第19話 芋先輩の密命と、悪魔のアリゴ
ベルサイユ宮殿が、前代未聞のお風呂とサウナの熱気で驚くほど清潔に包まれていた頃。
フランスから遠く離れた隣国プロイセン(現在のドイツ)のサンスーシ宮殿では、一人の偉大なる王が、激しい苛立ちを隠せずに玉座の肘掛けを強く叩いていた。
「……信じられん。あのフランスの、世間知らずで贅沢三昧だったはずの小娘が、我が国が世界に誇る至高の植物『ジャガイモ』を、あろうことか大流行させているだと?」
プロイセン王、フリードリヒ2世。数々の戦争を勝ち抜いた最強の啓蒙専制君主であり、またの名を「ジャガイモ大王」
彼は過去、幾度となく自国を襲った飢饉を救うため、自らジャガイモの普及に血の滲むような心血を注いできた、言わば「芋普及の大先輩」である。
「私が毎日毎日、忌避する平民たちの前で『塩茹で』の芋を美味そうに食って見せ、あえて畑に近衛兵を立たせて盗ませるという緻密な心理戦まで仕掛けて、どれほど苦労して普及させたと思っている! それを、昨日今日サロペットを穿き始めたばかりのフランスの小娘があっさりと成功させただと……! 一体どんな邪道な食べ方をさせているのか、今すぐ探ってこい!!」
こうして、大王の怒りと嫉妬の密命を帯びた、プロイセン軍きってのエリートスパイ、ハインツがベルサイユへと送り込まれることになった。
彼の任務は、フランス王妃の「邪道な芋料理」の正体を暴き、レシピを奪い、プロイセンの質実剛健なジャガイモ文化の優位性を証明することである。
(……フン。どうせ、美食ぶった軟弱なフランス人のことだ。高貴なる芋を砂糖で甘く煮たり、無駄に飾り立てたりしているのだろう。我らが偉大なる大王が愛した『塩茹で芋』の、大地の息吹を感じる質素な味わいには到底及ばん!)
ハインツは、音もなく深夜のベルサイユ宮殿に潜入した。
サウナ上がりで熟睡しているフランスの近衛兵たちの目を易々と掻き潜り、彼は研ぎ澄まされた嗅覚だけを頼りに、「王妃専用・深夜の試作キッチン」へと忍び込んだ。
月明かりに照らされた、大理石の作業台の上。
そこには、まだ微かに温かい、分厚い銅鍋がポツンと置かれていた。
ハインツが警戒しながら鍋の蓋を開けると、中には薄黄色の、ドロドロとしたペースト状の物体が入っていた。
「なんだ、これは? 芋の気高い形すら一ミリも残っていない、ただのドロドロの泥のような物体……。やはり、フランス人は芋へのリスペクトが絶望的に足りない! こんな離乳食のようなものが……ん?」
ハインツは、大王への証拠として持ち帰るため、近くにあった大きな木べらで、そのペーストを乱暴にすくい上げようとした。
──ビヨォォォォォォォォォォォン。
「なっ……!?」
ハインツは、自分の目を疑った。
驚くべきことに、そのペーストは途切れることなく、木べらと鍋の間で、まるで生きたスライムのようにどこまでも長く、長く伸びたのだ。
それは、ただのマッシュポテトではない。
私が深夜の空腹のテンションに任せ、王室シェフを泣き落として作らせた『究極のアリゴ』
滑らかに裏漉ししたジャガイモに、フランス中南部オーブラック地方が誇る大量の濃厚な『トム・フレッシュチーズ』と、強烈なすりおろしニンニク、そしてノルマンディー産の極上発酵バターを、腕が千切れるほど練り込んだ、別名「悪魔の郷土料理」である。
ハインツは、自分の顔の高さまで伸び切ったそのペーストから立ち昇る匂いに、思わず息を呑んだ。
ガツン! と暴力的なまでに鼻腔を殴りつける、強烈なニンニクのパンチ。
その裏から這い寄ってくる、発酵バターの芳醇な香りと、熟成されたチーズの官能的な獣の匂い。
「……こ、これは……?」
ハインツは、軍人としての警戒心を完全に失い、何かに取り憑かれたように、その長く伸びたペーストの端を、パクッと口に含んだ。
「……っっっ!!!!!!」
その瞬間、プロイセンの冷徹なエリートスパイの脳天に、百万ボルトの雷が落ちた。
口の中でとろけるチーズの圧倒的なコク。バターの波状攻撃。ニンニクの刺激が食欲の中枢を容赦なく破壊する。そして、それらの強烈すぎる脂質の主張を、ジャガイモの素朴なデンプンの甘みが、すべてを包み込むように優しく、かつ暴力的な旨味として完璧にまとめ上げているのだ。
