第30話 女帝、ととのう
「……認めないわ。まだ、絶対に認めないわよマリー。この『豆のパン』が信じられないほど美味しいからといって、我がハプスブルク家の威光が揺らぐはずが……」
『革命のギルトフリー・クロワッサン』をあっさりと完食し、あろうことか無意識に「もう一つ頂けるかしら?」と口走りそうになった母様は、震える声で女帝としてのプライドを必死に繋ぎ止めていた。
「お母様、まだ『仕上げ』が残っておりますわ。……本当の審判は、この宮殿の最深部で下していただきます」
私は、まだ足元がフラついている母様の手を引き、ルイ16世が趣味と実益を兼ねて極秘開発した最新鋭の「蒸気式自動昇降機」へと強引に乗せ、地下へと案内した。
行き先は、薄暗いワイン貯蔵庫──ではなく、白樺の爽やかな香りが漂う、ベルサイユの新たな聖域「ベルサイユ・テルマエ」である。
「……何なの、このむせ返るような熱気は? まさか、私を蒸し焼きにして魔女狩りのように処刑するつもり?」
「いいえ。これは『自己との対話』。北欧の英知と、フランスの最新工学、そして私の健康への異常な執念が産んだ奇跡の空間……『王立デトックス・サウナ室』ですわ!」
私は母様の重苦しい漆黒のドレスを侍女たちに手伝わせて脱がせ(母様は「無礼な!」と叫んでいたが、熱気に当てられてすぐにおとなしくなった)、最高級のリネンを一枚だけ巻いて、サウナ室の最上段へと容赦なく誘った。
──ジュワァァァァァッ!!
私が、特製アロマ入りの水を熱々に焼けたサウナストーンにぶっかけた瞬間、宮廷のしきたりや伝統という名の「重圧」が、灼熱の蒸気となって母様の全身を激しく包み込んだ。
「っ……あ、熱い……。でも、何かしら。全身の毛穴から……これまでの人生で溜め込んできた『オーストリア継承戦争の果てしないストレス』や『プロイセンへのドロドロの恨み』が、汗と一緒にドバーッと流れ出していくようだわ……!」
「いいわ、お母様。もっと出して! 伝統も、格式も、胃袋に溜まったバターも、全部ここに置いていくのよ!」
さらに私は、フェルセンが特注でスウェーデンから取り寄せた最高級のヴィヒタを両手に取り、母様の背中をリズミカルに、かつ情熱的に叩き始めた。
バシッ、バシッ!
「これが、次世代の外交ですわ! お母様!」
「ああ……っ、不思議……。叩かれているのに、心の中の『ハプスブルク家の絶対家訓』が、どんどん軽くなっていく……。私、ただの『一人の身軽な女性』に戻っていくみたい……」
──十分後。
蒸気で茹でダコのように真っ赤になった母様の手を引き、私はキンキンに冷えた「地下水」がなみなみと満ちる特大の水風呂へと彼女を導いた。
「さあ、お母様。迷わず飛び込んで!」
「……死ぬわ! 心臓が止まって絶対死ぬわよマリー!」
ドボォォォォン!!
「………………ッ!!(無声の絶叫)」
水風呂から上がった母様を、私は庭園の夜風が吹き抜ける外気浴デッキチェアへと横たえた。ベルサイユの心地よい夕風が、彼女の火照った肌を優しく撫でる。
母様の瞳は完全に虚空を見つめ、口角はだらしなくわずかに上がり、いわゆる完全に「ととのって」いた。恍惚の表情である。
「……マリー……」
「はい、お母様」
「……もう、どうでもよくなったわ。フランスの面倒な財政も、同盟の行方も、身分の垣根も。……この圧倒的な『ととのい』に比べれば、プロイセンとの領土問題なんて、公園の砂場でアヒルのおもちゃを取り合っている子供の遊びのようなものね」
母様は、ふらふらと、しかし憑き物が落ちたようにゆっくりと立ち上がった。その表情からは、ベルサイユに乗り込んできた時のあの「最恐の威圧感」は完全に消え去り、代わりにサウナ上がりの女子高生のような、瑞々《みずみず》しい生命力が溢れていた。
「マリー。あなたは、この国を『最強の健康国家』にしようとしているのね。……私は、自分の古臭い価値観であなたの足を引っ張ろうとしていた。……母親として、恥ずかしいわ」
翌朝──。
母様は、すっかり毒気を抜かれたウィーン軍を引き連れて帰路につく準備を整えていた。その巨大な馬車の荷台には、大量の「おから粉」と、ルイ16世が徹夜で書き上げた「サロペットの型紙」、そして「サウナの完全設計図」が山のように積み込まれている。
「マリー。私はウィーンに帰って、すぐにシェーンブルン宮殿を全面サウナ化するわ。……あなたも、その変なサロペットを誇りに思いなさい。……でも、たまにはダイヤのネックレスくらい着けなさいね。サウナの中に持ち込むと火傷するから、入る前には絶対に外すのを忘れないように」
「お母様、お元気で! また『ととのい』たくなったら、いつでもベルサイユにいらしてちょうだい!」
馬車が走り出す。母様は窓から身を乗り出し、サウナハットを笑顔で振りながら、颯爽とオーストリアへと帰っていった。
(……勝った。……本当の意味で、完全勝利よ!)
マリー・アントワネット、18歳。
最恐の実母をサウナによる温冷交代浴で完全に懐柔し、ヨーロッパ全土に「蒸気と健康の平和」をもたらしたのである。
私の首筋にチラついていた断頭台へのカウントダウンは完全に止まり、ベルサイユの空には、平和を象徴するような真っ白な「ロウリュの蒸気」が、どこまでも高く昇っていった。




