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初めてのダンジョン

筋肉痛で体が悲鳴をあげる朝だった。

 ベッドから起き上がるだけで「うっ」と声が漏れる。


『ほら言っただろう。初日は張り切りすぎたと』


「昨日のメニュー、軽くしたと思ったけどな……」


 訓練場に着いてストレッチを始めると、痛みで顔が歪む。

 ランニングは歩くようなスピードから開始し、

 筋トレは回数を半分に減らして丁寧にフォームを確認した。


『焦るな。痛みを“やめる理由”にするのは簡単だが、

 お前は続けるつもりだろ?』


「ああ、やる」


 痛みに耐えながらも二日目を終えた


三日目 

筋肉痛は残っているが、昨日より動ける。

 身体が慣れてきたのを自分でも感じる。


『いい傾向だ、ソラ。

 今日は腕立てを昨日より二回だけ増やせ』


「二回だけ?」


『そうだ。小さな増加を馬鹿にするな。

 十日続ければ大きな差になる』


 ランニングは距離を少し伸ばし、

 汗が前より多く流れた。


(動ける……まだいける)


 体が徐々に“鍛えること”に順応していく実感があった。

四日目


開始前から身体が軽い。

 走り始めると息が昨日より長く持った。


『ソラ、背筋が良くなったぞ』


「そうか?」


『疲れてもフォームが崩れにくくなっている』


 筋トレもスムーズに動けるようになり、

 回数は少しずつ増えてきた。


 夕方、帰り道の足取りも“しっかりしている”と自分で思った。

五日目


初めて「走るのが楽しい」と思える瞬間が来た。


「……あれ? 息が苦しくない」


『昨日までの積み重ねが効いてきているな』


 腕立ては十五回、腹筋二十回、スクワット三十回。

 まだまだ弱いメニューだが、確実に前進している。


『今日のお前は目が違う』


「やっと実感が出てきたんだよ。成長ってやつの」


 クロの尻尾が満足げに揺れた。

六日目


 筋肉痛がほぼない。

 慣れとはすごいものだ。


 走り込み中、横を駆け抜けるシーカー見習いに抜かれても、

 悔しさよりも「俺もあそこまで行く」という目標が湧いてきた。


『良い変化だ。誰かと比べるんじゃなくて、

 昨日の自分と比べろ』


「分かってる」


 筋肉が刺激されるたび心地よさが増し、

 汗をかくのが嬉しいと思えるようになった。

七日目

 一週間目。

 身体の動きが“別物”になってきた。


 フォームが安定し、呼吸が深くなる。

 筋力もほんの少し増え、腕立ては二十回を超えた。


『ソラ、今日は身体のバランスがいい。

 重心の移動が自然だ』


「よし……もうちょっとだけ頑張るか」


 回数を増やしすぎないようにクロが制止する場面もあったが、

 ソラの意欲は止まらなかった。

八日目


今日は“持久力”を意識した一日だった。


 ランニングはペースを落として長距離に挑戦。

 ゆっくり走ることで、身体の芯が温まり、

 足が均一に動く感覚が心地よかった。


『お前は長距離に向いているな。

 息の整え方がうまい』


「昔の経験が役に立ってるのかもな」


 クロは肯定も否定もせず、少しだけ尻尾を揺らした。

九日目


疲労が蓄積しはじめる頃だ。


 走りの途中で足が重くなり、

 筋トレでは力が入らず、回数も落ちた。


「……今日はダメかもしれない」


『そんな日もあって当然だ。

 むしろ、ここからが本番だぞ』


「分かってるんだけど……くそ」


 悔しさを押して最後までメニューを終えると、

 クロがぽつりと言った。


『今日の“最後までやり切った”がお前を強くする』


 その言葉だけで、十分だった。

十日目


朝起きると、体がしっかりと“軽い”。

 昨日の疲れが嘘のように抜けていた。


 走るたび、

 筋トレするたび、

 身体が応えてくれる。


(……こんなに変わるもんなのか?)


 半信半疑のまま訓練場へ向かい、ランニングを始めると、

 足が勝手に前へ進むような軽さがある。


「……はっ、は……でも、苦しくない」


 鍛えたとはいえ、この変化はどう考えても早すぎる。


 腕立ても腹筋もスクワットも、

 負荷は確かにあるのに“動けてしまう”。


(おかしい。絶対にこんなもんじゃなかった)


 前の人生での記憶があるソラだからこそ、

 この変化の異様さが肌で分かった。


 訓練を終え、汗を拭きながらソラはクロを見た。


「……なぁ、クロ。ちょっといいか」


『なんだ、その改まった顔は』


「ここまで変わるのおかしくないか?