「な、なんだこれは……!! 芋の素朴な甘みが、チーズとバターという脂質のバケモノと結びつくことで、恐ろしいまでの『快楽』へと昇華されている……! ああ、大王陛下、お許しください! 塩茹で芋が兵士の『義務』の味だとしたら、これは……人間の理性を根底から破壊する『欲望』そのものの味だ!! うまい、うますぎる!!」
ハインツは涙を流しながら、木べらに絡みついたアリゴを無我夢中で貪り食い始めた。
「ああっ!! ちょっと、何してるのよ!?」
背後からの甲高い悲鳴に、ハインツは鍋を抱えたままピタリと硬直した。
そこには、深夜のお忍びガウン姿で、鬼の形相をした私が立っていた。
「私の、明日の朝ごはん用の『アリゴ』!! 脂質とカロリーが鬼のように高すぎるから、泣く泣く一口だけ味見して、明日のご褒美のために我慢して鍋に蓋をしておいたのに! なんであんたが全部食べようとしてるのよ!!」
「……お、王妃マリー・アントワネット……!」
ハインツは、暗殺や諜報の任務もすっかり忘れ、涙とチーズで顔をドロドロにしながら、大理石の床にドサリと膝をついた。
「……殺せ。私はプロイセンの密偵。だが、死ぬ前にお願いだ。もう一口、あと一口だけ、この……『伸びる悪魔の芋』を食わせてくれ。我らが誇る質実剛健な芋が、まさかこんな淫靡で背徳的な姿に変わるなど……私の、いや、プロイセンの完敗だ」
(……えっ、暗殺者? スパイ!? 普通に怖いんだけど!! 警備どうなってんのよ!!)
私は一瞬パニックになりかけたが、彼の口から出たある単語にピンときた。
(でも、プロイセンって言った? プロイセンといえば、泣く子も黙るヨーロッパ最強のジャガイモ大国じゃない!)
私の脳内で、即座に外交と農業のそろばんが弾かれた。
寒冷地でも病気に負けずに育つ、プロイセンの丈夫な『種芋』のノウハウ。彼らはそれを大量に持っているはずだ。
「ねえ、あなた。プロイセンのフリードリヒ大王の部下なんでしょ?」
「……いかにも。偉大なる大王陛下は、あなたの芋料理を偵察しろと……」
「やっぱり! 私、フリードリヒ大王のこと、ジャガイモ普及の大先輩として超絶リスペクトしてるのよ!!」
私は警戒を解き、作業台の引き出しから、徹夜で書き留めておいたレシピの束をバンッ! と取り出した。
「ねえ、プロイセンに帰るなら、この『アリゴ』や、二度揚げで外をカリカリにした『フライドポテト』、芋をすりおろして焼いた『チーズたっぷりガレット』のレシピ、大王先輩に渡してくれない? その代わり……プロイセンの病気に強い丈夫な『種芋』を、フランスに大量に分けてほしいの!」
「な、なんと……。敵国のスパイである私に、この国家機密レベルの悪魔のレシピを無償で……?」
「戦争で血を流してお腹を空かせるより、一緒に芋を植えてレシピ交換した方が、絶対に美味しいし楽しいわよ! 芋を愛する者に、国境はないわ!」
「……王妃様……!!」
ハインツは、チーズのついた木べらを力強く握りしめ、感極まって大号泣した。
「なんという慈悲深さ……! まさかフランス王妃が、これほどまでに芋の真理に到達しておられるとは! このハインツ、命に代えましてもこの『悪魔のレシピ』を大王陛下にお届けし、両国の芋同盟を結んでみせます!!」
数週間後。
プロイセンのサンスーシ宮殿では、フリードリヒ大王が、大量のチーズとニンニクを練り込んだ『アリゴ』を自ら口にし、「……うまい! だが、カロリーが憎い! 胃もたれがすごい!!」と頭を抱えながらも、鍋を空っぽにしてしまったという伝説が残された。
こうして、フランスとプロイセン間の極度の軍事的緊張は、バターとチーズの暴力的なカロリーによって見事にもたれ合い、平和的な「種芋外交」へと発展したのだった。
(……ふふん。これで良質な種芋もゲット。私のサバイバル生活と食糧事情はさらに盤石ね! でも、私のアリゴを勝手に食べた恨みは、絶対に忘れないわよ、ハインツ!)
マリー・アントワネット、18歳。
「芋の大先輩」であるヨーロッパ最強の君主の胃袋すらも、フランスの暴力的なカロリーレシピで完膚なきまでに陥落させてしまったのである。




