20キロ走
午後の空は薄く雲がかかっていた。
強い日差しは和らいでいるが、それでも走るには十分すぎるほどの暑さだ。
校庭にはすでに一年生が200人ほど整列しており、ざわついた声が風に揺れている。
ソラは満腹で少し重い腹を押さえながら列の端に立っていた。
肩にかけたバッグの中ではクロが小さく身じろぎする。
『……ほんとうに、走る前にあれだけ食べるとは思わなかったな』
「し、仕方ないだろ。午前中まじで倒れそうだったんだし……」
『まあ、それは認めるけどな』
クロはため息をつくようにバッグの中で尻尾を揺らした。
そこへ、グラウンド中央に立った筋肉質の男教師が両手を広げ、声を張り上げた。
「静粛に!」
どっと空気が締まる。
「これより一年生の体力訓練を開始する。
距離は二十キロでスキルは一切使用禁止だ。
これは純粋な持久力の確認であると同時に、シーカーにとって体力がどれほど重要かを身をもって知ってもらうための訓練だ」
教師の声はよく通り、校庭中に響いた。
「シーカーとはダンジョン内で重い荷物を背負い、場合によっては戦闘の連続に耐えなければならない。
休む場所が少なく、足場も悪いことが多い。
だからこそ体力は、戦う力の次に重要だ!」
周囲から緊張混じりの息をのむ音が聞こえた。
教師は続ける。
「制限時間は三時間だ!
三時間以内に走り切るもよし、リタイアするもよし。
自分がどれほど走れるかを知ることが目的だ。
無茶をする必要はない。だが、限界に挑む意思は持っていろ!」
生徒たちの顔に、気合いと不安が入り混じった色が広がる。
ソラは腹を押さえた。
「うぅ……走り切れる気がしない……」
『まあ、満腹のまま二十キロは地獄だな』
「やっぱり……?」
『当たり前だろ。走る前にあれだけ詰め込むやつなんて見たことない』
「うぅ……」
ソラは胃の重さを感じながらも、深呼吸して気持ちを切り替えようとした。
『とはいえ、さっきよりはマシだろ。動ける程度には落ち着いたんだろ?』
「まあ……なんとか」
『なら、あとは根性だ。走れ、ソラ』
「根性か……」
『周りの奴らもスキルなしだ。お前の普段を出し切ってこい。』
「わかってる」
腹は重い
喉が渇く
体が重い
だが――クロのおかけで心は軽い。昨日の自分を思い出し、精一杯やるしかない。
肩のバックを近くの木に置き、スタート位置につく。
全員の準備が完了したと判断した教師の鳴らした笛の音とともに、一斉に生徒たちが走り出した。
号令が鳴り響いた瞬間、二百人の生徒たちが一斉に前へと飛び出した。
爆発的なスタートダッシュを切る者、仲間と並んで軽口を叩きながら駆ける者、早くも息が荒い者――様々な足音が校庭から続く外周のコースへ雪崩れこむ。
ソラもその流れに続いた。
(――う、胃がまだ重い……けど、走れないほどじゃない)
スタート十秒で、突っ込んでスピードを上げすぎた生徒たちが前方で早くも散らばり始めていた。
ソラはそれを横目に見ながら、あえてペースを落とした。
「はぁ……はぁ……っ。だいぶ落ち着いてきた、かな……」
序盤の直線、最初は胃の重さが波打つように響いていたが、五分も走れば落ちついてくる。
呼吸の乱れも少ない。
ギルドの訓練場で特訓をした日々の効果は確実に出ていた。
周囲では、息が上がり始めた生徒がちらほらと歩きに切り替えている。
「なんでこんなペースでいけるんだよ、あいつは……」
「アイテムボックス持ちとか聞いたのに体力あるじゃん……」
後ろからそんな声が聞こえたが、ソラは気にせず自分のリズムを守る。
焦って前に出るより、長く走れる流れを体に刻むほうがずっといい。
(前の人生でも、こういう訓練あったよな……。あの頃は全然体力がなくて、すぐ倒れてたっけ)
同じ学校でも、境遇が変わるだけでこんなに違う――そう思うと、胸の中で小さな力が湧いた。
周囲には二百人の生徒が列を成すように続いており、ソラはそのちょうど後方群の先頭あたりを淡々と走っていた。
前に追いつこうとはしない。後ろに飲まれもしない。呼吸と足の運びだけを見つめて進む。
息が上がらない範囲で少しだけ歩幅を広げ、体の軸をぶらさず……
ソラの身体は、慣れた水に浮かぶように軽かった。
(……いける。この距離なら、たぶんいける)
胃の痛みも、汗が流れるのもすべて許容範囲。
周囲の雑音が遠のいて、自分の足音だけが心地よく耳に残る。
コースを一周するたびに、生徒たちの間隔は大きく開き始めていた。
序盤からハイペースで飛ばした組が次々と歩きに変わり、教師たちが淡々と記録を取る声が聞こえる。
そんな中、ソラは最初から変わらぬリズムのまま、呼吸を整え、ただ前を見て足を運んだ。
(大丈夫だ。俺は、昨日までの俺より……ちゃんと強くなってる)
自分でも驚くほどの落ち着きと体の動きに、ソラはわずかに口元を緩めた。
胃の重さはもう感じない。
昼前の空腹で失われた集中力も戻っており、ただ淡々と、いつもの訓練の延長のように走れていた。
周囲の生徒たちが息を荒くしていく中、
ソラだけは静かに、自分のペースを刻み続けた――
折り返し地点を過ぎ、戻りのコースに入ったところで、さすがのソラも足が重くなってきた。太ももが熱を帯び、ふくらはぎがじんじんと痛む。
それでも――
「あの頃に比べたら、まだ余裕だ……!」
前の人生での足場が悪い険しいダンジョンや寝る間も削って働かされていた時代を思えば、この程度の痛みは乗り越えられる。
ソラの顔に強い決意が浮かび、呼吸の乱れを押さえ込むようにして走り続けた。
校庭に戻ってくると、教師たちがタイムを計りながら生徒の到着を待っていた。
遠くに見えるゲートが、午後の陽射しでゆらゆら揺れて見える。
「……よし、いける!」
最後の曲がり角を抜け、ソラはペースをほんの少しだけあげた。
無理をするわけではない。
自然に伸びた足で、自然のままに速度が上がっただけだ。
ゴールラインを越える瞬間、汗がぱたぱたと音を立てて飛んだ。
胸は上下している。体中が熱い。しかし――
「……ふぅ。まだいけるな」
息はしっかり乱れているのに、表情には余裕があった。
「ソラ、二時間十六分三十二秒!」
記録係の教師が声を上げる。
そのすぐ次に、順位が告げられた。
「二百人中、五位!」
周囲の生徒たちがソラに注目する。
昨日今日と悪目立ちをしていたソラの名前に、
何人かが「え、あの人が?」と首を傾げている。
呼吸を整えながら見渡すと、少し離れた木陰で休んでいる少年が目に入った。
その少年の名は――カイト。
今回の訓練で一位を取ったらしい。
(……あいつ、やっぱり早いな)
ソラは唇を結んだ。
前の人生ではAランクパーティのリーダーにまでなった男。
その片鱗は、こんなところでも見え隠れしていた。
だが同時に、嫉妬ではなく――
(負けてられない……! 今度の人生は、あんないいような扱われ方で終わらせない。絶対に強くなる)
胸の奥の炎をがより燃え上がらせる。
ゴールしたばかりの疲労の中で、ソラは拳をゆっくりと握りしめた。
(あいつのいるあの場所に――必ず、俺も追いついてみせる)




