第17話 テルマエベルサイユ
「……臭い。臭すぎる!! 耐えられないわ、ここ、本当に世界一華やかなベルサイユ宮殿なの? それとも、金箔をデコレーションした超巨大な公衆トイレなの!?」
朝、豪奢な天蓋付きベッドで目覚めた私は、開け放たれた窓から絶え間なく漂ってくる「宮廷の芳しき芳香」に、思わず顔をしかめて最高級のシルクの枕を床に投げつけた。
現代の感覚からすれば信じられないことだが、18世紀のベルサイユ宮殿に「下水道」や「水洗トイレ」といった衛生的な概念は一ミリも存在しない。
何千人もの貴族や使用人がひしめき合っているというのに、彼らは廊下の暗がりや中庭の茂みで平然と用を足し、おまる(室内用便器)の中身を窓から外へ豪快にぶちまける。それが当時の「常識」だった。
さらに最悪なことに、彼らは「水に入ると病気になる」と本気で信じているため、何ヶ月もお風呂に入らない。その強烈な体臭と排泄物の匂いを誤魔化すため、むせ返るようなキツい香水を頭からドバドバと浴びるのだ。
結果として、ベルサイユの空気は「汚物と汗と、過剰なフローラル香水」が混ざり合った、致死量レベルのバイオハザード空間と化していた。
(無理無理無理!! 現代日本の『お風呂大好き、毎日シャンプー必須女子』だった私にとって、この不潔パラダイスはギロチンより先に精神が死ぬ地獄すぎる!)
それに、不衛生は万病の元だ。もしここでコレラや赤痢などの恐ろしい疫病にでもかかったら、革命が起きて走って逃げるどころか、ベッドの上で呆気なく私の命は尽きてしまう。
「ランバル! 今すぐ、私の部屋に巨大な『湯船』を用意してちょうだい! それから、熱々のお湯をたっぷりと、上質な石鹸もよ!」
「ひぃっ!? お、お風呂でございますか!?」
私の悲痛な叫びに、侍女のランバル夫人が顔面を蒼白にして泣きついた。
「王妃様、お願いです、どうかご正気を! お体をお悪くされますわ! 湯に深く浸かって皮膚の毛穴が開けば、そこから宮殿の空気中に漂う毒気や病魔が一気に体に入り込んで、内臓が腐り落ちて死んでしまいます!!」
当時の医学では、水は「病を運ぶ恐怖の対象」だった。必死に私を止めようとするランバル夫人は、本気で私が自殺でも企てていると思っているのだ。
だが、私は彼女の肩をガシッと掴み、堂々と言い放った。
「いいこと、ランバル。よく聞いて。お湯で毛穴が開いて入ってくるのは、毒気なんかじゃないの。……圧倒的な『美』よ!」
「び……美、でございますか?」
「そう! 私はお忍びで南仏から取り寄せた、最高級のラベンダーの精油をこのお湯に垂らすわ。さらに……私が秘密裏に精製していた、我が菜園の『ジャガイモのデンプン(※要するに片栗粉)』を入浴剤代わりにドサリと投入するのよ!」
「い、芋の粉を、お風呂に!?」
「デンプンがお湯に溶けると、とろみが出て極上の保湿バリアになるの。さらに、肌の角質を滑らかにするためのハーブ、松の実、すり潰したアーモンドを混ぜた贅沢なペーストで全身をパックするわ。これぞ、クレオパトラもひれ伏す究極のアンチエイジング入浴法よ!!」
「美」「保湿」「アンチエイジング」
時代を超えて女性の脳髄にぶっ刺さる最強のキラーワードの連打に、ランバル夫人たち侍女の抵抗はピタリと止まった。
悲鳴をあげる彼女たちを強引に説き伏せ、私は一糸まとわぬ姿になって、念願の特大湯船へとザブン! と飛び込んだ。
「ふぁぁぁぁぁ……っ!! 生き返るぅぅ……!!」
ラベンダーの香りが蒸気に乗って浴室を満たし、デンプンでとろとろになった熱いお湯が、冷えて強張っていた筋肉を芯から解していく。
ベルサイユの歴史上、最も「命知らず」で、最高に気持ちのいい入浴タイム。
私が湯船の縁に頭を乗せ、極楽浄土のような顔でフンフンと鼻歌を歌っていると、コンコン、と控えめに扉をノックする音がした。
「アントワネット、入ってもいいかい?」
やってきたのは、好奇心旺盛な夫、国王ルイ16世だ。
「……陛下! 見て、お風呂ですわ! こうして熱い湯気に包まれると、血流が劇的に良くなって、頭の中の複雑な錠前の設計図も、スッとクリアに整理されますのよ!」
「ほう……!」
ルイは目を丸くして、湯船に浸かる私を見た。
「確かに、君はいつもより肌がバラ色に輝いて、すこぶる健康的に見える。それに何より……ひどく、いい匂いだ。廊下に蔓延しているキツい香水と汚物の匂いではなく、まるで春の南仏の草原に立っているような……。しかし、そのお湯に溶けている白い粉は一体何だい?」
「ジャガイモのデンプンですわ。肌の水分を逃がさず、滑らかに整える驚異的な科学的効果がありますの。……それから、ルイ。お願いがあるの」
私は湯船から身を乗り出し、真剣な眼差しで夫を見つめた。
「このベルサイユ宮殿に、本格的な『お風呂場』を増設して、さらに宮殿全体の『大規模な下水道』の整備に、国を挙げて着手しましょう」
「下水道? 地下に汚水を流すトンネルを作るというのかい?」
「ええ。想像してみて、ルイ。この広大で複雑な宮殿全体を、ひとつの『巨大で精密な機械』だと考えるのよ」
私は、彼の「理系オタク魂」をピンポイントで狙撃するプレゼンを開始した。
「数百の部屋から出る排水。その高低差をミリ単位で測量し、管の太さと水圧の負荷を完璧に計算する。そして、途中で詰まることなく、セーヌ川まで一気に汚水を排出するシステムを組み上げるの。……これは、ただの掃除じゃない。流体力学と重力を利用した、完璧な『都市の静脈』の構築よ!」
「……っ!!」
ルイの目の色が、カッと変わった。
「陛下の持つ卓越した測量技術と、その類稀なる構造設計の才能があれば、古代ローマの水道橋をも凌駕する、世界最高の給排水システムができるはずだわ!」
「……宮殿の静脈、か!! セーヌ川までの勾配を計算し、水圧を制御するバルブを設計し、流量を最適化する……。なるほど、それは実に……実にそそるね!! 錠前の鍵穴の調整より、ずっと壮大で複雑なパズルじゃないか!」
ルイの「生粋のオタク気質」に、完全に特大の火がついた。
彼はその手先の器用さと理系脳をフル回転させ、ブツブツと数式を呟きながら、最新式の地下配管システムの設計図を、さっそく頭の中で高速で組み上げ始めたようだ。
(……よしっ、計画通り!! これで衛生状態も劇的に改善して、疫病での病死ルートも完全回避! そして何より、毎日お風呂に入って血流を良くし、清潔で健康な体を保つことは……いざという時の逃走劇で、無限のスタミナを生むはずよ!!)
マリー・アントワネット、18歳。
「香水で悪臭をごまかさない、清潔無敵の王妃」として、ベルサイユの腐った空気と、旦那のオタク的な知的好奇心を、文字通り水の力で完膚なきまでに浄化し始めたのである。




