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第10話 恋より団子、愛よりジャガイモ

 ヨーロッパ全土を震え上がらせる鉄の女帝、マリア・テレジアがベルサイユ宮殿に滞在しているという事実は、宮廷の空気を常に「マイナス数十度」に保つほどの緊張感をもたらしていた。


 夜ごと開かれる歓迎の舞踏会。

 シャンデリアの何千もの蝋燭ろうそくが煌めく鏡の間で、私は背筋に冷や汗をかきながら、バルコニーから見下ろす母様の厳しい視線を常に意識していた。


(……ここで少しでもしくじれば、『やはりフランス王妃は頭がおかしくなった、これ以上の奇行はハプスブルク家の恥』として、ウィーンの実家に強制送還されかねない……!)


 そんな、針のむしろのような緊張感の中。

 ついに、私の「断頭台ギロチン回避ルート」における最大の地雷、いや、最強の刺客とも呼べる「彼」が現れたのだ。


「王妃様。お久しぶりにお目にかかれて、光栄の至りに存じます」


 広間の入り口がざわめき、人だかりがモーゼの十戒のように真っ二つに割れた。

 そこから進み出てきたのは、スウェーデンからやってきた若き貴族、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン。


 史実において、このマリー・アントワネットが唯一、その生涯を懸けて真剣に愛し、そして共に破滅への道を歩んだと言われる……絶世の美青年である。


 彼が歩みを進めるたびに、周囲の貴族女性たちから「はぁっ……」という、ほとんど悲鳴に近い熱を帯びたため息が漏れる。

 無理もない。彼自身の放つオーラが、もはや人間離れしているのだ。


 陽光を編み込んだような輝かしいブロンドの髪、北欧の澄み切った氷湖を思わせる深いサファイア・ブルーの瞳。長身で引き締まった軍人らしい体躯を、仕立ての良いスウェーデン軍服が完璧に包み込んでいる。歩くたびに、上質な白檀と微かな薔薇の香水の匂いが、ふわりと周囲の空気を甘く染め上げた。


(……うわぁぁぁぁっ!! 本物だ……!! めちゃくちゃ、いや、恐ろしいほどのイケメン……!!)


 前世かつての私なら、間違いなくここで脳内BGMに壮大な恋愛シミュレーションゲームのテーマ曲が流れ、「推しキャラ降臨!!」と心の中で発狂して、サイリウムを両手に持って全力でヲタ芸を披露していたところだ。


 いや、現代日本の女子大生としての本能が、彼という存在のあまりの美しさに一瞬だけ完全にフリーズした。


「お噂は、遠くスウェーデンの地まで私の耳にも届いておりました。まさか、あの華やかで美しかったアントワネット様が、自ら泥まみれになって農園を拓き、大好きだったお菓子まで断たれているとは……。その麗しきお顔が少しやつれたのではと、心配で夜も眠れませんでした」


 フェルセンは、甘く切ない吐息とともに私の前に進み出ると、優雅な動作で片膝をつき、私の右手をそっと取って、薄い手袋の上から情熱的な口づけを落とした。


 顔が近い。まつ毛が信じられないほど長い。そして、声帯から発せられる低く甘いバリトンボイスが、直接耳の奥の三半規管を揺さぶってくる。

 間違いなく、ここは少女漫画なら見開きのフルカラーページで、背景に薔薇の花びらが舞い散る伝説のシーンだ。


(……すごい破壊力。これが史実の『運命の恋人』。もしここで彼の手を取れば、私は燃え上がるような悲恋のヒロインとして、歴史にその名を……)


 私が一瞬、その美貌の引力に吸い込まれそうになった、まさにその時だった。


 ——ジュゥゥゥゥゥッ……!! グツグツグツ……!!


 私の鼻腔と鼓膜が、フェルセンの甘い声と白檀の香水を完全にぶち破って、背後のメインテーブルから放たれた「圧倒的な暴力」を捉えた。


 今夜の晩餐のメインディッシュ。

 私が王室専属のシェフを土下座する勢いで説得し、この日のために何週間も前から準備させていた、究極の炭水化物と脂質のキメラ。


 ——『ジャガイモの特製グラタン(ドフィノワ風・ベルサイユ限界突破エディション)』である。


 巨大な純銀の耐熱皿の表面で、こんがりと黄金色に焼き上がった最高級のグリュイエールチーズとコンテチーズが、マグマのようにグツグツと音を立てて煮えたぎっている。

 その下には、ニンニクを直接こすりつけて香りを移した皿に、薄切りにしたジャガイモが何層にも美しく敷き詰められ、たっぷりの生クリームと全脂粉乳が、ジャガイモのデンプン質と絡み合って濃厚なとろみを生み出している。


 オーブンから出されたばかりの熱々のグラタンから立ち昇る、焦げたチーズの香ばしさ、ニンニクの食欲を殴りつけるようなパンチ、そしてナツメグと生クリームのまろやかで破壊的な香り。


(……っっっ!! だ、ダメだ、もう無理!!)