 昔より明らかに身体の反応がいい。

 俺、才能なんてなかったはずなんだよ」


 ソラの声には戸惑いがあった。

 嬉しい気持ちより、理解できない不気味さの方が勝っている。


 クロはしばしソラを見つめ、

 ふっと小さく尻尾を揺らした。


『そう思うのが普通だな。

 だがソラ、お前は理由を知る権利がある』


「……理由?」


『お前は今、“契約者”だ。

 わたしと契約した時、お前の体の中に

 わずかだが魔力が流れ込み始めた。

 それが今、身体中をゆっくり巡っている。魔力には生命力を補助したり、回復を早めたり、

 身体強化に近い働きをしたりする性質がある。

 お前の身体が短期間で応えているのは

 その魔力が筋肉や骨に“活性”を与えているからだ』


 ソラは目を見開いた。


「つまり……俺の努力だけじゃなくて、

 クロのおかげでもあるってことか?」


『それを“おかげ”と言うならそうだろうな。

 だが勘違いするな。魔力が巡っていても、

 動かなければ何も変わらない。

 ここまで変わったのは、お前が必死に動いたからだ』


 ソラはしばらく黙り込んだ。

 クロは続ける。


『それと、ソラの魔力は今まだ弱い。

 巡っているといっても微々たるもので、

 お前の体を無理やり強化するほどではない。

 あくまで“補助”に過ぎない』


「……なるほどな」


 ようやく合点がいったというようにソラの表情が緩んだ。


「強くなれるって……すげぇな。

 なんか、本当に未来が変わる気がするよ」


 クロはそっぽを向いたが、尻尾はわずかに揺れていた。


『未来を変えるのは魔力じゃない。

 お前自身だ、ソラ』


「……ありがとな、クロ」


『別に礼などいらん。

 わたしはわたしの目的のためにやっているだけだ』


 口調は冷たいのに、どこか不器用な温度がある。

 ソラはその温かさに気づきながら、あえて触れずにおいた。


それから訓練を続けていった俺は21日目にして、体力、膂力、速さを前の人生以上に身につけた。


二十二日目の朝。

 筋トレに向かう前、ソラはいつものように出発の準備をしていた。

 ストレッチをし、軽く朝食を摂り、靴紐を結ぶ。

 その横でクロが尻尾をゆらりと揺らしている。


『ソラ』


「ん?」


 クロの声音は普段より少しだけ真剣だった。


『そろそろ、だな。

 二十日以上の基礎訓練を続け、お前の身体は十分に“動ける”状態になっている』


「まぁ……前よりは、走れるし、筋トレもだいぶ慣れたけど」


『強さはまだ不十分だ。だが“最低ライン”には乗った。

 そこで提案だ――今日は訓練場に行かず、ダンジョンへ行くぞ』


「……ダンジョン? 今日!?」


 ソラの心臓が一気に跳ねた。


 まだ十五歳。

 戻って二十二日。

 戦闘経験ゼロ。


 急すぎる――その戸惑いが胸の奥に広がる。


『もちろん、初級ダンジョンだ。

 弱い魔物程度しか出ない』


「いや、いやいや……!

 言ってること軽いけど、魔物って本物の“魔物”なんだぞ?」


『分かっている。だが、お前はシーカー学校に入るつもりだろう?

 なら“初めての魔物”は早いほうがいい』


 クロの金色の瞳がこちらをまっすぐ見つめる。


『安心しろ。私は助言ならいくらでもできる。

 魔物の動きは人間より単純だ。

 ソラ、お前なら対処できる』


 自分を信じられなくても、

 クロが自分を信じてくれている――

 その事実が、心の中の恐怖を少しだけ薄めた。


(……やるしかない、よな)


 未来を変えるために。

 二度と惨めな自分にならないために。


「分かった。行こう。……でも武器がない」


『それについてはギルドで揃える。

 剣がいいだろう。扱いやすいし、リーチも適度だ』


「よし、じゃあまずギルドだな」


『おう、行くぞ、ソラ』


 クロが肩に飛び乗り、二人は外へ出た。


昼より少し前、ギルドの道具売り場は人で賑わっていた。


「初心者用の鉄剣って、いくらくらいだ?」


『三千リルだな。お前の所持金なら買えるはずだ』


「……高くないか?」


『いや、むしろ安いほうだ。

 鉄は錆びやすいし耐久性も低いからな。

 本格的に使うなら、もっと良い武器を買うべきだ』


 売り場の棚には何種類もの剣が並んでいる。

 ソラは迷った末、最もシンプルで癖のない鉄剣を手に取った。


 片手で握ると少し重みがあるが、訓練してきた腕なら耐えられる。


「……これを買うよ。俺の“初めての武器”だしな」


『悪くない選択だ』


 会計を済ませ、鞘付きの鉄剣を腰に装着すると、

 不思議な実感が胸にじわりと広がった。


(ついに、だ……)


 十五歳の自分が、

 初めて魔物と対峙する準備が整ったのだ。


俺はクロを肩に乗せたまま、ついに街外れにある初心者向けダンジョンへ辿り着いた。


 石造りの入口は薄暗く、冷たい空気が外へ溢れている。

 ダンジョン特有の気配――湿った空気と地下の匂いが、鼻を刺激した。


(……懐かしい。この空気)


