表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/41

第17話 テルマエベルサイユ

「……臭い。臭すぎる!! 耐えられないわ、ここ、本当に世界一華やかなベルサイユ宮殿なの? それとも、金箔きんぱくをデコレーションした超巨大な公衆トイレなの!?」


 朝、豪奢ごうしゃ天蓋てんがい付きベッドで目覚めた私は、開け放たれた窓から絶え間なく漂ってくる「宮廷のかぐわしき芳香」に、思わず顔をしかめて最高級のシルクの枕を床に投げつけた。


 現代の感覚からすれば信じられないことだが、18世紀のベルサイユ宮殿に「下水道」や「水洗トイレ」といった衛生的な概念は一ミリも存在しない。


 何千人もの貴族や使用人がひしめき合っているというのに、彼らは廊下の暗がりや中庭の茂みで平然と用を足し、おまる(室内用便器)の中身を窓から外へ豪快にぶちまける。それが当時の「常識」だった。


 さらに最悪なことに、彼らは「水に入ると病気になる」と本気で信じているため、何ヶ月もお風呂に入らない。その強烈な体臭と排泄物はいせつぶつの匂いを誤魔化ごまかすため、むせ返るようなキツい香水を頭からドバドバと浴びるのだ。


 結果として、ベルサイユの空気は「汚物と汗と、過剰なフローラル香水」が混ざり合った、致死量レベルのバイオハザード空間と化していた。


(無理無理無理!! 現代日本の『お風呂大好き、毎日シャンプー必須女子』だった私にとって、この不潔パラダイスはギロチンより先に精神が死ぬ地獄すぎる!)


 それに、不衛生は万病の元だ。もしここでコレラや赤痢せきりなどの恐ろしい疫病えきびょうにでもかかったら、革命が起きて走って逃げるどころか、ベッドの上で呆気あっけなく私の命は尽きてしまう。


「ランバル! 今すぐ、私の部屋に巨大な『湯船』を用意してちょうだい! それから、熱々のお湯をたっぷりと、上質な石鹸もよ!」


「ひぃっ!? お、お風呂でございますか!?」


 私の悲痛な叫びに、侍女のランバル夫人が顔面を蒼白そうはくにして泣きついた。


「王妃様、お願いです、どうかご正気を! お体をお悪くされますわ! 湯に深く浸かって皮膚の毛穴が開けば、そこから宮殿の空気中に漂う毒気どくけや病魔が一気に体に入り込んで、内臓が腐り落ちて死んでしまいます!!」


 当時の医学では、水は「病を運ぶ恐怖の対象」だった。必死に私を止めようとするランバル夫人は、本気で私が自殺でもくわだてていると思っているのだ。


 だが、私は彼女の肩をガシッと掴み、堂々と言い放った。


「いいこと、ランバル。よく聞いて。お湯で毛穴が開いて入ってくるのは、毒気なんかじゃないの。……圧倒的な『美』よ!」


「び……美、でございますか?」


「そう! 私はお忍びで南仏から取り寄せた、最高級のラベンダーの精油オイルをこのお湯に垂らすわ。さらに……私が秘密裏に精製していた、我が菜園の『ジャガイモのデンプン(※要するに片栗粉)』を入浴剤代わりにドサリと投入するのよ!」


「い、芋の粉を、お風呂に!?」


「デンプンがお湯に溶けると、とろみが出て極上の保湿バリアになるの。さらに、肌の角質を滑らかにするためのハーブ、松の実、すり潰したアーモンドを混ぜた贅沢なペーストで全身をパックするわ。これぞ、クレオパトラもひれ伏す究極のアンチエイジング入浴法よ!!」