 私の前世の女子大生としての本能は、絶世のイケメンを前にして「萌え」よりも、「空腹」と「チーズ」という原始的な欲望にあっさりと敗北した。


「フェルセン伯爵。ええ、お久しぶり。あなたの親身な心配はとても嬉しいけれど、見ての通り私はすこぶる元気よ。……それより」


「それより……? 何か、私にできることが?」

フェルセンが、憂いを帯びた美しい瞳で私を見つめ上げてくる。


「ええ。その、あなたのその素晴らしい立ち位置だと……あっちのテーブルでグツグツ言ってるグラタンの、一番美味しそうな『チーズのおこげ』の部分が全く見えないの。悪いけれど、右に三歩ほど避けてくれないかしら?」


「……え?」


 フェルセンが、文字通り石像のように固まった。


 無理もない。彼は今、スウェーデンから駆けつけ、自分という「世界で最も美しい宝石」を最高のシチュエーションで提示したはずだった。どんな淑女も一瞬で恋に落ちる魔法の言葉を紡いだはずだった。

 それなのに、目の前のフランス王妃の視線は、自分を完全に通り越し、肩越しにある「チーズがグツグツ鳴っている耐熱皿」に釘付けになっているのだ。彼女の瞳孔は、フェルセンの美貌ではなく、チーズの焦げ目の面積を計算するために見開かれている。


「お、王妃様……? 私は、あなたの力になりたいのです。このような華やかな宮廷で、たった一人で耐え忍ぶあなたのその深い孤独を、このフェルセンが……!」


 彼は食い下がり、さらに一歩、身を乗り出そうとした。だが、私はすでにグラタンの魔力に魂を引かれており、無意識に彼を押し退けてテーブルへと歩み寄っていた。


「孤独? 滅相もないわ! 私には頼もしい夫のルイがいるし、何よりこの『徹底的に品種改良を重ねたデンプン質の塊』が、いつでも私の心に寄り添ってくれているわ!」


 私は純銀の巨大なスプーンを手に取ると、グラタンの最もチーズが分厚く焦げている部分に、躊躇なくザクッ! と突き立てた。

 

 生クリームをたっぷりと吸い込んだホクホクのジャガイモが、とろけるチーズの糸を引きながら持ち上がる。その瞬間、さらに強烈なバターとニンニクの香りが広間に弾けた。


「見て、フェルセン! この焦げたチーズの完璧な香ばしさと、デンプンがもたらす圧倒的な腹持ちの良さ。これこそが、飢えた民衆と王室を再び繋ぐ、最強の接着剤なのよ! あなたも食べてみる? 恋の悩みやセンチメンタルな感傷なんて、この暴力的なまでの炭水化物と脂質の前では、チリあくたのように無力なのだと悟るはずよ!」


「…………」


 スウェーデンの貴公子は、目の前に突きつけられた「熱々でチーズが糸を引くジャガイモ」を前に、完全に言葉を失い、呆然と立ち尽くした。彼の美しい顔に、かつてないほどの「困惑」という感情が張り付いている。


 そこに、「おお! アントワネット、最高の焼き加減だね!」という無邪気な声と共に、我が夫、ルイ16世がやってきた。


 彼は国王たる威厳よりも、新しい発明品を見つけた少年のように目を輝かせている。


「やあフェルセン。君も遠路はるばる、アントワネットの『芋講義』を受けに来たのかい? 彼女の言う通りだよ。愛やロマンスを語る前に、まずは国の食糧自給率とカロリー計算を語る。これが今のベルサイユの最先端のトレンドなんだ! さあ、僕もそのグラタンの端っこをもらおうかな!」


「ふふふ、ダメですよ陛下。この一番カリカリのおこげは私のものですからね! 陛下には真ん中のクリーミーな部分を差し上げます!」


 ハフハフと熱そうに、しかし至福の表情でグラタンを頬張り、夫婦で「塩加減」や「オーブンの熱伝導率」について熱く議論し始める国王夫妻。


 フェルセンは、そのあまりにも入り込む隙のない「夫婦の(そして芋への)絆」を見せつけられ、自分が用意してきた悲恋のシナリオが、このベルサイユには一ミリも存在しないことをついに悟ったようだった。


 彼を取り囲んでいた「少女漫画のようなキラキラした薔薇の背景」は、いつの間にか「ホカホカの湯気とチーズの匂い」に完全に上書きされていた。


「……わかりました。私が入り込む余地は……いや、私の愛が向かうべき方向は、ここにはないようですね。私もスウェーデンに帰ったら、剣を捨ててクワを持ち、農地の開墾について真剣に検討いたします……。それでは、失礼を……」


 フェルセンは、深く一礼すると、どこか憑き物が落ちたような、しかし完全に敗北した男の背中を見せながら、静かに、誰にも惜しまれることなく広間から退場していった。


(……ごめんね、歴史に残る絶世のイケメン。でも、あなたと恋に落ちたら『首飾り事件』とか色々起きて、最終的に私の首が飛んじゃうから! 今の私にとってのたった一つの『運命の相手』は、フランス国民の満たされた胃袋なの!)


 私は心の中でこっそりと謝罪しながら、三口目のグラタンを口に運んだ。


 マリー・アントワネット、18歳。

 歴史上最大の「浮気フラグ」と「悲劇のヒロインルート」さえも、熱々のチーズグラタンと圧倒的な食欲の力によって、木端微塵に粉砕した瞬間だった。

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