第26話 母の回状と黄金の沈黙
オーストリア・ウィーン、シェーンブルン宮殿の最深部──。
ヨーロッパ全土を震え上がらせる「鉄の女帝」マリア・テレジアは、手にした純銀のスプーンをピシャリとソーサーに叩きつけ、さらにそのスプーンを指の力だけでぐにゃりとへし曲げた。
「マリー……。私のかわいい末娘。あの子、いつの間にそこまで図太く、そして狡猾になったの」
女帝の足元には、ベルサイユに潜入させていた密偵からの緊急報告書が散らばっている。そこには「王妃自らサロペット姿で土を掘っている」という以前からの奇行に加え、「身分を問わず貴族と平民が同じテーブルでパンケーキを突く『ギルトフリー・カフェ』なる洗脳施設を設立した」と書かれていた。
「サロペットを穿いて民衆と芋を焼くだけなら、まだ『若気の至りの農婦ごっこ』で済んだわ。でも、身分の垣根を溶かすカフェですって? それは絶対に許されない!」
母様の目は、ザッハトルテのコーティングよりも暗く、冷たく笑っていなかった。
ハプスブルク家の絶対の掟、それは「秩序」
身分が混ざり合うことは、王権の崩壊を意味する。母様は、娘が「ギロチンによる処刑」を回避しようと健康オタクに走るあまり、逆に「王制の根幹」そのものをパンケーキのシロップと共に溶かして破壊しているのではないかと、強烈な危機感を抱いたのだ。
「……仕方ないわね。あの子を一度、ウィーン流の『厳格なマナーとカロリー』で徹底的に叩き直さなければ。おい、メルシー大使を呼びなさい。……それと、最高級のバターと砂糖を積み込んだ特使の馬車を用意しなさい!」
数日後、ベルサイユ宮殿──。
私の前に現れたのは、母様の右腕にして、ウィーンの意向を伝える冷徹な外交官、メルシー大使だった。
「王妃様。女帝陛下より、大変重い『苦言』を預かって参りました。……端的に申し上げます。今のあなたの振る舞いは、あまりに卑俗。王族としての『重み』が決定的に不足しております。これ以上、民衆とジャガイモと謎の豆のカスに溺れるならば、仏墺同盟の解消も辞さないとのお言葉です」
(……ゲッ! 母様、マジギレじゃない!? 史実よりプレッシャーがキツいんですけど!)
「重み」が足りない。
それはつまり、「贅沢をして見栄を張れ、毎日豪華なドレスを着ろ、そして『おから』なんてものを食べるな」という、健康と財政の破綻を強要する最後通牒だった。
「王妃様、三日後にお開きの晩餐会。そこで、女帝陛下が納得するに足る『王族らしい高貴なる晩餐』を見せていただきましょう。……もしそのテーブルに、豆や芋、あるいは草のようなものが一口でも並んでみてください。……どうなるか、わかっておりますね?」
(……っ! 最大のピンチだわ! ここでバターと砂糖まみれのフルコースを出して贅沢をアピールすれば、また『赤字夫人』に逆戻りして民衆のヘイトが再燃しちゃう。でも、おからや芋を出せば母様がキレて同盟破棄……! 詰んでるじゃない!!)
メルシー大使が去った後、私は厨房で頭を抱え、三日三晩悩み続けた。
バターを使えばデブる。
そしてギロチンへの道が開く。
豆を使えば母様が怒る。
そして実家からの支援が断たれる。
「……どうすればいいのよ! 見た目は超豪華で、カロリーの塊みたいに見えて、でも中身はヘルシーで太らない料理なんて……そんな錬金術みたいなこと……!」
ボサボサの頭でうめき声を上げていると、不意に、鼻歌交じりの夫、ルイ16世が厨房にひょっこりと顔を出した。
彼の手には、何やらキラキラと輝く金属の塊が握られている。
「アントワネット、見てごらん! 趣味の金属加工で、ちょっと面白い実験に成功したんだ。この精密な天秤、純金製に見えるだろう? でも実は、中身はただの軽い木材で、表面に数ミクロンの『金メッキ』を施しただけなんだよ! 見た目は豪華絢爛、でも中身は軽くて実用的! これぞ科学の勝利だ!」
得意げに笑うルイの言葉が、私の脳内に雷鳴を轟かせた。
(……これだわ!!! ルイ、あなたって人は本当に天才のオタクよ!!)
