第25話 ベルサイユ・ギルトフリー・カフェ
「……足りない。圧倒的に足りないわ、ランバル」
王立農業更生アカデミーの莫大な寄付金でフランス国庫がかつてないほどに潤い、怠惰だった貴族たちが泥にまみれて健康的な筋肉を取り戻していたある日のこと。
私はベルサイユ宮殿の私室で、優雅に……ではなく、まるで獲物を狙う野獣のような血走った目をして呟いた。
「王妃様、またでございますか? 低糖質のおからスコーンなら、今朝も山のように召し上がったはずでは……」
「違うのよ、ランバル。食べ物の量の話じゃないの。私が今、強烈に飢えているのは……『場』よ! この十八世紀のフランス社会に決定的に欠けているもの……それは、心ゆくまで自分を甘やかし、日常の重圧から解放されるための『サードプレイス』なのよ!」
当時のパリの街角にも、「カフェ」と呼ばれる場所はすでに存在していた。しかし、そこは血の気の多い男たちが煙草の煙をくゆらせながら、喧々囂々《けんけんごうごう》と小難しい政治や哲学を論じ合う、むさ苦しい空間だ。前世で女子大生だった私にとっては、あまりにもハードルが高く、何より全く「映え」ない。
(……私が欲しいのは、開放的なテラス席があって、木漏れ日が差し込んで、インスタ映え……は流石に無理でも可愛くて落ち着く内装で。何より、『これを食べても絶対に太らない』と自分に言い訳できる、最高におしゃれなカフェなのよ!)
過酷なギロチン回避サバイバルを続ける私には、心のオアシスが必要だった。
私は即座に行動を開始した。農業アカデミーの第一期卒業生であり、今や見事な細マッチョへと更生した若き貴族の青年たちを私室に緊急招集したのである。
「あなたたち、今日から一旦クワを置いてエプロンを着けなさい。これからは『農業』の次は『究極のサービス業』よ! その無駄に鍛え上げられた大胸筋と爽やかな笑顔で、ベルサイユのマダムたちを接客で骨抜きにするの!」
「「「イエス、マイ・マム!!」」」
軍隊のような統率力で、イケメン貴族カフェ店員部隊が爆誕した。
数週間後、ベルサイユ宮殿の目抜き通りに、世界初の王立直営店『カフェ・ド・ポム・ロワイヤル』が華々しくグランドオープンを迎えた。
内装は、これまでのベルサイユ特有の金ピカで眼精疲労を引き起こすような絢爛豪華な装飾を完全に排斥した。
白木と観葉植物を基調とした、北欧風のナチュラルモダン・スタイルである。各テーブルには、私が愛する菜園で咲き誇った、白く可憐なジャガイモの花が一輪挿しに飾られている。
「……まあ、なんて落ち着く空間かしら」
「あのおどろおどろしい農業アカデミーの鬼教官……いえ、学長である王妃様がプロデュースしたとは思えないほど、洗練されていますわ……」
恐る恐る店に足を踏み入れた貴族の夫人たちの前に、サロペットにカフェエプロンを巻いた爽やかなイケメン貴族店員が、恭しくメニューを提示した。
私がこの日のために徹夜で考案した、ベルサイユの常識を根底から覆す奇跡のメニューである。
「お待たせいたしました、マダム。本日の王妃様特製スペシャリテ、『豆乳クリームのふわふわポテトパンケーキ・砂糖不使用の木苺ソース添え』でございます」
「パン……ケーキ? ケーキなのにパンなのですか?」
「ええ。小麦粉を一切使わず、微細に挽いたおから粉とジャガイモのペーストを使用し、卵白のメレンゲの力だけで限界まで膨らませた究極の逸品です。……そしてこちらの飲み物は、焙煎したタンポポの根から抽出した『ノンカフェイン・デトックス・コーヒー』に、たっぷりの豆乳を注いだ特製ラテにございます。胃腸に優しく、お肌を内側から美しく整えます」
夫人たちは、見たこともない分厚くてフワフワの生地にフォークを入れ、恐る恐る口に運んだ。
──シュワッ。
一口食べた瞬間、夫人たちの間に雷に打たれたような衝撃が走った。
「……かっ、軽い! まるで甘い雲を食べているみたいだわ!」
「ドロドロに甘くない……。木苺の自然な酸味と、ジャガイモのほのかな甘みが絶妙にマッチして……なのに、どうしてこんなに満ち足りた、幸せな気持ちになるの……?」
感動で打ち震える彼女たちの前に、私が奥の厨房から颯爽と登場した。
「それが『ギルトフリー(罪悪感ゼロ)』の魔法よ、奥様方。……ここでは、面倒なコルセットの締め付けも、カロリー計算も、社交界のドロドロしたしがらみも、全部忘れていいの。ただ美味しいものを食べて、自分を優しく愛してあげるための場所。それがこのカフェなのよ」
私の言葉に、日々の派閥争いや夫の浮気、そして何より体重増加への恐怖に疲弊しきっていた夫人たちは、ポロポロと涙を流しながらパンケーキを頬張った。現代日本のカフェ文化が持つ「圧倒的な癒やし」の力は、十八世紀の極度なストレス社会にも、魔法の特効薬のように効いたのである。
やがて、このカフェは「王妃様とお茶ができて、しかも絶対に太らない奇跡の場所」として、身分を問わず一般のパリ市民にも開放された。
すると、どうだろう。サロペット姿で泥にまみれて働く農家の娘と、最新ファッションに身を包んだ貴族の公爵夫人が、隣り合わせのテラス席で「今日のパンケーキ、いつもよりフワフワじゃない?」「今年のジャガイモは日照時間が長かったから、デンプンの質が最高なのよ!」と、満面の笑みで語り合うようになったのだ。
(……よし! 完璧よ! このカフェこそが、特権階級と平民という分厚い身分差の壁を溶かす、最強の『中和剤』になるわ。ギスギスした政治の不満や革命の議論なんかしてるより、美味しい新作パンケーキの話をしている方が、国中が平和でハッピーに決まってるもの!)
私はカウンターの奥で豆乳を泡立てながら、平和に包まれた店内を満面の笑みで見渡した。
だが、このあまりにも平和すぎる光景を、通りの窓の外から血走った目でじっと監視している怪しい影があった。
私の母、オーストリア女帝マリア・テレジアが密かにウィーンから派遣した、凄腕の密偵である。
彼は震える手で羽根ペンを握りしめ、本国への緊急報告書を猛スピードで書き殴っていた。
『……至急ご報告申し上げます。マリー・アントワネット様は、フランス全土を「甘くないお茶会」という名の恐るべき洗脳施設に引き込み、身分制度の垣根を根底から破壊しようと企んでおります。貴族と平民を隣り合わせに座らせ、謎の「パンケーキ」なる食物で思考能力を奪い、革命的な平等思想を植え付ける……なんという底知れぬ策士。ハプスブルク家の支配体制すらも脅かしかねない、国家転覆の陰謀にございます!』
マリー・アントワネット、18歳。
ただ前世のように「オシャレなカフェでゆっくりお茶がしたかった」だけの女子大生マインドが、図らずもベルサイユの地に「身分なき市民社会の雛形」を爆誕させ、ヨーロッパ最強の女帝に特大の警戒心を抱かせてしまったのである。




