよりも、ベルサイユの熟練シェフが作るフルコースよりも、目の前の不器用な夫が作ってくれたこのジャンクなポテトが、涙が出るほど美味しく感じたのだ。


 サクッ、と音を立ててポテトを齧りながら、私は呟いた。


「ねえ、ルイ。私たちはきっと、金や宝石で飾り立てた贅沢なんてしなくても、こうして笑い合って幸せになれるわ」


「……ああ、本当にそうだね。君がジャガイモを美味しそうに頬張る姿を見ていると、そんな気がしてくるよ。……次は、もっと塩の量を均等にする設計を考えよう」


 暗闇の中、ポテトの塩気を舐めながら笑い合う私たち。


 いい雰囲気だ。これなら絶対にいける。夫婦の絆を深め、財政を立て直し、民衆を味方につける。


 私の細い首は、まだしっかりと胴体に繋がっている!


 ……が、翌朝。


「王妃様……! 昨晩、深夜に厨房へお忍びで向かわれ、国王陛下と人目を忍んで『熱烈な密会』をされていたとのロマンチックな噂が、宮殿中を駆け巡っておりますわ!」


 と、ランバル夫人が両手で頬を覆い、顔を真っ赤にして報告してきた。


(違うの、ランバル! 違うのよ!!)


 私は内心で頭を抱え、盛大にツッコミを入れた。


(それは歴史に残るような甘いロマンスじゃなくて、ただの空腹に耐えかねた二人の『食い意地』のぶつかり合いなのよ!!)


 マリー・アントワネット、18歳。

 こうして私の意図とは全く別のベクトルで、国王夫妻の「熱愛ぶり(と奇行)」は、ベルサイユの新たな伝説として刻まれていくのだった。

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