「美」「保湿」「アンチエイジング」


 時代を超えて女性の脳髄のうずいにぶっ刺さる最強のキラーワードの連打に、ランバル夫人たち侍女の抵抗はピタリと止まった。


 悲鳴をあげる彼女たちを強引に説き伏せ、私は一糸まとわぬ姿になって、念願の特大湯船へとザブン! と飛び込んだ。


「ふぁぁぁぁぁ……っ!! 生き返るぅぅ……!!」


 ラベンダーの香りが蒸気に乗って浴室を満たし、デンプンでとろとろになった熱いお湯が、冷えて強張こわばっていた筋肉を芯からほぐしていく。


 ベルサイユの歴史上、最も「命知らず」で、最高に気持ちのいい入浴タイム。

 私が湯船の縁に頭を乗せ、極楽浄土のような顔でフンフンと鼻歌を歌っていると、コンコン、と控えめに扉をノックする音がした。


「アントワネット、入ってもいいかい?」

 やってきたのは、好奇心旺盛な夫、国王ルイ16世だ。


「……陛下! 見て、お風呂ですわ! こうして熱い湯気に包まれると、血流が劇的に良くなって、頭の中の複雑な錠前の設計図も、スッとクリアに整理されますのよ!」


「ほう……!」

 ルイは目を丸くして、湯船に浸かる私を見た。


「確かに、君はいつもより肌がバラ色に輝いて、すこぶる健康的に見える。それに何より……ひどく、いい匂いだ。廊下に蔓延まんえんしているキツい香水と汚物の匂いではなく、まるで春の南仏の草原に立っているような……。しかし、そのお湯に溶けている白い粉は一体何だい?」


「ジャガイモのデンプンですわ。肌の水分を逃がさず、滑らかに整える驚異的な科学的効果がありますの。……それから、ルイ。お願いがあるの」

 私は湯船から身を乗り出し、真剣な眼差しで夫を見つめた。


「このベルサイユ宮殿に、本格的な『お風呂場』を増設して、さらに宮殿全体の『大規模な下水道』の整備に、国を挙げて着手しましょう」


「下水道? 地下に汚水を流すトンネルを作るというのかい?」


「ええ。想像してみて、ルイ。この広大で複雑な宮殿全体を、ひとつの『巨大で精密な機械』だと考えるのよ」


 私は、彼の「理系オタク魂」をピンポイントで狙撃するプレゼンを開始した。


「数百の部屋から出る排水。その高低差をミリ単位で測量し、くだの太さと水圧の負荷を完璧に計算する。そして、途中で詰まることなく、セーヌ川まで一気に汚水を排出するシステムを組み上げるの。……これは、ただの掃除じゃない。流体力学と重力を利用した、完璧な『都市の静脈』の構築よ!」


「……っ!!」

 ルイの目の色が、カッと変わった。


「陛下の持つ卓越たくえつした測量技術と、その類稀たぐいまれなる構造設計の才能があれば、古代ローマの水道橋すいどうきょうをも凌駕りょうがする、世界最高の給排水システムができるはずだわ!」


「……宮殿の静脈、か!! セーヌ川までの勾配こうばいを計算し、水圧を制御するバルブを設計し、流量を最適化する……。なるほど、それは実に……実にそそるね!! 錠前の鍵穴の調整より、ずっと壮大で複雑なパズルじゃないか!」


 ルイの「生粋きっすいのオタク気質」に、完全に特大の火がついた。

 彼はその手先の器用さと理系脳をフル回転させ、ブツブツと数式を呟きながら、最新式の地下配管システムの設計図を、さっそく頭の中で高速で組み上げ始めたようだ。


(……よしっ、計画通り!! これで衛生状態も劇的に改善して、疫病での病死ルートも完全回避! そして何より、毎日お風呂に入って血流を良くし、清潔で健康な体を保つことは……いざという時の逃走劇で、無限のスタミナを生むはずよ!!)


 マリー・アントワネット、18歳。

 「香水で悪臭をごまかさない、清潔無敵の王妃」として、ベルサイユの腐った空気と、旦那のオタク的な知的好奇心を、文字通り水の力で完膚かんぷなきまでに浄化し始めたのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