「……そうよ。見た目は『金』。でも中身は『健康』。……表面だけ超豪華にメッキして、中身をデトックス食材で偽装すればいいのよ!」
そして迎えた、運命の晩餐会当日──。
豪華なシャンデリアが輝く広間で、メルシー大使の前に運ばれてきたのは、眩いばかりに輝く「黄金の塊」を配した、暴力的なまでに超豪華なフルコース(に見えるもの)だった。
「……ほう。ようやく正気に戻られましたか。この山盛りのフォアグラのパテ、そしてこの金箔に包まれた巨大な肉料理……。たっぷりのソースが滴り、これぞまさにフランス王妃の食卓、ハプスブルクの威光を示すにふさわしい贅沢ですな」
大使が満足げに頷き、分厚い肉塊にナイフを入れる。
だが、その中身を口に運んだ瞬間──。
「……っ!? な、なんだこれは。食感が……異様に軽い! フォアグラのようなねっとりとしたコクがあるのに、後味が驚くほどスッキリしていて、胃に全くもたれない……! 脂の重さが、ない!?」
「ふふふ。メルシー大使、お口に合いましたか? それは、豆腐を極限まで滑らかに裏ごしし、白トリュフの香りを移して胡麻油でコクを出した『擬似フォアグラ』。そしてそのメインの肉料理は、ジャガイモのペーストを黄金色の湯葉で何層にも包み、野菜のコンソメでじっくり煮込んだ『ヴィーガン・ミルフィーユ・ロースト』よ!」
「なっ……と、豆腐!? 湯葉!? これが、すべてあの豆と芋の……!?」
メルシー大使は目玉が飛び出そうなほど驚愕した。
そう。私は「見た目だけは世界一豪華で高カロリー、しかし中身は世界一ヘルシーで低糖質」という、究極の「フェイク・ラグジュアリー」を完成させたのだ。
「大使、母様に伝えてちょうだい。……私は『王族の重み』を、腹回りの贅肉や無駄な出費ではなく、民衆からの圧倒的な信頼で稼いでみせると。見た目の豪華さは、いくらでも技術で作れるのですわ」
大使は、その「黄金の偽肉」を夢中で完食した。
そして、最後の一口を飲み込んだ後、彼はカトラリーを置き、その場で静かに涙を流し始めたのだ。
「……負けました。胃が……長年の宮廷外交と暴飲暴食で疲れ切っていた私の胃腸が、まるで生まれたての赤ちゃんのように軽やかです……。この圧倒的な美味と健康の前では、同盟破棄などという脅しは野暮というもの……」
(……よしっ! 完璧な勝利! 母様の追及を鮮やかにかわしつつ、見栄を張るための贅沢の体裁もきっちり守り抜いたわ!)
私は心の中で、特大のガッツポーズを決めた。
だが、オーストリアの女帝はまだ諦めていなかった。
数週間後、ウィーンへ戻った大使の「涙の健康食レポート」を聞き、彼女は不敵に、そして恐ろしく微笑んだ。
「……面白いわ。大使の胃袋を豆腐で手なずけるなんて。ならば次は、この私が直接ベルサイユへ出向いて、その『黄金の豆腐』とやらを自らの舌で暴いてあげようじゃないの」
マリー・アントワネット、18歳。
最恐の実母との直接対決が、カロリーとプライドを懸けたベルサイユの食卓で、ついに幕を開けようとしていた。




