第29話 味覚のクーデター
「マリー、いい加減になさい! この貧乏くさいスープを下げて、今すぐ本物のジビエと、バターが滴る仔牛のローストを持ってきなさい!」
母様、マリア・テレジアが激怒して豪奢な食卓を力強くバンッ! と叩いた、まさにその時だった。
広間の重厚な扉を厳重に守っていたウィーンの近衛兵たちのひとりが、あろうことか、絶対君主である母様の面前でガクンと膝をつき、肩を震わせて嗚咽をもらし始めたのだ。
「……陛下、どうかお許しください。もう、限界でございます。……私、もうあの甘ったるいザッハトルテを、正視することができません……!」
「な、なんですって!?」
驚愕する母様の前に、別の屈強な兵士も、さらにその隣の古参の兵士も、次々に重い剣を床に置いて跪いていく。彼らの瞳は、かつてハプスブルク家に捧げていた盲目的な忠誠心ではなく、何か「澄み切った健康への悟り」のような清らかな光を湛えていた。
「昨夜、壁の中から神々しく聞こえてきた『王妃様の囁き』に従い、支給されたバターたっぷりの肉とケーキを捨て、こっそり裏口に届けられた『蒸し大豆と鶏胸肉』に置き換えましたところ……。今朝、数年ぶりに、あの……見事な『快便』の喜びを知ったのでございます!」
「私もです! 慢性的な立ちくらみと重い胃もたれが嘘のように消え去り、今ならこのベルサイユからウィーンまで、一睡もせずに全力疾走で帰れる気がいたします!」
これこそが、私が仕掛けた「味覚のクーデター」である。
重すぎる脂肪分と糖分で、慢性的な疲労と思考停止に陥っていた兵士たちの脳を、理系夫ルイの伝声管を通じた「健康マインドフルネス」の囁きと、下水道経由で密輸した「高タンパク・発酵食品」によって、内側から完全に浄化してしまったのだ。
「……マリー、あなた、私の誇り高き兵士たちに一体何を……」
母様はワナワナと震え、信じられないものを見るような目で私を睨んだ。
「お母様、私は何も強制などしておりません。ただ、彼らの身体の奥底に眠っている『健康に生きたい』という切実な生存本能を呼び覚ましただけよ。……重すぎる贅沢は、もはや特権ではなく、寿命を縮める『足枷』に過ぎませんわ。彼らは、自分の足で軽やかに立ち上がる自由を選んだのです!」
私は力強く立ち上がり、広間の巨大な窓をバァン! と大きく開け放った。
そこには、私の「軟禁」の噂を聞きつけ、菜園のクワやシャベルを武器代わりに掲げて集まったパリの市民たち、そして農業アカデミーのサロペット貴族たちの姿があった。
「見なさい、お母様。彼らもまた、同じ『味』を知る、私の大切な同志。……さあ、ウィーンが誇る宮廷パティシエたちも、キッチンの奥で隠れてないで出てきなさい!」
私の号令に合わせ、キッチンの奥からガタガタと震えながら出てきたのは、母様がわざわざウィーンから連れてきた、世界最高峰の菓子職人たちだった。
だが、彼らの手には純白の砂糖の袋ではなく、なぜか東洋の「すり鉢」や「発酵カメ」が大事そうに握られていた。
「申し訳ございません、女帝陛下……! 王妃様が伝声管から流してくださった『旨味の黄金比』と『発酵の神秘』という画期的なレシピを耳にしてからというもの……。我々職人の魂が激しく揺さぶられ……もう、砂糖とバターの力だけで誤魔化すような、前時代的なお菓子は作れなくなってしまいました……!」
パティシエの長が、滝のような涙を流しながら恭しく差し出したのは、バターを一切使わず、豆乳とメープルシロップ、そして少量の塩麹で生地を練り上げ、極限までサクサクに焼き上げた『革命のギルトフリー・クロワッサン』だった。
「お母様。これが、今のフランスの……いいえ、ヨーロッパを牽引する次世代の『伝統』ですわ」
私はその黄金色に輝くクロワッサンを一つ取り、唖然としている母様の唇にそっと寄せた。
母様は、怒りと屈辱に顔を赤くしながらも、ふわりと漂う香ばしくて優しい香りに抗えず、ついに無意識に口を開き、それを一口齧った。
──サクッ。
「っ……!!」
その瞬間、鉄の女帝の目が、限界まで大きく見開かれた。
濃厚で胃にもたれるバターの暴力的な香りの代わりに、ナッツのような大豆の深い香ばしさと、塩麹由来のふくよかな甘みが、彼女の激務で疲弊しきった味覚を優しく、しかし強烈に愛撫したのだ。
「……何よ、これ。……軽い。……信じられないほど軽すぎるのに、どうしてこんなに体の奥底から『満たされる』の……?」
カラン……と、乾いた音が広間に響いた。
母様の手から、絶対的な権威の象徴であった重厚な銀のスプーンが滑り落ちたのだ。
それは、誇り高きハプスブルク家の「脂と糖の統治」が、私の「発酵レジスタンス」の前に完全に白旗を上げ、屈服した歴史的な瞬間だった。
マリー・アントワネット、18歳。
ついに究極のギルトフリーによる味覚の暴力で最恐の実母すらも陥落させ、ベルサイユ全土を、健康と美味しさに支配された幸福な共犯関係へと巻き込んだのである。