 前の人生でも何度も来た場所だ。

 だが十五歳の身体で、そして“初めて自分の力で戦う”という目的で入るのはこれが初めてだった。


『ソラ。緊張しているか?』


「まぁ……そりゃ少しはな」


『普通のことだ。

 だが、お前は十分に準備をしてきた。

 二十二日間、休まず鍛えた。それが全部ここに繋がっている』


 クロは俺の耳元で落ち着いた声を出した。


『まずは、深く呼吸をしろ。

 最初の階層は弱い魔物しかいない。

 お前の剣でも倒せる相手だ』


「……よし。行く」


 鉄剣の柄を握りしめ、俺はダンジョンの入口へと一歩踏み込んだ。


内部はうっすらと光る鉱石が壁に埋まっていて、松明の代わりに淡い青白い光を放っていた。

 足音がしんと響き、緊張感が肌を刺す。


(最初の魔物は……)


 五分ほど歩いたときだった。


――キィィィィ……


 耳をくすぐるような高い鳴き声。

 天井から黒い影がふわりと滑り降りてくる。


『来るぞ、ソラ。警戒しろ』


 影は壁に止まり、そのまま俺を見下ろす。


 ――吸血コウモリ。


 体長は人の手ほどだが、牙が異様に鋭く、赤い目がぎらついている。

 Fランクの中でも弱い部類だが、油断すれば普通に噛みつかれて出血する魔物だ。


「一体だけなら……やれる」


 鉄剣を構え、じりじりと距離を詰める。


――キィィッッ!!


 吸血コウモリが翼を広げ、一直線に俺へと飛びかかってくる。


「くっ……!」


 速い。

 だが、見えない速さじゃない。


 二十二日間積み重ねた基礎体力が、反射を後押ししてくれる。


「はぁッ!」


――ギィァッ!


 横から斬り払うと、コウモリの体はくるりと弾かれ、地面へ落ちた。

 まだ動こうとして羽を広げるが、足元がふらついている。


『ソラ、今だ。躊躇するな』


「分かってる!」


 鉄剣を逆手に握り直し、

 落下した吸血コウモリにとどめの一撃を入れた。


――ギッ……!


 短い断末魔を残して、コウモリの体は動かなくなった。


「……ふぅぅ……ッ!」


 全身に緊張が走り、肩で息をする。

 たかがFランク一体だ。

 でも俺にとっては――


 これが、二度目の人生最初の“勝利”だった。






静かに息を整えていると、クロが降りてきてコウモリの死骸を前足でつついた。


『よくやった、ソラ。剣筋も悪くない。

 初陣としては十分だ』


「……正直、めっちゃ緊張したけどな」


『誰でもそうだ。だが――勝った。

 その事実を大事にしろ』


 クロは尻尾で吸血コウモリの胸元を指した。


『ほら、魔石を取り出せ。

 初めての戦利品だぞ』


「あ、そうだったな」


 俺はナイフを取り出し、

 クロに教えられた位置――心臓の少し右側の位置を慎重に切り開く。


 しばらくすると、硬いものに触れた。


「……あった」


 取り出したのは米粒より少し大きな透明の石。

 中心部だけ赤く光っている。「これが……俺の、最初の魔石か」


 手のひらに乗せると、ほんのり暖かい。

 たったこれだけのものなのに――胸が熱くなった。


 昔の俺は、こんな気持ちを忘れていた。


「……よし。アイテムボックスに収納する」


 手をかざし、スキルを発動させる。


《アイテムボックス》


 魔石がふっと消え、

 俺だけが知覚できる空間の中に収まった。


『ソラ。まずは――これをあと99個だ』


「……は?」


 思わず素っ頓狂な声が出た。


「99個って……それ、つまり100体倒せってことだよな!?」


『そうだ。最低でもそれだけ狩れば、戦い方の基礎が身体に染み込む。

 それに――』


 クロは吸血コウモリの亡骸に視線を落とす。


『魔石を集めるのは、ただの修行ではない。

 お前の“レベルアップ”に必要なのだ』


「……そんなに必要なのか」


『必要だ。だが不可能な数ではない。

 Fランクの魔物なら、今のお前でも倒せる』


 クロはソラの頬を前足で軽く触れた。


『ソラ。これはただの数字ではない。

 お前が“生き返った意味”を形にするための、一歩目だ』


 ソラは魔石をぎゅっと握りしめた。


 99個――途方もない数に思える。

 けれど、その目標が、不思議とソラの胸の奥に火を灯した。


(100体目にたどり着く頃には……俺は、前とは違う俺になってるのか)


 鉄剣の重さを感じながら、ソラは立ち上がる。


 初めて手に入れた魔石。

 初めて倒した魔物。


 そして――ここから始まる、本当の戦い。

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