第28話 壁の向こうの囁き
「マリー、まだそんな『豆の欠片』にしがみついているの?」
オーストリア女帝にして我が実母、マリア・テレジアは、私に差し出された朝食のプレートを指差して冷たく笑った。
その純銀の皿の上で蠱惑的な輝きを放っているのは、たっぷりのバターと蜂蜜を染み込ませた「砂糖漬けの薔薇とバターのタルト」である。
宮殿はウィーン軍に完全に占拠され、私の私室は「過剰な贅沢」という名の、甘く重苦しい牢獄と化していた。母様の監視下では、おからスコーンを堂々と齧ることも許されない。
だが、母様は気づいていない。
この超豪華な寝室の壁、金箔で飾られたモールディングの裏側に、私の理系オタク夫・ルイ16世が夜な夜な趣味で張り巡らせた「集音・伝声パイプ」が、まるで蜘蛛の巣のように縦横無尽に仕込まれていることを。
「お母様、私は元気ですわ。……この素晴らしいタルトの『香り』だけで、お腹がいっぱいですもの」
私は、口の中に溢れそうになる唾液を必死に飲み込みながら、タルトを一口も食べず、パイプの吸い込み口に近いベッドの柱に寄りかかった。
母様が「強情な子ね」と呆れたように部屋を去り、監視の兵士の重い足音が扉の外でピタリと止まるのを確認する。
私は即座にベッドから滑り降り、壁の小さな透かし彫りに向かって小さく唇を寄せた。
「……聞こえる? ベルタン、ランバル。……そして、地下の健康研究所のみんな」
息を潜めて待つこと数秒。微かな金属の反響音の向こうから、切実な声が返ってきた。
『……王妃様! 伝声管の回路、全て繋がりました。現在、宮殿中の換気口と、ウィーン兵の騎士待機所に直結しています!』
「よし、作戦開始よ。……母様の連れてきた『無敵のウィーン軍』を、内側から究極の情報デトックスにかけて差し上げて」
その夜から、ベルサイユ宮殿の至る所で、奇妙極まりない現象が起き始めた。
交代で薄暗い廊下を見張るウィーンの近衛兵たちの耳元で、壁の中から「神の声」のような囁きが響き始めたのだ。
『……兵士よ……聞こえますか……。あなたが今、夜食に食べているそのザッハトルテ……。その恐ろしい量の脂肪分があなたの血管にへばりつき、明日の剣のキレを決定的に鈍らせますよ……』
「な、何だ!? 誰だ!」
屈強な兵士が慌てて剣を抜き周囲を見回すが、そこには金色の壁があるだけだ。
囁きは、現代のASMRさながらのウィスパーボイスで、さらに脳髄へと直接語りかけていく。
『……お腹周りが重いのは、ハプスブルクの伝統の重みではありません……。それは単なる、未消化の糖分と老廃物です……。明日、宮殿の裏の『秘密の通用口』に、食物繊維たっぷりの「高タンパク・おからエナジー棒」を置いておきます……。それを食べれば、あなたの筋肉は真実の目醒めを迎えるでしょう……』
(……ふふふ。ルイの設計したパイプは、音を複雑に反響させて出所を悟らせない。これは現代の『健康インフルエンサーのサブリミナル効果』を応用した、最先端の心理戦よ!)
さらに私は、ファッション相のローズ・ベルタンに命じて、宮殿の換気システムに「ラベンダーとグレープフルーツの天然精油」を微量に混ぜさせていた。
濃厚なバターの匂いと、風呂に入らない体臭をごまかすための強烈な香水に慣れきっていた兵士たちの嗅覚は、この爽やかな柑橘系の刺激によって、自分たちがどれほど「不潔で重苦しい空気」の中にいたかを本能的に悟り始めたのだ。
「……なんだ、この澄み切った空気は。これに比べると、俺たちの詰所の匂いは……うっ、強烈なバターの匂いで胃がもたれてきたぞ……」
かくして、健康と衛生の概念を脳内に直接叩き込まれたウィーン兵たちは、夜な夜なこっそりと裏口へ通い、おからエナジー棒を貪るようになった。
そして、軟禁から五日目の朝。
母様が優雅な朝食会を開こうと広間へ向かうと、そこで給仕や警護をするはずの兵士たちが、揃いも揃って「妙にスッキリした顔」をして、きびきびと、いや、無駄にキレのある動きで立ち働いていた。中には、壁際でこっそりアキレス腱を伸ばしたり、スクワットをしている者までいる。
「……何よ、その顔は。もっとこう、王家の威光に圧倒された、重厚で厳粛な表情をなさい!」
母様が苛立たしげに扇子を鳴らすと、近衛隊長が清々しい笑顔で一歩前に出た。
「いえ、女帝陛下。……不思議なことに、数日前から異様に『体が軽い』のです。王妃様の壁……いえ、壁からの啓示に従い、朝一番に白湯を飲み、股関節のストレッチをいたしましたところ、長年の持病であった腰痛が嘘のように消え去りまして……!」
「……壁の啓示?」
母様の顔が、かつてないほど引き攣った。
そこに、私が悠然と姿を現した。見た目は母様に強要された重厚なシルクのドレスだが、その足元は、スカートの裾をまくり上げればすぐさま全力疾走できる「特製インディゴブルー・サロペット」を中にしっかり仕込んである。
「お母様。権力や伝統の力で上から押さえつけても、人間の『健康になりたいという生存本能』は絶対に抑え込めませんわ。……さあ、次はあなたの番です」
私は、呆然とする母様の目の前に、湯気を立てる素朴な木製の器をコトンと置いた。
「毒見なら不要です。……これは、連日の激務と過剰な脂肪分で疲れ切ったお母様の肝臓を優しく救済する、大地の聖母の涙──いえ、『しじみ七十個分のオルニチン配合・特製豆乳ポタージュ』ですから!」
マリー・アントワネット、18歳。
絶対的な権力による軟禁という絶望的な状況を、理系夫のオタク建築構造と自らの「健康知識による洗脳」で見事にハックし、最強の母様をジワジワと味覚の袋小路へと追い込み始めたのである。




